秋山深一×神崎直 ![]() 参考書の文字を見つめているうちに、それが意味を持たない記号の羅列のように見えてくる。 (集中しなきゃ…) そう思っているのに上手く頭が働かない。 「やる気が無いならもう教えないぞ」 こつんと頭を小突かれた。 「う…ごめんなさい」 秋山さんは頬杖を付いて私を見ている。 その表情は長い前髪のせいで分からない。 楽しい一日…のはずだった。 実際二時間前までは最高に幸せだったのに。 最近はあのゲームのせいで講義に集中することすら出来ていなかった。 そんな中で来週には試験だなんて…と落ち込んでいるところで、私には最高の家庭教師が居ることに気がついた。 「あの…今度試験があるんですけど…」 「ん?」 「勉強、見てもらえませんか?」 「お前、どれだけ俺を使う気だ」 「やっぱりダメ…ですか?」 「別に…授業料は高いぞ?」 口ではそう言ってても結局面倒見の良い彼は私の部屋まで来てくれた。 懐かしいな…そんな事を言いながら秋山さんは教科書をぱらぱらとめくっていて、私は隣で必死に問題を解く。 秋山さんの説明は解りやすかったし、公式が理解出来たときに「よし、上出来」と笑ってくれるのが嬉しくて仕方が無かった。 試験勉強を一旦中断して食事のために外に出た。 二人並んで歩く。 人通りの多い街中を秋山さんは私に合わせて少しゆっくり歩いてくれる。 「――…イチ!」 後ろから聞こえた、少し高めの女の人の声。 (誰かと待ち合わせなのかな?) 通り過ぎようとした時、秋山さんが足を止めて振り返る。 「シンイチ!久しぶり!!」 カツカツと軽快にヒールを鳴らせて私たちの方へ女の人が駆け寄ってきた。 ……シンイチ? (あ…シンイチ…深一って秋山さん!) 「久しぶりね」 その人は嬉しそうに秋山さんに笑いかけた。 雑誌のモデルさんみたいな大人の女性…。 (秋山さんと同い年くらいかな) くるくると巻かれた栗色の髪とピンヒールの似合う綺麗な人だった。 秋山さんの腕を手にとって楽しそうに笑っている。 何となく二人の間に入るのが申し訳無い様な気がして二歩、三歩と後退りしてしまった。 ふと顔を上げると私の方を彼女が見ていた。 ニコリ、と笑いかけられる。 (あれ…どうしてだろ。何だかヤな感じ) もやもやした感情を必死で否定してぺこりと頭を下げた。 まだ二人は話し込んでる。 秋山さんが笑ってて、私はすごく…落ち着かない。 (知らないから二人はどう見えるんだろう) 華やかに笑うその人を見ていたくなくて俯いた。 落とした視線の先には細いリボンのついたミュール。 可愛くて気に入っているはずのそれが妙に子供っぽく見えてため息が出た。 「今度メールするね」 「じゃあ」 ぼんやり耳に入ってしまった二人の会話。 「お待たせ」 (盗み聞きしてるみたい…) 罪悪感を感じていたところで秋山さんに背中を叩かれ、私は我に帰った。 「元同級生…」 あの人は?と聞こうとする前に先回りで答えが帰ってきた。 結局私はその後の食事の味すら覚えていなかった。 (こんなんじゃダメだ) もう一度参考書を読み直す。 (秋山さんの同級生って事はあの人もきっと頭がいいんだろうな・・・) それに引き換え、こんな問題でつまづいてる自分。 情けなさで頭が一杯になる。 だって、どう考えても私に勝ち目なんて無い。 そんな事を考えてるせいで試験勉強はちっともはかどらない。 こんなことなら誰から見ても恋人同士って感じで、腕を組んでいちゃいちゃしながら歩けばよかった。 (実際そんな事一回もしたこと無いけど…) はぁ…。 二つのため息が見事に重なった。 まったく同じタイミングでため息を吐いてしまい、思わず顔を上げると秋山さんと目が合った。 早く先に進めろ…という様に秋山さんはノートをとんとんと指で叩く。 (やっぱり…どうしても気になる…) あの人は誰? 答えなんてもう分かりきってる。聞きたくないけど聞かないのも怖い。 意を決して聞いてみることにする。 「さっきのあの人…は秋山さんの…」 自分でもおかしい位、私の声はうろたえてる。 「あの…えっと…」 「恋人…なんですか?」 秋山さんは一瞬何言ってるんだ…って呆れた顔をして吹き出した。 「あのさ…俺の恋人はお前だろ?」 「あっ…そうですよね」 「バカ」 「だって…」 「昔のな」 妙な心配すんな…秋山さんはそう言って私の髪をくしゃくしゃと撫でた。 (そんな事いわれても…やっぱり気になっちゃうよ) 秋山さんは私の方をちらりと見ると、読んでいた参考書をぱたんと閉じ「おいで」と手招きをした。 ぴたりと隣に座ると肩を抱き寄せられる。 「お前、思ってることが顔に出過ぎだぞ」 「そんなこと…ないですもん」 今秋山さんと私は一緒に居るのに、どうしてもあの女の人が頭に浮かんでしまう。 秋山さんは、私にすごく優しくしてくれてる。 意地悪なことを言っていても、身体に触れる仕草がすごく丁寧でそれがすごく嬉しくて。 だけどあの人にはどんな風に触れたんだろう。 もしかしたら秋山さんはまだあの人の事を好きなのかもしれない。 少なくともあの人は秋山さんとまた連絡を取りたがってた。 並んで立ってるとすごくお似合いのカップルみたいで。 あ、駄目だ。考えただけで目頭が熱くなる。 もし、もしあの人と秋山さんがまだお互い好きなら・・・。 あまり秋山さんを困らせたくない。 ちゃんとお別れを言おう。 ゲームで一緒になっても普通に笑えるように頑張らなきゃ。 もうこうやって髪を撫でてもらうことも、抱きしめてもらうことも無くなっちゃうんだ。 胸がズキズキ痛い。 私、こんなに秋山さんの事好きだったんだ。 今更自覚する。 どうしよう。 (秋山さんと別れるなんてイヤだ) でも秋山さんを困らせるのももっとイヤだ。 「お前、また余計な事考えてるだろ」 秋山さんのちょっと呆れた声で我に返った。 「お前は俺と別れたいのか?」 全力で首を振る。 「なんで俺が一方的に捨てられそうになってるんだよ」 部屋に戻ってから、やっとまともに秋山さんの顔を見れた。 あの人の事を考えたりしてる秋山さんを見るのが怖かった。 見上げた秋山さんはいつもと全く変わらなくって、ほっとし過ぎて泣きそうになる。 秋山さんは困ったように笑ってる。 その表情が好きでまた胸が痛んだ。 「でも…不安なんです」 「なんで?」 「あの人、すごく綺麗だったし、大人って感じだし」 私は一呼吸置いてから、勢いで言い切ってしまう。 「それに秋山さん…私にはキスしかしてくれないんですもん…」 「お前は…キス以外もしたいのか?」 思わず思いっきり頷く。 「私だって…腕組んだり、あーんってしたりしてみたいです」 「・・・ふぅん」 秋山さんはガックリと脱力して、ため息を一つ吐いた。 (やっぱり…秋山さんはそういうの好きじゃなさそう) 「馬鹿なこと言っちゃってごめんなさい」 「・・・別にいいけどな」 顎をを軽く掴まれる。 (あ…) キスに備えて目を閉じて首を傾ける。 「っ!」 「んー…」 傾けた首の角度が悪かったのかごつんと鼻がぶつかってしまった。 「ははっ…なに今の?」 からかう様な秋山さんの声。 「どうせキスさえ下手ですもん…」 (私はちっとも大人のオンナじゃないですから…) ぷいっとそっぽを向こうとしたけれど、顎をつかまれたままでは結局恨みがましく秋山さんを見つめることしか出来ない。 「拗ねるなって」 「キスの練習でもしてやろうか?」 いい終わるのと同時に、秋山さんの唇が私の唇に重ねられる。 「ん…」 ぷっと小さく秋山さんが吹き出した。 「何でそんなに身体がガチガチになるんだよ」 「あ…ごめんなさい」 「別にごめんなさいじゃ無くって」 秋山さんの膝の上に横抱きにされる。 「力抜いてな」 ぺろりと唇のラインを舌でなぞられる。 「少し、口開けて…」 もう一度秋山さんの唇が私のそれに重ねられる。 整った顔立ちはお人形のようにさえ見えるのに、その唇は温かくて柔らかいのが不思議な感じだった。 舌を口内に差し入れられる。 「ん…」 私の舌に秋山さんの舌がゆるゆると絡められる。 こんな風にキスをするのは初めてで、私の心臓は跳ね上がる。 秋山さんの舌は温かくて、少しざらざらしていた。 いつもの触れてるだけのキスと違って、秋山さんと直接体の中同士で繋がっているんだと思うとまたドキンと胸が鳴る。 息苦しくなる少し前に唇が離されて新鮮な酸素が流れ込む。 キスのせいなのか流れ込んだ空気さえ甘く感じる。 「苦しくなったら言えよ?」 また唇が重ねられる。 今度は私から差し出すように少し舌を出すと、舌先を唇で挟まれちろりと舐められる。 秋山さんの唇の裏側はつるりと滑らかでその感触にうっとりとする。 何度も何度もキスを繰り返す。 体勢を変えられて、秋山さんの脚を跨ぐ様にして抱き合っている。 頭の中がくらくらとしているのが解る。 飲んだ事は無いけれど、お酒に酔うってきっとこんな感じなんだろう。 普段ならきっとこんな風に秋山さんに抱きつくことなんて出来ない。 ちゅく、ちゅく…と舌を絡める度に聞こえる音が恥ずかしいのに、もっとこうしてキスをしていたくってますます頭がぼんやりする。 秋山さんは唇以外に耳や首すじにもたくさんキスをしてくれる。 濡れた唇の感触とざらりと舌で舐められる感触。 くすぐったさとぞくぞく皮膚の下を走る不思議な感覚。 「あ…」 耳たぶを咬まれてくすぐったくって声が洩れる。 「やっ…ぁ……」 (うわ…声がひっくり返っちゃって恥ずかしい…) 「ん…くすぐったいです…」 「そう?」 首元から温かい唇が離れる。 しっとり濡れたその箇所から、空気で熱が奪われひんやりと感じる。 「気持ち、良い?」 じっと目を見つめられる。 いつもは恥ずかしくて逸らしてしまうその視線も、不思議なくらい心地良い。 「…は、い」 また秋山さんの唇は私の唇に戻ってきて、さっきよりもゆっくり舌を絡められる。 下唇を甘咬みされて、舌を優しく吸われて、身体の力が抜けてしまう。 とくりと秋山さんの唾液が私の口内に伝わる。 甘い。 もっと欲しくなって秋山さんの唇をかんでねだる。 二人の唾液が混ざり合う音に私の感情が昂ぶる。 唇を離す時にそれは細い糸のように私たちの唇をつないで、部屋の明かりにきらりと光った。 それを恥ずかしいと思うより先に、また深いキスが再開される。 全ての動作が体中に甘く響く。 「…秋山さん…」 「…ん?」 「秋山さんも…気持ち良い…ですか?」 「………すごくね」 気が付けば私はかなりきつく秋山さんに抱きしめられていた。 少し息苦しいくらいだけれど、それがすごく気持ち良い。 トクトクと伝わってくる鼓動が私のものか秋山さんのものかも解らない。 (ずっとこうやって居られればいいのに…) 秋山さんの体温を感じてずっと繋がっていたい。 私の身体の中心はじんじんと痺れていて、このまま溶けてしまいそうだと思った。 ――トゥルルルル… 突然、携帯から響く電子音。 甘い雰囲気からいきなり現実に引き戻されて、言いようの無いバツの悪さを感じてしまう。 「まったく……間が悪いな」 秋山さんはため息をついてポケットから携帯を取り出した。 「メールだ。さっきの…」 「…あ…」 あの人からですか?…と言いかけてやめる。 また、妙な居心地の悪さを感じてしまう。 (そういえば今、私ったらすごい体勢だし…) 取りあえず膝から降りようとしたけれど、秋山さんの腕が背中に回されていてそれも出来ない。 「勘違い、してるだろ」 「別に…メールくらいじゃ…平気ですもん…」 「だから、それが勘違いだっての」 バカ。そう呟いて秋山さんは私のおでこを軽く指で弾く。 (今日バカって言われっぱなしだ…) 「さっき飯食った店のメルマガ」 「え?」 「お前が好きそうなデザートフェアが有るっていうから登録しとくかって」 「人の話、全然聞いてなかっただろ?」 (そういえば…そんな話、してたかも…) 「あ…ごめんなさい……」 ヤキモチ焼いて、また落ち込んで…こんなにみっともない顔見せたくない。 弾かれたおでこを庇うフリをして手のひらで目元を覆う。 「お前、そんなに自信が無いのか?」 「…だって」 (あ…涙声になっちゃった) 気まずいな…と思っていたら秋山さんは何も言わず、小さな子供をあやすように私の背中をぽんぽんと擦ってくれた。 「だって?」 「秋山さんは…何も言ってくれないから…時々不安になるんです」 「言わないよ」 涙が出ていないかごしごし擦って確認し、秋山さんの顔を見つめる。 そこにはいつも通りの秋山さんの笑み。 余裕たっぷりなその笑い方はすごく格好良く見えて、見蕩れかけてしまう自分が悔しい。 「そうやっていっつも何にも教えてくれないんですもん」 秋山さんの肩に顔を押し付ける。 私は自分の表情が秋山さんから見えないのをいい事に、普段じゃ言えない不満を口に出す。 「私は、もっともっと秋山さんの考え方や気持ちを知りたいのに・・・」 秋山さんは優しく、私に諭すように話し出す。 「あのさ」 「言葉で伝えるだけじゃ駄目なんだ」 「答えだけを教えるのは簡単だけどな…君は自分で常に正解を考えて行動しなければいけない」 「もし、俺が居なくなった時でも一人でも生きていけるように」 「やだ…」 「秋山さんが居なくなっちゃうなんてイヤです…」 「例えばの話だって…」 思わずぎゅっとしがみついた私に秋山さんはちょっと困ったように笑った。 「君は人よりゆっくりだけど、ちゃんと一人でも正解に辿り着ける」 「だから俺は…君の成長を止めたくない」 「甘やかしあって依存するのが恋人じゃないだろ?」 「俺はいつもちゃんと君を見てるよ」 「君を理解したいからね」 「だから君にも俺をみて理解して欲しいんだ」 「…はい」 (やっぱり…秋山さんは大人だなぁ) 自分の幼さが情けない。 (このままじゃ、いつか見捨てられちゃうかも…) ぽん、と頭の上に秋山さんの手が置かれた。 「今はまだ焦らなくたっていいよ。ちゃんと守ってやるから」 「え!?」 秋山さんの言葉にドキッとしてしまう。 なんで私の思ってること、わかっちゃうんだろう…。 私が余りにびっくりした顔だったからか、秋山さんは可笑しくて仕方ないって感じで肩を震わせてる。 「だから考えてることが顔に出すぎなんだよ」。 ――どうしても不安な時はちゃんと答えを教えてやるから。 耳元で囁く声はすごくすごく優しく聞こえた。 「今、どうしても、不安なんです…」 「解らない?」 「こんなにヒントをやってるのに?」 本当は解ってたけど、私はそれでも・・・どうしても今は言葉で欲しくって。 秋山さんがくすりと微笑んだ。 「…君の事、誰よりも大切に思ってる」 秋山さんの言葉を聞いたら、安心なのか嬉しいのか分からないけれど涙がぽろぽろ零れてしまう。 「またそうやって・・・すぐに泣く」 瞼に柔らかい感触。 涙が止まらない目元に秋山さんは何度もキスをしてくれた。 「そういう所も嫌いじゃ無いけどな」 いつもみたいに「泣くな」って言われるかと思っていたから私は少しびっくりして、すごく嬉しかった。 「えっと……」 「…しん…いちさん」 いつまで引きずってるんだ…って言われそうだったけど、でもやっぱりあの人に負けたく無くって初めて秋山さんを名前で呼んでみる。 「……ん」 「ありがとうございます。…私も、深一さんの事すごく大好きです…」 「……ああ」 心なしか秋山さんの返事は歯切れが悪い。 「あの……?」 「…なに?」 「もしかして、秋山さん…照れてます?」 「うわっ!?」 私が「照れてます?」と言い終わる直前に、強い力で抱きしめられて私の頭は秋山さんの腕の中に閉じ込められてしまった。 だけど、ちらっと見えた秋山さんの顔は耳まで赤く染まっていた気がする。 初めて秋山さんを動揺させたのが嬉しくって思わずえへへと笑ってしまう。 私が笑ったのが面白くなかったらしく、秋山さんはふん…と鼻を鳴らした。 (秋山さん…可愛い…) 何だか秋山さんとの距離が少し近づいた気がした。 「それじゃ」 帰り際、秋山さんはいつもの様に私のおでこにキスをしてくれた。 「今晩の授業料はまた次にでも徴収させてもらうから」 ちょっとだけ意地悪に笑うその顔にドキドキした。 「おやすみ」 がちゃり。と音がして玄関のドアが閉まる。 (やっぱり今日は最高の一日だったな) いくつもの秋山さんの表情と仕草を思い浮かべると、にまにましてしまう。 (今日のお礼に今度美味しいものを作ってあげよう) きっと秋山さん喜んでくれるだろうな。 今ごろ終電ぎりぎりの電車に揺られてる彼へ送るメールの文章を考える。 ありがとうと大好きとおやすみなさいと何が食べたいですか?と… そして私は重大な事実に気付いてしまった。 (あ!どうしよう…結局、試験範囲半分くらいまでしか終わってない…) 『秋山さん…明日も勉強、見てもらってもいいですか?………ごめんなさい!!』 (どうか良い返事がもらえますように…) ぎゅっと目を閉じて送信ボタンを押す。 メールを開けた瞬間、盛大なため息をつく秋山さんの姿が目に浮かぶようだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |