二人のコンチェルト(非エロ)
千秋真一×野田恵


日ごとに秋が深まるパリ。その一角を占めるサル・プレイエルホールには今日も多くの聴衆が詰め掛けていた。
お目当ては千秋真一指揮ウィルトール交響楽団のコンサートである。
日本でいう下手から姿をあらわした千秋に万来の拍手が送られる。チューニングの音が響いた後、
すべての聴衆が緊張感と高揚感の入り混じった空気に包まれた静寂を楽しむ。
そして、その張り詰めた会場の緊張感をタクトの一閃は破った。

「あぁ・・」

4プルトのオモテという指揮者が良く見える席にいるロランの目には相変わらず黒い羽の幻想が浮かぶ。
千秋の明確かつ力強いリズムの刻みがヴィオラ奏者ロランを虜にする。
千秋は日本人指揮者にありがちな「軽さ」とは無縁な指揮者である。
精密なアナリーゼと比類ないポリフォニー感覚でオーケストラから強靭で重厚な音楽を引き出す。
ウィルトール交響楽団との演奏は、幾度となく「千秋の音楽」をこれまでパリの聴衆に強く刻み続けてきた。
曲目、ブラームス交響曲第1番。
千秋にとって因縁の深い曲であるこの曲をウィルトールと演奏するのはこれが初めてである。
曲はまもなく第3楽章を終え第4楽章を迎えようとしている。4楽章で描かれる美しいヴィオラの対旋律はロランが愛してやまない音楽だ。
それを千秋の指揮でできるー

「あぁ・・」

恍惚を迎えたロランには彼に向けられた指揮台とファゴット席からの冷たい視線を感じることは
到底不可能だった。

「だからどういう解釈なんだ〜!」
「ぎゃぼ―」

いよいよ明日―
のだめと千秋のコンチェルト。
曲は「ラフマニノフピアノ協奏曲第2番」。
千秋の頭に浮かぶ言葉は「因縁の対決」だ。
のだめはコンセルヴァトワール在籍時にチョピン国際ピアノコンクールで1位獲得。
「ピアノという枠を越えた奇跡の演奏」と絶賛された、のだめは世界的と冠されるピアニストの一人となった。そしてのだめは千秋と同じ事務所−千秋の猛烈な反対を押し切られーに所属している。
今回のコンサートもミルヒーの陰謀だと千秋は確信している。
それにしても、である。相変わらずなその演奏は「大胆かつ奔放」と言えば聞こえはいいものの、千秋の耳には相変わらず「楽譜を読まない、曲を作る」のだめそのままだった。

「なんでそこのテンポを落とすんだ!テンポ指示は110だろ!」
「この方がキレイなんデス!」

のだめがハナの穴を膨らまし、抗う。
もちろん、いまやのだめは「プロ」ピアニストである。その演奏は芸術家としての表現そのものであり「のだめの音楽」がなければいけないことは当然だ。しかしー

「ここはソロじゃない!オケとのバランスを考えて弾かなければならないことくら」
「分かってマス!」

ラフマのピアコンはピアニストだけではなくオケにとっても「難曲」である。ピアノが表現する音の揺らぎ。それを鮮明に描けるよう構築しなければならない。
協奏曲一般に求められるソリストとオケの「呼吸」をしっかり合わせ、二つが溶け合った音を出すという技術として最高級のものが求められるのだ。
だが、のだめは大学時代に連弾したのだめそのままだ。
オレは合わせられるのか、こいつに。
不安が千秋を包む。

「ふー、ちょっと休憩しよう」
「ハイ」

−ふぅ。疲れた。くたびれ果てて千秋は椅子に腰を落とした。疲れの表情を浮かべる千秋にのだめは心配そうに寄り添う。

「なにか食べましょうヨ、あっ、実家から食べ物送られてきたんですヨ!」
「海苔だろ?」
「ひじきデス」

ひぃ―――――!
千秋の頭に悪夢がよぎる。のだめは何回教えても台所のシンクから山盛りのひじきを溢れ返らすのだ。

「い、いや、ひじきはやめとこう」
「ナンデですか〜?おにぎりもつくりますヨ?」
「あっいや、医者から止められているんだ、ひじき・・・」
「えっ、ソなんですか?」
「あと、ひじきは音楽性に影響があるとあの、えーあのベートーベンも言ってるし・・」
「ベトベンがですかぁ・・・」
「外行って食おう。マキシム行きたいって言ってただろ」目をそらしつつ千秋が逃げる。
「ムキャ〜、のだめ、肉がいいデス」

ふぅ〜よかった・・・・
安堵して煙草に手を伸ばそうとした千秋の膝にのだめがちょこんと腰を落とした。

「なんだ〜?」

千秋に背を向けて天井の向こうの空を見上げるようにのだめが言った。

「のだめ、この曲はのだめの音でつくりマス。身体にまだ残っている先輩の音は追い出しマス。
のだめのラフマニノフ、聞いてくだサイ」

―――大きい。のだめの背中がとてつもなく大きくみえる。
そうだよな、コイツはもう「プロ」なんだよな・・・・・
対等の「音楽家」としてののだめと、「女」としてののだめの両方が
前にいる。ふぅー。まだまだオレは・・・・
のだめとその想いを包み込むように千秋の腕がふわりとのだめを抱いた。

「・・・・うん」

のだめの決意に千秋は一言だけつぶやく。
背中に押し当てられた千秋の顔の温もりにのだめは安心し、そしてその決意を確実なものにした。

ピアノ協奏曲第2番。
精神を病んでいたラフマニノフは、1901年、高名な医師の「催眠療法」の結果、病を克服し、
この2番を書き上げた。

のだめが自分の飛行機恐怖症を解消してくれた経緯を話してくれたのは結婚後しばらくしてからだった。そのときの懐中時計は千秋の大切な「お守り」である。
演奏旅行にのだめが一緒にいないときはこの時計を握り締めて不快な空の時間をじっとやり過ごす。のだめはのだめで演奏会前の緊張感を自分が送ったネックレス
とともにやり過ごすらしい。
千秋も演奏直前必ずある気持ちに襲われる。それは簡単なものだ。

「失敗したらどうしよう」。

それはどんな名指揮者、名演奏家も襲われる本能的な恐怖感である。どんなに自信があったとしても演奏会の度に襲う恐怖感。
高名な演奏家が舞台袖でその恐怖感で暴れた話しは有名だ。
が、二人はそれぞれを「お守り」にして演奏に望む。
ラフマニノフが病を乗り越えて世に送ったこの曲は、それぞれの「傷」を乗り越えて
ここまできた二人に何かしら共感を覚えさせた。

のだめの楽屋にノックの音が響いた。

「あっ、ハ、ハイ どうぞ」
「調子はどうだ?」
「えっ、ハイ、ばっちりですヨ」

――目をそらしやがった。

「お前、昨日寝てないだろ」
「えっ?ネ、寝ましたヨ、ぐっすり」

ゆうべ、ピアノの音が途切れることはなかった。そして千秋もほとんど寝れななかった。
それはピアノの音のためではなく、のだめの超人的な集中力に圧倒されたためだった。

「オレは寝てないんだよ」
「ス、すみません・・・」
「っていうか、お前その衣装・・・・」

のだめが初めて出たコンクールの本選用の衣装。・・スカーレット・オハラ・・・

「かをりさんが贈ってくれたんデス。あとハリセン先生から手紙が・・・」
「・・・・手紙?」

千秋は折られた便箋を開いた。

「オレや。結婚式以来やけど元気にやっとるか?千秋とのコンチェルト見にいけるはずやったんやが、
今面倒見てる学生のコンクールがあってどうしても行けへん。「千秋真一と野田恵を育てた教師」
してオレも今やちょっとした顔や。もっともオマエや千秋を超える生徒はまだおらへんけど。かをりも合宿の関係で行けへん。
日本公演の日程もあるようやから、待っとるで。しかし、意外な男や千秋はホンマに。あのカニ以来」

そこまで読んで千秋は手紙をぐしゃりと握り締めた。

「・・いつ、オレがお前に育てられた・・・」

怒りのオーラに圧倒されたのだめがあわてて手紙を奪い返した。

「せ、先輩、のだめ大丈夫デスヨ。本当に。この衣装を着るとあの時ののだめになる気がするんですヨ」

千秋の中で時間が巻き戻る。
まるでオーケストラのようなモーツァルト。
渾身のシューマン。
そして会場を歓喜の坩堝にさせたストラヴィンスキー。

のだめの才能が初めて人々を魅了したあの時間―

「・・・本当に大丈夫なんだな?」
「・・・・・・ハイ。」

千秋はのだめの前に腰を落とした。そして、その大きな手を両方とも握り締めた。
そして少し上気した表情を見せるのだめの頬をそっと撫でた。

「楽しい音楽の時間、だぞ。なっ?」

のだめを見上げて精一杯の笑顔を見せた。

「ソですね」

のだめが片方の手を握り返す。
そのときドアの外に無粋な声が上がった。

「時間ですー!お願いしまーす!」

ステージマネージャーの大きな声が響いた。

―――空気が違う。

のだめが感じた空気。それはコンサートホールも同じである。
クラシック音楽はこの空気の中で生まれ、発達を遂げた。
千秋は思う。「クラシック音楽とはヨーロッパの音楽」なのだと。
そしてその空気で音楽を出来る自分。もしのだめがいなかったら。
万来の歓声が千秋を迎える中、千秋は指揮台へ向かう。
しかし、その歓声の中にいくつかの日本語が混ざっているのをさすがの千秋の耳も聞き分けることは出来なかった。

「よく見えねぇな。やっぱもう少しいい席とりゃよかったんだよ」
「取れなかったのよ!見たでしょ?当日席のあの行列。
今日だって師匠に頼んでようやく都合つけてもらったんだから」

峰と清良の姿は2階席の後側だった。

「くそ〜、さっかく沙良を預けて来てやったっつーのによ・・」
「アンタ、携帯切ったの?待受見てたでしょ、さっき」
「当り前だろ・・ほら・・あっ」

そこにはこれ以上なく相好を崩して沙良に頬摺りしている峰の写真が画面一杯に写っていた。

「ふぅ〜」

あわてて電源を切る峰にため息をついて清良は頬杖しながら舞台に目を戻した。

「二人の音楽が・・・聞けるね」

峰が席に背中を預けてながら小さく呟いた。

「・・・あぁ」

「はぁ・・千秋さま・・」

少し離れた席に真澄は座っていた。
うっとりする真澄は後席からのあからさまな迷惑顔を見ることは出来なかった。
後席からは真澄の髪しか見えないのだ・・・

「シアワセです・・・今日は・・・」

理事長を挟んだ席にシュトレーゼマンとカイ・ドゥーンが座る。

「どうしてこんな席順なんだ・・」

カイが理事長越しにミルヒーを睨みつける。

「まぁいいじゃない。もう少しで始まるわよ」
「ワタシの弟子と、可愛いノダメちゃんのコンチェルトがうまく行かない訳がアリマセン。
そんなことよりドウです?今日終わったら食事でも・・」

「フン!」

カイが不愉快極まり無い顔で舞台へ顔を向ける。・・それにしても。
二人のコンチェルト。気になる。そして胸が高鳴る・・

「先生、いよいよですね」

コンセルヴァトワールのピアノ教師が話し掛ける。のだめの初見の教師である。

「そうですね・・・」
「楽しみですね。ベーベちゃん」
「もうベーベではありませんよ。リッパなmademoiselle(女性)です」
「そうでしたね・・・」

苦笑する教師の傍らでオクレールは呟いた。

「Bonne soiree(良い夜を)、ベーベちゃん」

のだめが袖から姿をあらわした。もっさもっさとスカートが揺れる。

「オウ〜」

観客から歓声が上がった。その歓声に千秋が顔を赤らめる。やっぱその服――!
がたーん。
椅子が傾く。ぶつかりやがった・・さすがに観客席からは笑いが起こった。
千秋の表情にげんなりしたものが浮かぶ。それでも「世界の野田恵」か・・・
が、それは満場の観客にとって嬉しいオプションでしかなかった。すぐに床を揺るがすような拍手が会場を包む。
のだめは席についた。椅子を調節するのだめをちらりと千秋は覗いた。

あの目―
コンクールの時に見せた目。
ピアノ、そして音楽への揺ぎない意志がその目にこもる。
のだめに降りてきている音楽の神の業・・だろうか。
千秋はのだめがプロデビューした後、そのコンサートに行ったことがほとんどない。日程が合わないこともあるが、
「身内」の演奏は大抵の演奏家にとって面映いものだ。特に「千秋夫妻」となってからは益々、その足を遠ざけた。
拍手が収まり、観客席が静寂に包まれる。場内に響くチューニングの音。
千秋がのだめに目で伝える。

―――いつでもどうぞ。
のだめの瞼が一瞬閉じられた。
そして。

「あっ」

峰が、真澄が同時に息を呑んだ。

「あの口・・・」

のだめのひょっとこ口が遠くからも見えた。
そして次の瞬間、のだめの手が最初の一音へと向けて鍵盤へ降りた。

高名なピアニスト、ホロヴィッツは言った。

「東洋人と女にはピアノは弾けない」

だが「東洋人で女」であるのだめの一音は会場を一瞬にして凍らせた
最初の8小節のピアノソロ。10度に渡る和音。ピアニストによっては一度に弾けず
アルペジオ(分散和音)にしてしまう。
だが、のだめの大きな手はその和音をやすやすと操る。そして。
たしかにピアニッシモの一音。だが、すべての聴衆の胸に岩のようなフォルテッシモ
となって突き刺さってゆく。
千秋の背筋が震えた。

すげぇ―――
素直に、とても素直に千秋は思った。
そしてタクトは降りた。
ここからサル・プレイエルホールの35分間はその後「神が降りた35分間」として歴史に
刻まれることとなるのを二人、そしてすべての聴衆はまだ知らなかった。

第2楽章の甘美な音楽。のだめのピアノの音。ひたすら甘い。
それは行っては行けない世界からの危険な誘惑のようだ。千秋は最初にのだめのピアノを聞いて以来、
この誘惑にひたすらのめり込んでいたのだ。恣意的なのだめの解釈はそれまでだれもが聞いたことがないラフマニノフとなり、
さらにのだめの「音楽」となって聴衆を呆然とさせる。

「・・・・・私は自分の陰鬱な面が晴れつつあるのを感じる。
人を癒す音楽。私はそれを目指してきた」(ラフマニノフの書簡より)

ウィルトール響の強靭なアンサンブルがのだめのピアノの前に揺るがず、付き添う。
鍵盤から漂う音がオーケストラの音と寸分狂わず溶け合う。
ロランの目にはすでに黒い羽根の幻想が浮かぶことはなかった。
この時間・・・この時間・・・が永遠であればいいのに。

「音楽の役割で人を癒すことのほかに何があろうか。
知ってのとおり初めて発表された歌曲の題名を
“悲しみの収穫”とつけた。今なら多分みんなで
収穫に集まって悲しみを癒すことができるであろう。」(同上)

いよいよ第3楽章はクライマックスに向けて高まりを続けている。
千秋は初めての経験をした。音楽が見える。音が色彩を帯びる。白のショパン、ピンクのモーツァルト。そうか、あいつはこんな世界で音を紡ぐのか。うらやましいな。

タクトの一振り一振りが楽しい。音楽が築き上げられてゆく一瞬一瞬が楽しい。

「“心の喜び”。ききての頭脳を経由するのではなく
直接心に響く音楽をめざす。リラックスして自然に
ひきこまれ幸せな気分になれるような音楽を・・・・。
“私のことを知りたいなら私の音楽をききなさい”」
(ラフマニノフが孫に語った言葉)

すでにオーケストラの誰もが解き放たれていた。楽譜という呪縛、リズムという呪縛、アンサンブルという呪縛。すでに意志を持ってしまった今という永遠の時。


千秋とのだめの奏でる音楽はウィルトールを率いて違う世界にその場の全員を運んでいる。

「神サマが呼んでるから」

そうだな。オレだけでなく、あいつも一緒に呼んでくれた神に感謝しよう。
千秋のタクトが最後に一振りの打点を刻み、その時間は終わりを告げた。

最後の一音が響きを失った後、静寂が会場を包んでいた。
普段なら湧き上がる歓声はそこにはなかった。
だが千秋にはそんなことはどうでもよかった。
指揮台を降り、ピアノに駆け寄る。
のだめの微笑み。うなじから頬を伝う一筋の汗。
抱きしめたいという強烈な欲求を千秋はねじ伏せた。
手を差し出す千秋に応えてのだめが立ち上がる。がたーん。椅子が揺らぐ。

ううっ・・ううっ・・・

嗚咽が響く。会場を数え切れない嗚咽が包んでいる。
「奇跡の35分間」が終わった。
精神を揺さぶり、魂を震わせた35分間。千秋とのだめの演奏は聴衆から言葉を奪っていた。
果てしない感動は浅薄な賞賛を拒絶した。そして、静寂。嗚咽。

峰の瞳に二人が写っている。だが、一向に焦点が合わない。
涙は演奏の途中でとっくに枯れていたのだが。
清良は顔を両手で覆い、席上に突っ伏したままだ。
会場を包む静寂に峰は強烈な衝動に襲われた。――――ダメだ、みんな――――
峰が立ち上がった。

「千秋―!のだめー!ぶ、ブラヴォーーー!!」
「えっ?」

その声に固く手をつなぐ千秋とのだめが観客席に振り返った瞬間だった。

「BRAVO―!!!」

聴衆は峰の声に我に返った。そしてようやく思い出したのだ。
二人そしてウィルトールに限りない賛辞の声を送ることを。
聴衆がその奇跡、まさに神が降りてきた演奏に贈った歓喜の声。それはすでに絶叫だった。

「ううっ」

真澄は抱き合って泣いていた。
―後ろの席の聴衆と。
まるで昔からの友人のように、感動を共有し、かたく抱きしめてあっていた。

「・・・・・先生」

オクレールの傍らでのだめに初見を教えた女性教師は溢れる涙を拭う。拭っても拭っても涙が止まらないのだ。
そして身体を包む震え。本当にあの子なの?本当に・・・
オクレールが余韻を楽しみながら舞台に向かって呟いた。

「ベーベちゃんを神サマが連れて行ってしまったね」

涙を拭いながら女性教師が微笑んで言う。

「ベーベちゃん、ですか?」

千秋に促されてウィルトールのメンバーが立ち上がる。惜しみない賛辞はウィルトールへのものでもあった。
どの表情にも笑顔が溢れていた。それはウィルトールが「世界のウィルトール」となったことへの喜びでもあった。ロランは潤む瞳でファゴット席を見る。
そこには俯いて涙を流す彼女がいた。

「ミナコ」
「?」
「私はまた、オケに戻ってみたくなった」
「オケに?」
「一生で、一生でもう一度だけこのような演奏に舞台で立ち会ってみたい」

ふふっと笑って理事長は涙を拭いていたハンカチは顔から外した。

「だそうよ、シュトレーゼマン?」
「オー、スバラしい。早速、事務所に連絡しまショウ」
「だ、だれがこいつとなんか演るかーーー!」

カイにとって不幸だったこと。それは真後ろの席にエリーゼが座っていたことに気がつかないことだった。

10分、20分と経っても歓喜の声は止まなかった。用意されていたアンコールの曲は当然、演奏されることはなかった。
この時間そして余韻が終わることを惜しむすべての聴衆にとって必要のないものだった。

千秋が再度、のだめの楽屋の扉を開けた。

「ちょ、チョット待ってくだサイ!」

のだめは衣装を着替えている最中だった。ワンピースの大きく空いた背中からあせばんだ白い肌と黒いレースの下着が覗く。胸がどきりとする。・・・・・夫婦だっつーのに。

「のだめ」

背中のファスナーを上げてやりながら、千秋が聞いた。

「ナンですか?」
「おまえ、演奏中なにを考えた?」
「演奏中ですか〜?」

宙をにらみ、のだめは考える。

「ん〜夜ごはんかな〜」

こいつーーーー!

「先輩は何を考えたんデスか?」
「オレは・・オレは」

のだめの肩に手をかけて千秋は言った。

「この時間が・・・この時間が永遠に続けばいい、そう思った」

そのときのだめがくるりと振り返って千秋の頬にキスをした。ぶちゅん。相変わらずの「タメ」のなさ。でも、柔らかな感触。化粧の香りと微かな汗の匂い。

「のだめ、ウィルトールとがんばりましたヨ。先輩を神サマのところに送っていったんですヨ」

ばーか。

「えっ?」

今度は千秋がのだめの頬へキスを送る。そして後れ毛を耳へ戻してやりながら言った。

「神さまが連れていったのはオレとオマエだ。覚えとけ」

のだめがふぉぉと顔を赤らめる。
休みたい。二人で身体を横たえたい。
まだ感触が、音楽の感触が残る身体を横たえて二人でまどろみたい。

「帰るぞ、恵」

千秋がのだめの手首を掴んだそのときー

「セ、先輩―」
「なんだー?」
「あの、ミルヒーが終わったらワン・モア・キスに来るようにって・・峰くんや真澄ちゃん、清良さんとかもいるみたいですヨ・・」
「知るかーーーーーーーー!」
「あ、あのデスね、もし来ないとプ、プ・・ロメ・・プロメテウスがそちらに向かうとかなんとか、ナンですかね?」

あのクソジジイーーーーーー!
ふぅ。まぁいいか。思う存分見せてやる。世界のMEGUMI NODAを、そしてオレの恵を。

「くそー、いくぞ!」
「あ、のだめまだ、化粧が、ちょ、真一くん!」

有無を言わせず千秋の手がのだめを引きずった。
廊下にあへ〜というのだめの声が反響する。

―千秋は気づかなかった。ドアが開く直前、ガラスに映った自分の顔にほんのりと口紅がついていることに。






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