水面の月
進藤一生×香坂たまき


「香坂」

呼び止められて彼女はカルテを整理していた手を止め、顔を上げた。
ほの暗いせいだろうか、どんな表情をしているのか見えにくかったこともあり声色で確認することしか出来ない進藤の声に耳を傾け、何、とだけ返事を返す。
もともとそこまで会話が多い二人ではない。
ある一定のラインを保ち敷居をまたぐことなく、踏み越えることなく、触れることも愛を交わすことも抱き合うこともしない。
お互いをお互いが必要とし、支えあう。それだけの関係のつもりでいた。
少なからず、彼女――香坂たまきはどこか惹かれる要素を持ち合わせている少し不安定なこの男に持つ淡い感情を押し殺し、対等でありたいと常日頃から願っている。

「今夜、空いてるか」
「今夜?また唐突ね」

進藤と香坂が食事をするのは初めてのことではない。彼女自身が誘うこともあったし、彼が誘うこともあった。
だから、その日も彼女にとっては何の意味も持たない「唯の飲み」だと思って時刻を確認し、手帳の中をチェックし明日の予定を確認し特に問題がなかったのでOKを出した。
……それだけの、ことだったはずなのだが。


「デートですか?香坂先生」
「違うわよ、呑み」

茶化してくる小田川をあっさりとあしらって第一外科へと移動することになった患者に付き添い戻っていく姿を何ともいえない顔をして見つめている進藤の表情に、彼女は一切気づかなかった。
いつぞやにすっぽかされたレストランに先に仕事を終えたたまきは入り、進藤を待つ間時計をじっと見つめながら考え事をし続ける。
――あの時は、すっぽかされて怒るということよりも先に、呆れたものだ。
彼はどこまでもお人よしで、ついでに言えば御節介だ。そんな人間だとは思っていなかったから意外であり、同時に少しうれしかったのも事実。
知らぬ間に気持ちが風船のように膨れ上がり、ふわふわと浮遊している様だ。


「……馬鹿馬鹿しい」
「何がだ?」

ウエイターに案内されてすぐ後ろまで来ていた進藤の声に、たまきはさほど驚くこともなく、何でもないわ、と曖昧に笑った。
ぴったり九十度の向かいの席に座ると直ぐに赤ワインが運ばれてくる。彼はそういえば赤ワイン派のようだ。

「ロゼが私は好きなんだけどね」
「ロゼ?……意外だな」
「あら、どういう意味?」
「やせの大食いだというからには赤派だと思ってたんでな」

以前ネタに振られたそのことを今も尚覚えているあたり、彼の記憶力は相当良い方なのだろう。
たまきは何も言わずウエイターがグラスになみなみと赤ワインを注ぎ去っていくのを見計らってグラスを手に取った。
彼と食事に来るのは恐らく長いシカゴでの研究を終えて帰ってきてから初めての事だ。
夢に向かって満身創痍になりながらも努力を積み重ねた己の結果。自分の努力が認められたからだと礼を言ったところで彼はあっさりと切り捨てる。
――俺は何もしてない、と。

「貴方って、ずいぶんとお人よしでお節介よね」
「そうか?」
「そうよ。でも、あんまり誰にでもいい顔をするのは賛成できないわね、奥さん泣いちゃうわよ?」

からかうように言い放って、ワイングラスに入った赤い液体を味わって飲み込んでいく。
『進藤早紀』という女性がどんな女性だったのかはたまき自身まったくもって知らない。せいぜい彼の言葉の節々から見え隠れする彼女への愛情で図り知ることぐらいしか出来ない。
純粋な好奇心からどんな人だったのだろう、とも予想したことはあるが、予想は所詮予想。イメージに過ぎない。
視線を送れば進藤は矢張り仏頂面でワインに口をつけているばかりだ。

「奥さん、どんな人だった?」
「……なぜだ?」
「そうねぇ、知的好奇心、とでも言えばいい?」

どこが知的だ。
切り返してきた進藤に、たまきはクスクスと口元を緩ませて笑い返してみせる。
――矢張り、これぐらいの距離がちょうどいい。だから踏み越えない。踏み越えられるわけがないのだ。
この生ぬるく居心地のいい環境に慣れすぎて、踏み出すこと等どうやったって出来ないのだから。
暫く何かを考えるかのようにワイングラスの中に入っている赤い液体を見つめながら、彼はどこか遠くを見つめていた。
たまきはそれをじっと待ち、運ばれてくる料理から手を離し決して自分を見ていない彼の瞳を食い入るように見据える。ぶつかりそうで、まったくぶつからない視線に煮え切らない感情。

「……香坂」
「何かしら?」
「――……妻……早紀は、気丈な人間だった」

ぽつり、と思い出すように言った男に、銀のフォークを彼女は手がかすかに震えて落としてしまう。思わず小さな声を上げたが、ウエイターが静かにやってきて別のフォークに取り替えてくれる。

「フルシェット・ア・ポワッソン、ね」
「……態々フランス語で言う必要あったか?」
「あら、気持ちの問題よ。そんなことより奥さんの話、続けて」

どこで、どんな風に出会い、どんな恋愛を経て、結ばれたのか。静かに彼女は耳を傾けていた。
普段己の身辺のことなど語らない進藤も緩やかに、ぽつりぽつりとわずかながらではあるが細君の話を続ける。
どんなことが好きだったのか、どんな話しをしたのか。どうして、彼女が死んだのか。瞳を閉じれば脳裏に浮かぶ柔らかい表情に切なく、それでいてどこか優しい気持ちになった。
生きていれば、今頃子供が居て平和で平凡な生活をしていたのだろう。
……生きてさえ居れば、の話であり、それは所詮「IF」に過ぎないことを進藤は理解している。ぐいとワインを飲み干すと、たまきは静かに笑って彼の言葉を噛み砕くようにゆっくりと話す。

「私は『IF』の話しは好きよ?」
「現実主義のお前が?」
「医者だって夢ぐらい見るわよ。それに進藤先生私のこと何だと思ってるのかしら?冷血女とでも?」

からかうつもりで軽く言ったつもりだった。
冗談だと直ぐに切り返し、何でもないと話しを変える丁度いいタイミングだとたまきは思っていたからこそその言葉が飛び出した、筈なのに。
妙に神妙な顔をして、彼はまっすぐに彼女を見据えた。
何ともいえない、イエスともノーとも言うことも出来ずかといって意見を述べられるような表情とも決していえない表情。
見つめていたら飲み込まれそうなほどの、深い悲しみと深い痛みを持った目。

「進藤先生……?」
「香坂」

さえぎるように彼は彼女を見つめ、彼女を目で諭し、何かを伝えようとアイ・コンタクトを続ける。その感情は熱意ともとれ、甘くもあり切なくもある。

「……逃げるのはやめろ」
「誰が、逃げてるのよ」

静かに見据える瞳に、怖気づきそうになるけれど、それを必死に奮い立たせて瞳の奥を見据え返す。
睨み合うといっても過言ではないくらいの無言の攻防が暫く続き、漸くたまきは観念したかのように溜息を一つだけ零した。

「――逃げてるのは、貴方もでしょ?」
「…………」
「私は無理に追わないわ。性分じゃないもの。……それに、こういう関係も私は嫌いじゃないし。……貴方が私をどう思ってるのか、知りたいようで知りたくないわ」

男と女。XXとXYの記号で分けられた、生命の神秘。何億年も前に先祖は生まれ、それが徐々に進化して今こうして生きていること自体が神秘なのだ。
理系の人間であるたまきや進藤にとってこれほど原始的でこれほど未知なものもない。

「私はね、進藤先生」

――貴方と一緒に仕事が出来てうれしいの。
緩やかに彼女は笑った。そのりんとした瞳は進藤一生をまっすぐに弓を引き絞り狙いを定め射抜いたような輝きを持っていて、彼は彼女から目をそらせない。
彼女の夢。彼女の目標。彼女の背中を、彼は何度も見てきた。そうした中で芽生えた淡く苦く胸を打つ悲哀と歓喜の入り混じったその感情は後ろめたさで覆われて叫びたい衝動に駆られたくもなった。
けれど、進藤という男は「大人」であるが所以にその対処法を知っていて、理解していて、表に出すことがない。ポーカーフェイスというやつだ。
本当は引き止めることも出来た。けれどそれをしないのは彼が「大人」だからだ。割り切れるから。それを人は器用貧乏だとも言うのだけれど、彼はそれで構わなかった。
巣立っていく鳥のように自由であることこそが“彼女らしさ”であるとどこかで分かっていたのかもしれない。
己の細君と、香坂たまきは似ても似つかない性格をしているし外見もまったくもって似ていない。早紀は彼にとって癒しであり、暖かい場所であった。例えるならば日のあたる場所。
対して香坂たまきという女性はプライド高く、インテリで生真面目。進藤に対しても容赦のない反論を浴びせ、文句も言う。決して暖かい場所や癒しではない。例えるなら、月明かりのような人間。
太陽と月。まるで逆だというのに、どこか気になるもので――思えば彼女が海に落ちたときに冬の海の中でなぜ自分は飛び込んだのか。ふと進藤はそんな疑問にぶち当たる。

――答えなんてものは、実にありふれた、実にありきたりな、どこかのラブソングのような答えだということを、彼は知っている上で、尚も自問自答を繰り返す。
答えを、気づかぬ振りをして。何度も、何度も。

「進藤先生?」
「何だ?」
「……呆れた、自分がどんな顔してるか分かってる?すごい気難しい顔よ、今」

そんな顔するのは病院だけにしてほしいものね。呆れて笑った彼女に目を見張れば、くすくすと笑い声が聞こえてくる。対等で、何度も彼女の背中を見てきた彼にとっては意外そのものだ。
強がってばかりで、本当は傷つきやすい女。仕事に誇りを持ち、前を見続ける女。
……助けたい、とココロから想い、手を差し伸べた。同情ではなく、哀れみで。同じ立場に立ち、支えるという意味での哀れみを彼は彼女に向けた。
そして、彼女は恐怖に打ち勝ち医師として更なる飛躍を続けている。
強い。それでいて、弱い不安定な彼女を見て、抱きしめたいと思うのは男の庇護欲からなのか、どうなのか。……それは今でも進藤には分からない。
けれど、後ろばかり振り向いてはいけないということだけは分かる。亡き妻は、何といっただろうか。笑うだろうか。呆れるだろうか。怒るだろうか。
様々なことを考えて――最後に行き着いた答えは、いつもと同じように「しょうがない人ね」と笑って背中を押してくれる、という答えだった。


夕食を終えて、何気なく二人並んで歩いているといつぞやと同じ場所にたどり着いた。
……ここで、たまきはシカゴに行くことを決めた、ある種思い出の場所に等しい場所。

「……もう六年、かしら?」
「そんなに昔か」
「六年なんてあっていう間ね」

海を見つめながら溜息をつくたまきの顔を彼は見つめていたが、彼女は潮風に髪の毛が弄ばれるのを抑えるのが精一杯で、ほんの少し切なそうに笑って進藤に声を掛けた。
どうして、誘ってくれたの、と。

「今に始まったことじゃないけれど、貴方はどうしていつも私を食事に誘ってくれるのかしら?」
「……さぁな」
「またそれ?ずるい人」

いつだって、彼ははぐらかす言葉を言う。引き止めてくれる?と尋ねたときも、マウストゥマウスをした相手を尋ねたときも。……意地悪な男だ。
けれど、そんな男のそういう性格に惚れたのは恐らく間違いなく自分であるということも理解している。

「…進藤先生?」
「何だ?」
「……いいえ、何でもないわ」

この一定関係を崩すような言葉を、今一瞬たまきは頭の中によぎらせてしまった。唇が何を紡ごうとしたのか自身で理解できず、唇を押さえて動揺を隠せずに目を伏せる。
どうして。なぜ。ぐるぐると旋回する疑念に答えはない。
言えば崩れる関係であることは目に見ている。いや、変わらないが確かに変化してしまうだろう。医師としては対等でも、そうじゃない部分で対等でなくなる。
彼は義理堅い、真面目で頑固な男だ。そんな人が気を使わないわけがない。ばかばかしい。分かっていることじゃないか。何を言おうとしているんだ。
内心自身を罵って、たまきは重々しい溜息を一つ、零す。
――そんな彼女を見て、彼はゆったりと彼女に一歩二歩と近づいていき、やがて向かい合わせになって立ち止まった。

「香坂」
「……何かしら」

視線を上げれば、目と目がかち合う。ほんの少し、触れるばかりの口付けは煙草のほろ苦い味がした。直ぐに唇は離れたけれど、彼の瞳はまっすぐに彼女を捕らえていた。
逃げることなど、出来ない。逃がさない、狩人の瞳をして。


「――香坂」
「……」
「……泣きそうな顔だな」
「……誰かさんの、せいね」
「そうだな」


お互いに、お互いの関係を言葉で表すことは出来ない。
恋人ではない。仲間・友人・家族・知人……それらどれも当てはまらないこの平行線なようで交叉している関係は、ほろ苦いコーヒーのようだ。
視線がぶつかり合うと、彼女は矢張り泣きそうな顔で「優しいのは、奥さんを泣かせることにつながるわよ」と震える声で呟いた。


「早紀は泣かない」
「……どうして?」
「早紀は、死んだからだ」

心の中に居ても、彼女はもう泣かない。彼女は既に天に召され、この世には存在していないから、泣くことはない。
泣いたとしたら、それは己の中に居る自分が持つ早紀のイメージが泣くだけだ。
けれど、進藤一生が選んだ最愛の妻は泣かないだろう。彼が抱く罪悪感からその幻覚を見せているだけで――彼女は、何時だって己の、進藤一生の幸せを願っているはずだ。
命の炎が燃え尽きるまで、そんなことを細い声で言っていた女だ。……だから、彼は足を止めることはしない。
助けるようで、ずっと助けられてきた今なおも生き続けている不安定な女性のために。

たまきは彼の言葉に動揺を隠せず、けれども至極落ち着いて、それでも生きているわとさほど動揺を表に出さずにして言う。
右手をそっと、進藤の胸に当てて、涼やかに言う。


「あなたの、心の中に奥さんは生き続けている限り、奥さんは死なない」
「……香坂」
「貴方も、忘れることなんてないわ。忘れられるわけがないもの。……むしろ忘れたりなんかしたら、私が殴ってやるわよっ」

気の強い、シャム猫のように彼女はツンと澄まして言うから何だかおかしくて彼は噴出して笑った。彼女は釣られて緩やかに笑うと、自分の胸の前で腕を組んでふう、と深呼吸をしてみせた。

「……奥さんを忘れなくて良いわ。だから、貴方が持っている荷物を半分私に渡しなさい。……進藤先生は泣かな過ぎるのよ」

泣きたいときは泣けばいいじゃないの、人間なんだから。生理的なものはしょうがないじゃない。ストレス発散には泣くのが一番なのよ。
抱きしめるように背中をポンポン、と叩いて彼女は笑って言う。まるで医者の物言いなものだから、どこかおかしくて、それでいてどこか切ない。
腕を伸ばし、その細い体を抱きとめれば小さな悲鳴が上がる。

「……それは好きだという解釈をしていいのか?」
「……さぁ、どうかしらね」
「回りくどい奴だな」
「いつもはぐらかしてばかりの貴方ほどじゃないわ」

力強い声をして、たまきははっきりと言い張るものだから、思わず喉の奥で進藤も笑う。
…今、顔を見られるわけにはいかなかった。抱き寄せて、強く抱いて、零れ落ちた涙を引っ込ませようとするのだが彼女はいっそ声を上げて泣けばいいじゃない、なんて言い出す始末だ。
お断りだ、と一蹴すれば残念だと矢張り彼女は笑って――彼女はゆっくりと進藤の頬にキスを落とした。


「貴方が思ってるほど、貴方は強くないのよ。……って誰かさんの受け売りですけど」
「……香坂。……ありがとな」
「あら、愛の告白ぐらいしてくれないのかしら?進藤先生は」

にっこりと彼女は見惚れるほどに美しい笑顔を浮かべて、彼に尋ねた。……ぬるま湯に漬かっていたのはお互い様であるということは、既にお互い承知の上。
進藤は薄く笑うと、もう一度彼女を引き寄せて耳打ちするかのように淡く囁いた。

「俺の傍に居てくれ、香坂」
「……シカゴに行かない間なら、ね」

まったくをもってひねくれた意見ではあるが、笑っている彼女につられて、彼もまた笑った。
――淡く、海の上に浮かぶ黄色い満月が水面に映りユラユラと揺れた。


「シカゴに行くまで、なんだな」
「ずっと傍に居る、なんて約束はしないわ、私がそもそもそんなこと言うと思う?」


素っ気無く抱き寄せたままの体制で、彼女は言う。
……甘さとは無縁の容赦の無いナイフの如くはっきりとした物言いに彼女らしさを感じて思わず噴出せば、呆れたような声が帰って来る。

「お前らしいな」
「あら、光栄ね」

口は達者なほうなの。気の強さを示唆するかのような言い方に苦笑を零せば貴方は笑ってばかりね、と小さく笑い返された。
ずっと背負っていた荷物を半分明け渡したからなのだろうか。肩の力がすっと抜けて猫背だった状態から姿勢が自然とよくなった…ような気がする。
何時から惹かれていたのか。
そう問いかけられても恐らく進藤一生は返答することが出来ない。彼だけではない、香坂たまき自身も返答することが出来ない質問だ。
お互いを「同僚」としか表現することが出来ず、恋愛感情か親愛か友愛か敬愛かそれら様々な感情がミックスされた状態をなあなあに続けていた現状を打破をようやく出来たところだ。
……しかし、かといって即行で返答が出来るかと聞かれればノーだ。

「そもそも、貴方だって普段日本に居ないのに傍に居ろというほうが無理難題よね」
「そうだな」

沢山の人を救いたい。自分の力で出来ることがしたい。その結果道は別れてしまっているが志は同じだ。
時代が時代なら「戦友」と言ったほうが恐らくこの二人には似合っていたのかもしれない。
たまきは不敵に笑うと首を小さく傾げた。

「貴方はいつ、戻るの?」
「今のところは考えてない。……暫くは港北医大にいるつもりだ」
「そう」

何気の無い会話のキャッチボール。
普段から会話が多いかと聞かれれば口下手な進藤とわが道を行く香坂の二人である以上たいした結果など求められるわけがない。

「――お前は、何時ごろシカゴに研修に行くんだ」
「そうね、来年あたりかしら。研究チームのスタッフとしても、ERとしてもかなり優秀な方だから、私」

自信満々な言い方だが、それを裏付ける努力があることは理解している。
我侭、傲慢、尊大、様々に彼女は言われているが、確かなことは人の二倍三倍彼女が努力をする人間であり、それが認められている結果にすぎないということ。
……無論、その理解者には進藤一生も含まれている。

「向こうのERはどうだ?」
「こっちも相当だけど、向こうはもっと、かしら。……ドクターたちは皆凄いわよ、やっぱり」

ドクターカーター、ドクターグリーン、指折りをしながら彼女はシカゴに居る医師の名をあげた。
スタッドコールなんて日常茶飯事、ERは常にごった返し状態で心臓外科だろうが何だろうが引っ張り出され救命救急としての実績がある香坂を彼らが重宝しない理由等ない。
結果、研究漬けになっていた一方で救命活動にも借り出されるという何とも言いがたい日々を過ごしていた。

カーター、ロス、グリーン、ルイス……指折りをしながら彼女はシカゴに居る医師の名をあげた。
スタッドコールなんて日常茶飯事、ERは常にごった返し状態で心臓外科だろうが何だろうが引っ張り出され救命救急としての実績がある香坂を彼らが重宝しない理由等ない。
結果、研究漬けになっていた一方で救命活動にも借り出されるという何とも言いがたい日々を過ごしていた。

「……って、それはいいわ。それじゃあ暫くお互い港北医大にいるってことね。……それじゃあ、好都合だわ」

キラキラと幻想的に輝くライトを横目に、濃紺の星空を見上げればチカチカと一番星が輝いている。彼女はくるり、と軽やかにターンをすると真直ぐに彼を見つめた。
瞳と瞳が、本日何度目か分からぬ位にぶつかりあう。

「――逢いたいわ、貴方の奥さんに」
「…………早紀に?」

長い沈黙の後、彼は訝しげに眉間に皺を寄せた。
気持ちのやり場が無いのか視線を逸らす姿はどこか子供っぽく、たまきは小さく笑う。

「そうよ」
「……唐突だな」
「見てみたいの。……貴方のイメージじゃなくて、自分の目で」

どんな風に彼女が笑って、どんな風に彼女が彼を愛したのかなんてこと、たまきには分からないし過去を知ろうとすることなど無理に等しいことだ。
学問ではなく、人の気持ちになれば其れはなおさらのこと。記憶なんてものはとても曖昧で、改竄されることも多い。
……だからこそ、「今」を生きているたまきは彼女に会いたいのだ。墓前でも構わない。その目に焼き付けて、そして荷物を引っぺがすようにして無理矢理半分持つように決め込んだ男を支えたいと心から願う。
とんだ茶番で、とんだ笑い話ではあるが、彼女は至って真面目に物事を受け止めているつもりだ。
進藤一生が一生をかけて、愛し続けると決めた女だから。その女性と向き合いたいと思うのは自然のことだ。避けようなんて思わない。彼女はそういう性格だ。

「私は貴方に奥さんを忘れて私と一緒に歩けなんて一言も言わないしそんなこと強要するほど愚鈍な女じゃないわ」

100%嫉妬しないのかと聞かれれば嘘になる。しかし、かといって彼の命の一部をそぎ落とすことなど彼女には出来ない。
生活の一部で、彼の人生の一部だ。夫婦、そして家族である人を忘れろなんていうことなど神ですら言うことは出来ないに決まっている。

「貴方に初めて会ったときに、私が言った言葉を覚えてる?……一年、一緒に居られたのなら十分じゃない、って言葉」

あれ、撤回するわ。真顔で答えた彼女に、思わず気が抜けて進藤は目を丸くし彼女を見つめた。
視線を逸らし、たまきは浪々と朗読するように「もっと一緒に居たかったのならその思いも全部ぶつければいいわ」と言う。
模範的回答、正し若干強気すぎる気もするが、その言葉一つ一つを突きつけられ進藤は逸らしていたわけではないはずなのに、何かを感じた。
知らぬうちに視線を逸らしていたことを見透かされた様で、冷静に分析している彼女に舌を巻かずには居られない。そして、そういうところを容赦なく言うあたりもまた、香坂らしい。

「……そうか」
「そうよ。……進藤先生、貴方は一人じゃないんでしょう?」

不安な時、彼はいつでもたまきを引っ張りあげた。一人で隠しきろうとした時、彼はいつでも自分を見抜いてその瞳で語りかけ受け止めた。
その一つ一つにたまきは感謝している。言葉にはしないが、それは勿論彼にも伝わっていることだ。
けれど、それだけじゃ彼女の心は収まらない。

「香坂」
「無理して泣かない様にするなんて、バカのすることよ。……自分がどれだけ他人に思われてるか分かってない、バカのすること」

貴方は一人じゃないから、つらいなら泣けばいい。貴方は一人じゃないから、苦しいのなら言えばいい。それを全て受け止めて、支えられるから。
繰り返すように呟いた彼女に、再び湧き上がる感情に思わず進藤は視線をそむけた。こういうとき、彼女のズバズバと物言う性格は卑怯だ。
言葉の一つで、泣きたくなる。
もう一度、淡いキスを一つ送れば彼女は驚いて、そしてゆったりと笑う。何度か口付けを交わせば甘い声が時折漏れた。

「香坂」

ごつん、と額と額をあわせると何時もよりも近くて不思議と気持ちが高揚する。彼女はほんの少し困ったように眉根を寄せて、そして苦笑した。




「ずるい人ね、本当に貴方は。……帰りたくなくなるじゃない」




ぐいと服の裾を引っ張って、艶かしい瞳で彼に訴えてみれば瞼の上に小さな口付けで返される。
どういう意味を持っているのか、なんてことは分かりきっていることで、それでも聞いてみたくなるのは不思議なものだ。
いつまでも進展の無い、仲間意識、敬愛、愛情、恋情、切情、友愛――……それら全てを脱ぎ捨てた結果はXXとXYの関係。

「――帰るつもりだったのか?」
「……貴方の性格上帰してくれるものだと思ってたけど?」

ぶつかり合う視線と視線で会話を交わす。お互いの答えなんて、分かりきっているのに、繰り返し繰り返し、繰り返す。
彼の瞳は今にも涙が零れ落ちそうで。彼女の瞳はその気の強さが隠れて、それでも気丈に振舞おうとしている。お互いの感情を見透かすかのような瞳と瞳。
言葉など、そこには必要としていなかった。
どちらかとも無く口付けて、徐々に深いものへと変えていく。歯列をなぞり、舌を絡めとると強く引き寄せて身体を離れさせないようぴたりとくっつける。
甘く、ほろ苦い煙草のにおいに包まれて悲しみと喜びと切なさをグルグルとかき混ぜていく。

「随分と信頼されたものだな」
「ん……っ、しないわけ、ないでしょ?」
「香坂」

低く、今までに聞いたどの声よりも甘く、彼は彼女の名を呼ぶ。ぞくり、と背筋が粟立つ。立っているのもつらくて、彼にキスをねだるように手を回せば咽喉の奥で笑われた気がした。
……本当に、進藤一生という人は、卑怯だ。

「しんど……先生……」
「今なら帰れる。……どうする?」
「……分かってる、くせに」

――貴方って本当にずるい人。
そう零すように呟いて、厚い胸板に顔を埋めるとそれ以上彼女は何も言わなかった。無言を肯定と取ったのか彼は小さく笑って、車のロックを外して助手席に彼女を座らせると己も運転席に乗った。
何処へ向かうの。彼女の問いに彼は笑うばかりで何も言ってはくれない。
やがて、どこかのホテルにたどり着くと説明も漫ろにたまきの腕を引っ張り彼は歩いていく。チェックインの姿を何となく見て、何となく部屋の鍵を渡されると、彼は行くぞと淡々とした口調でまた、彼女を引っ張っていく。
見る限りではラブホテルではない。ビジネスホテルとも言いがたい。横浜にあるホテルの一角だ。
部屋に着くと鍵を閉められ後ろから抱きすくめられた。


首筋に髪の毛が当たり、少しくすぐったい。

「っん……」
「香坂」
「進藤、先生……」

いつかの光景を彼女は思い出した。大学生の犯したシージャック事件。
そのフラッシュバックに悩んだ時も彼は今と同じように後ろから抱きしめて大丈夫だという言葉を掛けてくれた。
肩をしっかり掴んで、何度も繰り返してくれた言葉。その一つ一つに、引っ張りあげられたのを今でも覚えている。

「――……進藤先生」

愛しているだとか、好きだとか、そんな言葉を軽々しくはいえない。その一言を言うだけで人は勇気を持たなければいけない。
こんなに想いが重たいものだということに今更ながらに気づかされて、どこか胸が痛い。
自分は自分だということなど、分かっているくせに何処かで「比較されるのではないか」という不安がちらついている。強がっているだけで、その実本当は彼の妻への劣等感があるのではないだろうか。
そんな自分に反吐が出そうなほど、嫌悪感を感じて彼女は目を閉じた。けれど、彼はたまきの両肩をあの時と同じように支えるように手にとって甘く、優しい声で言う。


「香坂、心配するな」

お前は、お前だ。自分の不安などまるでお見通しだと言わんばかりの言葉に、涙が零れた。苦言をはっきり呈するのは自分ではなく、彼のほうだ。
強がっている自分を抱きとめてくれる人。

「――お前も、荷物を半分渡していいんだ」
「っ……しんど……う先生……」
「大丈夫だ。……俺はつぶれない」

だから、大丈夫だ。淡い囁きに、身も心も蕩けそうなほど熱くなる。泣き崩れるように彼の胸にすがり付けば、子供をあやすように背中をさすられて、そしてまた甘いキスを繰り返す。
長い長いキスと、短いキス。緩急をつけて何度も何度も唇を重ねあい、そして流れに身を任せるようにたまきは力を抜いた。
心音がどくん、どくんと身体に響く。ここで、彼は生きている。ここで、自分は生きている。手を重ねあい、口付けを交わす。
窓の向こうに見える満月は真珠のようにどこかきらめいていた。


「余裕、か?」
「……どこ、がそう見え、るのよ……っ……」

声を上げ、爪を立て、身体をくねらせ、酸素を求めるように呼吸すれば舌を再び絡ませ合い、刺激を感じる。
どくん、どくんと気持ちが高揚していくのを肌で、心で、全てで感じ取っていた。彼の瞳は射抜くように見つめてくるから、それだけで視姦されている気持ちになる。
抱き寄せられて、甘い言葉を吐かれて、甘い吐息が自らも零れ落ちる。肌を擦り合わせて、抱き合って、何度も何度も口付け合う。

「ん、ぅ…ぁ……!しん……ど、せんせっ……!」

荒れる呼吸をどうにか整えようと酸素を精一杯吸ったところで、直ぐに息が切れてしまう。

「つらい、か?」

気遣うように頬を撫でられるので、少し悔しくて唇をむさぼるように腕を回し、自ら口付けを交わす。
少し驚いたような瞳を向けるので、内心少し優越感に浸った――が、そんなものは一瞬で形勢はすぐに逆転、高まる感情と開放感に人間特有の理性を忘却の彼方に置き去り彼女は彼に甘く強請る。
進藤はその大きな掌で彼女の身体を右往左往、自由自在に動き回っていたが身体の中心部にたどり着き弾くようにぐるりと動かしまわる。
ウィークポイントなど彼が知っているはずがないのに、的確に、迅速な動きに身体が付いていかない。
身体をぴたりと重ねあわせ、お互いが混ざり合う時には既に理性というものよりも悦楽、快楽を求めており普段使わない筋肉を動かし、彼女は彼を求め彼は彼女を求めた。

どのくらい時間が経ったのだろう。たまきが目を覚ました時には未だ空は満月が出ていた。
一度や二度というレベルではない回数で身体を重ね、身体中には赤い痕が白い肌にくっきりと残っている。身体中、手首にも太ももの裏にも、ありとあらゆる場所に、だ。

「……進藤先生」

そういえば、ずっと「進藤先生」の一点張りだったような気がする。彼もまた、自分のことを「香坂」と読んでいた。
呼びなれてしまったせいだろうか。彼の名前を呼ぶのは何処か気恥ずかしいし、当分は無理だ。無理をして呼ぶ必要も無いだろう。
今尚自分を引き寄せて眠る彼の瞼はしっかりと閉ざされており、長い睫毛には涙が少しだけ、ついていた。
どんな夢を見ているのだろう。
――せめて、良い夢を。

唇を瞼に寄せて彼女もまた瞳を閉じた。
淡く揺れる水に映った月と空に二人を挟み空に浮かぶ月とワルツを踊るようにゆらゆらと揺れ続けた。






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