資料室
進藤一生×香坂たまき


資料室、本を探しに来た、たまきは薄暗い室内にカーテンの隙間からキラキラとした

光が差し込む様子が美しくて、少しの気まぐれから電気をつけずに資料を探していた。

そんな少女じみた気分になっていたのは、きっと何年ぶりかにあの人にあってしまっ

たから。

進藤 一生・・・・・6年も昔の話だ。その人物との少しの切ない思い出は、まるで

初恋の様に鮮明に、この胸に刻まれている。それでも美しい想い出に変わったと、信

じていた。今日あの人を見るまでは。自分の気持は6年前のあの時から時を止めてい

たと、今日初めてわかったのだ。一体自分はいくつなのだ。少女じみた気持に失笑し

不意に涙が一滴こぼれおちた。

「おい」

ひどく懐かしい声を背後に感じて振り返った。そこには今しがた想いをはせた

人物が立っていた。

「進藤先生」

動揺して震える声がでる。頬にはまだ美しい涙の滴が一滴。進藤は少し眩しそうに

こちらを見ていた。二人の間は暫く時が止まったまま、永遠の時間が流れる。絡ん

だ視線は6年前と同じ時間を刻んだ。先に口を開いたのは、彼女だった。

「お久ぶりね。いつ日本に戻ってきたの?」

「先週だ。おまえもこっちに戻っていたんだな」

その低い声も、強い視線も、たまきが知っている彼のままだった。切ない想いがあふれて

弱い自分が顔をだす。知ってもらいたい、知らないでいて、相反する思いが交錯する。

「どうした?」

優しい低い声に顔をあげた。精一杯頑張ったとびきりの笑顔で答えた。

「なんでもないわ。もう行くわ」

本当は一緒にいたい切ない気持を押し殺し、自分の感情が暴走してしまう前に足を

踏み出した。彼の脇を通り過ぎようとした所で不意に思ってもいない方向に、体が

傾いた。

それと同時に頭に痛みが通り抜ける。

彼女の絹糸のような美しい黒髪が進藤の上着のボタンに絡まっていた。

「ごめんなさい」

無理やり取ろうと、痛みをこらえて引っ張るたまきの腕を、大きな手が優しく止めた。

「引っ張るな。ちょっと待っていろ」

たまきは俯いた。すぐ近くに感じる彼に眩暈がしそうになる。はやくここを逃げ去りたい。

たまきは俯いたまま目を閉じた。頭が不意に軽くなるのを感じて、絡まっていた髪が取れた

事を知った。それなのに彼は取れた髪を持ったまま、離そうとはせずに彼女を見つめた。

この瞳に視線をあわせたら。例えようもない恐怖が走り、足が震えだした。

「髪、もういいでしょ?」

彼女の震える声に、彼は返事を返さず、先ほどよりさらに強い視線を向けた。たまきには

もう口から出る言葉が見当たらない。困惑と怯えが混ざった視線を彼に返した。

髪に触れた指がゆっくり降りてきて、その長い指が彼女の顎にかかった。頭を引き寄せられ

視界が動いた。眩暈がする。唇に強く触れたものが何なのか、動揺した頭ではすぐに判断できずに

ただ時計の音がいやに大きく感じられて意識を奪い去った。

まだ焦点がはっきりしない視線の先に薄暗い天井が移った。ハッとして起き上がると、そこはすでに資料室

ではなかった。覚醒した意識で見渡した部屋は温かくほろ苦い記憶の奥にある部屋で、自分が寝ているのは、

高飛車に自分が寝るのを拒否した場所だった。上から懐かしい顔がのぞいた。

「香坂先生、へーき?びっくりしたよ」

「神林先生、私・・・?」

「進藤先生〜香坂先生気がついたよ!」

神林の言葉にたまきの心臓は跳ね上がった。唇に熱いリアルな感覚。最後に見た人物は……彼は

起き上った、たまきの目に精悍な顔が映った。その顔は何の動揺も衝動も隠してはいなかった。6年前と

何ひとつ変わらない彼の顔だった。先ほどの記憶は自分の妄想だと思わせた。自分の心が作り出した悲しい

夢だったのだろう。あまりにリアルな切ない記憶は心を締め付けた。

「仕事のしすぎだよ〜あんまり寝てないでしょ?貧血の兆候もみられるし」

「資料室で進藤先生が見つけて運んでくれたんだよ」

神林は苦笑している。資料室で会った事だけは、夢ではない様だった。

彼がゆっくり近づいて来るのをぼんやり見つめた。

「あんまり無理するな」

たまきの頭を軽くと叩くと少し微笑んで医局を出て行った。叩かれた頭が熱く、心臓がまた高鳴りだした。

これ以上彼に逢ったらいけないと、心臓の高鳴りと共に警報音が高く鳴り響いた。彼の事さえ考えなければ

私は私のままでいられる。強くいられる。あの人は奥さん以外を愛さない。望なんてないのだ。それを彼に

望む程、恥知らずな事はない。もう逢わない。心に強く誓いをこめた。

その後戻って来たメンバーによって進藤が人道支援団を降りて、港北の救命に戻って来る

事を知った。もう逢わないと、望まないと決めたくせに、心は喜びに充ち溢れた。

この3年間、心配で新聞を覗きこまない日はなかった。彼の今いる危険な地域に思いをはせ

新聞に、ニュースに彼の名前が載らない事を切に祈り続けた。彼が安全な場所にいてくれる。

それだけでいいと思えた。たとえ6年前の温かに刻んだ時を二度と彼と過すことが出来なくとも。

同じ場所に彼がいる。それだけで。

進藤が救命に戻ってから一か月、たまきは殆んどを研究室で過ごした。彼に逢わないように最新

の注意を払った。研究に没頭し何も考えないように過ごした。1か月も食事と睡眠をまともに

とらずに過ごすと、さすがに意識が朦朧としだした。限界・・・・時計を見ると8時少し前。

こんな時間に救命が終わる事は、まずありえない。たまきは簡単に身支度をすませ研究室を後

にした。病院を出ると外は漆黒の闇で冷たい風が吹いていた。歩き出してすぐに顔に水滴が落

ちてきた。雨だ・・・・降り出した雨は次第に強さを増し、冷えた体を容赦なく叩きつけた。

ついてない。小さく呟やいた。疲れた体は走る事を拒否している。ここまで濡れれば今さら

走ってもね、と自嘲気味に思い、わざとゆっくり歩いた。急いで走っていく通行人たちが不思議

そうに、たまきを見やった。ずぶ濡れのたまきにタクシーは止まってはくれず、疲れた足は

公園の前の電話ボックスで足を止めた。電話ボックスの中、5月の雨に冷えた体は小刻みに震えている。

扉に寄りかかった頭は思考回路を停止させた。ぼんやりみやった街灯に照らされた薄暗い歩道の先に

見知った人物が見えた気がした。

その姿が彼だとはっきり確認した時は、既に走ってくる人物もまた、足を止めてこちらを

みやった。警報音が鳴り響く。瞬間的に扉を開けて走り出した。疲れていた足は思う様に

は動かない。それでも持っている力の限り走り出した。こんなに寒くて心細い夜に限って

逢うなんて。涙が溢れる。逢いたくて逢いたくて、逢えなくて。自分はこの1ヶ月どれだけ

我慢していたのか。伝えたい、知られたくない、あの人が欲しい、望んではいけない、交錯

する思いが雨の冷たさも忘れさせる。背後から急に人の気配がして、力強い手がたまきの腕を

を掴んだ。ビクッと身体が震えて足を止めさせた。

「おい!夜に暗い公園になんか入るな。危ないぞ。」

顔をあげると眉をかすかにしかめた彼が立っていた。

「私に構わないで。腕、離して」

ちからなく放った言葉は雨にかき消され、腕を振り切る力も残されてはいなかった。どうして

出逢ってしまったのだろう。6年前なら少しは素直に想いを伝えられていたのかも知れない。

あの頃は淡い期待を胸に抱いていた。シカゴから戻ったら、と夢を描いて。そんな夢は3年前

彼が何も言わず日本を旅立ってから消え去った。自分がいかに彼にとってどうでもいい存在だ

ったかを知らしめた。あの時に一度諦めたのに。私は馬鹿だ。俯いて、もう一度呟いた。

「離して」

そう声が出た瞬間激しい眩暈がたまきを襲った。耐え切れずしゃがみ込む。寸前で強い腕に

抱えられた。

「おい!大丈夫か?」

心配そうな声に答えられない。不意に抱きあげられて景色が変わった。

「おろして」

「黙れ。目を瞑ってろ」

そう言うと進藤は雨の中歩き出した。     

小さな抵抗は、強い視線に制されて、その強く逞しい腕の中で静かになった。雨に冷えた身体は

小刻みに震えた。

「ちゃんと掴まれ」

低い低音が直接頭に響いてくる。諦めが次第に強くなった彼女は彼の首に腕を廻した。

朦朧としている意識の中、進藤の心臓の音と雨の音が響く。傘をささない二人に冷たい

雨は降り注いでいたけれど、不思議とそれを感じなかった。進藤が静かに足を止めた。

5階建てのマンションの前だった。たまきを抱いたまま無言でエレベーターに乗り込んだ。

4Fで降りた進藤はそのまま広い廊下を進んで、角の部屋の前でたまきを降ろした。

不意に降ろされてふらついた、たまきを進藤が片手で支えて、もう一方の手で素早く鍵を開けた。

支えられたまま部屋に通される。電気をつけた室内が明るく照らしだされた。ソファーに降ろされ

そのまま寄りかかると目を瞑った。頭がぐるぐる回っている。この状況を深く考えられずに、ただ

目を閉じた。

「おい、寝るな!着替えろ」

その言葉にハッと目を開けた。苦笑した進藤が着替えとタオルを差し出していた。

顔が瞬時に赤くなり、急にこの状況にうろたえだした。逢わないように頑張ったのにどうしてこんな事

になってしまうのか。はやくここから出なければ。慌てて立ち上がった。まだ眩暈はするが、気力で

姿勢を正す。

「迷惑かけてごめんなさい。もう平気よ。タオルだけ御借りするわ」

「まだ無理だ。貧血だろ。雨がやんで気分がよくなってから帰れ」

「本当に大丈夫だから」

心臓がまた大きく高鳴りはじめた。俯いたまま視線を合わせられない。頬に温かさを感じた。彼が伸ばした

手が優しくたまきの顔を持ち上げる。強い視線に瞬く間に絡めとられた。

「いいから、言う事を聞け」

優しく強い視線と言葉に、無残にも頷いている自分がいた。

シャワーの温かさで冷えた体が熱を帯び始めた。熱を取り戻した身体は、虚ろな頭をも覚醒

させた。彼に借りた白いシャツに腕を通して、フッと鏡に移った自分を眺めた。ひどく幼い

顔をしていた。それは大人の女の顔ではない。不安、怯え、期待がほの白い顔を彩る。

バスルームから続くリビングへの扉を勇気を込めて押し開いた。ソファーに座ったまま、

目を閉じている彼を見て、どこか安心した気持になり、彼の横に座って疲れた寝顔に

手を伸ばした。頬に触れる直前、彼の目が開いた。所在無げに宙を浮いた手は、急いで

元に戻されてまた少し見つめあった。先にそらしたのは彼女。

「あなたこそ、そのままじゃ風邪ひくわ。」

小さく笑った彼女に彼も苦笑を返した。

「そうだな。俺もシャワー浴びてくるから、お前は少し寝ていろ」

「わかったわ」

バスルームに消えていく彼を見つめながら、眠れそうにない事はわかっていた。身体は、

睡眠を欲しているのに、一度覚醒した頭は、信じられない状況のせいかハイになっていて

思うような眠りは与えてくれそうにはなかった。ぼんやりしながら、彼が淹れてくれた

コーヒーを飲んで心がまた冷静になるのを待った。期待をしたり望んだりする事は罪だろう。

彼は、いつだってお節介だったし、それは、たまきに対してだけでは決してない。ましてや

具合の悪い人を見捨てられはしない。それでも、彼のプライベートに立ち入った事で、こんなに

幸せを感じてしまっている。そしてそれが罪であるとも同時に感じている。立ち上がりカーテンを

開けてやまない激しい雨を見つめた。この雨は自分の心を映し出しているのだろうか?

「寝なくていいのか?」

「ええ、何だか眠れなくて。ごめんなさい」

「別に謝らなくていい」

苦笑した彼を正面から見つめる勇気がなくて俯いたままほほ笑んだ。

「あの、雨が止んできたら勝手に帰れるから、あなたはもう寝て。明日も仕事でしょ?」

「おまえが気にする事じゃない」

そのセリフ前にも言われたなぁ〜とぼんやり思っている間に、彼はキッチンに行ってしまった。

再度ソファーにもたれると、キッチンからコーヒーの匂いが漂ってきた。雨の音は強さを増して

雷の音が遠くで聞こえた。

雷の光に目を奪われていたので、不意に隣に彼が座った事に驚いた。無言で優しく、新しい

コーヒーを差し出されていた。お礼を言って受け取ると、二人の間に沈黙が流れた。雨と雷

の音に占領された部屋は静かで、その沈黙は彼女を居た堪れない気持ちにさせていく。でも

もう彼に語るべき言葉が思い当たらない。いっぱいあるはずの、離れていた間の思い出は、

語ったり、聞いたりすれば、その間の切ない気持を思い出して泣いてしまいそうだから。

彼の前では強くありたいと思うのに、愛おしい気持ちが弱さを引き出す。無言の沈黙に

不安で押しつぶされそうになった頃、一際大きな雷の音が鳴り響き、部屋は一瞬で闇になった。

突然の暗闇に驚いて動かした手が、彼の手に触れた。手を引っ込めようとした瞬間

彼の指が自分の指に絡まった。振り払う事はできはしない。そこは本当の闇だった。

音はすべて消え去った無言の闇だった。話す事を忘れてしまったかの様に、何の言葉も

浮かんではこない。闇になれてきた目は彼がこちらを見つめている事に気がついた。

あの目を見てはいけない。ここから逃げなさい。それなのに震えはじめた足は動かない。

「香坂、こっちを見ろ」

強い低い言葉が頭を突き抜けた。見てはいけない。頭は警告音を発しているのに、

たまきの顔はゆっくり進藤の方へ向いた。そこには彼女の知らない彼の目があった。

暗闇に急に光が差し込む。眩しさに細めた視線の先にあったのは、強い視線の男の目だった。

それは決して彼が見せた事がない熱を含んだ視線。限界だと感じた。もう隠せはしないだろう。

彼のすべてをほんの短い時間でも独占したい、そう強く望んでしまった。

「逃げないのか?」

彼の言葉が何を意味するか、十分承知だった。

「逃げないわ。」

自分も強い視線を返した。彼がほほ笑んだ様に見えた。不意に立ち上がり電気を落とした。

あたりはまた暗闇に包まれた。腕が伸びてきて、たまきを抱き上げた。ベッドに静かに落とされる。

心臓が痛いぐらいに高鳴った。覚悟を決めていた頭にわずかな怯えが走り、咄嗟に起き上がりかけた

身体を、手首を掴まれそのまま倒された。すぐ目の前には彼の顔があった。

「言葉が必要か?」

耳元で囁かれた言葉に目を見開いた。言葉がほしいわけじゃない。私が今ほしいものは。それは一つ

だけ。彼だけ。たとえ一瞬で消えてしまうものでも、これが夢でも、幻でも、それでも欲しいのは

彼だけ。彼が自分をどう思っているかの問題じゃない。これは自分自身の気持の問題なのだから。

「いいえ」

それだけ告げて目をつぶった。

震えた体を優しい手が擦る。気遣われるのが嫌だった。優しくされたいわけじゃない。

優しくされれば期待する。そんな女にだけはなりたくなかった。瞳に涙が溢れる。手を

止めた彼に、お願いだから優しくしないでと告げた。

優しく体を擦っていた手は顎を強く持ち上げ軽いキスを落とされる。軽いキスは深さ

を増して、呼吸を荒くした。空気を取り入れよう開いた唇から、彼の舌が入り込み

その瞬間、身体の中心に切ない疼きが沸き起こる。巧みな長い指は、彼女のシャツの

ボタンを殆んど外してしまっていて、首筋から胸が露になっていた。その肌の感覚を

味わうかのように、ゆっくりと長い指が肌を伝う。たまきの震えはすでに止んでいた。

長い指が何かを探すように体を動くだけで、たまきの口からは甘い声が漏れる。

存分に肌の感覚を味わった指は、再び頬にあてがわれ、また深いキスが落とされた。

身体は燃えるような熱をはらみ、体を巡る唇が敏感な場所を激しく、刺激していく。

胸の敏感な部分を優しく含まれると、自分の声ではない女の声が出た。羞恥心も

もう残ってはいない。残っているのは僅かな望みだけ。胸を味わった唇は、貪欲

にすべてを味わうがごとく身体じゅうに紅い跡を刻む。彼女の一番敏感な部分を

味わうために、強い掌が足を擦りあげた。ビクリと怖気づいた、たまきの瞳を覗きこみ

軽いキスを落としながら、その部分に指を差しいれた。キスを落とされたまま、体が

小さく震えた。そこはすでに彼女の蜜が溢れて、降りてきた彼の唇はその部分を味わい

指と舌で同時に愛撫された彼女は短く声を出して意識を手放した。

重い瞼が持ち上がると、そこには優しい顔をした彼がいた。

「ごめんなさい」

呟いた彼女の額に唇を押しあてると、首を振った。すぐに唇に落ちてきた熱に、必死で

答えた。優しく持ち上げられた足が、その時を知らせた。指を絡ませてすぐに彼の熱に

一気に貫かれた。

「んんんぅ・・・・はぁ、あ、しんどぉ先生ぃ」

深く深く、たまきに沈み込んだ彼は、その体制のまま動かずに彼女を覗きこんだ。

その艶を含んだ優しい瞳に見つめられて、ようやく愛しい人と一つになれたと感じた。

望がかなったはずなのに、切なさは数を増して、彼女の頬に涙が流れた。涙が溢れた

瞳に唇を押しあてて、耳元でささやいた。その言葉に静かに頷く。

最初は優しく、次第に激しさを増していく彼の動きに、意識が朦朧とする。おかしく

なりそうで、進藤に哀願する。ちょっと待ってと苦しげな彼女の声は黙認され、彼女

のすべてを奪おうと、繋がっている敏感な場所をゆっくり擦った。

真っ白になった彼女の意識は、低く呻いて落ちてきた愛しい男と共に、シーツの海に落ちていった。


☆後日談☆

朦朧とした意識が覚醒して目が覚めた。薄暗い天井が映し出され、身体に僅かな痛みと

気だるさが押し寄せる。身体は彼の腕に絡まれ、愛しい男は深い眠りに落ちていた。

考えた事はただ一つ。彼が目覚める前に。愛おしい腕を優しく撫で、自分の身体から

静かに外す。どうか目を覚まさないでいて。今じゃないなら、今この時間でさえなければ

私は何事もなかった顔であなたに逢える。いつも通りの香坂たまきとして。今じゃなければ

あなたの顔が後悔や罪悪感を湛えて私を見ても、傷ついたりしない。何も望まない。

でも、今日だけはどうか私に夢を見させていて。あなたに愛されたと勘違いさせていて。

だからどうか目覚めないでいて。シャツを身体に押し付け、ベッドから抜け出そうと

静かに動いた。立ち上がろうとした瞬間、ベッドに引き寄せられた。

「何も言わずに帰る気か?」

「ええ、あなたも明日仕事でしょ?」

起きてしまった彼を恨めしく思った。その顔を見上げる勇気さえも、今はまだ持てない。

だから、そのまま無言で掴んだ手をを緩めてくれさえすればいい。それならあなたの顔を見ずに

このまま帰れる。涙が溢れた事に、どうか気がつかないで。

「おまえにまだ何も告げていない」

「何も聞きたくないの」

たまきは震える声で呟いた。

「謝ったりしなくていいわ。今日の事を忘れるから、だから何も」

今日だけは聞きたくないの。耳を塞いだ彼女の手を、進藤は優しく引き剥がした。

「ちゃんと聞け」

彼女は涙が溢れた瞳を彼に向けた。真剣な目をした彼は口を開いた。

「自分の気持ちが定まらなかった。そう言えば聞こえはいいが、実際は早紀への罪悪感だった」

進藤が放った言葉の意味が理解できず放心して彼を見つめた。

「6年前おまえが救命を離れた時、喪失感を感じた。その気持ちが罪悪感になった。離れれば忘
 れると、何も感じなくなると、高をくくっていた気持は、何年たっても喪失感でいっぱいで。
 同時に早紀への罪悪感でいっぱいになった。到底、自分を許せはしなかった。おまえが帰って
 来ると聞いた時に、もう逢っては行けないと思った。そんな時に人道支援団に誘われてな、そ
 れで向こうへ行った。遣り甲斐は確かにあったしな。でも辛い事が多かった。心が穏やかな時
 に空を見て、思い出したのは早紀との記憶と笑顔だった。でも辛い時に目を瞑ると、出てきた
 のは、おまえの怒った顔や強気なその視線だった。そこには罪悪感はもうなかった。帰ったら
 お前に伝えたいと、それだけが向こうでの糧になった。」

彼の言葉に思わず目を見開いた。苦笑した彼が手を伸ばして髪に触れた。

「伝える前に行動してしまったけどな。資料室では悪かったな」

たまきの顔が薔薇色に輝く。あの時の事は本当だったんだ。今度は自分が彼に伝えよう。

素直な気持ちで。もうあなたを離したりしない。もう私を離したりしないでと。

二人の視線は穏やかに絡み、今度こそ永遠の時を刻んだ。

朧月が見える。少し開けた窓の隙間から月が見えた。アフリカでいつも見ていた月にひどく
似ていた。不意に浮かんだ早紀の顔は、いつも通りの笑顔だった。勝手な幻想だな。
自分を自嘲し苦笑した。それでも信じている。早紀はきっと喜んでいると。あいつを亡くして
沈み、いつも早紀を思い出していた頃の自分の方がきっと、悲しませ苦しませていただろう。
横で穏やかな寝息をたてる彼女の寝顔を見つめた。全部をうまく言葉にできたとは、思っては
いない。それでも伝わったと思う。結局、早紀を言い訳にして逃げていたのだと、気がついた
頃には歩む道が違いすぎた。それでもこうして重なりあった事は奇跡ではない。
どんなに離れてもみても、結局離れる事が出来なかったと言うだけの話。

「臆病ものだな」

呟いて隣に寝ている彼女を引き寄せた。美しい白い肌は柔らかで、どこまでも幸せな気持ちに
させた。もう決して失いたくない。離したりはしない。あの暗い闇から救ってくれた、気が強
くて、意地っ張りの愛しい彼女を力強く抱きしめた。

感謝と愛情をこめて。






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