離したくない
進藤一生×香坂たまき


進藤が人道支援団で各地を飛び回るという、非常に危険な仕事から再び帰国して港北救命センターに舞い戻ったのは
たまきがシカゴから帰国してから二年ほど後の事だった。
何年も前から淡い恋心とも言える幼い気持ちを抱いてきた相手ではあったが、出逢った当初から望み薄な恋でもあった。
彼は亡くなった妻を非常に愛していたし、なにしろ最初の二人の仲は犬猿ともいえる関係だった。たまきがシカゴに行っ
てからは、一年に何度かの帰国の際に、救命に挨拶に行った時に逢えるか逢えないかぐらいの関係で、もちろん個人的に
食事をした事もない。気楽に誘えば付き合ってくれたかもしれないが、気楽に誘う事は、どんな難しい心臓の手術よりも
困難に思われた。
翌年、かなりの勇気と気合をもってして帰国した時に、すでに彼は日本にはいなくて、遠く危険な地域で働いている事を
聞き、脱力感と失望にも似た気持ちを味わった。
なんとか大きく開いた心の穴に折り合いをつけて、穴に薄く膜が張ったころ、彼は突然帰国した。

どうせ諦めていたんだからと、気楽な気持ちで食事に誘ったところ、気楽にOKの返事をくれた。それから一年・・・・・
頻繁に食事に行くようになったものの、彼はもしかしたら自分の事を女としては見ていないのかもしれない。どうしてそこ
にはやく気がつかなかったのか?二人の会話はいつだって患者の話と医療の話。そもそも、彼から会いたいと乞われた事は
一度もないではないか?いつでも会ってほしいと乞うのは自分の方で、彼はそれを、断らなかっただけの話だ。
次の日が休みの日ですら、10時前にはたまきをタクシーに乗せて、さっさと帰ってしまうし、多少酔ってはいても手すら
握られた事はない。中学生か?
それに、もしかしたら城島や馬場だって乞われれば会うかも知れない。いや会うだろう。間違いない・・・・・
それならば彼が考える二人の関係は、友人、元同僚、その様なものであろう。

深い溜息をついた。もしかしたら、たまきの気持にも気がついていたのかも知れない。どうしようもないお人好しだ。無理な
ら断ればいいのだ。やっぱり今でも奥さんだけを愛しているのであろう。今さらなぜ勘違いなどをしてしまったのだろう。少
しでも自分を女として見ていてくれるなんて。そもそも、奥さんの為に、すべてを捨ててまで傍に居る事を選んだ男だ。自分
の事を少しでも想っていてくれるなら、そもそも人道支援団なんてものに入らないだろう。
ようやく決心がついた。見上げた空は、凛と澄んでとても美しくて。やっぱり彼を愛した事を後悔したりできなかった。自分
の気持ちもこの空のように凛としていたいと思った。もう一度空を見上げてから、たまきは力強く歩きだした。

彼が日勤と聞いていた日を見計らい食事に誘いだした。その日たまきは少しはしゃいだ。
お酒もいつもより飲み、珍しく医療とは別の話を明るく語った。彼は軽く笑いながらいつもの様に聞いてくれた。明るく
話ながら自分の手が震えている事に気がついた。こんなにも進藤の手を離す事は勇気がいる。お酒の力を借りないと話始
める事なんてできはしないのだ。
自分が求める限り、この手は自分を助けてくれるだろう。でもこの手は私の手ではない。

「進藤せんせい」

フッと真顔になった、たまきに進藤は怪訝な顔をした。

「どうした?」

その優しい声に泣きそうになったけれども、何とか笑顔を作り言葉を紡ぎだした。

「来週から日本を離れるの」
「急だな」

何か言おうとしている彼を制した。

「もう日本には戻らないわ。あなたにも逢えなくなるわね。今までありがとう。あなたの事忘れないわ。」

なんとか最後まで笑顔でいられた事を自分自身に感謝した。

「香坂」進藤の言葉を聞く余裕はなかった。なんとか張り付いた笑顔のまま席を立つ。

「最後だから、今日は私の奢りよ。身体に気をつけて、さようなら」

それだけ告げると進藤の顔を見上げる事なく立ち去った。さっき化粧直しに立った際に会計は済ませていた。そのまま
外に飛び出した。10月の気まぐれな空からは、冷たい雨が落ちてきていた。でも今はその雨が嬉しい。もう泣いても
いいと言われている気がしたから。

傘もささず、歩きだした、たまきの頬に雨と混じった涙が流れる。愛しい声も、腕も、顔も、たまきの持っている彼の
すべてを忘れる事はできないだろう。それならば心の中で一緒に生きていく。それなら誰も困らない。静かな夜の道は
音が消されたかの様に静かで、雨が泣いていると思った。不意に温かいものに包まれて引き寄せられる。
驚きで強張らせた身体が、一回だけ抱きしめてくれた腕と匂いを思い出していた。

「進藤先生」

弱い力で押し返しても、強い腕は緩まらない。

「進藤せ、」

押し返していた手首を掴まれ乱暴にコンクリート塀に押し付けられた。見上げた彼の表情からは何んの感情も感じられない。
彼が口を開いた。「随分と勝手だな」
その通りだと思った。友人としては最低だ。どんなに遠く離れても、友人なら逢えないなんて言いはしない。友人なら。
言ってはいけない、言うつもがなかった言葉が口を衝いて出た。

「あなたを愛している。もう無理なのよ」
「香坂、俺は、」彼の言葉を急いで遮る。
「何も言わないで。ただ、あなたの傍にいると、わたしどんどん嫌な女になっていくの。」

嫌な女は元々ね、呟いて少し笑った。「限界なの。元同僚の役はおしまいね。わたし、」そこまで言いかけた瞬間、
冷えた唇が熱い物で覆われて、呼吸が止まった。見開いた瞳に、彼が映る。意味もわからず抵抗しようと動かした手首は
しっかり押さえ込まれて、ビクリとも動かず、そのまま長い口づけは続いた。唇が離れると吐息が漏れた。

「どうしてこんな事?同情はやめて」

震える声で言葉が出た。
進藤は無言でたまきの手を掴み歩きだした。意味もわからず只、進藤の後をついて行く。白いマンションのエントランス
をくぐり抜け、それでも彼の歩調が止まる事はない。

「進藤先生、離して!」

ようやく抗議の声を出した、たまきをチラッと軽く一瞥しただけで、その手は緩まる事はない。

ようやく一番奥の部屋の扉の前で立ち止まると、片手で器用に鍵を開けて、たまきの背中を扉の中に押し入れた。

動揺と緊張と不安を抱えたまま玄関に立ちつくした、たまきも、鍵を乱暴に転がした進藤も全身ずぶぬれだった。何か
を問いかけたくとも、寒さと張のせいか口が震えて言葉が出ない。進藤が無言で腕を引くので、なんとか靴を脱いで
玄関から部屋に上がった。進藤は電気をつけずに進んでいく。連れて行かれたのはベッドの前だった。
ビクリと怯えて逃げ出そうとした足は、思うように動いてはくれない。
この年にもなって進藤の行動の意味がわからない訳はない。この一年、自分に指一本触れようとしなかった。

ならなぜ今頃こんな事をするのか?考えながら少しづつ間をとろうとするたまきの腕を進藤が強く引っ張った。
頭に長い指が絡まり、顎を上げられ唇が絡まる。最初は抵抗したが、所詮この男にかなうはずもない。
口付けが深さを増すと、もうどうでもよくなった。この男が、例え一瞬でも欲してくれるなら、それが今だけ
だとしても幸せな事に思えた。
急くようにワンピースのファスナーが下され濡れた衣服は次々と脱がされ床に落ちていった。

恥ずかしさには目を閉じて耐えた。ベットに静かに横たえられて、長い指が素肌を辿る様に動く。
震えはお互いの熱で徐々に止まり、息苦しい程、深く口を塞がれる。
少し乱暴だった彼の手は徐々に優しくなり、それがなんだか切なくて、逞しい背中にしがみついた。
もうこうしている事の意味なんてどうでもよかった。その腕はの中は、いつだって安心で温かで、誰かと繋がるのはこう
いう事なんだとこの年になって始めて気がついた。
雨の男が遠くなり二人の心臓の音だけが静寂した部屋に響き、そして何も聞こえなくなった。

瞼を上げると優しい顔をした男がこちらを見ていた。恥ずかしさが先立ち背を向ける。進藤は彼女の美しい背中に手を伸
ばし引き寄せた。

「何も聞かないのか?」

彼女の背中を抱きながら、何も問いかけようとしない彼女に、逆に問う。

「何も言わなくていい。あなたが例え後悔していても、今だけだったとしても、幸わせだったから」
「悪かった」

彼の呟きに思わず振り返る。苦笑しながら彼は続けた。

「俺は極端な性格だからな。一度手を伸ばしたら傍に居ない事がつらくなる。おまえも俺もずっと同じ場所に留まる人間じゃ
ないからな。だから手を伸ばす事をためらった。それだけだ」

「傍にいるわ。あなたがどこにいても、私がどこに居ても」

少し瞳を潤ませた彼女に「そうだな」とほほ笑み返してきつく抱きしめる。その手はまた美しい肌を辿り始める。
慌てて起き上がろうとする彼女を捕まえて、またベッドに押し付けた。

「朝までは離したくないんだ」

耳元で囁かれ、顔が赤くなったのが自分でもわかる。うろたえる瞳を捕え、逃げようとする身体を捕え、そして唇を捕らえた。
彼女はその唇に酔いしれて大人しくなる。
先程は、展開があまりにも劇的で記憶が所々確かではない。しかし今は確かな実感が湧いてくる。
彼の唇や手が全身を這い、それにつれて全身が熱くなる。
誰かを是ほどまでに欲して、その相手に求められる事はなんて幸せな事なのだろう。
うわごとみたいに彼の名前を呼び、其の度に熱く見つめ合い、唇を重ねた。朝などこなくてもいい
とさえ思えた。
指と指を絡ませて、唇と唇を重ねて、舌と舌を絡ませ合い、肌と肌を重ね、何度も抱き合い深く視線
を絡ませて・・・・・・・・・・・・繋いだ手を二度と離さないとしっかり結び付けて。   






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