千秋真一×野田恵
![]() 「それじゃ、のだめ先に帰りマス」 デビュー公演が無事に終わり、これからパリまで駆けつけてくれた 三善家の面々と食事にでもと話しているときだった。 由衣子は「え〜っ!?なんで〜?」と不満そうにのだめの腕にまとわりつく。 のだめは、ピアノの練習がありマスから〜と困ったように笑った。 眩暈 「そう。残念ね。のだめちゃんもがんばってね」 「ハイ。由衣子ちゃん、また遊びに来てくだサイネ」 征子の言葉にうなずきながら、のだめは由衣子の方に視線をおくる。 せっかく久しぶりに会えたのに〜、と由衣子はまだ少しむくれていた。 今度はいっぱい遊びましょうネ。約束デス。 小指をからませてニッコリ微笑むと、立ち上がって、 「それじゃ先輩、また明日」 ペコリと俺に向かって挨拶し、ターニャとフランクを引きずっていった。 あの二人は食事にありつく気マンマンだったらしく、 「はなしなさいよ〜っ!!」とか「ぼくのごチソウ〜!」とかいう 悲鳴(奇声?)が聞こえてきた。 いや、それどころじゃない。俺はのだめに言わなきゃならないことがある。 てっきり一緒にメシを食うものだと思って油断してたところに、予想外の 「帰りマス」で半ば呆然としていた千秋は、軽く頭を振って声のするほうに 向かって駆け出した。 「真一?どこに――」 「すぐ戻るから先に行ってて!」 先ほどからチクチクと視線が痛い。隣に座る母、征子がなにやら意味ありげな 目で俺の様子をうかがっているのだ。楽屋でもそうしたように、千秋は視線を 無視することにしてひたすら目の前の料理を片付けることに専念した。 「のだめちゃんってさあ……」 ぶほっ!!いきなりのだめの名前が話題にあがり、千秋は思わずむせた。 「どうしたの、真兄?」 「いや、……なんでもない」 げほげほとムセながら顔をあげると、征子がニヤニヤしてこちらを見ている。 「由衣子ちゃん、のだめちゃんが、何?」 「あ、うん。なんだか大人びたなぁって」 あ、やっぱりそう思う?と女二人がうなずきあうと、 「そうかな。ぜんぜん変わんないと思うけど」 「相変わらずだな」 と三善父子が結託して反論する。 ……大人びた、か。 千秋はぼんやりと先刻ののだめとのやりとりを思い出した。 「のだめ!」 追いついた背中に声をかけると、のだめはちょっと驚いた顔で振り向いた。 「ほわぁ、先輩デスか」 ビックリしましたヨ〜と言って、ふふ、と笑う。 ターニャとフランクは、先に行ってる、と歩いていった。 「どしたんですか?忘れ物デスか?あ、のだめお金はありまセンよ」 「ばーか。財布忘れたワケじゃねーよ」 不覚にものだめの笑顔に見とれてしまった千秋は、自分の顔が赤くなるのを ごまかすように、わざとつっかかるようにして言った。 ――こいつ、こんな顔して笑ったっけ? いままでさんざん色気ねーだの、変態だのと言ってきたけど。 「……あのさ、話あるから俺の部屋で待ってろ。ピアノ使っていいから」 ――カギ持ってるよな?――ハイ。待ってますネ。 そう言って笑うのだめは、やっぱり女の顔をしていた。 「ねえ、真兄はどう思う?」 由衣子の声に、千秋の意識は現実に引き戻された。 「え……えっ!?何が?」 「んもぅ。真兄はさっきからなんだか上の空なんだから」 のだめちゃんがなんだか大人っぽくなったなって話、と由衣子は頬を膨らませた。 ああ、と千秋は内心ドギマギしながら 「アイツだって20過ぎてんだし、今さら大人っぽいっていうのも……。 まあ、ちょっとは成長したってことじゃないか?」 なんてったってD…と言いかけてあわてて口をつぐむ。 「Dってなあに?」 と由衣子はいぶかしげに千秋の顔を覗き込んだ。 「い、イヤッ!?なんでもないよ」 真っ赤になって首を振る千秋の横で、ディアマンテ?ディスクロージャー? と抜けた会話をする三善父子。 そんな二人を尻目に、征子はそうじゃなくてー、と話を進める。 「真一はわかってないわねぇ。女が変わるってことの意味が」 ねー、と由衣子も調子をあわせる。 「女が変わる原因はねぇ、オ・ト・コ、よ〜」 お、お前いくつだ?!どこでそんな物言い覚えてきたんだ?! というツッコミもできずに、千秋は固まる。 「ほーんと、誰が原因なのかしら〜?」 クスクスと笑う征子の姿に、千秋はこの形勢不利な状況から一刻もはやく 抜け出したく、目の前のワインを一気に飲み干し立ち上がる。 「じゃ、じゃあ、俺明日も早いから」 挨拶もそこそこに出て行こうとする千秋を、征子が呼び止める。 「真一。あんたの演奏少し変わったわね。今日、とってもよかったわよ。 のだめちゃんに、よろしくね」 ――君の変化。うれしい驚きだ。 楽屋に来てくれた佐久間の言葉を、千秋は思い出す。俺が変わったとしたら、 それは、のだめが原因なんだろうか? 急ぎ足でレストランのドアから出て行く千秋の背中を、征子は微笑みながら 見つめてつぶやく。 「ちょっと、いじめすぎたかしら?」 「いいんじゃない?あれくらい」 征子と由衣子は顔を見合わせて、フフフ、と笑った。 パリの夜を、歩く、というのにはずいぶん早い足取りで、千秋はアパートに 向かってその歩みを進めた。 「母さんはもう、見抜いてんだろな。…クソッ!」 楽屋で向けられた疑惑の目を感じた時から、からかわれるのはわかってたけど。 まさか由衣子にまで……となんだか面白くなくて、舌打ちする。 でも、まあ、否定はしないけど。自覚した感情は、今の俺にとってすごく大切な ものだってわかってるから。 千秋がアパートの前に着くと、美しいピアノの調べが聴こえてきた。 はやく、顔が、見たい。 すばやくオートロックのキーを押し、中に入ると、千秋は階段を駆け上がった。 ドアの前で呼吸をととのえて、ノブに手を伸ばしたその時。 「……なんだ!?この音」 シューベルトのピアノソナタ。その圧倒されるような音色に千秋の動きが止まる。 「こんな……、のだめが弾いてるのか?」 のだめのピアノは誰よりもそばで、ずっと、聴いている。でも……。 そっとノブを回し、何かを確かめるように静かにリビングを目指す。 ――瞬間。 生い茂る緑の絨毯の上で、透明な光に照らされる中。 音を紡ぐ美しい女。 魅了されて立ち尽くす男。 そして、間を軽やかに過ぎるやさしい風。 あとは、なにもない。 そんな情景が、見えた、ような気がした。 「今の、のだめが見てる風景、なのか」 やがて音は止み、大きく息をつくのだめの背中に。 千秋はいまだ夢覚めやらずといった様子で、一言。 「ブラボー……!!」 そこには、見たかった笑顔が、あった。 「千秋先輩!おかえりなサイ♪」 今の聴いてたんですか?どでしたカ? 額は汗ばみ、上気させた頬を緩ませ無邪気に話すのだめに。 「ん。すごくよかった」 としか千秋は返せない。 まだ心がふわふわとしていて。足は地面をつかみかねている感じがする。 千秋の短くそっけない賛辞にも、のだめはうれしそうに 「えへー。この曲コンクルで弾いた曲で。オクレール先生にも褒められたんデス」 ハリセンせんせの家に合宿した時、先輩の言ったコト思い出して、いっぱいいっぱい おしゃべりした曲なんですよー、と笑った。 「あ、何か飲むものでも……」 「いや、自分でやるから。それより、もっかい弾いて、今の」 立ち上がろうとしたのだめを静止し、幾分落ち着きを取り戻した千秋は やさしさを込めた手でポンとのだめの肩をたたき、キッチンへ向かう。 それじゃ、もいっかいと再び流れ出すピアノソナタに身をゆだねながら、 千秋は今ののだめの言葉をかみしめた。 ――お互いを大切に想う気持ちとは別に。 相手の音楽を尊敬し、理解し、共に高めあえたなら。 こんなうれしいことは、他に、ないじゃないか。 ピアノがその音色の羽を休めたとき、千秋はのだめにそっと口付けた。 「今度は、気絶すんなよ」 「し、しまセンよ!でも不意打ちは反則デス」 真っ赤になりながら、のだめは言い返す。 「それよりも!!話ってなんですか?」 少しすねた表情で上目遣いに見つめるのだめに、千秋の心臓は跳ね上がる。 な、なにアガッてんだ、俺? 今度は千秋が赤くなり、目をそらしながら 「ち、近くの公園の桜が綺麗だなって……」 「10月に桜は咲きまセン!それにここフランスですヨ!」 う、と言葉につまる千秋に、のだめは無言の圧力をかける。 「……お、お前ももう何の話かわかってんだろ」 「ワカリマセン!そんなんじゃ蝶は捕まえられまセンよ」 ふふん、と鼻を鳴らすのだめに、千秋はわかったよ、と降参する。 「俺、ピアノとか抜きにしても、お前のこと……好きだよ」 瞬間、欲していたぬくもりが千秋の腕の中に舞い降りる。 「うれしーです。……先輩」 「俺一人が好きでも仕方がないとか言わねぇの?」 「もうっ!コレは先輩だけでいいんで――」 最後の言葉は、千秋に唇ごと飲み込まれ。 熱情に行き場を失った手は鍵盤をたたき。 ピアノは高らかな和音を歌い上げた。 何度も打ち寄せる快楽に翻弄されつつ。 お互いの身体が持つリズムに声をあげたのは、もう何度目だろう。 「センパイは、絶倫すぎ……デス」 数え切れない絶頂を迎えて、声にならない声を発したあと、のだめは意識を手放した。 「もう少し色っぽい発言しろよ」 クツクツ笑いながら、千秋はのだめにやさしく布団をかけてやる。 ――バランスをとるのは難しいかもしれない。けれど……。 こうして隣にいながら、俺も、お前も、自分の道を歩んでいって。 そうして、いつか同じ場所に立ってあの風景を一緒に見ることができたなら。 ルビーのネックレスを手に取って、千秋は二人の未来を思い描く。 とにかく、今は一歩一歩前に進むしかないよな。俺も、お前も。 手にしていたものを、のだめを起こさないようにそっと首にかけ、つぶやく。 「いつか、一緒にコンチェルトやろうな」 それは、そう先のことではないかもしれない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |