秋山深一×神崎直
「ひどい…ひどいです秋山さん……、こんな、こんな…っ」 両手で顔を覆い、神崎直は肩を震わせしくしく泣き始めた。 秋山はそれを浜に打ち上げられて三日経つ魚そっくりの目で見ている。 ――俺が何をしたっていうんだ。 秋山は途方に暮れていた。 ◆◆◆◆◆◆◆ 神崎直の方から想いを告げられて二週間後、秋山は初めて彼女の手を握った。 彼女の照れたような笑顔を今でもよく覚えている。 手を繋いで一ヵ月後、秋山は始めて彼女を抱きしめた。 驚きに身を硬くした彼女が、己の腕の中でゆっくりと力を抜いていった時の愛おしさといったら無かった。 そのさらに一ヵ月後、秋山はようやく彼女の唇に唇で触れた。 わたし、ファーストキスなんです。うれしい、うれしいです秋山さん。初めてキスした人が秋山さんで、わたし本当にうれしいんです。 そう言うなりぽろぽろ涙をこぼし始めた彼女になぜだか秋山まで感動してしまい、たまらず抱きしめてもう一度キスをした。 誰よりも大事にしてやろう、大切にしてやろうと心から思った。 今どき珍しいくらいに純粋で汚れを知らない彼女。 出来るだけ彼女に合わせ、彼女のペースで付き合っていこうと秋山は考えていた。 怖がらせたり、嫌な思いをさせたりしたくない。 ゆっくりと、ゆっくりと、亀が歩むようなスピードで……。 もどかしく思うこともあったが、それすらも秋山には愛おしかった。 初めてのキスから一ヶ月後、事件は起こった。 その日、秋山は彼女の家にいた。 夕食を済ませ一息ついていると、隣の彼女と自然に目が合った。 じっと見つめていると照れた彼女が目を逸らす。 秋山はそんな彼女の顎を捕まえる。 そうすると彼女は耳まで赤くした顔で、そっと目を閉じる。 そうして秋山はやっと彼女の唇に触れる。 これがいつものパターンだった。 しかし、その日のキスはいつもと違った。 秋山が彼女の唇をそっと舐めたのだ。 びっくりしたように肩を跳ねさせる彼女を秋山は優しく抱きしめる。 小さな唇を噛んだり舐めたり、悪戯を繰り返す。 戸惑う彼女が何かを言おうと唇を開いたので、それ幸いと秋山は舌を侵入させた。 怯えたように縮こまる舌をゆっくりと撫でる。 小さな歯の一つ一つを確認するように舌先でなぞり、平たく広げた舌で口蓋をくすぐってやると、たまらず彼女の舌が浮く。 秋山はそれにやわく歯を立て優しく引き出し、弱い力で吸った。 彼女とのキスを存分に味わって、秋山はようやく唇を離した。 仕上げとばかりに唾液でてらてら光る唇をそっと指先で拭う。 顔を真っ赤にし、涙の溜まった目でこちらを見ている彼女に、秋山は男としての矜持が満たされるのを感じていた。 そんなに良かった? そんな軽口を叩こうとして秋山はぎょっとした。 なんと彼女が口を押さえてぼろぼろ泣き出したではないか。 さーっと一気に血の気と先ほどまでの多幸感が引いていく。 やらかした。なんだか知らないがやらかした。 でも何を?俺そんなに変なことした?してないよね? 極度の混乱から、ポーカーフェイスの下で幾人もの秋山たちがえらいこっちゃ音頭を踊り始めた。 「秋山さん、ひどいです……」 そして話は冒頭に戻る。 彼女の涙声に、それまで輪になってえらいこっちゃえらいこっちゃヨイヨイヨイヨイしていた秋山たちがワーワー声を上げながら逃げていく。 秋山は死力を振り絞っていつもの余裕を持った笑みを浮かべると、視線だけでなにが?と問いかけるのが精一杯だった。 「こ、こんな、口の中を、なっ、なめ、舐めたり、とかっ、舌をす、す、吸ったり……とかっ、これじゃ秋山さんまるで変態さんみたいですっ」 秋山の優秀な脳は完全にフリーズした。 HENAI?俺が?なぜ? ふいに頭の中にニヤニヤ笑いの白髪男の顔が思い浮かんだ。 変態ってのはああいうのをいうはずだ。 「こんな、こんな、まさか秋山さんが……あんまりです……」 ふぇぇお父さぁん、と、本格的に泣き出た彼女に秋山は眩暈がした。 ――しまった、大事にしすぎた。 ゆっくりゆっくり大切に、秋山は彼女の恋愛に対する夢を壊さないようにしてきた。 何かにつけ必要以上にカッコつけて接してきた。 結果、彼女は秋山のことを少女マンガの登場人物か何かと勘違いしているようだった。 頭の中のヨコヤが床をばんばん叩きながら笑っている。 むかついたので一発殴る。少しスッキリした。 秋山だって男だ。 何度彼女の無防備な誘惑に膝をつきそうになったことか。 それでも彼女の為と努力と忍耐を重ねてきた、そんな秋山に向かって言うに事欠いて変態。 しまいには泣きながら親の名前を呼ばれる始末である。 地味に歳の差を気にしていた秋山にとってこれは堪えた。 まるで本当に犯罪でもしている気分だ。 秋山には何一つやましいところなんて無いはずなのに。 ――秋山くんはロリコンの変態なんですかぁ。 もう一発殴っておいた。 -------------------------------------------------------------------------------- 落ち込んでいた秋山であったが、今度はだんだん腹が立ってきた。 俺なにも悪くなくね? そもそもちょっとディープキスしただけで変態ってなんだ。 こっちはこれだけ我慢してるんだ、そっちだって多少は譲歩してくれてもいいのではないか。 そう思い顔を上げた秋山であったが、その怒りはすぐに霧散した。 くすんくすんとカーディガンの袖で涙を拭う彼女の姿がなんとも健気で、かわいそうになったのである。 泣きたいのはこっちだ。 秋山は大きくため息をついた。 彼女をそっと抱きしめ、背をぽんぽんと叩く。 「俺が悪かった」 結局秋山が謝った。 「もっと君の意思を尊重すべきだった。怖い思いをさせた」 腕の中で彼女がすん、と鼻を鳴らす。 「私こそごめんなさい、たくさん泣いて秋山さんを困らせちゃいました」 彼女がすり、と頬ずりをする。 でももうあんな変なことしないでくださいね、と彼女が拗ねたように言った。 彼女にとってディープキスは変なことらしい。 秋山は遠い目をする。 おそらく彼女が今まで読んできた少女マンガの中にそういったシーンはなかったのだろう。 まずは知識を与えることから始めなければならない。 回り道の回り道。 それでも不思議と秋山は嫌ではなかった。 ゆっくりゆっくり。彼女のスピードで。 どうせ一生秋山は彼女を手放せないのだから、焦る必要など無いではないか。 -------------------------------------------------------------------------------- 「なあ」 秋山は彼女を呼んだ。 彼女はすっかり普段通りに戻り、秋山の胸に甘えている。 「明日は君が俺の家においで。一緒に見たい映画があるんだ」 滅多にない秋山からの誘いに彼女の顔がぱあと輝く。 よほど嬉しいのだろう、彼女の頬はバラ色に染まっていた。 「行きます!絶対に行きます!」 うれしいです!とはしゃぐ彼女をなだめながら秋山は考える。 かなりハードめなシーンが挟まったやつにしてやろう。しかも複数本。 戦略を練る秋山の顔はすっかり普段の策略家の顔だった。 明日が楽しみである。 「ところでさ」 「なんですか、秋山さん」 秋山は彼女に一つ聞いておかなければならないことがあった。 この質問の返答次第では、今後の計画を練り直す必要があるからである。 無垢な笑顔が全幅の信頼を寄せて秋山を見上げている。 「君は赤ん坊がどうやって生まれるか知ってる?まさかコウノトリがどうとか言わないよな?」 彼女の顔が真っ赤に染まる。 よかった、どうやら大丈夫そうだ。 SS一覧に戻る メインページに戻る |