信用
秋山深一×神崎直


秋山は引かれる手を振り払おうとする。

「だから、いいって」
「いえいえ、そういうわけには。せめてお茶だけでも」

理由にならない交わし方をする直は、ともかく礼を礼をと言い立てて秋山を自分の家まで引っ張ってくる。
連れられる秋山は困惑を隠そうとはしない。
直はその彼の態度を、ただの遠慮と受け取っていた。
部屋に入り鍵を閉めた少女を横目に、秋山がやっと苦い声で言う。

「知らない人間を、あんまり簡単に部屋に上げないほうがいいと思う」
「え、知らない人じゃないじゃないですか」
「そうだけど」

視界の端に入ってくるベッドに苦みばしったような顔の秋山はまた黙る。
立ったままで、椅子になかなか座ろうとしない秋山に直が気付いた。

「どうしたんですか、秋山さん」

距離を保ったまま秋山は、柱にもたれたままだった。

「少しは他人、疑えって言ってるだろ。俺の事もそんなに信用するな」
「信用してます!というか…いい人です、秋山さんは!」

秋山は聞き慣れない単語を聞いて複雑な表情になる。
天井を仰いで息を吐いた。

「なんで」
「なんでって…私のこと、助けてくれたし」
「金の為だって言ったろ」
「それは、でも…先生にってお金も結局、全部返してくれたじゃないですか。他にもたくさん」

直は懸命に、指折数えながら目の前の男の誠実を並べ立てようと必死になる。
その姿から逃れるように、秋山は強く目を閉じる。
彼の目の奥では、血だまりを倒れる女性の影がちらついた。

「だから騙されるんだよ、お前」

声色の低くなった秋山が、目を瞬かせている直を思わずにらんだ。

「俺の、何が…どこがいい人なんだ」

首を傾げた直がぽつりと返す。

「…全部?」

秋山の記憶が確かなら、出会ったのは刑務所の前だった。
直は、身も蓋もないことを本気で言っているらしい。
秋山は嘆息した。

「お前はバカか」
「バカでもいいです」

直は秋山の正面へ詰め寄る。
思わず身構えた秋山には気付かなかった。

「私は、…良かったです。あ、色々辛かったのも本当なんですけど!これからも、多分、きっと辛くて。
あんなゲームもう本当に、二度とやりたくないって…だけど」

一息で言うと、直はひ弱さは見せずに言葉を継いだ。

「私はやっぱり秋山さんと一緒で、良かったと思ってます。お願いしたのが秋山さんで、良かったって。
…秋山さんは私みたいな足手まといにつきまとわれて、嫌だったかもしれないですけど」

直にそんな自覚があるのが、秋山には意外だった。
そして彼はそれ以上に、面倒だとは思っても、自分が彼女を嫌だと思ったことがない事実に内心驚いている。

「私は、秋山さんが助けてくれたの全部、…嬉しかったですから」

秋山には、理屈でかかってくる相手ならいくらでも論破できる自信があった。
だが、本気だけで立ち向かってきて理屈を軽々超える人間に対してはそうもいかない。
黙って聞いていた秋山は、額を押さえると呻いた。

「あんたといるとたまに、苛々するよ」

がっくりと、分かりやすく肩を落とした直に、秋山が続ける。

「退屈はしないけど」

直はゆっくりと顔を上げる。
秋山の視線から言葉の意味を汲み取ると、何がそれほど嬉しいのか、直は噛み締めるように微笑んだ。
―褒めちゃいないんだが。
そう思う秋山の前で、笑う直が再び彼に椅子を勧める。

「コーヒでいいですか?」

考えるように押し黙った後の秋山は、ようやく諦めたように頷いた。

部屋の扉を叩く音がする。
その物音に、大げさなくらい体を震わせスプーンを取り落とした直はしばらく動かなかった。

「出なくていいのか」
「出ます」

そう返すのに少しも動かず居尽している直に、焦れた秋山は許可を取ると逡巡なく扉へ向かう。
数分して戻った秋山は、まだ固まっている直に素っ気なく言う。

「新聞の勧誘だったけど」

聞いた瞬間、直は思わず盛大なため息を吐いた。

「どうした?」

秋山が見かねて聞くがなかなか口を割らない直は、居たたまれなくなったのか席を立つとテレビ前の床に移動した。
決して目を合わせず、ぽつりぽつりとこぼす。

「じ、事務局の人が、一度だけここに…」
「事務局? 」
「こう、金歯がピカってしてる男の人です。…最初は警察の人だと思ったんですけど、そうじゃなかったみたいで」

徐々に言葉尻が小さくなる。
無理やりに近い形で部屋に入られたことはさすがに直も口にしない。
自分の迂闊さは、彼女自身が一番よく分かっていた。
だが騙される。
思い当たる人間の姿を思い出した秋山が呆れの滲んだ目で見る。
直は慌てて続けた。

「色々あってその人をちょっと、家に入れたっていうか…で、でも大丈夫でしたよ!ほら!無事です!」

どん、と自分の胸を叩いて誇らしげな直に、冷や水を浴びせるように秋山が淡々と言う。

「運が良かっただけだ」
「でも、話を聞いただけです。それで敗者復活の」
「話って…君が知らなすぎるだけだろ。男なんてヤるとかヤらないとか大体、そんなもんなんだよ」

言いながら、来訪者一人にあれだけ怖がっておいて何が無事なのか、問い詰めようかとも思うがやめた。
考えているとなぜか、彼のほうが苛々としてくる。

「やるって…何をやるんですか?」
「セックス」

コーヒーカップを口に当て、椅子に腰掛けたままの秋山は事も無げに言う。
言われた直は咳き込んで、床に座ったまま背を丸めた。
秋山は揺らしたコーヒーカップの底を見つめ、直の動揺には無感動だった。
直は思わず唾を飲む。

「あ、秋山さん、も…?」
「当たり前だろ」

口を開けた直は、しれっと、しかも即答されて今度こそ言葉を失った。
ぐるぐると頭をめぐる雑念に頭痛がする。
興味なさげにその様子を伺っていた秋山は、しかし無意識に秋山と距離を取った直に気付くと、面白げに目を細めた。
てきとうな相槌を打つように言った自分の言葉に、ただの言葉以上の効果があったことを彼は知った。

「さっきの話だけど」

秋山が口の端を上げる。

「俺がいい人間だって? 」

蒸し返されたタイミングに直は思わず震えた。
秋山はコーヒーカップを置くと立ち上がり、地べたに座っている直の前にしゃがみこむ。
意地悪く笑うと、座ったまま後退する直を追い詰めた。

「なんで逃げる? 俺のこと、信用してるんだったよな」
「も、もも、もちろん、信用して」
「どもるなよ。知ってるか?」

視線を忙しくさまよわせる直に、秋山は畳み掛けるように言った。

「男は嫌がられたほうが燃える」

さすがの直も、何が燃えるのか?とは聞き返さなかった。
ただ、殴られたかのような衝撃を感じていた。

「そ、れは…心理学的、に? 」

直はいつか彼が、昔、心理学を専攻していたという話を思い出していた。
思いがけず自分の履歴に触れられ、秋山が眉を上げる。

「かもな。それか…俺の、個人的趣向か」
「秋山さんは、オ」

逸らせばいいのに直は、自分を映し込む相手の瞳を見つめ返し続けた。

「オフェンスだから…?」

直はこれ以上後ろに逃げ道がないにも関わらず、まだ下がろうとしていた。
たわむれに直の髪に触れた秋山の手が止まる。
SM云々、etc
思い当たる話を思い出し、秋山は薄く笑った。

「で、君はディフェンスか」

―馬鹿にされている。
直感的に直は思う。

だが言い返そうとした彼女の唇は、不意に指を押し付けられて固まる。
直は硬直する。
それに構わず無言の秋山の冷たい指先は、遠慮なく直の口内を割って入る。
指は浅く入り、かすかに探った。
何かを誘いこむように指が揺れると、舌に突き当たる。
少しだけ開いた口から唾液が漏れて伝う。
直の緊張が臨海に達する。
せめて秋山の視線から逃がれようと、思わず目を閉じれば次その目を開けるタイミングを失った。

しばらく直は、閉じた視界の暗い中で思考を停止していた。
暗い影が顔の上に落ち、何かが近づくのが気配で分かる。
突然唇に当たった奇妙な感触に、我慢しきれず目を開ける。
自分とキスしている、見慣れたクマのぬいぐるみと目が合った。

「きゃ!…いたっ」

驚くと共にベッドの木枠に後頭部を打った直が涙目になる。
抱えた頭を、直がするよりも早く秋山が撫でた。
その行為に反して、秋山の言葉の調子は強い。

「君が俺をどれだけ信用してたって…それが、なんだっていうんだ?」

言葉の意味を理解する前に、直は腕を取られて立たされる。
彼女は混乱した。
秋山の所作は一見乱暴なのに、頭を撫でられた感触は限りなく柔らかい。
彼に睨まれると時々物を言えなくなるが、何かを訴えるように見つめられるとこれほど優しい人間は他にいないという気もする。
両方がせめぎあい、それが直をますます混乱させた。

「抵抗しろよ。ヤられるぞ」
『やるって…何をやるんですか?』
『セックス』

つい先ほど交わした自分たちのやりとりを思い出して直は息を呑む。
黙ったままの彼女に構わず、秋山は手早く直の肩を押すと後方のベッドへ倒す。
視界が反転するが、展開の加速に直は反応出来ずにされるがままになる。
めくれあがった洋服の隙間から、忍び込んで脇腹を撫でる他人の手を感じてやっと我に返った。
反射的に暴れるが、上から押さえつけられて動けない。
侵入する手の感触が、唇に触れたときと同じように冷やりとした。

―冷たい。
その冷たさを認めると、直の動きがぴたりと止まる。
不思議に思った秋山がその顔を覗き込んだ時だった。
急に目を見開いた直は、自信に満ち溢れた顔で秋山の手を掴んだ。
「手が冷たい人ってよく、心が温かいって言いますよね」

互いの額が当たるか当たらないかの距離を保ったまま、秋山は固まる。
真顔の直が言おうとしていることの意味を汲み取った。
秋山は、疲れきったように肩を落とす。
押し倒されたままの直は、なぜ秋山が脱力しているのか分からなかった。

「君、やっぱり変わってるよ。すごく」

体を少しだけ起こした秋山がくたびれたように言った。
直は目を瞬いた後で、えへへ、と照れたように笑う。
ベッドの上で二人、それきり沈黙すると今更のように見つめ合った。

やけに静かだった。
秋山は直の唇に指を這わせると、先程したのと同じように指を少しだけ差し入れる。
直は逃げなかった。
今度は安心しきったように目を閉じてしまう。
重ねた唇と唇が触れ合う。
直は、それを指だと思ったかもしれない。
本当に触れるだけで、それ以上深くなることはなかった。

秋山は離れると、乱れた直の衣服の前を合わせるてベッドから退く。
それだけのことに彼がかなりの労力を必要としたことを、直は知らない。
移動し、床に座りこんだ秋山の背に呼びかける。

「…やらないんですか?」
「ヤられたいのか」
「いっ、違います!いえ、いいえ、ちが、そういう意味じゃなくて…いいんです!違います!」

どうしたのか、平気か、そう尋ねようとしてつい出た言葉だった。
顔を真っ赤にしながら憤慨か羞恥か、うわずった声で直は必死に否定している。
秋山は自分の手をしばらく、閉じたり開いたりして黙っている。
起き上がった直はそれを見て、肌に触られたときの冷たい感触を思い出していた。

秋山がベッドを振り返ると、ぐちゃぐちゃの髪の毛をした直と目が合う。

『手が冷たい人ってよく、心が温かいって言いますよね』

受けた。
苦しいほどに笑えた。

超理論だったが、彼女が言うのならそうなのかもしれないと彼は思う。

俯くと、声が漏れないように歯噛みしながら秋山は笑った。
その様子を間の抜けた表情で直はベッドの上から見ている。
それでも秋山が動くと、直の体には力が入る。
無意識に警戒しているのが見て取れた。

「大丈夫だよ。何も、しない。少なくとも無理やりは、趣味じゃない」

言い聞かせるように言うと、直はあからさまに表情を緩める。
秋山が自分に何もしないということよりも、そういう人ではないという事実を幸せに思うようだった。
その油断しきった態度に、秋山は笑いを収めると急に憮然とする。
油断されても警戒されても、どちらにせよ面白くなかった。
意地の悪い気持ちが沸く。
直のほうに向き直ると、秋山は投げ出されてあったぬいぐるみを直の元へ放り投げる。

「だから次の機会にはちゃんと、手順を踏むよ」

曲線を描いて届いたぬいぐるみが、取り損ねた直の手元から落ちて転がる。
―次って、手順って何ですか。
言葉が喉から出かかるが、動悸の苦しさに声が出ない。
今更思い当たったように口を押さえる。
自分の唇の濡れた感触に、直の頬が赤くなった。
秋山が立ち上がる。
座りながら仰け反るように逃げ腰の直を見ると、秋山が意味ありげに笑う。
わざわざ見下ろすと、顔を近づけて囁いた。

「いい人らしくな」






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