1/2秒だけ触れるキス
花沢類×牧野つくし


あたしは、おとぎ話の主人公じゃない。

いつまでも毒りんごで眠ったまま見知らぬ王子のキスを待ってたらひからびちゃう。
他の誰かに王子を奪われて、全て胸に秘めたまま泡になるなんて冗談じゃない。
魔法が解けてぼろぼろの服になったぐらいで嫌われるなら、こっちから願い下げ。

でも。

こうして空に描かれたまっすぐな白い線を見上げてぼんやりしている今のあたしは。
そんなおとぎ話にうっとりしてるのと同じじゃないって、言い切れるんだろうか。

4年後。次のオリンピックまで。うるう年。

…ばかみたい。
なんで、こんなもう何度もやった連想ゲーム、今更しなくちゃいけないのよ。

ひとりぼっちの非常階段は針のむしろみたいな教室より、ツライ。

ちゃんと授業、受けよ…。

頭を左右に振って立ち上がりかけた時、背後のドアがきしんだ音をたてるのが聞こえた。

「…あれ。またサボってんの?」

「そっちこそ。」

立ち上がろうとしてたのは、バレてるかもしれないけど。
あたしは何気ないそぶりでもう一度固いコンクリートの床に座り込む。

「いーの? 受験勉強がどうとか言ってたのに。」

「…もう授業受けてどうなるって時期じゃないのっ。」

へぇーと笑いながら少し離れたところに座る花沢類の顔を、まっすぐ見ることができない。
視界に入るのは投げ出されたジーンズの長い足と、ざっくりしたコットンシャツの袖口から伸びる長い指。

…最近、いつもそう。
ここに居てほしいのに。まっすぐは、見られない。

「もしかして、受験ノイローゼ?」

そんな言葉と一緒に、微妙にそっぽを向いているあたしの額に花沢類のひんやりした手が触れた。

…ノイローゼって、熱は出ないでしょっ。

熱を測るようなそぶりと言葉のギャップに、そうツッコむのが正しいあたしの在り方だと思うのに。
ほんとに熱が出そうな程動揺してしまっているあたしはただ口をパクパクと動かすしかできない。

「…それとも、司?」

駄目押しみたいな言葉を言いながら額から滑って頬を包む大きな手は、あたしの熱を奪ったからなのかなんだか熱い。

…ここじゃない、どこかに連れてって。

そう期待しているあたしは、待ってばかりのおとぎ話の主人公と何も変わらない。

道明寺が4年後迎えに来てくれること。
花沢類がいつかあたしを攫ってくれること。

あたしは、期待して待ってばかり。
自分は悪くない、しょうがなかったんだってフリしたくて、思いつくばかりで動けない。

…こんな風にずっとその時を待って過ごすんだろうか?
待ち続けて手に入れた先には、何があるんだろう。

『末永く、幸せに暮らしました』

そんなひと言で言い切れちゃう人生ってあり?

「…花沢類。」

受験ノイローゼでもいい。早くも遠距離レンアイに疲れちゃっただらしないヤツだと思われてもいい。
あたしは、頬を包む花沢類の手に、自分の手のひらを重ねる。

「あたし、どっか行きたい。」

花沢類の驚いた顔を、今ならまっすぐ見られる。

…あたしって、ずるい。

誘ってるくせに。それでもまだ、花沢類に攫って欲しいと思ってる。
花沢類の手に重ねた手が、震えてるのが自分でもわかる。

「いいよ。…行こ。」

驚いた顔をしたのはほんの一瞬だけで、花沢類は重ねたあたしの手なんて存在しないみたいにいつもの笑顔でそう答える。

あまりの軽さに拍子抜けしそうになったけど、歩きだすと同時に強く握られた手にとうとう踏み出してしまったんだとめまいがした。
あたしの言葉は全然足りなかったのに花沢類が誤解してるわけないってなぜか信じてる。


花沢類に案内された車の中は広いから、後部座席に隣り合って座っても非常階段とさして変わらない距離感。
ぼんやりと窓の外を見ている花沢類も、いつも通り。
違うのはしっかりとつながれた手。どこに行くのかすら聞けない、黙ったままのあたし。

どのぐらい走ったんだろう。音もなく車が止まってドアが開かれたのは、ヨットハーバーを見下ろす丘の上だった。

「ここで良かった?」

夕方の少し強い潮風に吹かれながら、あたしはうなずいて答える。
花沢類は車を降りるときの一瞬以外ずっと、つないだ手を離そうとしない。
車が走り去っていくのを見送った後も、そのまましばらく黙ったまま暮れていく景色を見ていた。

「…行こ?」

夕陽が全部落ちきる前にそう言われて、あたしはまた「うん。」とうなずく。
…よかった。
このまま夕陽が落ちるまで見つめていたら、決心が鈍りそうだと思ってたの。

まるで毎日繰り返してる事のように、あたし達は自然と手をつないだまま目の前にある一軒家の玄関をくぐる。
さっぱりとした…悪く言えば殺風景な家の中は、こじんまりとしてとても花沢類らしい。
立ち止まらず家の奥へ奥へと進む花沢類の背中を見ながら、足を止めるなら今だ、と何度も考える。

ごめんね、花沢類。…止められない。

結論を出したあたしの声が聞こえたみたいに、花沢類は一番奥のドアの前で振り返ってつないでいた手にすこし力を込める。

「…ごめん。ずっと居心地いい場所でいてあげられなくて。」

どうして花沢類が謝るの?
驚いて尋ねようと口を開いた瞬間、唇があたしの口をふさいだ。

花沢類の舌があたしの舌に直接触れて、もどかしそうに何か伝えようとうごめく。
キスは、初めてじゃない。
でも。こんなにおしゃべりな花沢類って初めてだ。
あたしもどうにもならない強い想いを、ぎこちないけど伝えてみる。
言葉より近い距離では、ぐちゃぐちゃにもつれたこの気持ちが少しは伝わりますようにと願いながら。

何度も何度も伝え合った唇をようやく離して、花沢類はまだつないだままの手をひいて扉の奥へと案内する。
もう戻れないんだな…と、ふと冷静に思うけど、そんなことはどうでもいい。

後ろ手にドアを閉じたら、すごい速度で落ちていく夕陽のおぼろげな灯りしかない部屋で、向かい合って立ちつくす形になった。

…早く。キスの熱さで焦っていた気持ちが、つないでいた手が離れた瞬間に恥ずかしさに代わる。
片手で器用にリボンタイを解く音が耳元近くで聞こえるだけで、不安と恥ずかしさが入り混じって震えがしたあたしは、ブラウスのボタンに伸びる長い指を、やんわりと断るようにそっと握った。

「は、花沢類。自分で…。」

「やだ。」

ふざけないで、と言おうと顔をあげたら真剣な顔の花沢類が見つめていて、ジャレてるだけのふたりじゃないんだと気がつかされる。
あたしはもう自分の熱に正直になろうと、ほんのかすかな抵抗を止めた。

…早く、陽が沈んで暗くならないかな。

さっきまで早すぎると思っていた夕陽の沈む速度に焦れる。
欲張りなくせに、全部をさらしきれないあたしは本当にずるい。

ブラウスのボタンが外れるかすかな音と、あたしの荒い息だけが静かで薄暗い部屋に響いていた。
なんでこんなに恥ずかしいんだろう。…花沢類が、何も言わないから?
往生際悪く何か考えることでごまかそうとしても、中途半端にはだけた胸元に触れた冷たい手には思わずビクッと硬直する。

「すごい速さでドキドキして…震えてる。…怖い?」

そんな優しい言葉に答える間も与えられず胸元にキスを受けて、もう自分の体重すらうまく支えられなくなる。
あたしは花沢類の小さな頭を抱えるようにして、ため息みたいな喘ぎの途中でなんとか声を出す。

「…怖く、ないよ。花沢類を怖いと思った事なんてない。」

震えてるくせにこんな事言っても説得力ないかもしれないけど、本当だった。
あたしが怖いのは、花沢類じゃない。…道明寺でもない。あたし自身。
レースの上から胸の頂を甘く噛まれたのをきっかけに、膝から力を抜いてベッドに倒れこんだ。

シーツの中でお互いもぞもぞと全部を脱いで、一瞬顔を見合わせて照れ笑いしてからピッタリと体を寄せ合う。
…今のこの瞬間がきっと一番満たされてる時だ。

そんな淡い幸福感に酔う間もなく、花沢類の指が裸になった胸の頂点を滑るように通過していく。
待って…頭はそう思うのに、背中はそれに合わせて勝手にしなる。

胸の下を撫ぜた後、いたずらな指がおへその周りをくるりと円を描くのに身をよじる。
そのままゆっくりと下がろうとする感触へのぞくぞくする予感に、案外骨の太い手首を抑えてあたしは少し強めに抵抗を試みた。

「ま…待って。」

「…はずかしい?」

耳のすぐ近くでそう囁く声に、慌てて首を横に振る。
…恥ずかしくない訳、ない。でもそうじゃなくて。

あたしの小さな抵抗なんて物ともせずに滑り降りてくる指に、あきらめて吐息をつく。
キスしてた時からずっと。
あたしの一番奥からとめどなく溢れて流れてきているのに気がついていた。
直接触れられたらあたし独りで消えてしまいそうで、そんなのは絶対にイヤ。

ぴちゃり、と水溜りに踏み込んだような音と自分の口から出たとは思えない切なげな声がシンクロした後、花沢類が少し意地悪な声で言った。

「どうする?」

選択肢なんて、ないじゃない。
泣きじゃくってるみたいに止まらない体の奥からの痙攣と、それをなだめるようにうごめく指の感触に意識まで全部支配されそうになりながら、あたしはなんとか息を整えて訴えようとする。

「…花沢類、あたし…。」

ここまで連れて来たのは自分なのに最後のひと言が言えないなんてバカげてる。
でもどうしてもその先が言えなくて、花沢類の指にさらわれてしまわないように手首を押さえながら唇を合わせて訴えた。

…あたしが欲しいのは。

伝えたい唇をゆっくりと離したら、細い細い糸がふたりをつないでいてその儚さに涙が出そうになった。
そんなあたしの表情を見て、花沢類が困ったように少し微笑む。

「…うん、わかった。」

汗でへばりついたあたしの前髪をあげて額に軽くキスしてくれたのが、今までのふたりへのお別れの挨拶みたいに感じて胸がずきんと痛い。

…それでもいい。もっとずっと近くに側に居て。早く来て。

そんな願いはわかっていたと言わんばかりに一気に貫かれて、思わず叫びそうになる声を抑えてしがみついた。
熱くて足りなかった中心が満たされた安心感と、さっきよりも濃くなった切なさで今にも消えてしまいそうになるのを必死に抑える。

「牧野…。」

切なげに自分の名前を呼ぶ声が、続く言葉を無理に飲み込んでるって熱くなった肌全体で感じるのに。
『好きだ』そう言わない花沢類も、そう言わせないあたしもやるせなくて、ずっと我慢してた涙がにじむのを止められなかった。

言葉の代わりみたいにあたしの中で浅く、深く、何度も繰り返し動くのを感じる度、応えるようにため息みたいな喘ぎが漏れる。

快感と苦しさって、正反対なようでなんでこんなに似てるんだろう。
意識が吹き飛びそうになるたびに、少し汗ばんだ背中に回した手をぎゅっと握り締めて耐える。
一緒にイキたい。一瞬でいいから花沢類の全部が見たい。
あたしはあやふやにしか定まらない焦点をなんとか花沢類の真剣な目に集中させる。

もう苦しくて、気持ちよすぎて、限界に近づいて。
あたしは何がしたかったのか、なんでここに居るのかなんにもわからなくなる。

「類っ…」

夢中で名前を呼びながら、泡がはじける瞬間みたいに妙にクリアになった視界で花沢類を見た。
次の瞬間には最後の最後の小さな意識の断片まで弾けとんで、あたしは花沢類と一緒にどこか彼方へ消えてしまう。

…ふたりで消えた。と、思ったのにな。
だんだん戻ってくる自分になかなか馴染めないまま、ぼんやりと重い体を持て余していたらひんやりとした手がそっと裸の背中に触れた。

「…なに?」

冷たさがくすぐったくて寝返りをうって顔を向けると、花沢類は柔らかな微笑みを浮かべて言った。

「背中、押したげた。」
「…え?」
「NYに行くんでしょ。」

…どうして、わかったの。
あたしは驚きながらも、どこかで納得していた。
もしかしたら花沢類は全部わかってるのかもしれないって思ってた。
じっと見つめるだけで何も言えないあたしに、非常階段で他愛ない話をするのと同じ笑顔でちょんと鼻をつつく。

「あんた、わかり易すぎ。」

やっぱり全部わかってたんだ。
NYへ、道明寺のところへ行くと決めた事。

花沢類より道明寺が好きだってわけじゃない。
最後にキレイな思い出が欲しかったんじゃない。
ぶち壊して攫ってほしかった…それも違う。
…ただ、たまらなかったの。

そんなこと言い訳がましく言わなくたって、全部お見通しだよね。

たくさんの言葉の代わりに、「ありがとう」も「ごめんなさい」も他の全部の想いもこめて、目を閉じて1/2秒だけ触れるキスを唇に残した。





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