after you go away
進藤一生×香坂たまき


横浜町田ICで高速を降り、国道16号線を八王子方面へと進む。
夕方のこの時間帯は交通量が多い。
乗り心地の良いイタリア産の黒いセダンは、性能をうまく発揮できずにいる。
高速を降りた途端にへたなドライバーが増えたのだ。
グラフに表すとガタガタと忙しく山を作る走り方。
脇道に入ると住宅が並んでいるせいかもしれない。
たまきは、失敗したかな、と思った。
平日だから空いているという考えは誤算だった。
明日は土曜日なのだ。たまきとは違い、休日が土日と2日間連続の人間も多い。
たまきも、水曜日に研究日という名の休日をもっているのだが。
こういう時は脇道まで混雑している。
ナビを使う気はない。あの音声はいちいち人を苛つかせる。
しかし走りづらさを除けば、目的地まで時間が掛かるのは少しだけ好都合だった。
腕時計をちらりと見ると、7時をまわったあたりだった。
デジタル表示ではない華奢な時計は、以前していたものと違う。
もちろんあの日とも。

あの日。
2年前、まだ第一外科には戻っていない頃、ちょうどこの時期に休暇がとれたたまきは帰国していた。
進藤とは帰国する度に会っていたが、あの日が最後だった。
伊勢原の大学病院の脳卒中救命救急センター、行きとは違う国道129号線、ドイツ産のスタイリッシュなMT車。
同じなのは目的地だけ。
行きのルートは逆、車はイタリア産のAT、しかもひとりだ。
むなしいのはわかっているはずなのに、どうしてもあの場所にこだわってしまう。
あの日を思い出すときにまず頭のなかに広がるのはあの風景だった。

カーステレオから流れる音楽がBlackstreetからMONICAにかわったとき、警察署がある交差点を右折すると、視界が限りなく白に近いピンク色に霞んだ。
この道路だった。
桜並木が長く続く広い道路。
建物の明かりと街頭に照らされた桜たち。
台地だからだろうか、あれほどの地震のあとでも大きな変化は認められない。
小さな花びらがフロントガラスをかすめて飛んでいく。
決して有名なわけでも、ゆっくりとこの薄桃色を眺められるわけでもないのに、この道路は国道よりも混雑している。
あの日も。
この桜の花びらが舞う混雑した道路で停車したとき、たまきの唇は進藤のそれに触れた。
一瞬の柔らかさだった。
シートベルトで動きにくい、ぎこちない一瞬の口付け。
触れる直前に進藤が体を傾けてくれたことから、拒まれていないことを悟った。
その直後の言葉まで覚えている。
「日本を発つんだ」
狭い車内のなかにやけに寂しく響いた。
その次の朝、進藤のベッドの片隅にあの腕時計を置いてきた。

Una persona non posso dimenticare
5年近く前に読んだ青い表紙の小説。
主人公とヒロインが別れたあとにそれぞれの人生を歩むが、無効と思われた約束―ヒロインの30歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモに二人で登る―をそれぞれが覚えていて、その場所で再会するという恋愛小説。
その中に見つけたイタリア語だ。
日本語で、忘れられない人。
たまきの中で進藤はそのイタリア語に値する人間になってしまっている。あの日の出来事と一緒になって。

帰りの16号線は行きと違って空いてた。
へたくそな走行をするドライバーも見当たらず、スムーズに自宅まで運転することができた。
カーステレオから流れるBobby Brownの歌声はどこか軽快に響いていた。たまきの胸中とは少し違って。
地下の駐車場では黒いセダンはどこか寂しくみえる。
ワイパーに1枚だけ挟まった小さな花びらが、それを際立てているようだった。
たまきはそのメーカー独特の赤を選ばなかったことを、毎回ここで後悔しているのだ。
ヒールの音がよく響く廊下を進むと、部屋の前によく知ったシルエットを認めた。

壁にもたれた少し丸まった背中に、がっしりとした肩、高い身長とバランスのとれた長い脚。
間違えるはずなどない。
忘れられない人。
思わず息を呑む。

「久しぶりだな」

低い声が廊下によく響く。
ずっとずっと聞きたくて仕方なかった声をたった今聞いたはずなのに、うまく頭のなかには響いてくれない。
ただただ驚き立ち尽くしているたまきに、進藤はゆっくりと近づく。

「これを返しにきたんだ」

ポケットから取り出したのは、見覚えのある時計だった。
華奢なたまきの手首には不似合いなデジタル式の時計。
受け取ろうとしたたまきの指先は、進藤の差し出した手にわずかに触れた。
一瞬の熱だったはずなのに、完全に冷えきってしまったたまきの手を、その熱がやわらかく包み込む。

「あ、あがっていく?」

さりげなく、だが少々ぎこちなくその熱を解くと、部屋の鍵を差し入れた。
返事の代わりに進藤の熱い視線を背中で感じながら。
左手とは違って熱を持って震えた右手は、鍵を回す方向を忘れてしまったようだった。

視界の端に、ソファーに座る進藤が見える。
大きく開放的な窓に対し向き合うように設置されたL字型のソファーに深く腰掛け、窓の外を眺めている。
どこか哀愁漂う横顔は、以前とあまり変わらない。
しかしそこから少しは読み取れるようになっていたはずの感情を、たまきは、今ではまるで読み取れなかった。
すぐに届いてしまうような距離に確かにいるのに、まるで画面でもみているような気分だ。
脳ではその存在を認識しているのに、空気は伝わってこない。
その静かな空気を乱すように、テーブルの上の携帯電話が震えた。
北村、と言ってこちらに差し出す手に触れることなく受け取った。
そんな勇気など、たまきにはなかったのだ。
つい先程の一瞬の熱が動きを助長した心臓は、おさまってはくれていなかったのだから。
ごめんなさい、と断りをいれ、その場を離れてから通話ボタンを押した。
ベランダの空気は冷たい。
春だというのに、夜の空気までは暖かくなってはくれていない。

「何かしら?」

たまきのことをファーストネームで呼ぶ男は、ずいぶんとくだらないことを話し続けた。
以前たまきが好きだといったワインの名前や、映画の話。
あげくの果てには今から会えないかだとかの自分勝手なことを、明らかに酔った声で。
ただの雑音だと思った。
しかし逃げたのだ。現実をはっきりと認識できる声と冷たい空気に。

「悪いんだけど」

今お客さまがいるの、と言い掛けたとき、後ろから暖かさに包まれた。
一瞬、すべてが止まった気がした。
耳元で何か言っている雑音も、ベランダを通り抜けていく冷たい風も、遠くから聞こえてくるクラクションの音も。

「ごめんなさい、切るわね」

ようやく放った言葉を確認すると、進藤はたまきの右手から携帯電話を取り上げ、ポケットにしまった。

押しつけられた背中に感じる窓ガラスは、外気にさらされていたせいか、痛いほどに冷たかった。
布越しにもわかるその温度とは対照的に、唇には熱を与えられる。
あの日とはまったく違う熱に、たまきは恐怖を感じたが、進藤は逃がそうとはしなかった。
いくら抗議の声をあげようとしても、引き離そうと胸部を押してみても、まったく動じなかった。
それどころか、その手を捕まれ窓に押しつけられてしまう。
何をしてもかなわないと思った。

「…んっ」

声が漏れるたびに、呼吸することすら許さないかのように深くなっていく。
足は震え、だんだんと侵食されていく。
閉じていた瞼に力を入れると、涙が頬を伝った。
それまでたまきの手を強くつかんでいた手が頬に触れると、その対照的な優しさにさらに涙が溢れてくる。
ようやく解放されるのと同時に崩れたたまきの身体を、進藤は優しく抱き留めた。
荒い呼吸を繰り返すたまきを宥めるように、何度も髪を梳く。
たまきはその激しさと優しさの間で混乱していた。
こんな進藤を、たまきは知らない。
もしかしたら、これが本来の姿なのかもしれない。
呼吸が戻ってくると、恐る恐る進藤を見上げる。
そこには、見たことのない熱を湛え、まっすぐにたまきを捉える瞳があった。
だんだんと近づいてくる熱から、もう逃げようとは思わなかった。
唇に感じた熱は、今度は優しいものだった。

ベッドの上に移動した後、たまきを襲ったのは激しさだった。
唇で、指で、いいようにされていた。
顔をそらせば戻され、どうにかあげた抗議の声などまるで聞こえないかのようだった。

「ね、え…っ」

何度目かの呼び掛けに、視線だけ一度向けると、再び愛撫に戻ってしまう。
中をかき回す指がある一点を軽く擦ると、たまき自身も驚くほど高い声があがる。

「熱いな」

胸元で感じる進藤の呼吸も、たまきの内部と同じくらいの熱を持っていた。

「あっ…、もう、…やめ…てっ」

下部から聞こえるあまりにもいやらしい音と自分自身の声に、たまきは耐えられなかった。
両腕で顔を覆うと、進藤はその腕を掴むが、たまきは退かそうとはしない。

「香坂」

耳元で囁く声はあまりにも優しすぎて、たまきの瞳からは涙が零れた。
その声に腕の力を緩めると、進藤はやさしくそれを退かした。

「わからないの」

消え入りそうな声でつぶやくたまきを、進藤はただ見つめていた。

「あなたが、何を考えているのか」

部屋の前で会ったときから今に到るまで、進藤は肝心なことは何も言ってはくれていなかった。
時計を返却するだけなら郵送で済むはずだし、会いに来てくれたなら普通の会話だってできたはずだ。
それなのに何も語ろうとはせずに、ただたまきを求めたのだ。
あの日はまだ意志疎通ができていたような気がする。
今回はあまりにも突然すぎるのだ。

「俺は、お前を縛り付けておくことはできない」

一緒にいれるわけじゃないからな、と言う声は寂しさを含んでいる。

「それでも、他の男には渡したくないんだ」

瞳は、声よりも寂しく感じられた。
焦りと、やるせなさと、不安が混じった結果だった。
いくら大切に思っていようが、常に隣にいることはできない。
支えてやることも、幸せを与えることも、思うようにはいかないのだ。
他にそれができる人間があらわれてもただ見送ることしかできないにもかかわらず、それを認めたくないという思いが進藤にはあった。
たまきはいたたまれない気持ちになった。
このまま攫っていってくれればいいのに。
仕事も日常も、すべて捨ててしまいたいとさえ思ってしまった。
ずっと求め続けてた男なのだ。
たまきがゆっくりと上体を起こすと、進藤も身体を移動させた。
ちょうど向き合う形で座り込む。
そしてゆっくりと、今日初めて、たまきから口付けた。

進藤のようにはいかないが、できるだけ考える暇を与えないように熱を与えていく。
進藤の指が髪に差し込まれると、進藤の口腔内を徐々に侵食していく。
どちらのものかわからない唾液が進藤の顎を伝った。
首筋に顔を埋め甘く噛むと、少し頭に力が加わる。
厚い胸板の突起部を、先程進藤がしたように舌で突きながら、下部に手を伸ばし形を確認すると、熱い呼吸が漏れたのがわかった。
どうしよう、とたまきは思った。
自分が求めているのと同じように、相手も求めてくれているのだ。
進藤はベランダのときと同じくらいの温度でたまきを見つめている。
最後に軽く突起を弾くと、進藤の肩に手を掛け、ゆっくりと内部に埋め込んでいった。

「あぁっ、」

自分で体重を掛けたのにもかかわらず、身体は反応してしまう。
呼吸を整えようと静止している間、進藤は優しく髪を撫でてくれていた。
意を決したように動くと、内部をいっぱいに広げているものが擦れ、身体が仰け反る。

「あっ、や…ぁっ」

進藤はたまきの胸を愛撫しながら、下から突き上げ始めた。
徐々にタイミングがあってくると、進藤も喉の奥の方でくぐもった声をあげる。
もう限界が近づきはじめたとき、強い力でたまきの動きは静止させられた。

「進藤先生…?」

熱い呼吸を繰り返している進藤に呼び掛けると、さらに力は強くなる。
手を伸ばし髪に触れたときだった。
視界が反転し、腕はベッドに縫い付けられた。
たまきが状態を認識した直後に、進藤は動きはじめた。

「やっ、しん、ど…っ、あぁっ」

それまでにない激しさに、たまきは自分でも驚くほどの反応を見せていた。
どこを触れられても身体は跳ね、腰は自然と動いてしまう。
進藤から呼ばれるたびに身体が溶けていくような感覚に陥る。
そんなたまきを、進藤もまた、ひたすら求めていた。
たまきは、それまでで一番、甘く熱を持って「たまき」と呼ばれるのを聞き、意識を手放した。

部屋に帰ると、そこはいつもと同じ空間でしかなかった。
例えば朝に2つ出したマグカップもいつもある場所に戻されていたし、もう1人の人間が読んでいた朝刊はきちんと畳まれていつものようにラックにしまわれていて、まるで違和感を感じないのだ。
昨晩2人の人間がここに存在したなんて甘い空気はどこにも残っていなかった。
あの体温も、甘い言葉たちも、すべて幻だったかのように。
人は年齢を重ねるうちに叶うことのない約束を数多く経験し、約束自体をしなくなる。
それは、何事も都合の良い期待はしてはいけないという自分への警告でもあると考えている。
ひとつため息を落とすと、冷凍室からベーグルをひとつ取出し、電子レンジに放り込んだ。
電子レンジがベーグルを解凍している間に、小分けに冷凍しておいたミネストローネを鍋で解凍するのだ。
電子レンジが音をたてたら、ベーグルをオーブントースターに移す。
この2品にコーヒー。
一人きりの夕食なんてこんなものだ。
女性が皆凝った料理をするなんてただの幻想にすぎない。
いつもの慣れた動作。何一つ変わらない日常。

この土曜の夜から月曜の朝まで、この空間で一人きりで過ごすことになっている。
キッチンカウンターのスツールに腰掛けコーヒーでベーグルを流し込みながら、たまきは持ち帰った仕事のことをぼんやりと考えていた。
しかし、一つの不安がよぎる。
マグを空にする前に、ソファーへと移動した。
バッグの中をいくら捜してもUSBメモリは見当たらない。
どうやら病院へと戻らなければならないようだ。
どうしようもない切なさに浸りながら仕事をするという馬鹿みたいなそれでいて大切な時間を、たまきは自分で短縮してしまった。
舌打ちしたいのを何度目かわからないため息に変えると、一つの“違い”に目を奪われる。
その一点に引き込まれる、という感覚だろうか。
一瞬というには少し長い時間だけ、思考は停止した。
ソファーの前の低い木製のテーブルの上の、ちょうど端の方。
何気なく、だが意図的に置かれた見覚えのある腕時計。
まず、一緒に置かれた封筒を手に取った。
出てきたのは布製の小さな袋と、二つに折り畳まれた紙。

『次に帰国するときまでに考えておいてくれ』

少し傾いた、几帳面な文字。
見慣れているのに始めてみたような字体に、指先が震えた。
小さな袋からは、銀色のシンプルなデザインの指輪が出てきた。

「…箱は?」

落ち着かせようと吐いた震えた声は間抜けそのものだった。
サイズは見た感じおそらく合っている。

「合わなかったらどうするのよ」

次に出てきた声はその前とは違い、苦笑に明るさがまざる。
あの青い表紙の小説は、再会後の限られた時間の中で2人は愛し合い、もとの生活に戻っていくヒロインを主人公が追い掛けるところでおわっている。再び始めるために。

「次って、いつまで待てばいいのかしら」

もう答えは出ていた。
小説とは違って、待つのだ。再び始めることを。
病院にいく車の中では、K-Ci&JoJoを聴こうと思った。
All The Things I Sould Have KnownだとかHow Could Youだとか切ないものではなくて、All My Lifeだとかの今まで避けてきたベタなものを。
BlackstreetのJoyもいいかもしれない。
帰りは少し遠回りして、どこかのカフェに寄ってカフェラテを飲もうとも思った。泡がふわふわしているものを。
笑ってしまうけれど、そんな気分だった。
昨日戻ってきた時計と同じ場所に、銀色の時計をしまい込む。
帰ってきたときにすぐに返せるように、探さなくてもいい場所に。
進藤の感覚がすぐれているのかサイズは合っているが、少し重くなった指には違和感がある。
軽い足取りで玄関を通り抜け、駐車場へとむかった。






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