進藤一生×香坂たまき


「それじゃあ、お先に失礼します。」

「お疲れ〜!気をつけて帰ってねぇ」

香坂先生、美人さんだから。と神林は心配を口にしながらも
いつもの人懐っこい笑顔を向けて見送ってくれた。

やっと患者が途絶え、帰れる事になったのは、夕日の残照で空が赤く染まる頃だった。
たまきは疲れた身体を引きずりながらも最寄り駅から帰路を辿っていた。
電車で少し眠ったせいか、余計に眠い・・・
それでもたまきは必死に眠気を振り払い、気を張り詰める。
それには理由があった。

ここ数日、この道を通ると決まって背中に人の気配を感じるのだ。
そして今日もやはり、誰かに後をつけられている気配を感じていた。
足音からしておそらく男だろう。
いつもはつかず離れず一定の距離で後をつけていたが
今日に限って違った。

空きビルの前に差し掛かった時、背後の足音が急に迫ってきたのだ。
それに気付いたたまきは怖くなり、走り出したが
疲れた身体は思うように動いてはくれず、すぐに追い付かれてしまった。

本能的に身構え、大声を上げようとした瞬間
背後から伸びてきたその手に、たまきは口を覆われ
そのままたまきは薄暗いビルの中へと引きずり込まれた。

たまきに息がかかる程、近づいた男の手はたまきの服にかかり
布の引き裂かれる音がうす暗いビルに響いた。
目を見開き、たまきは必死にもがき、抵抗する。

「やめて!」

口から手が外れるとたまきは叫び、男の腕の中から逃れようとした
が、男の腕力はそれを許さず、更に強く押さえ付けてきた。

「黙って大人しくしてろ!」

背後から鈍く光るナイフが首元に当てられ
刃先がゆっくりと首をなぞると赤い線が出来た。
痛みにも勝る恐怖でたまきの体から次第に力が抜けていく。

「暴れるとこのナイフがその白い喉を引き裂くぞ!」

笑いを含んだその声が、いっそうたまきを怯えさせた。

本当に殺されるかもしれない・・・

「…や、止めて・・・お願い・・・」

視線の端に映るナイフを意識しながら
それでも強張る唇を開き、やめてと懇願する。

「怪我したくなければ黙ってろ!これは最後の警告だぞ!!」

男はたまきの目の前にナイフをぎらつかせて見せた。
まるで次、騒げば殺す。と言っているかのように。

たまきは完璧に恐怖に支配され、抵抗など出来ずに体を強張らせ
固く瞼を閉じた
その瞼にはじんわりと涙が滲んでいた。

大人しくなったたまきを男はすんなりと押し倒し
その手をどんどん進めていく。

だけどズボンを降ろす音に再度、強張る唇を開き、暴れた。

「いやあぁぁ〜!」

お願いだからこれ以上はやめて、という意味を込めて
必死に・・・
だけどもちろん聞き入れてもらえる訳もなく
頬を叩かれただけで、そのまま最後までやられてしまった。

「たまき、またね」

思う存分たまきを玩び、満足すると
そう一言だけ言い残して男は去って行った。
その場に残されたたまきはどんよりとした瞳を宙に彷徨わせていた。

だけど愕然とした頭でも気になった。
何故あの男は自分の名前を知っているのだろう、と。

それからどう帰路を辿ったかは覚えてないが、何とか家まで辿り着いた。
仕事は風邪だと嘘の電話を入れて休んだ。
一歩も家から出る事なく、ほとんどの時間、風呂場にいたと言っても過言ではない。

あの男の汚れがいくら洗っても落ちていない気がして
白い肌が赤くなってきても止めることなく、何度も何度も体を洗い続けた。

暗闇は怖いからか、部屋の明かりは全て消される事なく、煌々と照らされたまま
それでも夜は眠れずただ、ぼーっと瞳をあてもなく彷徨わせていた。

気付けばあれから4日も経っていた。
殴られた頬のアザはだいぶ目立たなくなってきた。
ただやはり首の傷は少し目立っている。

だけどいい加減、仕事に行かなくては迷惑がかかると思い
たまきは行く事にした。

が、やはり外を1人で出歩くのは怖くて
タクシーをマンションの下まで呼んで、病院まで向かった。

その間、ずっと冷や汗みたいなものが滲み出てきて
額や掌はぐっしょり湿っていた。
微かに震える手でお金を払って病院の中へと入っていった。

そこは今までとは打って変わっているような感じがした。
やたらと音が耳について、過剰に反応してしまう。
自分の足音にさえ震えが走る。
一体、どうすればいいというのだろう。

たまきは小刻みに震える手を隠すように握りしめて、医局の前に立った。
しかしどうしても、身体が動かない。
目眩を起こしそうになり、ぎゅっと目を瞑った時だった。

「風邪はもういいのか?」

後ろから声がした。
目をあけて恐る恐る振り返ると、そこには進藤が立っていた。

「・・・えぇ、もう平気。」

「その傷どうしたんだ?」

首を指して少し驚いたような口調でたまきに聞いた。
まともに顔が見れず、うつむき加減のまま
傷を隠すように、首に掌をあてがった。

「あ…あぁ、これ?これは…」

宙をさまようたまきの視線を、進藤は追い続ける。
苦しいほど厚い沈黙が、二人の間に流れていく。
少しの間、何か考え込むようにたまきは目を瞑る。
そしてすぐに、乾いた唇を開きかけた時だ。

「おはようございます。何してるんすか?」

馬場が怪訝そうな顔で、二人の間を裂いて医局に入っていった。

「…私たちも入りましょ?そろそろカンファレンス始まるわ」

馬場がこのタイミングで現れてくれた事に、感謝した。
進藤にばれないように小さく溜め息をついて医局に足を踏み入れた。
すると一斉に自分の方に向けられた視線。

解ってる。
あの忌まわしい出来事が知られた訳じゃなくて
3日ぶりに自分の顔を見れて、喜んでくれているだけ。
頭では解っていても、感情とのバランスがとれなくて
怖くて、逃げ出したい衝動に駆られた。

「香坂先生まだ顔色悪いみたいだけど大丈夫〜?」

佇んでいると神林が心配そうに聞いてきた。

「はい。お休みを頂いたおかげで、だいぶ」

適当な事を言った。
本当はろくに寝てないせいか頭がはっきりしない。
少しでも気を緩ませるとふらついてしまいそうだった。
とりあえずカンファレンスが始めるとの事で席についた。

だけど誰かが少しでも動いたり、物音を立てると
身体が反応して飛び跳ねそうになる。
そんな事ばかりが気になってしまい
カンファレンスの内容なんてほとんど耳に入ってなかった。

それでも朦朧した頭を必死に起こし、自分を騙しながら仕事と向かい合う。
比較的穏やかな一日のスタートであった。
しかし昼が過ぎた頃、突然鳴り響いたホットラインの音で
たまきの中の何かが崩れていくような気がした。

鼓動が狂ったように打ちつける。
震えて汗ばむ手をポケットに仕舞いこみ、悲鳴をあげなかった自分を褒めた。

仕事をしていれば、忘れられる。

そう自分に言い聞かせるように、深呼吸をし、立ち上がって震えを払う。
駆け出す足取りも、頼りなく揺れていた。

それからも、患者は途絶えることなく搬送されてきた。
それに比例するように、陽が傾くにつれ、たまきの体は悲鳴をあげ始めた。

寝不足の頭、あの時の嫌悪感。
思い起こせば、擦り続けた肌が、ヒリヒリと痛み出したような気がした。

夕闇が近づく頃。
患者の治療が終わり、ICUに運ばれていくのを見届けた。

スタッフの皆が口々に話す声を聞きながら、初療室から足を踏み出した時に
たまきの足下がふらりと揺れた。

そして遠のく意識をそのままに、細い身体が床に崩れ落ちていった。

「香坂!」

直ぐさま進藤が駆け寄った。
呼び掛けても目を覚ます気配はまるでなく
抱き上げてとりあえず仮眠室へと運んだ。

顔色が朝より青ざめているのを見て点滴を繋ごうと
白衣をめくり上げて驚いた。
白く透ける肌はそこにはなく、赤い痣のような模様と、内出血のようなものがあった。

香坂に一体何があったんだろうと、じっと見つめ
色々な考えを巡らせているとたまきは魘され始めた。
か細い声で聞き取れないが戯言のように何かを繰り返し口走っている。
起こして現実に引き戻してあげるべきかと、悩んでいると
たまきは悲鳴と共に目を開けた。

額にはうっすらと汗が滲んでいる。
額に手をあて、ゆっくりと彼の方へ顔を向ける。
視界に進藤が映ると、たまきは勢いよく身体を起こした。

そして怯えた目をし、一瞬息を詰まらせた。
声にならない悲鳴に、口元に震える手をあて
涙の溜まる眸を背けると、ゆっくりと息を吐き出した。
先ほどの重苦しい沈黙が、再び訪れる。

進藤はたまきをじっと見つめ、彼女が落ち着くのを待っていた。
仮眠室には、夕暮れの橙が、ブラインドの隙間からこぼれ出している。
たまきの乱れていた呼吸が、冷静さを装い静まりだすと
進藤はたまきの目線に合わせて、ゆっくりと口を開いた。

「香坂。」

こちらを向かせる為に放った言葉に、彼女は僅かに目線をあげる。
涙を溜めた大きな瞳が、助けてと繰り返しているように思えた。
進藤はその瞳を覗き、優しく語りかけた。

「香坂、怖がらなくて良い。」

そして、たまきに手を伸ばした時。
たまきはその拙い力を振り絞り、進藤の手を振り払った。
小さな悲鳴もあげた。

明らかな拒絶だった。

「何があった。」

仕方なしに続けた言葉にまた、たまきは体を震わせた。
唇を噛み、布団に握りしめる。

点滴を打つ腕に浮き立つ、赤い痣のような模様が目に触れて
たまきは泣き出しそうな顔をした。

「香坂…」

「何でもない。」

声を詰まらせ、それでも凛とした言葉が放たれる。
何でもない訳がない。
あの腕の痕が、それを物語っている。
最悪の事態を考えれば、進藤の気持ちは焦りを見せるだけで。

「話せないのか。」

問いつめるように近づけば、彼女は怯えて後退さる。
口を噤み、震えている。

「香坂!」

思わず声が大きくなり、たまきはまた震えた。
怯えを宿した瞳が、進藤を責めた。
その瞳に少し冷静さを取り戻し、そして反省した。

今回の件は前みたく強引には聞き出せないのだと、ようやく悟った。
香坂の方から話してくれるのをひたすら待つしかないのだと。

だけどさっきの頑なに口を割らない態度を見る限り
しばらくは望みがなさそうで
やはり気持ちばかりが焦った。
それを必死に制御して、優しくたまきの方を見た。

「悪かった。点滴に睡眠薬入れておいた方がいぃか?」

たまきは何も答えずただ首を横に振った。

眠ればあいつが来るから。
拒んだ。

「・・・そうか」

「あなたはもう仕事に戻って」

静かに呟く声も、今にも崩れてしまいそうな身体も
放っておける筈がない。

泣き出しそうなたまきを見つめ、彼女に掛ける言葉を選んだ。
傷つけることのないように、と。

「一人で、大丈夫か。」

進藤の優しい眼差しから目を反らす。
今は、観ることが出来ない。

「大丈夫よ…子どもじゃないんだから。」

しかし彼のその優しさが、言いようのない罪悪感を生みだした。

見透かされているようだ。
あの夜の、忌まわしい出来事が。
途端に、身体が震え出した。

知られたくない。
知らないで。
知っているの?

嫌だ。
怖い。
そんな目で、私を見ないで。

少し落ち着いた呼吸はまた乱れ始め、自分自身の身体を抱きしめた。

怖い。
お願いだから、そんな目でみないで。

反らしても尚、感じる視線はあの忌まわしい出来事を見透かされていて
まるで進藤は汚い物を見る目をしているような、そんな錯覚を覚えた。

「・・・そんな目で見ないで…!」

「香坂?」

「・・・見透かさないでっ!!」

「何をだ」

何を、と聞かれてあの時の事が鮮明に頭を駆け巡った。
目を見開き後退っても、本当にあいつがそこにいて
また襲ってくるような感覚に見舞われた。

まるであの時にワープしたように・・・

鼓動が早くなり、再び呼吸が乱れ始める。
上手く息が吸えずに、胸を抑えるように手を当てた。

「やめて・・・やめてよっ!!・・・来ないで!!」

声にならない声で叫ぶ。
叫べども迫りくる恐怖には勝てない。

「香坂…大丈夫だ。何もない。誰もいない。」

恐怖に震える瞳を覗いて、手を伸ばし肩を掴む。
抱きしめようとするも、抗う力はまだ強い。

「香坂、落ち着け。大丈夫だから。」

必死になり逃げようとする身体を抱き込む。
華奢な身体が、悲しい程に小刻みに震えていた。
しかし強い力は、無意識のうちに、自分を抱き止めている進藤の腕を掴んでいた。

助けてと繰り返す。
声なき声が、進藤にも聞こえたような気がした。

安心させるように背を撫でると、びくりと体が動き
一瞬たまきの動きが止まったかと思うと、怯えた目で見あげられ
そのままぐったりと進藤の胸へと倒れ込んできた。

そおっとまたベットに横たわらせ、このまま暫く眠らせようと
睡眠薬を点滴に注入して仮眠室を後にした。
夢を見て魘される事のないよう祈りながら。

睡眠薬のお陰かたまきは夜中になるまで眠っていた。
だけどやはり目覚めは良いものではなかった。
さっきと同じように汗が滲む額に手をやった。

乱れた呼吸を必死に落ち着かせて
白衣の袖を戻してベットから降りた。

立った瞬間、立ちくらみを起こしそうになったが何とか持ちこたえ
大きく深呼吸をして、何食わぬ顔を作って仮眠室から出た。


「香坂先生!もう大丈夫なんですか!?」

出てきたたまきにいち早く気付いたのは矢部。
その声で医局にいたスタッフもたまきを心配そうに見た。


「えぇ、風邪をなめてたわ。治ったと思ったんだけどね」

苦笑しながら言った。

「・・・だけど声が聞こえてきた…よ?」

「何の声です?」

「うなされてるような・・・ねぇ?」

ねぇ、と振られてほぼ皆が頷く。

「じゃあ怖い夢でも見てたのかしら?」

覚えてないわ、と笑みを作って言うと
夢ってそんなものだと皆も笑い、頷く。

たまきも頷いて笑うと、白衣のポケットに手を突っ込んだ。

「さっきはすみませんでした。ICU行ってきます。」

そして皆から視線を逸らすように、医局を出ていこうとした。
それをデスクから観ていた進藤は、不意に立ち上がり
彼女の行く手を遮った。

はっと顔をあげれば、先ほどの恐怖が蘇ってくる。
彼の優しい眼差しが、見下ろしてきているのが解る。

「無理しない方が良い。」

また、医局にいたスタッフの視線が集まる。

また、だ。
この視線が、怖い。

「もう平気よ。」

早口でまくし立てるように言い、進藤の横を通り抜けようとした。
動かない足を、前へ出す。
進藤は腑に落ちないような顔をしながらも、道を開けてくれた。
ポケットに入れたままの手を、ぎゅっと握りしめる。
そしてそのまま、小走りにICUに向かった。

仕事をしていれば忘れられる。
ずっと、ずっとそうしてきた。
だから、大丈夫。

ICUのまぶしい照明に目を細め、叫び出しそうな感情を殺した。
心が、壊れていく音を聞いた。

そんな中、患者の1人が急変した。
たまきは我に返り、気を引き締め、駆け付ける。
近付いて診ていると患者は苦しさのあまり
たまきの服をきつく掴み、もの凄い力で引っ張った。

その強い力がまたあの忌まわしい記憶を呼び覚ました。

「っ…!!」

声が出ないほど、体が硬直する。

患者であるはずの男は、いつの間にかあの男に姿を変えていた。
男の手が伸びてきて、たまきの体をいたぶるように捕まえる。

「たまき、また逢えたね。」

男の呟きと卑猥な微笑みが、たまきに襲いかかってくる。
あの日のように。

「香坂先生?どうなさったんですか?」

一緒に治療にあたっていた山城が少し戸惑いながらも声をかける。
たまきの反応はなく仕方なく違うドクターを呼んだ。

服を掴む患者の手を解いて、たまきを自由にした。
その反動でたまきはそのまま床に座り込んだ。
山城が落ち着かせる為、肩に手を回そうとした。
だけどやはり小さな悲鳴を上げて拒絶をみせた。

たまきの震え方が尋常じゃないとは思い山城は
たまきと2人きりで話をしてみようと決めた。

たまきが外来で座り込んでいる間にも、ホットラインは鳴り続けた。
幸い外来には誰もいなくて、それが誰かの気遣いだったかさえ
たまきには解らなかった。

気がつけば、山城に付き添われ此処にいた。
ぼんやりとした頭で、先ほど観た男の姿を思い出していた。

頭痛がする。
時折、あれは夢だったのではないかと思うのだ。
しかし赤くなった腕が、現実だと教えている。
涙がせり上がってくる。
嫌悪感がこみ上げる。

唇を噛み、白衣の上から腕を力を込めて擦った。

赤い肌が、痛みを伴う。
でももういい。
痛みなど、なんともない。
早くこの、酷く汚れたような感覚を消してしまいたい。

「香坂先生。」

優しい声にも、体がびくつく。
手を止め、顔をあげると、山城が穏やかな表情を浮かべていた。
たまきはバツの悪そうな顔で、手を膝の上に戻した。

「医局に戻りましょうか。患者さん来るといけませんから。」

「…え」

「もう少し此処にいたいですか?」

「・・・大丈夫、戻るわ」

首を振って言った。
それは山城に向かって言ったのか
それとも自分を言い聞かせる為に言ったのか解らなかった。

ゆっくりと立ち上がり外来を出た。
山城は気を使って少し距離をおいて横を歩いてくれている。
その心遣いが嬉しかった。

「山城さん」

「何ですか?」

「・・・・・」

そんな山城になら言えるような気がして自分から声をかけた。
けれどやはり言い出せなかった。
思わず唇を噛み締めて俯き、立ち止った。

「いつでも聞きますから。」

「え?」

たまきが弱々しく聞き返すと山城は微笑み返した。
まるでたまきを優しく包み込むかのように。

医局に辿り着くと、神林と太田川がお茶を啜っていた。
山城に付き添われてきたたまきを観て、一瞬訝しげな表情をした。
先ほどの出来事を耳にしていないか、不安だけが募る。
しかしそんなたまきをよそに、二人はすぐに笑顔を見せるのだった。
三人でお茶を飲みながら、他愛のない話をした。
先ほどまでの恐怖が、段々と和らいでいくような心持ちさえした。
神林の穏やかな表情や口調からは、あの嫌悪感は生まれない。

もう、大丈夫だと、思った。

暫くして皆が医局に帰ってきても、それは変わらない。
大丈夫だ・・・
このまま何事もなかったように過ごせる。

ほっと胸の撫で下ろそうとした時、何気に矢部がテレビを付けた。

画面に映し出されたのはドラマのワンシーンだろう。
だがそれはたまきにとっては酷なシーンだった
たまきはそれから逃げるように医局を飛び出した。

「香坂先生?!」

誰かが呼ぶ声がしたが、振り払うように駆け出す。
気がつくと二階の廊下から、ICUを見下ろしていた。

私は、どうしてしまったんだろう。
泣きたくなって、うな垂れた。

そこへ、ICUから階段を駆けあがってくる山城の姿が目に入った。

「香坂先生、ここにいらしたんですか。」

山城は安心したように笑い、胸を撫で下ろした。
医局から逃げてきた手前、なにも言い出せず、曖昧な返事をした。

「あの、香坂先生。少し、お話ししませんか?」

にこっと笑う彼女に、先ほどの気持ちが蘇る。

山城さんになら
そう思った。

たまきは山城に連れられるように、説明室へと向かった。
暫くは長い沈黙が続いた。

「6日前・・・」

ぽつりと呟いた。
だけどそれ以上続けようにも声にならなくて、口元に震える手をあてた。

「ごめ・・・」

短く言ってたまきは説明室を飛び出した。
今まで殺してした感情が爆発して、コントロールがきかなくなったのだ。

「香坂!」

たまたま怯えるように説明室を逃げ出す姿を見た進藤は後を追い掛けた。
けれど、その後ろから自分を追ってくる足音がたまきの恐怖心を余計に煽った。

「やぁ…!」

こないで。
追い掛けて来ないで!
嫌だ。
追い掛けてくるのは進藤ではなくあの男に見えていた。
必死に走って逃げても追い付かれて。

また、あんな目に合わされるのは嫌だ・・・!

その時、目に入ってきたメスを取ってあの男に向かって切り付けた。
だけどそこにいるのはもちろん、あの男ではなく進藤で。

「っ…」

たまきは目に涙を溜めてメスを握りしめたまま、肩で呼吸する。

「香坂先生?!」

駆け付けたスタッフはその光景に驚いた。

「あ…」

我に返ると現実とのギャップに耐えられなかったのか
細い身体は床に崩れ落ちていった。

頭痛がする。
体が熱い。
熱があるのかな。

それにしても、安らぎが近くにある気がした。
何だろう。
重い瞼をあけると、彼女の優しい瞳が目に入った。

さっき振り切ってきた、山城の優しい眼差しは
まだ自分を観ていてくれたのだ。
たまきは目に涙を溜め、大きく息を吐いた。

「目、覚まされました?」

たまきが頷くと、山城は握っていたたまきの手を、ぎゅっと握りしめた。

ごめんなさい、とたまきの口が動き
涙がぽろぽろと零れてきた。

山城は首を横に振り、たまきの手を両手で包む。

「ゆっくりで、良いですから。」

その言葉にまたゆっくりと頷いた。
だけどあの事を口に出せればきっともう楽になると
そう思って。
無理に唇を開いた。

「家に、帰る途中・・・・私・・・」

また震えが襲ってきた。
あの時の嫌悪感がはっきりと蘇りそうだった。

「香坂先生。」

優しい声でもびくつきながらもまた山城の方に目をやった。

「私が言った事、聞いてました?」

「・・・・・」

「ゆっくりでいいですから。ね?焦りは禁物です。」

山城の優しい言葉と笑顔に落ち着きを取り戻し
そして今度はありがとうと口を動かせた。

「いいえ。あ、熱があったので暫く仕事、休んで下さいね」

言いながら、山城はたまきの手を握りしめる。
暫くして、たまきが眠りにつくまでそうしていた。
柔らかな寝顔を観ながら、静かな怒りが込み上げる。

たまきの腕に痕を残す、赤い痣。
過敏な反応と酷い怯えようで、大体の想像はつく。
わざわざ彼女の口から聞かなくても。

それでも、聞かなくてはいけないような気もする。
細い手を握りしめ、祈るように目を閉じる。
何をしてあげられるんだろう。
どうしたらいいんだろう。
私にはこうして手を握ってあげる事しか出来ないんだろぅか。
だけど絶対に目を背けないと、受け止めてあげるのだと固く
あの時から決心している。

ゆっくりと瞼を開いて手を解いた。
個室から出ると進藤が立っていた。

「香坂の様子はどうだ?」

「熱のせいもあって今やっと眠りました。」

「そうか」

「進藤先生、傷大丈夫ですか?」

「あぁ、かすり傷だ」

たまきに切り付けられた傷はすでに手当てされていた。

「そうですか」

「香坂を頼む」

「え?」

そう言って切なげに笑い、去って行った。
進藤もたまきを苦しめている原因が何なのか、想像がついているのだろう。

だから女の私に任せた。
男というだけで今の香坂先生には酷だから。
何も出来ない苦しみを、進藤先生も受けているんだ
だから私が、頑張らないといけない。

山城はさっき握った、たまきの細い手を思いだし、ぎゅっと手を握る。

「紗江子。」

はっと顔をあげると、城島が立っていた。

「香坂先生、どう?」

「今は、眠ってる。」

「そっか…。」

「ねぇ俊、もしもよ。」

「うん?」

「もしも、私が…香坂先生みたいに深く傷ついたら…」

「許さないよ。傷つけたやつを。」

「…進藤先生、私達より苦しんでる。香坂先生に、何もしてあげられないって。」

「あぁ。解るよ、進藤先生の気持ち。」

山城も頷き、たまきの眠る方に視線を向ける。
ため息は深くなるばかりだった。
それからたまきは医者ではなく患者となった。

数日で熱は下がったものの、何故か夕方に原因不明な発作を起こすようになり
恐らく精神的なところから来るものでたまきは自らを弱らせていた。

それでも山城が来ると、たまきは笑顔で出迎えた。
山城は空き時間、必ずと言ってもいい程たまきのベッドへ足を運んでいた。
その度、安心したような顔を向けてくれる。

だけどその反面、話せない自分の弱さに苛立っているようにも見えた。

「山城さん。」

ある日、いつものようにたまきが山城を呼び止めた。
たまきはICUの個室から出ようとする山城を呼び止め
彼女が振り返ると礼を言うのだ。

今日も山城が振り返ると、たまきはいつもよりもどこか柔らかに笑った。

顔色も良い。

「外に出たいんだけど…。屋上でも良いの。駄目かしら?」

「外、ですか。」

正直言うと、彼女を外に出すのはあまり賛成はできなかった。
しかし、何時までも此処にいるわけにもいかない気がした。
発作のようなものは起こすものの、腕の痣は日に日に薄れていっている。

「じゃあ主治医のドクターに聞いてみます。」

「主治医のドクターって進藤先生よね?」

「えぇ…そうですけど…。」

「絶対だめって言われそう。山城さん頑張って説得して。」

言いながらも笑顔を作る。
そんなたまきの表情に安心したように山城も微笑んだ。

「解りました。頑張ります。また、来ますね。」

「山城さん。」

「はい?」

「ありがとう。」

「それはいい返事が貰えてから言って下さい」

プレッシャーがかかりますから、と笑いながら言った。
その言葉にたまきもクスクスと笑ってそうね、と同意する。
山城は早速、進藤の元へ向かった。

「進藤先生。」

「何だ?」

「香坂先生を外に連れ出してもよろしいでしょう?」

「…ダメだ」

その返事を聞いて山城はクスクスと笑った。
進藤はその姿を見て首を傾げる。

「すみません、香坂先生の予想してた通りだな、と」

「香坂本人の希望なのか?」

「はい、屋上でもいいと仰っていました」

「…発作が起きる時間帯の前に戻る。これが条件だ」

「解りました。伝えます。」

承諾を貰え、軽い足取りで香坂の元へ向かった。
たまきにそのことを伝えると、彼女は驚くも、素直に喜んだ。
しかし今日行くのでは、もうあまり時間がない。
空が暗くなり始め、もうすぐあの嫌いな時間がやってくる。

山城は明日にその約束を取り付け、たまきの手を握り、他愛のない話を始める。
やはり楽しみがあると、気持ちも変わるのだろう。

たまきの発作は、いつもよりも酷くは出なかった。
山城もたまきを励ましながら、その発作を抑えようと努めた。

回復の兆しは、見えている。
もうすぐ、その日がくる。
山城には、そう思えてならなかった。

いつもは発作を起こした後はぐったりとしてそのまま眠りにつくのに
今日は違って、また明日はどうするかと話を始めた。

遠足に行く前の子どもみたいに。

正直何がそんなに楽しみなのか、山城には解らないが
きっと香坂先生には何か思いがあるのだろう、と。

どこか意を決した目をしているのでそれは解る。
願うはその試みが克服に繋がる事。
不安がないといえば嘘になる。
下手すれば傷口に塩を塗り込む事になる恐れだってある。
だけど信じるしかなかった。

おそらく進藤も同じ気持ちなのだろう。

たまきにとっては待ち侘びた次の日
車椅子に乗せられて屋上まで連れてきてもらった。

「風が気持ちいい」

「そうですね」

暫く風と戯れて久しぶりの外を満喫していたたまきが急に口を開いた。

「もぅ1週間くらい前になるのかしら」

「え?」

「山城さんに話そうとしてから」

「そうですね」

「話の続き、聞いてもらってもいい?」

「私でよければ、」

「・・・・・レイプ、されたの。私」

「あいつ・・・私の名前、知ってた・・・」

「それから・・・またねって言った…のよ。あの道を通るとまた…
襲われるんじゃないかって・・・不安で、堪らない…それから…」

「今日はもういいです!休みましょう?」

浅く肩で呼吸して震えながらも必死に唇を開くたまきが痛々しくて
思わず制止の声を入れた。

「大丈夫…最後まで言わせて?」

「…はい」

「あいつ…ね、私の中に・・・何度も出したの・・・それが1番、心配…なの・・・
もしもって考えると…おぞましくて・・・」


そこまで言うとたまきは自分自身の身体を強く抱きしめた。
震えは更に酷くなり、呼吸もどんどんと浅いものとなっていく。

山城は発作の原因がはっきりと解ったような気がした。
組み敷かれた時の恐怖、からではなく
これから起こり得るかもしれない事への恐怖。
そのどうしようもない不安感が、発作という形でSOSを求めていたのだろう・・・

「香坂先生・・・」

大丈夫です、なんて無責任な事は言えない。
なんと言葉を掛けていいか解らず
山城は自分自身を抱くたまきの手をとって握り締めた。

「そんな目に合ったら誰だってそう思います、でも・・・香坂先生には私達がついてます」

そう言われ、たまきは怯えを宿した瞳のまま。
顔をあげた。
その拍子に一筋の涙が頬を伝う。
だけど、それは自分だけではなかった。
山城の頬も涙で濡れていた。

そんな様子にたまきは居た堪れない気持ちになった。
頭の片隅に残る冷静な思考が自分の弱さを責める。

何処までも山城さんに甘えていた自分。
もっと、考えるべきだった。
こんな話、聞く方にだって覚悟がいると言う事に・・・

たまきは必死に自分を落ち着かせ、口を開いた。

「最後まで、聞いてくれてありがとう・・・でも、山城さんにも辛い思いさせてしまった
事、なんて言ったらいいか・・・・・・ごめんなさい・・・。」

すると山城は静かに首を振った。

「いいえ。私が決めていた事ですから・・・香坂先生の話を聞くんだって。」

いつものあの穏やかな表情を浮かべ、言った。
その顔を見てたまきも穏やかに笑うと
もう1度ありがとう、と呟いた。

「いいえ。それよりもう、戻りましょう?進藤先生が心配で、ほら・・・」

山城が目配せした方をみると進藤が立っていた。
おそらく今の話も聞いていたのだろう・・・。
でも、もう知られたのだと解ると、少し楽になった気がした。

もう、進藤の眼差しにも恐怖は感じない。
たまきはゆっくりと長い溜め息をつくと自分で車椅子を推し進めた。

「進藤先生・・・ごめんなさい。その手・・・」


進藤の前で止まると、包帯の巻かれた手を見つめ
罪悪感に満ちた目を向けて謝った。

「いや、こんなのお前の心の傷に比べたら何ともない。
お前が悪いんじゃないから気にするな」

努めて優しく笑い、言うとたまきの後ろへと回り、車椅子を押した。

「戻ろう。皆もきっと心配してる」

「ええ・・・」

屋上を後にしてICUへ戻ると皆は進藤の方へと目を向けた。
その視線に返すように進藤は小さく笑顔を作り、頷くと
皆も安心したような顔を見せてくれた。

「話せたんですね、すっきりしたって顔してますよ」

途中で会った、城島にもそう声を掛けられ、たまきも笑顔で返す。

「ええ、山城さんにはお世話になったわ。・・・後は自分との戦いだと思ってる・・・」

久しぶりに見たたまきの笑顔
それでもいつもの自信に満ちた表情はまだそこにはなくて
笑顔を向けられている筈なのに、その姿は儚げで、城島は息を呑んだ。
今にも壊れてしまいそうな淡く、脆い・・・
そんな風に映り、まだ回復への1歩を踏み出したに過ぎないんだと、実感した

それは勿論、その場にいた進藤も山城も感じていた。
きっとまだまだ道のりは長いだろう
妊娠している、という最悪の事態もあるかもしれない。
それでも、どんな事が起こり得ようとも、絶対に立ち直らせたいと思う。

大切な存在だから・・・
闇を照らす月のように、道標を作っていたい。
本当に心から笑える、その日まで・・・






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