千秋真一×野田恵
![]() 「のだめのことは、放っておいていいデスから!!」 そう言われ、のだめの部屋から追い出された千秋は、背後で「お疲れー」「お帰り」と 声をかけるターニャとフランクにも気づかず、隣の自分の部屋へと引き返した。 いったい何が起きたというのか……。 しばらく千秋自身にもわからなかった。 けれども、自分が何かとてつもなく打ちのめされたような感覚だけは、心に渦巻いた。 ジャケットを脱ぎ、無造作にベッドへと投げる。 散らかっているとばかり思っていた部屋は、4ヶ月前に千秋が掃除したばかりと 見まごうばかりに隅々まで清掃が行き届いている。 『的外れなことばっかり!!』 的外れ……?……俺が? 『だからー、そのへんちゃんと分けろといってるの』 ━━━━分ける?何を? ━━━━そのへん?……いったいどのへん? 何かにとてもショックを受けている自分がいた。 いったい何に? ━━━━あののだめにキスしてしまった自分? ━━━━それとも、のだめに拒否された自分? 一気にどっと疲れが押し寄せて、千秋は倒れこむように体をベッドに預けた。 肌寒さに目を覚ますと、部屋は暗闇に包まれていた。 どうやら、そのまま寝入ってしまったようだ。 気だるく寝返りを打つと、薄明かりの中に衣擦れの音が響く。 窓辺からかすかに町並みの明かりが見て取れた。 一つ大きくあくびをしてベッドサイドに目をやると、時計が日付の変わった事を示していた。 泥のように重い体を起こして、クローゼットからスウェットを出して着替える。 時差のせいか。 あるいは別の理由か。 すっきりしない意識で、千秋は部屋を出た。 隣ののだめの部屋をあえて見ず、階段を静かに駆け下りた。 ロビーを抜け中庭に出ると、晩秋の風が首筋を通り抜けていく。 その冷たさに千秋は首をすくませ、スウェットの襟を立てた。 通りの角を曲がった先に、テイクアウトのできるカフェがある。 何度かのだめを連れて行った事もある。まだ、この時間なら営業しているはずだ。 千秋は少し歩幅を強めた。 適当にサンドイッチを見繕って、千秋は店を後にした。 このあたりは、午前を回っても比較的賑やかで、かといって治安が悪いわけではなく、 家庭的なレストランやカフェなとが軒を連ねている。 本当だったら━━━━ 本当だったらのだめを連れ出して食事にでも行くつもりだった。 演奏旅行で経験したこと。 シュトレーゼマンが相変わらずだった事。 そのトラブルで、自分がオケを振ったときの事。 Ruiのピアノの事。 エリーゼのせいで、予定が1ヶ月も延びた事。 ……話してやりたいことがいっぱいあった。 なれない生活の中にのだめを置き去りにしていったことが、この4ヶ月の間ずっと気がかりだった。 のだめはあんな調子だから、ここのアパートの住人たちとも仲良くやっていけるだろうが、 自分と離れ暮らすことを淋しく思うだろう、と思っていた。 自室の鍵を渡しておいたのは、ここにいることで少しでも淋しさがまぎれれば、と思ったからだ。 そう思い込んでいた。 そうであるのだと自惚れていた。 なのに。 階段を上がり、のだめの部屋の前で思わず足を止める。 もう寝ただろうか。 それともまだ…… ドアの向こうは静寂で、なんの物音も聞こえない。 ドアをノックしようとしたけれどどうしてもそうできずに、千秋は伸ばした手を下ろした。 2本目のワインを飲み干した後で、千秋は怠惰にベッドを軋ませた。 ツアーから帰ってきて、荷ほどきもしていない。洗濯物も、たまっているのに……。 だけれども何もしたくない。今は、ただ何もしたくない。 煙草に火をつけて、深く、ゆっくりと煙を吐き出す。 煙草の燃えるチリチリという音が、静かな部屋にやけに響く。 ふと、自分の乾いた唇にそっと指で触れた。 数時間前の、あの柔らかな感触を思い出す。 知っているようなつもりでいたけれど、まだ自分の知らないのだめの部分。 舌をそっと差し入れたとき、一瞬体を強ばらせた。 ……そんなのだめを愛しいと思った。 愛しい? 愛しいだって? そんな馬鹿な!! のだめにキスしたのは…… ━━━━ピアノを弾き続けようとするのだめを制止するため? ━━━━今までのようにただうっかり? いや、違う。 ずっと気づいてた。 気づいていたけれど……ただ今まで、認めたくなかっただけだ。 「馬鹿は俺か……」 うとうとしたまま熟睡できず、明け方早くにベッドを抜け出した。 熱いシャワーを浴び、スーツケースから洗濯物を取り出し洗濯機にかける。 窓の外では町の人々がそれぞれに挨拶を交わし、どこからか鳥がやってきては囀りはじめる。 濃く入れたコーヒーをすすり、煙草に火をつけた。 ふと、目に入った楽譜を棚から取り出す。 眠りの森の美女のパヴァーヌ。 ピアノの前に座り、一音一音、確かめるようにすくい上げていく。 楽譜を前にして時にいつも感じている、高い壁。 けれども、こうして自分で乗り越えていくしかないのだ。 ひとつひとつ音を奏でながら、千秋は譜面にチェックを入れていく。 二つの主題の対比。 ……美女と野獣の……自分とのだめみたいか?と、千秋は苦笑した。 「のだめピアノが好きなのだ」とごまかしてきた。 その思いの中から、のだめ自身への思いをわかっていたつもりで……混同したままでいたのだ。 のだめのピアノが好きな自分。 のだめ自身を好きな自分。 その結果が、昨日のあののだめの態度なのだ。 その、全く別の自分の思い。同時に別の表現をしながら、バランスをとる。 ……それは難しいことだけれど。 千秋の指がなめらかに、けれども探るように、小節を進んでいく。 きりりと冷えたパリの朝に、心地よいピアノが響いていた。 ハートのネックレスはベッドのサイドテーブルの引き出しにしまわれ、どのタイミングで出番となるのか。 ……それはまだ誰も知らない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |