矢部淳平×太田川奈津
![]() 「ねー矢部くーん、ひーまー」 デスクで突っ伏している太田川をジト目で見ながら、矢部は大きなため息をついた。 暇だというならば手伝ってくれればいいのに、彼女は毛頭そんな気はないらしい。 「お前なぁ…」 「速く終わらせちゃいなよ、研修医」 自分だって研修医のくせに。飛び出しかけた言葉は心の中で引っ込ませておいた。口先で勝てる相手じゃない。 マイペースな人間なのに口が達者であるなんて神様は卑怯な人間を作ったものである。妙に矢部はしみじみとしながら指導医に言われた薬をセットした。 「ねー矢部君」 「ああ?なんだよ」 「実家、京都じゃない私」 「そーですねー」 どこかのウキウキウォッチングな昼番組風に受け答える矢部をまるっとスルーして、彼女はいたって真面目に「でね」と付け加えた。 「……矢部君、総合病院の跡継ぎなるつもりない?」 「お前な、俺にお前の問題押しつけるなよ。だいたいなるっつったって養子にはなれないだろ」 真顔で言い放った矢部に太田川はちょっと泣きそうになった。そういえば、彼の元カノ曰くキスもハグも中々してくれなかったという話を耳にしたことがある。 疎いのか、知らない振りをしているのかは分からないが、それはひどく女泣かせな行為であることに変わりはしない。 「矢部君さぁ、鈍感とか『本当に私のこと好きか分かんないよ』が理由で別れるタイプでしょ」 その瞬間、彼はこれでもかと言わんばかりに硬直した。どうやら図星のようである。呆れて太田川はおつまみに食べていたチョコレートをそっと矢部に差し出した。 「んだよ、その目は…」 「いや、なーんか、可哀想になってきて…矢部君の彼女は大変だ」 「何でだよ」と文句を言う矢部をさらに無視して太田川ははー、とため息をこぼした。彼に聞いた自分が間違いだったということだろう。珍しい暇な時間を持て余してよけいなことを聞いた。 首を振って一粒五百円はするチョコレートを口に放り込んだ。 しばらく矢部は作業を黙々と続けていたが、はたっと何かに気づいたのか小さな声で何かを呟く。 それを太田川は聞き取れず「なにー?」と聞き返せば、振り返った矢部の妙に精悍な表情に思わずちょっとだけ見惚れた。 「お前が分かってりゃいーだろ、そんなもん」 ぼとっ。 チョコレートが無情にも落ちる音だけが部屋に響いた。 「どういう意味」と尋ねれば、矢部は真顔で「そーいう意味」と言い返してくる。その「そーいう」が分からないから聞いているというのに! チョコレートよりも何倍も甘い言葉を吐かれて太田川は唯呆然と矢部が細かに作業をしている背中を見続けることしかできなかった。 その言葉の真意が分からず淡い期待をした自分に慌てて首を振れば何やってんだよ、という笑った声が帰ってきた。 「…矢部君、卑怯だ」 はー、とこぼしたため息は誰かに聞かれることなく彼女の心の中で渦巻いて消えることはなかった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |