第四部 ダイヤモンドは砕けない
パソコンの電源を入れると、メールが来ていた。珍しい人からの便りに、僕 は何事かと緊張感をもって、メールを開いた。 From:空条承太郎 To:広瀬康一 Sent: Saturday, May 19, 2001 08:08 PM Subject:汐華初流乃について -------『 桃李不言下自成蹊 』------- [ 1 ] 元気だろうか。その後変わりは無いだろうか。承太郎さんからのメールは、 彼らしい、そんな簡素な挨拶文から始まっていた。その内容は、僕が承太郎さ んから受けた、イタリアへ汐華初流乃……ジョルノ・ジョバーナについて調 べに行った後の、経緯が記されていた。 「彼は俺の旧友と一緒に居る」 「彼は夢を叶えたらしい」 そんな、事情を知らない人にはさっぱり分からない、本当にごく単純な表現 と説明だったが、僕はこの二つの言葉の前に唖然とした。 「ウッソ……。それって、ギャング・スターになっちゃったわけ……?彼 ってば……」 確かに、あの、イタリア、学生寮での黄昏の中、「試験」に必要だというラ イターを手にそんなことを彼は言った。嘘だろと思う反面、「こいつだったら ひょっとして……」と思った。だが、そう思っているだけなのと、現実にそう なるのとは大違いだ。そして、承太郎さんの言葉に嘘があるとは思えない。僕 は簡素な文字列の前に暫く放心して。やがて何だか、まるで長年来の友人が夢 を叶えたかのような、そんな興奮に沸き踊った。 「すッごいや!ジョルノ君!!この事、仗助君にも――って、駄目なん だっけ……言ったら」 僕は座りながらくるくると回していた椅子をぴたりと止め、天井を見て溜息 を吐いた。余りこの事は吹聴しないで欲しいと、承太郎さんに口止めされていた。 ”こんな事を頼んでしまって済まないな。汐華の件については仗助達にはな るべく言わないでくれ。ジジイの件もある。余り、混乱させたく無いんだ。” イタリアに行く前に承太郎さんから言われた言葉を、思い出す。多分、朋子 さんが私生児として、仗助君を産んだことを、ほんの少しだけ気にしているの だろう。確かに、実はまだ血族かも知れない人がいて……という調査を、仗助 君に頼むのは、かなりデリカシーに欠けている気がした。 「夢を叶えたんだって言えば、仗助君、驚くだろうし、始めはちょっと引く だろうけれど、最終的には祝福するだろうに、な……」 僕は呟きながら、残りの文章に目を通す。旧友というのは、多分、ジョセフ さんの言ってたポ……なんとかという人だろう。文面では、彼と連絡が取れ、 任せているから心配は無いという事。それと―― 「『美味しいお菓子を教えて欲しい』……って、承太郎さん、甘いの苦手だ ったのにどうしたんだろう?奥さんにあげるのかな?まぁ良いや……この 間、由花子さんと食べたガトーショコラが美味しかったから、そこのメーカー のURL張って紹介すれば良いよね」 ウェブサイトを開き、僕は先日食べた商品を探しながら、そういえば承太郎 さんの娘さん、今年9歳くらいになるんじゃなかったっけ、と僕はふと、思い出 した。 「……承太郎さん、スタンドと違って性格は不器用で、そのくせ妙に繊細だ から、娘さんと上手くやれているのかなぁ……」 呟き、何となく、自分の家庭で想像してみる。一家団欒。父親の席に座る承 太郎さん……もの凄い勢いで脳が「無理です」と悲鳴を上げた。 ――とりあえず僕は、誠意をもって、なるべく分かりやすく丁寧に、ガトー ショコラの美味しさを述べて、承太郎さんにメールした。 [ 2 ] 朝は由花子さんと登校する。途中でクラスメイトや委員会のメンバーと擦れ 違い、挨拶を交わす。初々しく挨拶してくる、新入生が可愛らしい。一年の頃 に比べると、随分と知り合いも増えたな、とぼうっと思っていると、 「康一君って、人気者よね……」 と、ぽつりと隣にいる由花子さんが呟いた。 「人気があるのは仗助君だよ。僕は単なる知り合いなだけだよ」 そう微苦笑を浮かべながら告げると、そうかしら?と小さく言った。普段 の朝よりも幾らか塞ぎ込んで感じる。何か嫌なことでもあったのだろうかと、 口を開いた。 「どうしたの由花子さん。何か、気に掛かることでもあるの?」 そう問うと、由花子さんは「何でもないわ」と答える。これは絶対何かある なと思い、僕が問い詰めようと思ったところで、学校に着いてしまった。下駄 箱のところで、じゃあ、またね。とそそくさと彼女に逃げられる。 まぁ、どうせ昼は一緒だし……と下駄箱を開けて、教室に向かう。自分の席 に座って、教材を机に仕舞おうとしたところで、「それ」に気づいた。 和紙だろうか。薄紅色をした柔らかな手触りの、封筒が入っていた。封には 小さなハートのシールが一枚貼り付けられており、差出人は無く、ただ「広瀬 康一様」とだけあった。僕は驚いて、慌ててポケットの中に仕舞いこんだ。 (これって、え!?まさか、まさかだよねッ……!!?) ピンクの封筒にハートのシールと来たら、安直と言われようが、想像したの は「ラブレター」だ。 早く中を確かめたいと思う反面、これが誰かにばれたら大変だ、と心中汗を 掻く。自宅帰って読むか。それとも休憩時間に手洗いにでも行って読むか。い やいやもし、これが想像通り恋文だとしたら、そんなところで読むのは失礼じ ゃないだろうかと、何やらグルグル考える。 そうこうするうちに授業は始まり、授業中に読む、ということも出来なかっ た僕は、結局好奇心に負けて、授業終了後、こそこそとトイレの個室に駆け込 んだ。 手紙は、女性の手によるものだった。何日にという指定はなく、ただ、放課 後、学校の裏庭、時計側にある桃の木近くで待つ。それだけが書いてあった。 差出人は、やはり、無い。 「どうしよう……これって、行くべき……だよね……」 学校は、昔に比べると随分と落ち着いて来ている。それと言うのも仗助君や 億安君、噴上君達のお陰で、「上級生が下級生に挨拶を強要する」とか「生意 気な下級生を呼び出す」と言う事に彼等は強く反発し、呼び出して来た上級生 を逆に叩きのめして来たからだ。その結果として、周りも下級生に強要するこ とが無くなり、下級生はその事を知ってか知らずか、ごく自然に……同じ学び 舎にいる者として……皆に挨拶をするようになって行った。強制しない方が自 然に出来る、というのは何とも皮肉な話だった。 だが、上級生からの圧力が無くなっても、同学年が残っている。二年次に、 とある不良グループに呼び出されたことを思い出す。あの時は悪いかなと思っ たが、こちらも怪我をするのは遠慮したかったのでスタンドを使った。相手の 不良生徒たちは暫く耳鳴りが続き、一人はノイローゼ気味になったらしい。以 降、こういった呼び出しはぱたりと止んだ。 今回の手紙が、告白なのか、それとも騙まし討ちなのかは定かではない。だ が、最も懸念すべき問題があった。 僕は少し呼吸を整えると、携帯電話を取り出して、間田さんと、仗助君にメ ールを打った。 [ 3 ] この日の昼休みは時間いっぱい由花子さんと居るのではなく、仗助君の所に 行くことになった。由花子さんは想像通り怪しんだが、この後仗助君が会話を 合わしてくれる事を祈りつつ、今日は放課後、仗助君の家でゲームをする事に なったのだと、由花子さん手製のマフィンを齧りつつ、僕は告げた。 「だから、由花子さん、今日は先に帰って良いよ」 「アイツらが一緒だって言うなら、そりゃあ先に帰るけど……どうしたの? いつもだったらそういう事、登校時に言うのに……」 ビクン!と僕の心臓が跳ね上がった。マズいと思うと同時に、「登校時」と いう言葉で、思い出した。 「そう言えば由花子さん。今朝は一体どうしたの?何か気になることがあっ たみたいだけど……」 そう問うと、由花子さんはハッとして、「何でもないわ」と顔を伏せた。 「そうなの?僕では力になれないコト?」 僕は首を傾げる。マフィンの中にはクルミが入っているのか、食感がシャク リとして快い。 週に一度くらいの頻度で、由花子さんはこうした手作りの菓子をご馳走して くれる。始めは手作り弁当だったのだが、お弁当は僕のママも作ってくれてい るから……と断った事が始まりだった。それからその代わりとばかりに、毎日 菓子攻めに遭ったのだが、これはこれで困る。甘いものが好きとはいえ、正直、 太る。気持ちは嬉しいけれど、折角の由花子さんの手作りなんだから、週に一 度、じっくりと味わいたいと説得して、現在のような頻度となった。 僕がじっと由花子さんを見つめて、言葉を待っていると、康一君、良いの? という、やや焦った言葉が僕に掛かった。 「この後、仗助と放課後の話をするんでしょ?早く行かないと、昼休み、 終わっちゃうわよ?」 「あ!本当だ!!」 僕は慌てて腕時計に目を通し、大急ぎでお弁当箱を片付ける。 「有難う、由花子さん。今日のマフィンも最高だったよ!」 そう、去り際に由花子さんに告げて、頬に掠めるようなキスを落とすと、僕 は大急ぎで仗助君のもとに向かった。 「ンじゃあ、俺らは間田来るの待って、アイツの『サーフィス』が化けたお 前と一緒に俺ん家に行けば良いんだな?」 「うん。お願いだよ。仗助君。僕もすぐにそっちに行くから」 「良いけどよ……まぁ、相手があの由花子だから念の入り用も分かるけど、 良くアイツも引き受けたな」 「露伴先生のカラー色紙と交換、で引き受けてくれたよ」 「……露伴のカラー色紙はどこから……」 「大丈夫だよ。先生にはちゃんと描いて貰うから」 そう断言すると、仗助君は、あぁうん、そうか描いて貰うんだな……とどこ か遠い目をしてから、お前ってスゴイ奴だよな。と呟いた。 僕は小首を傾げた。 間田さんは今、美術の専門学校に通っている。今は腕を磨き、ゆくゆくはフ ィギアで有名な玩具会社に入るのが夢だと語っていた。今でも凄い露伴先生の ファンだから、きっとカラー色紙は彼の宝物になるの違いない。実際メールで も凄い反応で、僕は改めて露伴先生の偉大さだと感心した。 「とにかくそういうわけだから、宜しくね」 僕がそう告げると、仗助君はおうよ、と手を振って応えてくれた。さっきま で背中を向けて外の景色を眺めていた億泰君から号泣の声が聞こえたが、関わ るのも面倒なので無視をした。 [ 4 ] 夕暮れ時だった。呼び鈴を鳴らすと、仗助君のお母さんが出た。僕の顔を見 て、「あら?」と不思議そうな顔をする。 「康一君、いつ外に出たの?気づかなかったわ」 「僕、ちょっと食べたくなって、お菓子を買いに行ってたんです。はい、よ かったらどうぞ」 「やだ!『鎌倉カスター』じゃない!大好物なの!あたしにまで悪い わね、気を遣わせちゃって……」 うちの母がこういうのにうるさいんです。と僕は笑いながら『鎌倉カスター』 の箱を朋子さんに渡すと、お邪魔しますと一声掛けて家に入った。 「お、康一来たか!」 ゲームをしている仗助君と億泰君に、うん。と僕は頷く、紙袋を開けて『鎌 倉カスター』を二人にも渡す。間田さんは?と聞くと、さっさと帰った。と 仗助君は答えた。やはり今でもまだ、余り仲は良くないらしい。とにかく後で メールでお礼でも打っておかなくちゃな、と思いながら、僕は荷物を降ろした。 「でよー。どうだったんだよ康一!手紙の方は!」 ああ、うん。可愛い女の子だったよと僕は答えた。二年生の時、僕が図書委 員の時によく一緒に居た一年生の女の子だ。僕と同じ背丈か、やや高いくらい で、目がくりっとしていて、髪を小さく耳の下で二つに束ねている。素朴で愛 らしい少女だった。 億泰君から、チクショー!!と声が上がる。 「……で!お前何て答えたんだよ!」 「勿論丁重にお断りしたよ。僕が好きなのは由花子さんだもの」 ああ、ちゃんと画面見てないと、ぶつかるよ、と僕は億泰君の操作している 車を見て、思う。仗助君はやりながら聞いているのか、ぐんぐん差を開いてい く。 「何て……勿体ねェ真似をしたんだーーッツ!!」 億泰君の叫びと同時に、操作していた車がクラッシュした。二つに分かれて いた画面の片方に「GAME OVER」の文字が出る。 勿体無いって言われてもなぁ……と、僕は自分の『鎌倉カスター』の袋を開 ける。それを見た仗助君が、俺も食おう、とゲームの電源を落として袋を開け た。億泰君も、それに倣う。 「だって、僕は由花子さんの事が好きだもの。今更他の人を好きになるつも り、無いよ」 「オメー、でも、付き合ってみなくちゃ分からねえだろ?ひょっとしたら あの女よりよっぽど……」 猶も言い募ろうとする億泰君に、由花子さんは素敵だよ。と僕は断言した。 「そりゃあ、今でも時々怖かったりするけど……僕は好きだよ。だから、良 いんだ。それより、今日のことはくれぐれも内密にお願いね!でないと僕、 絞め殺されちゃうよ!!」 一口齧った『鎌倉カスター』を片手に力説すると、二人とも急に神妙な顔に なって「分かった」と頷いた。彼女の怖さを僕らは良く、分かっていた。 それから暫くするうちに、自然に学校の、とりわけ最近よく話題になってい る、進路の話になった。お前は大学進学だろ?と仗助君が僕に言った。 「うん。ママもそう希望してるし、ようやく安定して成績が取れるようにな って来たから、行きたいところに行けそうだよ。まぁ、夏は猛勉強だろうけど」 だから、今年はどこかへ行けそうには無いね、と仗助君にペットボトルの紅 茶をついで貰い、苦笑する。俺、どうすっかなーと、億泰君が声を上げた。 「一応まだ、金は残ってるけど……勉強しても、なぁ」 「うーん。学校の、じゃなくて、好きな事は?車とか、バイクとかさ」 ああ、それなら良いかも。と億泰君が頷き、仗助、お前は……と、仗助君に 話を振ろうとしたところで、 「康一、億泰。もう遅いけど良いのか?」 と、時計を指して仗助君が帰るように促した。外はすっかり暗くなっていた。 荷物を持って立ち上がると、由花子の件もあるから、念のために途中まで送る と仗助君が言って来た。幾ら由花子さんでも最近はそこまでしないだろうと思っ たが、仗助君がそうしたい様子だったので、素直に僕はお願いした。じゃあま た、学校でね。と、億泰君と僕らは別れる。 俺さ、医学部に行きたいんだよな……と、道すがら、ぽつり、と仗助君は僕 に言った。 医学部?と僕は問い返す。夜道を照らす街灯の上には、幾つもの星が瞬い ている。人通りのない小道に、僕の軽い足音と、仗助君の足音が静かに響いて いた。 この前さ、オフクロが風邪引いたろ?と彼は言った。ああ、と僕は思い出 した。その日、仗助君は何やら酷く焦れていた。どうしたのかと問うとオフク ロが熱を出したという。看病してやりたいが、平気だから学校に行けと追い出 されて来たのだと。 「俺、病気だけは、治せねぇんだよな……」 その時と同じ台詞を、仗助君は呟いた。遣る瀬無い表情で、遠くを見ながら。 良いんじゃないかな、と、僕は言った。 「仗助君なら成績良いし、僕は、仗助君が医学部行くのはとても良いと思うよ」 そう告げると、「そっか」と、少し嬉しそうに、仗助君は隣で笑った。 「ただ、知ってると思うけど、医学部って、お金がかかるよ?それ、どう するの?」 僕の言葉に、仗助君は、ああ、と頷く。そうなんだよな、と。 「僕は」と、ひとつ息を吸い込んでから、言った。 「『お父さん』にお願いすべきだと、僕は思うよ。ジョセフさんは、きっと 喜んで仗助君の願いを聞いてくれると思う」 「……そッかな……?」 「そうだよ。だって、仗助君は、ちゃんと、『ジョースター家』の人間で、 ジョセフさんの息子で、承太郎さんの親戚なんだ」 僕の言葉を、仗助君は黙って聞いている。僕は返事を求めず、言葉を続けた。 「それに、仗助君は、いい加減な気持ちで何かをやるってタイプじゃないで しょ?『何となく』じゃなくて、『夢』なんでしょ?だったら、やるべき だって僕は思う。仗助君なら、きっと、叶えられるよ」 ”この、ジョルノ・ジョバーナには夢があるッ!!” イタリアの、黄昏落ちる空の下、老人の遺体に跪きながら言った少年の言葉 を思い出す。――彼は叶えたのだ、自分の夢を。 あンがとな、と、へへっと照れたような笑いを浮かべながら、仗助君は僕に 言った。 「やっぱ、オメーに話して良かったよ、康一。ちょっと自信が出た。本当は もう……結構前から、夢だったんだ。オレ、ガキの頃助けてくれたリーゼント の人も憧れだったけどさ、オレを助けてくれた医者のセンセにも、同じくらい、 感謝してんだ。 でもさ、医学って、途方も無い位金がかかるじゃん。奨学金とか貰っても、 結局すげェ借金を背負う事になる。……オフクロにそんなの、頼めねェな、っ てずっと思ってたんだ」 俺、決めたわ。と、仗助君は明朗とした声で、言った。 「土下座してでもジジイに頼む。……オフクロにも、ジジイの事、話す。ス ージーばぁちゃんにも、理解してくれるように、説得する。こんなトコで折れ ちャあ、夢なんざ、見れねえよなぁー!!」 言って、仗助君は大きく夜空に向かって伸びをした。頭上の星々は、仗助君 の宣言を、静かに瞬き受け入れた。 [ 5 ] 自宅に帰って服を着替えていると、康ちゃん、ご飯よとママから呼ばれた。 はぁい、と返事をしてふと机を見ると、僕宛らしい葉書があった。イタリアだ ろうか。街並みに、色とりどりの格好をした楽隊と、空を飛ぶ色とりどりの風 船。楽しげなパレードのポストカードだ。引っくり返して差出人を見て、僕は 盛大に、吹いた。 "BY AIR MAIL" "From――Giorno Giovanna" 『元気ですか?僕は元気です。前は協力してくれて有難う。お陰で夢を叶 えました。君が懸念していた<矢>を発見しました。僕が管理しているので心配 なく。何か変わったことがあったら教えてください。それでは。』 ……書いてあるイタリア語を訳すと、そんなところだった。文章は先日貰っ た承太郎さんのメールを彷彿とさせるような簡潔ぶりだ。しかし読んでいて小 生意気さからイラッとくる辺りがこの少年らしかった。もう、ツッコみどころ が多すぎて、正直言って追いつかない。冷静になれ広瀬康一。最も大切なのは 「冷静に観察する力」だ。 すぅ、はぁ、すぅ、はぁ、と何度か深呼吸する。そしてまず、呟いた。 「……何で僕の住所知ってんだよ……パスポートか?普通、覚えているも のなのか?っていうかコレ、どうしよう。返事出したくないなぁ。何だか出 したが最後、僕の家にまで押し掛けて来そうで怖いんだよな彼。礼儀は正しい んだけど、露伴先生並に強引そうな感じがする。 でも出さないのもきっと怖いよなぁ。なんか、もしも、もしも偶然遇ったり したら、ネチネチネチネチ言われそうな予感がする。うう、嫌だよう、無視し たい……」 ”君が懸念していた<矢>を発見しました。” 手紙の一文に、僕は、はぁ、と溜息を吐いた。 「コレって、情報交換をしたいってこと、だよね……。承太郎さんはこれ、 知ってるのかなぁ」 ”ライターの『点火』は、ぼくの行動が原因だ……。” 僕は再度、溜息を吐いて、ポリポリと頭を掻いた。そうして夕食に向かうと、 席について、姉に尋ねた。 「お姉ちゃん、この前見せてくれた桃の花と富士のポストカード、僕、欲し いんだけど貰って良い?」 頂きます。と手を合わせながら、どうして僕ってこうなんだろう、と僕は内 心溜息を吐いた。 「――この、李将軍は慎み深く、田舎者のようで、上手く話も出来ないよう だった。しかし、彼の亡くなった日には天下、知る人も、知らない人も、皆ひ どく悲しんだ。」 黒板を写しながら、僕はぼうっと先生の話を聞いていた。億泰君も、仗助君 も進路の事を考え始めたんだなぁ、と思う。 とりあえず、大学には行きたいし、行こうと思っている。そうしてさらに言 うなら、露伴先生みたいな、漫画家さんを手伝える仕事がしたいなと思う。で も、僕は間田さんみたいに余り手先が器用な方じゃないから、アシスタントと かそういうのはきっと、無理だろう。 「……桃や、すももといったものは何も言わない。しかし、その下には自然 と小道が出来る。この諺は小さな事を言ってるが、大きな事にも喩えられる言 葉である。つまり、この作者である司馬遷は、桃やすももを李将軍の人徳と喩 えて賞賛しているのね」 編集さんとか、大変そうだけど楽しそうだなと思う。でも、きっと有名大学 で好成績じゃないないとなれないんだろうな、と思う。もっとずっと頑張れば、 多分、不可能じゃないかも知れない。でも、そこまでやっても、僕なんかが必 要とされるだろうかと、考える。 「まぁ、生きる戦略として、桃は美味しい実をつけるわけだけど、結局のと ころ、桃の心は桃にしか分からないからね。あ、時間ね」 終了の合図と共に、起立。という号令がかかり、皆が立ち上がるので、僕も 慌ててそれに倣った。礼、と言って頭を下げると、皆がめいめい思い思いの事 をを始める。僕は教科書を片付けていると、広瀬。と、先生から呼ばれた。し まった、授業中上の空だったことがばれたかな、と恐れながら、教師の元に向 かう。 「あ、ハイ。何でしょう?」 「いや、広瀬、山岸さんと付き合ってるでしょ?山岸さん、進路について 何か言ってない?」 え?と、僕は応えた。そういえば、先生は由花子さんのクラスの担任だった。 僕が戸惑っていると、この休み時間に用事はあるかと尋ねて来た。無いと答え ると、付き合いなさいと言われて、僕は先生と一緒に廊下に出た。歩く後を、 少し遅れて付いて行く。 「あの子さ、この間の進路希望の用紙に、『康一君のお嫁さん』って書いた のよ。康一君って、貴方の事じゃない?それで、聞いておこうかなー、って 思ってね」 え。と、先生の言葉に、今度は本当に固まってしまった。由花子さんらしい と言えばそこまでだが、何て事を書くんだ、彼女は! 「山岸さんてさ、成績良いじゃない。『お嫁さん』を否定する気は無いよ? それはそれで良いと思う。ただ、あれだけ勉強できるのに、そのまま家庭に入 っちゃうのはちょっと勿体無いんじゃないかな、って、思うのよね……」 「先生……それ、由花子さんにも言いました?」 恐る恐る僕が尋ねると、苦笑いをしながら、言った。だからアンタはその歳 まで結婚出来ないのよ!放っておいてよねババア!って言われた、と。 僕は地に頭を擦りつけて詫びたくなった。 「すみません……その、そんなに悪気があるわけじゃあ、無いんです」 「まァ、別に良いんだけどね、済んだことだし。とりあえず、『私はババア で別に良いけれど、貴女は本当にそれで良いの?まだ時間はあるから、自分 のことを考えなさい。歳をとっても大学は行けるけど、機会というのはそうそ う無いわよ』って本人には言っておいた」 ……凄いですね、と声を掛けると。ありがとう、と返って来た。伊達にこの 学校で教師はやっていないよ、と。 「聞いてないなら、仕方ないけれど、良かったら広瀬も一緒に考えてやって。 山岸は、広瀬と違ってあまり友達いないみたいだからさ。多分独りで考え込ん じゃってるんじゃないかなーって、思うのよ。 それと、広瀬はもっと目標を高く持った方が良い。君もやれば出来る子だよ。 さっきの授業は上の空だったみたいだけど」 言い、にっと口角を吊り上げた。やっぱりバレてた。すみませんと頭を下げ ると、テスト範囲だから復習しなさい、と返って来た。 ああ、あとね、と、職員室に入る前に、先生は言った。 「分かってるだろうけど、やる時はなるべく日付考えて、ゴムつけなよ? 子どもっていうのは想像以上に大事なもの何だからね」 言って、カラカラと戸が閉まる音に、……どうして結構美人なこの先生が未 だ独身なのか、分かるような気持ちがした。 [ 6 ] 帰り道、話したいことがあると、由花子さんと公園に寄った。夕暮れ時のせ いか、遊んでいる子どもはおらず、僕と由花子さんは、滑り台に、ちょこんと 座った。もうすぐ、進路希望の提出日だね、と僕は言った。 「僕は一応、大学進学だけど……由花子さんは?」 何て書いた?と問うと、俯きながら、康一君のお嫁さん、とポツリと答え た。そうしてゆっくりと僕の方を見て、泣きそうな顔をした。 「駄目かしら?康一君。由花子、康一君のお嫁さんじゃあ、駄目?だっ て私、いつだって、康一君と一緒に居たい。康一君を迎えてあげたい。康一君 のものになりたいの。 康一君は?アタシと一緒じゃ嫌?アタシのお婿さんじゃ、ダメ?」 僕はまだ、18歳だよ、と答えた。すぐにお嫁さんは、貰えないよ、と。 「じゃあ、アタシ、康一君が20歳になるまで、花嫁修業するわ。それで良いわ」 由花子さん!と僕は声を荒げた。分かっているんでしょ!?と。 「そういう事を言ってるんじゃない!何かもっと……やりたい事は無いの ?就きたい職業とか、持ちたい技術とか、知識とか……」 無いわ。と、妙にはっきり、由花子さんは言った。 「だってアタシ、康一君がいればそれで良いもの。他はいらない。ああ、で も、康一君が就いて欲しいって言う仕事があるのなら、由花子、頑張ってその お仕事に就くわ」 笑顔で、由花子さんは僕に向かってそう言った。違う、と、僕は、掠れた声 で、呟いた。 「違うよ、由花子さん。それじゃあ、駄目なんだ。僕がやって欲しいことじゃ、 駄目なんだ。由花子さんがやりたいと思うことじゃないと、いけないんだ」 「アタシは康一君がそうして欲しいと思うこと、それが、アタシのやりたい 事よ。それじゃあ、駄目なの? ……それよりもね、康一君、今日、うち、パパとママはいないの。だから、 良かったら……」 由花子さんはそう言って、僕に寄り添ってくる。僕は顔を伏せて、言った。 「……嫌だ」 「え?」 「嫌だ。今日、僕は、君の家には行かない」 目を見て、はっきりと告げる。どうして……?と、由花子さんの髪が、ザ ワザワと波打ち出したのが分かった。僕は怯まないで、言葉を続ける。 「上手く言えないけれど、駄目だ。僕は、行かないよ」 「どうしてよ!!」 ザ!と、髪が僕の首筋に絡まった。ぐいぐいと、締め付けてくるのが分か る。息が苦しい。言葉が上手く、紡げない。 「アタシの好きなものは康一君の好きなもの!それじゃあどうしていけな いの!同じってことは、素敵じゃない!それでどうしていけないの!? 何で同じじゃ駄目なのよォォオオオオオオオオ!!!!?」 ぎち、と、音がした。目が、くらくらする。『エコーズ』は出さない。攻撃 も、防御も、しない。ただ、僕は由花子さんを、受け入れる。どうにか唇を、 動かす。 「僕が、君、なら。きみ、は、僕と一緒にいなくて、良い、んだ。 だって、君、は、僕なんだから。けど、僕、と、君、は、ちがう……で、しょ う?」 するり、と、髪が外れる。僕はどさりと地に転がる。ごほ、ごほ、と荒々し く咳をした。だって、と、由花子さんの声がした。 「だって、だって……!! ……分からないだもの。由花子、どうすれば良いのか……。康一君と一緒に 居る以外、分からないんだもの! お願い、康一君。由花子のこと、見捨てないで!一緒に居て!お願い! お願いだから!!」 両の手で、由花子さんは顔を覆った。声が、くぐもっている。僕は、幾らか 沈黙を置いた後、分かったと、彼女の背にそっと、手をやった。 「一緒に居るよ。だから由花子さん。僕と一緒に、自分のことを考えよう……?」 そう言うと、由花子さんは子どものようにひとつ、頷いた。 [ 7 ] 明日は休日だから、友達の家に泊まると自宅に連絡を入れ、僕は由花子さん の家に宿泊した。夕食は由花子さんが作ってくれた。僕は由花子さんと食事を 摂りながら、話をした。 「由花子さんって、料理上手だけれど、いつも作るの?」 「うち、両親が共働きだから。小さい頃から良くやってるのよ」 由花子さんは、そう、さらりと答えた。僕は由花子さんの料理を頬張りなが らふと、考えた。由花子さんはひょっとして、ご両親とあまり食事を摂ったり しないんだろうか。独りでご飯を作って、食べて。彼女のことだから、後片付 けも、独りでやって。 「ご両親、居ないって、旅行?」 「出張よ。いつもの事だわ。また何か、飾り物を買ってくると思うわ。いら ないのに」 由花子さんは無表情に答える。家具の飾り棚には、お土産物らしい小洒落た 置物が飾ってある。きっと出張の度に買ってくるのだろう。食後のコーヒーを 飲みながら、美味しかったよ。と僕は応える。 「洗い物、僕がやるよ。お食事をご馳走になったしね」 「あら、良いわよ。康一君は楽にしていて」 じゃあ、と僕は言った。 「一緒に洗おう。由花子さん。由花子さんが洗剤で洗ってくれたのを、僕が 流してゆくから。僕、いつも姉さんにまかせっきりだけど、やりたいんだ。駄 目かな?」 そう言うと、由花子さんは僅かに戸惑いながらも、了承した。 蛇口から、水が流れる。由花子さんが洗った食器を僕は受け取って、ひとつ ずつ、丁寧に水を流して、乾燥機に置いて行く。多分、僕は下手糞なのだろう。 始めの方は由花子さんの方が早くて、食器が溜まっていったが、それを見て、 由花子さんはゆっくりと、わざとスピードを落としてくれた。僕らは二人でや っているのに、ずっとずっと時間をかけて、食器を洗ってゆく。 こういうのってさ、と僕は言った。 「何か、良いよね」 微笑みながらそう告げると、由花子さんは少し顔を伏せながら、悪くは無い わ。と小さく笑った。 お風呂を頂いて、僕は由花子さんのお父さんのパジャマに着替え、彼女の部 屋で待つ。僕は小柄な方だから、パジャマの袖を幾重にも折った。彼女のお父 さんの服を着て、僅かに罪悪感を覚える。 (今日はやっぱり、することになるのかな……) 僕はやや、緊張しながらもバックの中からコンドームを取り出し、それを そっとパジャマのポケットにしまった。もしも持ち歩いているということを母 や姉が知ったら、どんな反応を示すだろう。何だか自分が酷く淫蕩な人間に思 えてくるが、昨年度の夏、由花子さんに拉致同然でホテルに連れ込まれて以来、 持ち歩くようになった。 あれは凄かったなぁ。と今思い出しても溜息が出る。 由花子さんと性交渉をもったのは昨年の夏からだ。それまでは本当に健全な お付き合いを続けていた。せいぜいやってもキスまで。勿論、僕も男だから、 当然性的なものに対する興味はある。だが、まだ早いだろうと思っていたし、 ゆっくり時間をかけて、そういう関係になれば良いと思っていた。 だが、由花子さんは違ったらしい。どうして自分を抱いてくれないのかと、 ある日、ヒステリーを起こし、晩に僕の家に押し掛けて来て、僕を攫った。 それから後は大変だった。気づくとラブホテルの一室。紅いレースの下着で それはもう臨戦態勢の由花子さん。色気たっぷりに近づいてくるのだが、何と 言っても掻っ攫われて目が覚めた直後だ。思い出されるのは、初めて攫われて 別荘に拉致監禁されたあの悪夢。目の前の由花子さんは色気たっぷりだが、そ の時のことが思い出されて、僕のモノは縮こまってしまっていた。それを見て キレる由花子さん。説得する僕。 話し合いの末、ようやくいい雰囲気になって来たのだが、お互いコンドーム は持っていなかった。由花子さんは初めから生でやるつもりだったらしく、康 一君の子なら、アタシ全然構わないわ。と言われて僕が震えた。彼女は絶対産 むだろうと思った。 それからがさらに大変だった。好きだからこそ、互いの身も案じるべきだ。 由花子さんの子なら、そりゃあ僕も可愛いと思うし愛したいけれども、どうせ 愛するならもっとずっと、環境を整えてから愛してやりたいと、まるで僕が母 親になったかの如く熱弁をふるい、どうにか彼女を納得させた。 結局キスするだけでその日はホテルを出て、それから一週間後、由花子さん の部屋で、僕らは一緒になった。上手く出来たか分からない。なるべく痛くな いように、由花子さんに優しくしたけれど、やはり、痛かったのか泣いていた。 嬉しいから泣くのだと言っていたが、僕を受け入れた箇所からは血が滴ってい て、愛おしく思うと同時に、女性は大変だな、と改めて思った。 「上がったわ。康一君。良かったらジュースをどうぞ」 そう言って、由花子さんは部屋に入って来た。ふわりとしたお風呂上りの良 い香りが部屋に充満して、マズい。と僕は下半身を緊張させた。心臓がばくば く言っている。由花子さんが隣に座る。凄く良い香りがして、上着のパジャマ から、白い首筋が見えている。胸の部分は、その、恐らく、何もつけていない のだろう。ちょこんと、パジャマの一部を、盛り上げていた。 「あ、あ。有難う!!」 僕は鼓動を治めようと冷たいジュースをいれたコップを受け取る。今日は彼 女とそういう事をする以前に、彼女の進路を話に来たのだ。僕からその気になっ てどうする!と内心渇を入れて、こくりと飲んだ。カラカラ、と氷が快い音 を立てる。 由花子さんてさ、と僕は言った。 「料理とか、裁縫とか、何でも出来るけど、もっと色々なひとに見て欲しいな、 とか思わないの?」 「思わないわ。康一君が見てくれれば、それで良いもの」 それじゃあ、駄目なんだよな。と、僕はひとり思い、ジュースを口に含む。 どうにかして、彼女の気になるものを、見つけたかった。 「由花子さんって、ひょっとして、余り物事に苦労したことって、無い?」 「無いわね。大抵の事は出来るもの。料理も、洗濯も、裁縫も。運動も出来 るけれど、汗を掻くから好きじゃないわ。今までで一番苦労したのは、康一君、 貴方よ」 言い、すっと僕の顔に顔を近付ける。そうして優しい目で、微笑む。ああ、 もう。困ったなぁ、と、僕は心底、嘆いた。 今の一言で、完全に、勃ってしまった。 由花子さんにそっとキスをして、やんわりと押し倒す。由花子さんの髪の毛 が、ベッドに広がる。こくりと唾を飲み込む。耳元で、抱いてよいか尋ねると、 こくりと由花子さんは頷いた。僕はちゅ、っと由花子さんの耳に、キスを落と す。 僕は小さい、不器用な手で由花子さんのパジャマを脱がしてゆく。由花子さ んの胸は、大きい。張りと弾力があって、仰向けになってもまだ、美しい山を 保っている。ゆるり、と胸を撫ぜ、頂をつまむ。指で周辺を撫ぜ、ほんのすこ しだけ、舌で舐めた。そうして顔を移動させ、由花子さんの腹に、顔を埋める。 こんなことを言うと珍しく思われるかもしれないが、僕は女性の胸より腹部 の方が好きだ。勿論、胸も好きだ。触ると心地好いし、反応を示してくれると 嬉しい。でも、あまり舐めることは好きではない。 それは、何ていうか、自分が子どもみたいで嫌な感じがするから、という理 由が大きい。やっぱり男である以上、主権と言うか、攻めるのは自分でありた いし、征服欲もそれなりに持っている。柔らかな腹部に顔を埋めて、綺麗な形 良いお臍をちょんと舌で舐めてやると、由花子さんの身体の動きが、手に取る ように分かる。体温がひどく心地好い。 白い肌は滑らかで、快い。お風呂に入った後の柔らかい石鹸の香りと、肌を 合わせる互いの体温が、二人で湯船に浸かっているかのような錯覚を起こさせ る。 「康一……くぅン」 由花子さんの喘ぎと共に、白い腹がぴくりと震える。僕はするりと手を這わ せ、大腿部へと滑らせる。由花子さんのものは、指で触れるとぴくんと蠢いた。 ……ッ!と、指が中に入ると、由花子さんは声を詰める。互いの呼気が熱 い。 由花子さんの両足を曲げさせて、Mの字に開かせると、僕は自分の顔をその中 に沈め、由花子さんを舐める。 「や……ァッん!こ、いち君!そッ……!……あッ!」 由花子さんの香りが溢れてくる。僕は指と舌を使ってぐちぐちと溢れてくる 蜜を舐め取る。お風呂に入った後の香りも好きだが、由花子さんの出すこの香 りも、僕は好きだ。僕の心を高め、不思議なまでに、そう、何というか…… 「ひゃッ!ぁッ!――んッ!」 支配欲、と言えばいいのだろうか。普段は薄いその感情を、僕は由花子さん に覚えるのだ。こうやって、由花子さんの嬌声が、僕の小さな手の平や、舌か ら起こって、彼女が悦びで身を震わすことに、僕は恥ずかしくも優越感を覚え る。 僕は手早く服を脱ぎ、ポケットに入れていたコンドームを手にすると、ぴっ と歯で袋を破き、装着する。由花子さんは白い肌を上気させて、こちらを見て いる。僕はゆっくり、身を沈める。 「は……ァッ!こ、いち君!こう、いち、くぅンッ!!」 僕は体重を押し付けてぐいぐいと上下する。由花子さんは、その、自慢の髪 をベッドに広げて、くしゃくしゃにしながら、僕のことを受け入れる。僕が挿 れると、由花子さんのものは緩急もって僕のものを包み、震える。気をしっか りもっていないと、すぐに、持って行かれそうになる。 僕はきゅっと唇を噛締める。少しでも、彼女に好くなって欲しくて。少しで も、彼女と繋がっていたくて。ぬちゃぬちゃ、ねっちゃねっちゃと僕のものは 出し入れされ、たゆん、たゆんと由花子さんの豊満な胸もそれに合わせて揺れ る。 「……イイ?由花子さん。言って……?」 僕は動きながら、掠れた声で由花子さんに囁く。イイッ……わ!と、由花 子さんの声が、返ってくる。 「おねが、い!こう、いち……くん!ゆかこ、を!こういち、くんの、 モノにッ!もの、に、し、てェっつ!!!!!!」 その言葉とほぼ同時に、僕はどくん、と精を放ち、由花子さんも、きゅっと 足指の爪先を、折り曲げた。 [ 8 ] 「……露伴先生は、どうして漫画家になろうと思ったんですか?」 翌日、僕は露伴先生からお茶をしないかと誘われて、先生の自宅に居た。無 論、本当にお茶を飲むためにではなく、資料整理や、スケジュールのまとめだ とか、自分が考えていることを僕と話すことで、より思考を明確にするためだ。 相談役はともかくとして、資料整理やスケジュールの管理くらいは自分でやっ て欲しいと思うのだが、露伴先生は作品のインタビューとか、映像化とか、仕 事の関係者との打ち上げとか、そういった方面での整理や管理は呆れるほどズ ボラなのだから仕方ない。 それに、一昔前なら兎も角、今では露伴先生とこうして雑談することに、恐 怖感や苦手意識は無かった。寧ろ楽しめている自分に気づいた。 由花子さんの家を出る時、彼女は実に不満そうに、僕のことを見送った。昔 みたいに、「恋と友情、どっちを取るのッツ!?」と叫ばない辺り、彼女も心 が広くなったなぁ、とじんわり思った。 「どうしてって、前も言ったろ?僕は漫画を読んで貰う……」 「それは『描く理由』でしょう?そうじゃなくって、『なろうと思った』 理由です。いつごろから漫画を描き出したんですか?」 僕の質問に、露伴先生は顎に手を当てて考え込み、くるり、と椅子を回して ちらりと僕を見た。 「小さい頃だ。記憶もあやふやなくらい、小さい頃……」 ぽそり、と、そう告げると、露伴先生は再度椅子を回して、僕に背を向ける。 「僕が絵を描いて、好き勝手に作ったお話を、喜んで聞いてくれるヤツがい たんだ。それからだよ」 「それって、鈴美さんですか?」 僕の言葉に、僅かに露伴先生の肩が震えた。図星だった。マズい、と思って 僕は慌てて話を変えようとする。 「そ、そういえば、『漫画を読んで貰う』って言っても、別にチヤホヤされ たいわけじゃないって言ってましたよね?やっぱり、自分の考えとか、そう いうのを表現したいから、ですか?」 それもあるが……と、低い、唸るような声が響いた。沈黙が落ちる。どうし よう、ごまかして逃げてしまおうかと、苦手意識は無くなったという自分の認 識を改めながら、僕はそれでも、言葉を待った。 「……喜んで欲しいから、だよ」 「え?」 ぽつり、と響いた声に、声を上げる。 「その時読んだ感情が悲しみだったり、感動であったり、怒りであったりし ても、受け入れられた話は、喜びに変わる。僕は、読者に、僕のお話を読んで、 喜んで欲しいんだ!……クソっ!もう、いいだろこれでッ!!」 露伴先生は早口にそう言うと、机の上頬杖をかいて伏せた。後ろから見える 耳が赤い。僕は呆然と見つめていると、オイッ!と、突如、露伴先生が振り 返った。 「今度は僕の質問だぞ!どうして君はそんな事を聞くんだ?君は大学進 学で、秘密にしているけど漫画の編集者を目指してるんだろ?今更僕にそん な事を聞く必要は無いはずだ。……と、言うことは何だ?あのクソッタレ仗 助なら僕の意見など聞かずに君はアドバイスを送る筈だし――由花子か?」 ミもフタもない意見に、僕は漫画の編集のことは、言ってなかった筈なんだ けどなぁ……と、心中溜息を吐きながら、由花子さんのことについて、簡単に 話した。 「フン!……康一君、放っておけ。自分のことは自分で考えるものだ。そ れが碌に出来ないヤツに、生きていく資格なんて無いよ」 露伴先生の予想通りの反応に、何でそんな大げさな話になるんですか、と僕 は溜息混じりに声を上げる。 「生きることに、資格なんて要らないでしょう?生きたいと思う、それだ けで、十分じゃあ無いですか」 「……流石だな康一君、君はたまに単純だが良い事を言う。だがそれは僕へ の惚気か?それとも当て付けか?まぁ取り合えずご馳走様、とは言ってお いてやるよ」 へ?と、僕は声を上げた。君は……と、僕の反応に半眼になりながら、露 伴先生は応えた。 「相手に対しては感受性が高いのに、自分に対しては鈍感だな。由花子は君 の事が好きで、君は彼女に夢を持って欲しいと思っている。それは自分だけに 好意を寄せられることがプレッシャーだから、じゃ、無いんだろ? 『喜び』っていうのは、不思議なものだ。相手に与えると、自分が同じよう に味わっているような気分になる。……そこんところを考えて、二人で話をし てみるがいいさ」 それだけ言うと、露伴先生はまるでこれで用は済んだとでも言うように、無 言で僕を追い出した。 [ 9 ] 月曜日の朝、由花子さんと僕は、二人一緒に登校した。朝日が何だか心地好 かった。あのね、と僕は言った。由花子さんは僕を、見た。 「僕、由花子さんのこと、好きだ」 「あたしも、康一君のこと、好きよ」 うん。と、僕は頷いた。 「僕、由花子さんの喜んでいる顔が、好きだ」 「あたしも、康一君の喜んでいる顔が、好きよ」 ありがとう、と僕は頷いた。あたしこそ、と彼女は言った。僕は、ひとつ息 を吸って、言った。 「こんな事を言ったら、傲慢に聞こえるかもしれないけれど、僕は、僕の好 きな由花子さんをを、もっと沢山見るために、由花子さんには、由花子さんの 好きなものを、どうか見つけて欲しいんだ。これって、決して、悪いことじゃ ないと思うんだ。僕は、君の好きなものを見て、喜んでいる姿を見て、喜んで。 君も、僕の喜んでいる姿を見て、喜べるんだ。それって、とても、素敵なこと だって、思うんだ」 沈黙が落ちた。チチチ、と雀が二羽、空を渡った。由花子さんの高い足音と、 僕の軽い足音が、路上を、規則正しく響いていた。 あたし、ね。と、由花子さんが言った。 「あのあと、ずっと考えたの。康一君じゃない、あたしのこと。 あたし、康一君と違って、あまり友達とか、いないの。……親とか、先生か ら褒められるのは好きだったわ。だから、お勉強は嫌いじゃなかったわ。でも、 そのうちそれが当たり前になったの。出来て当たり前だし、やれて当たり前。 良いなって思った物は手に入れたし、手に入らないなら、いらない。 ずっとね、そう、思ってたの……」 すっごく欲しい。絶対に欲しい。側にいたい。そう思ったのは、康一君だけ だったわ……。 俯き、髪を落としながら、由花子さんはそう言った。僕は黙って、話を聞い た。ひとりだけね、と、彼女は言った。 「ムカついたし、感謝もしたし、認めた女は、一人いるわ。……もう居ない けど……」 もしかしたら、お喋り相手にくらいは、なったかもね、と言った。 「……彩先生、のこと?」 無言で、由花子さんはひとつだけ、頷いた。 「『シンデレラの魔法使い』に憧れているんだって、あの女は言ってたわ。 馬鹿じゃないのって思った。女の子だったら、魔法使いじゃなくてシンデレラ に憧れるものじゃない。なのにどうしてババアの方に憧れるんだろうって。ひ とに与えることの、何が楽しんだろうって、そう、思っていたわ……」 でも、違うのね。と、彼女は足を止め、僕を見て、言った。 「……あたしが、康一君に喜んでもらえて嬉しいように、あの女も、お客に 喜んで貰えて、嬉しいって思いたかったのね。そう思うと、悪く、ないかもね ……」 そう言うと、由花子さんは唇をふんわりと綻ばせて、僕に笑った。とくん、 と、僕はあの、二人でパフェを食べた日のように、心の中で何かが響いた。 ・ ・ ・ 職員室内の喧騒をよそに、女はじっと、手にした進路希望の紙を食い入るよ うに見つめていた。やがて、何を思ったのか、はぁ……と深い溜息を吐くと、 静かにそれを机の上に置いた。 「おや、先生、溜息をついて……誰の進路希望ですか?」 隣から話し掛けて来た教員に、夢見る乙女の進路希望です。と一言添えて用 紙を渡した。おやおや、これはまぁ、確かに。と、苦笑して相槌を返す。 「山岸由花子といえば、そうそう、ウチの広瀬が大学のランクを上げました よ。アイツ、やれば出来るヤツですからね。何でも先生も口添えしてくれたみ たいで……有難う御座います」 頭を下げて来た男に、いえいえ、私も同感でしたから、と返す。 「それよりも先生。恩義に思うなら、ウチの山岸にも何か言ってくれません か?いい加減、こっちも手が無くなって来ました」 はァ……と、男は再度、進路希望の紙を手に取り、唸った。 「『シンデレラの魔法使い』ですかァ……。そうですねぇ、太古、化粧は魔 法とも言われていたとか薀蓄つけながら、化粧品とか香水……化学か、薬学、 工学、生物学辺り……勧めて見ましょうかァ」 怒鳴られないと良いですけどねェ。ちょっと溜息を吐きながらの言葉に、お 願いします、と苦笑いをしながら、頭を下げる。 一息をついて外を見る。校庭には、記念樹として桃の木が数本、埋まってい るのが見えた。 「……そういえば、桃って絶世の美女、西王母の持つものなんだっけ……」 ぽつりと呟き、女は思わず、人を集めて止まない桃に対し、桃の苦労を幾ら か思い、合掌した。 SS一覧に戻る メインページに戻る |