変態の森へ(非エロ)
千秋真一×野田恵


パリへ帰ってきて1週間が経つ。
8時には起きて街を軽く走り、シャワーを浴びた後で朝食をとる。
エスプレッソとラッキーストライクを傍らに、デビュー公演でやる曲の総譜をチェック。
オケと合わせた翌日は、練習での反省も踏まえ、改めて自分の音楽をどう響かせるかを考える。
イメージを構築し、感情を奮い立たせ、どう作り上げていくか。
時間はあまり無い。……そんな忙しさに、今は多少の安堵を覚えていた。
あれからのだめには会っていない。
時折あのピアノの音が聞こえて、何とも言えない気持ちになったりもする。
けれど、どう切り出していいのかわかりかねて、無意識に避けようとしている自分がいる。

……千秋はアパートの階段を上がり、フランクの部屋のドアをノックした。

「あ、千秋……どうしたの?」
「デビューコンサートのチケットが来たから、渡そうと思って」
「ええっ、くれるのー?!」
「ハーイ、千秋」
「……ちょうど良かった。ターニャ、君にも」
「うわー、メルシー!…うれしーぃ。絶対行くから」
「じゃ、また」
「あ、千秋…のだめには…?チケット、渡した?……私から、渡しておこうか?」
「……自分で渡すよ。…じゃ」

1階に戻ってきても、部屋にのだめの気配はなかった。
直接、会って渡すか?……いや、やめておこう。今は、まだ……。
ドアの向こうの静寂が、やけに寒々しく心にしみる。
ドアノブに触れてみても、ぬくもりはそこにあるはずもなくて……。
千秋は封筒にチケットを入れ、のだめの部屋のドアに挟むと自分の部屋へ踵を返した。
薄暗い部屋に風が通り、奥のカーテンを揺らす。
ピアノの前に座ると総譜を開き、チェックした部分をもう一度さらっていく。

……何もなかったように、あのドアを開けてのだめが入ってきたら。
いつもの、今までと同じように。
そうしたら、俺は……。

デビュー公演まで、あと10日━━━━━━━━━━━━━━━━━━

沸き上がるスタンディング・オベーション。
こだまする「ブラヴォー!!」の感嘆の声。
顔が火照り、早くなった鼓動はさらに加速する。

「デビューおめでとう!」
「おめでとう!!」
「チアキ、おめー!」

鳴りやまない拍手を背にして舞台袖へと戻ると、心地よい汗が額を伝う。
デビューしたんだ。
指揮者としての第一歩を、今踏みしめている。

……海外へ渡る事すら出来なかったこの自分が、今パリで、この場所に立っている。
夢のようだ。

……のだめに出会わなければ、こんな事になっていなかったのかもしれない。
あいつ、来ているだろうか。
聞いたかな、俺の音楽を……。
喜んでくれているだろうか。

「おめでとう!」
「メルシー」

楽屋への階段を下り、受け取ったタオルで汗を拭う。

「おめでとうございます」
「え……」

千秋はその聞き慣れた声に顔を向けた。

「あの……サインください」

そこに、いた。

「一番でス」

鼻息荒く、ノートを差し出す。

「おまえ……早すぎ!!」
「ステージ出てくださーい」

1度目の挨拶の為ステージに再び立ち、戻ると、千秋はのだめの頭に汗を拭いたタオルを乗せた。

「す……すみません」

あきれた顔で、のだめの手からペンを取る。
全く……何を考えてる、こいつ。

「あの……それから」

千秋はキャップを取り、ノートへサインを走らせた。

「先輩このまえ、キス……しましたよね?」
「……」
「よく記憶に残ってないんで、もう一度お願いしマス」

のだめはそう言うと、目を閉じてねだるように唇を尖らせた。
千秋はその頬に、黙ったままぐるぐると落書きをたっぷりとしてやった。

「ステージ出てくださーい!早く早くー」

……『よく記憶に残ってない』だと?あのやろー、ふざけやがって。拒んだのはお前だろ。
再びステージに立ち、割れんばかりの歓声に答える。
なんであんな、いつも通りに……あいつ、やっぱり馬鹿だ。アホすぎる。
そう思いながら、千秋は顔がゆるんでしまう。
あんまりに馬鹿で、どうしようもない程アホで……。
でも、そんなのだめが、そう、俺はのだめが……
階段を下りると、正面楽屋前にのだめを見つける。
愛しい。……愛しくって仕方がない。
顔を上げたのだめが声を発するより早く、千秋はのだめをその腕の中に強く強く抱きしめた。
今なら、素直に認める。
自分はのだめのピアノに惹かれつつ、本当はとっくにのだめに惚れていたのだという事を。

「せ……センパイ……はうぅ……」

もう、こいつを離したくない。きっともう離れられない。

千秋は腕を緩めて、のだめの顔を見つめる。
うっとりと上気した頬に、落書きしたぐるぐるが不似合いで、思わず笑ってしまう。

「……ヒドイです!こんな落書きするなんてーー!!」
「ハハハ……来いよ。落としてやる」

千秋はのだめの手を取り、楽屋へ引き入れた。
ジャケットを脱ぎ、タイをはずす。シャツの第一ボタンをはずして、ふとのだめの腕を取った。

「もう一度って言ったよな」

のだめの腰を抱き寄せ、背中に手を這わせた。

「ぎゃ……ぎゃぼ……!」

千秋のいきなりのその行動に、のだめは息がうまくつけなくなってしまう。

「センパイ……あの……えっと、顔……」
「……二度と拒むなよ」

耳元でそうささやくと、千秋は有無を言わさずのだめにキスをした。
あの時と同じ、柔らかな唇。うっとりと甘やかに、吐息を濡らす。
軽く触れた後で少しだけ唇を開き、自分の唇でのだめの柔らかな唇を包み込んだ。
そして、舌をそっと差し入れる。
……と、のだめの体は急に弛緩して、膝から崩れ落ちてしまう。

「あっ、おい!……のだめ?!」

のだめは千秋の腕の中で幸せそうに笑い、手にノートを握りしめて昇天していた。

「……おれ、まだキスしかしてないんだけど」

昇天したのだめをあきれて床に転がすと、千秋はベストを脱ぎ、カフスボタンをはずした。
キスくらいで気を失われてたら、先が思いやられるな……。

「せっかくその気なんだから、今までみたいに積極性を見せろよな……」

「━━━━━━━━━━━━!!!!(ポエム)」
「<訳>千秋君、デビューおめでとう!!」
「真兄ちゃま〜〜〜〜〜」
「久しぶり」
「近所の人に色紙を頼まれちゃってー」
「よくやったな、真一!」

昇天したままののだめを片づける暇もなく、千秋は立て続けの楽屋訪問に対応せざるを得なかった。

「どうも」
「あっ、なにあれ?」
「Σ(゚Д゚;」
「 のだめちゃん!?死!?」

隠そうとしていたつもりが、由衣子にのだめを見つけられてしまう。

「笑ってるよ。気持ちわりー」
「なにか変なものでも食べたのか?」

何も気づかない様子の3人をよそに、訝しげな視線を送る母に気づき、千秋は詮索されるのを恐れて佐久間を呼びに楽屋を出ていくのだった。






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