床の上
千秋真一×野田恵


俺はバッハがあまり好きではない。
いや、それは嘘だ。ほんとうは−−−−。

***

夕食のあとは必ずピアノの時間。これは日本にいるときから変わらない。
それは、「デート」をする仲になった今でもだ。

「そろそろのだめ、部屋に戻りますネ。あ、だけど、センパイ最近眠りが浅いって言ってましたよネ?最後にいいもの弾いてあげマス」

と言ってのだめが弾き始めたのは、
バッハの「主よ、人の望みの喜びを」だった。

「なんで…この曲?俺、バッハはあんまり……」
「このあいだ征子さんに会ったときにきいたんですケド、センパイが小さいころ好きで、よく眠る前にレコードかけてあげたって言ってたんデスよ。覚えてマスか? 好きだったわりに、今はあんまりバッハ聴いてないみたいですよネ」

この曲を、俺が……?
…そうか。のだめのピアノの音にのせて、徐々に記憶が蘇ってくる。
まだ父が家にいたころかもしれない。
レコードだけではなく、父自身が弾くピアノの音を、姿を思い出した。そういえばあの人は、練習の初めには、必ず何かしらバッハの曲を軽く弾いていた。フーガや、ゴルトベルグ変奏曲や…俺はそれを聴きながら、一緒になって歌ったりしていたっけ。
そうだ、思い出した。父がバッハを好きだったんだ。
それでなのか?俺が今、あまりバッハが好きじゃない−−−フリをしているのは。

「先輩のおじいさんもバッハの「マタイ受難曲」お好きだったんデスもんネ、ホラ、まえ三善のおうちに行ったとき言ってたじゃないデスか。おじいさんも先輩も好きなんだから、きっと先輩のお父さんも、バッハ、好きなんじゃないデスかね。やっぱり親子って、遺伝ですねー」

遺伝て、何言ってんだよ。知りもせず安直に断定する口調に、思わず吹き出した。
だが、それが真実を言い当てている。
吹き出しながら、雷に打たれたような気分になった。

…こいつは、どこまで分かって言っているのか。
おまえ、なーんにも考えず、いままで俺の心の中を縛っていた鎖を−−−断ち切った、って分かってるか?

……俺が、父親を許せないからって、彼が好きだったものを嫌いになる必要はないンだな…。
そんなの勿体ないし、音楽に対する冒涜だ。。
あったり前じゃねーか。今ごろ気付くなんて、俺は、バカか。

「のだめが弾くと、バッハってなんかややこしくてー、苦手だったんですけど、最近はいいなって思えるようになりましたヨー。これも学校で理論とか分析とかしっかりやり始めたせいデスかネー?」

そうだ先輩、今度バヨリンで無伴奏パルティータ弾いて聴かせてくださいヨ、ああでも無伴奏じゃのだめがピアノ弾けないからだめデスね、やっぱりフランクのソナタでも……
しゃべりながら弾き続けるのだめ。
俺はまた、のだめにやられたのか……。
思わず、愛しさがこみあげて。
ピアノに向かうのだめの背中から、そっと抱きすくめた。

「せ…センパイ?!」
「いいから弾き続けて」
「だって、もうこの曲終わっちゃいマスよ?」
「じゃあ次のカンカータをそのまま続けて」
「知りませンよ!!」

曲が終わり、ピアノの音が止んだ。のだめの−−−いや、俺のか?心臓の音が、妙に大きく聞こえる気がする。

「…今夜は、ここに泊まれ」

のだめが、ふぉぉぉと奇声をつぶやく。

「そ、それって…センパイの部屋で…え、と、のだめはソファで寝るってことデスか?」
「いや」
「じゃあ、のだめがベッドに寝て、先輩はソファで…」
「いや」
「まさかのだめ、床デスか?!」
「床に寝たいのか!」
「じゃあ本当に、い、一緒のベッド…でいいんデスか?……のだめ、今日は下着が上下バラバラなんですけど…」
「…べつにいいんじゃない?……いやか?」
「…いえ。じゃあ、おジャマすることにしまス……シャ、シャワーを、借りマスね…」

俺の腕からようやく逃れて、のだめはふらふらしながらバスルームに消えていった。顔がゆでダコみてーに赤かったな…と吹き出しながら、ふと壁にかかった鏡をのぞいたら、そういう自分の顔も赤くなっている。
俺は何してんだ…
もう少し、待てるつもりだったんだけどな…。
のだめの使う水音を聞きながら−−−あいつがうちの風呂を使うなんて何度もあったのに−−−緊張していくのが分かる。
数分後、シャワーの音が止まり、のだめが赤い顔をして−−−お湯のせいなのか、俺のせいなのか−−−出てきた。

「お先にいただきました…ハフー」

だめだ、直視できない。濡れた髪が、上気した頬や首筋が、妙に色っぽく見えて。

「あ、じゃ、じゃあ、俺も……ちょっと待ってて」

のだめをろくに見ずに、俺もバスルームへ向かった。

シャワーを浴びて出て来ると、居間にはのだめの姿がなかった。
まさか、帰ったのか?

「のだめ?」

声を出して名を呼んだら、ハーイ、と返事が返って来た。寝室から。
半開きになったドアから寝室をのぞくと−−−のだめは、俺のベッドの上に座っていた。
勝手に入っちゃいまシタ、先輩のベッドは2回目デスよ、とはにかんだように笑う。

「先輩がまたカズオになって、急に気が変わっても追い出されないように、待ち構えてみまシた」
「…いなくなったかと思った」
「どうして?のだめ、ココにいますヨ?」

のだめの隣に腰かけて、そっと手を握る。大きな手。ピアニストの手。

「ほんとうにデカいな、お前の手…手をつなぐとき、絶対取り損ねなさそうだ」
「このあいだオルセーに行ったときも成功しましたしネ」
「あ、あれは……寒かったから…」

あははー、なんで今さら照れるンですかー、突然手をつないでくれたから、のだめものすごーーーく嬉しかったんデスよ、しかもセンパイてば指をからめてくれてー、恋人つなぎデシタからー、とちょっと上目づかいにつぶやいたその唇が。
急に欲しくなって。

「……センパイ?」
「…名前で呼んで」
「……シンイチくん」
「恵」

軽く、頬に口づけする。額に。まぶたに。鼻先に。
そして、ふっくらとした唇に、自分の唇を落とした。まず上唇、そして下唇だけを、ついばむように軽く吸う。
柔らかさに気が遠くなりそうだ。

舌先で、輪郭をなぞるように唇全体を味わい、ついに口中へ割って入る。一瞬触れた舌先を逃しはしない。

「ん……」

重なり合った唇の間から、熱い息がもれる。のだめの、普段は絶対に聞けない、艶めいた声。もっと、この声を聞きたくなって。
柔らかな首筋、そして胸元へ、手の甲をゆっくりとすべらしてみる。

「ふぉ……」

手の甲で触っただけでも、弾力と、中央の突起が堅くなっているのが分かる。そのままウエストから背中へ左手を回し、今度は右手で乳房を包み込むように触ってみた。熱い、柔らかい、のだめの乳房。

「おまえ、くびれ、ねー」
「くびれはなくても、は…胸は大きいから、イんです…あ」
「そうだな…でかいな」
「おっぱい星人…」
「…うるせー」

のだめは、両手を俺の首の後ろに回した。俺はその姿勢のまま、のだめをベッドの上に組み敷く。

「起き上がった体勢のママのほうが、胸が大きく見えて、作戦としてはいいんデスけど…」
「そんなの、どこで覚えたー!?」

さすがのだめ、だ。こんな時にも冗談みたいな言葉が出てくるなんて…
けど。もうそんな言葉を吐く余裕はやらない。
あとは、吐息だけだ。

「ん………っ!!」

俺は、乳房を触る手に、力をこめた。

***

「センパイ…」
「……おはよ」
「なんでのだめ、床に寝てるンですカ……?」
「…俺もだから、別にいいだろ」

昨夜。
初めてだったのだめを「女」にするのは、思いのほか大変だった。
とにかく痛がったのだ。
あまりに辛そうだったので、もう今日はやめて、またにしようと俺は何度も提案した。途中で止めるのは俺としても辛かったが、それ以上にのだめが大変そうだったから。
けれど、のだめはそれを拒否した。絶対に、真一くんとひとつになりたい、と言い張って。
じゃあ、俺にしがみついて、痛かったらいくらでもその分、おれを叩いて、つねって、ひっかいて、何をしてもいいから、と言ったら、本当にアザが出来るくらい、力いっぱい叩いてくれた。
途中で、まるでレイプでもしている気分にもなり、少々萎えかけたのも事実だ。
だが、のだめが、俺のために…俺を好きだから、どんなに痛くても「ひとつになりたい」と望んでくれたんだから…。そう思うと、また奮い立ち、少しでものだめが良く思えて、苦痛が少なくなるよう、あれこれ努力した。
先端を入れてから、最後まで入るまでどのくらいかかったのか。そして、動かすまでにまたどのくらいかかったのか。とにかく俺は耐え、ゆっくりと、次の段階に進めて行くようにしたのだ。
その甲斐あって、だんだんのだめも余裕が出始め、最終的にはうまくいった−−−−のだが。

「と…途中で落ちたってコトですか、ベッドから……?のだめ、ぜんぜん覚えてナイですヨ…?」
「あれじゃあ場所がどこかなんて分からないだろ…とにかく俺様から逃げて逃げて、アゴに蹴りをくらわせて、その反動で落ちたんだから…そのくせに「絶対に続ける!」って言い張って、俺までベッドから引きずり下ろしたんだぞ、お前が」
「ほえ〜……じゃあ、センパイとのだめが結ばれたのって…結局」
「床の上」
「ひえーん!のだめ、初めてが床の上なんデスか〜!?そんなの、格好悪くてイヤですー!」
「まあ、なんか玄人っぽくていいんじゃねえ?」
「玄人って何の玄人デスかー!」

俺はサイドテーブルから床に落ちていた(正確には、のだめが振り回した手で落とした)タバコに、アザだらけになった手を伸ばした。
こいつといると、飽きそうにない。
それに。
いつも発見があるな…。

「どうせなら、ピアノの上とかの方が話のタネに良かったのに…グス」
「話って、誰に話すつもりなんだ……。とりあえずちゃんとベッドの上で出来るようになれ」
「ハイ!じゃあさっそく!」
「え……?て、おい!!」

のだめは立ち上がって俺の手を引っ張り、ベッドの上に引きずり上げた…
まったく読めない女だ…。






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