千秋真一×野田恵
![]() お前が、お前自身の光り輝く音楽へ向かって羽ばたいていく。それは恐らく、お前以上に 俺が望んでいたことだったはずなのに。 なぜ、こんなにも気持ちが沈んでいくのだろう。 君が手を離さないでと言ってくれるだけで 地平線に沈みかけた太陽の光を反射して、立ち込めた夕霧がパリの街を暖かに彩る。その 一角にたたずむ古びた、しかし趣のあるアンソニーホールの前は、多くの人間でにぎわっ ていた。今日、この場所でデビューを飾る一人のピアニストの演奏を聴きにきた人々であ ろう。まったくの無名だった彼女が音楽界にその名を轟かせたのは、つい数ヶ月前のこと であった。 某有名コンクールに颯爽と現れた日本人ピアニスト、野田 恵 はその会場に居合わせた 人間の心とともに、優勝の栄誉をさらっていった。音楽界は瞬く間に彼女の話題でもちき りになった。 ――日本人天才ピアニスト、堂々デビュー―― そんな彼女の演奏を是非聴いてみたいと、芸術の都に住む人々はこぞってこのホールに足 を向けたのである。 開場の時間になり、人の群れは建物の中に流れ込んでいった。その中に、今日の演奏を誰 よりも待ち望んでいた男がいた。千秋真一である。彼は自身の演奏旅行を終えて、ついさ っきパリに戻ってきたところであった。 「いよいよデスね。のだめちゃんのデビュー公演」 彼と共にこの会場に足を運んだシュトレーゼマンが話しかけた。 「……ええ」 心配のためか、自分の初公演の時以上に表情が硬く、青白い。 そんな千秋に彼の師匠は微笑ってポンッと肩を叩く。 「ダイジョウブですヨ。のだめちゃんなら、私タチをあっと驚かせる、素敵な演奏をして くれマス」 さあ、楽しい音楽の時間デス。 開演のブザーがホールに鳴り響き、彼らは指定された席へとその歩みを進めた。 圧倒的だった。コロコロと楽しそうに踊る音色。かと思うとまるで心臓に突き刺さるかの ような重厚な和音。そのピアノの紡ぎだす音に人々の心は弾み、揺さぶられ、そして魅了 される。その多彩な音色と浮かび上がるイマジネーションに観客は陶酔しきっていた。 千秋真一もその例外ではなかった。しかし……。 すべての演目が終了し、客席からアンコールの嵐が沸き起こる中、千秋は一人静かにホー ルを後にする。人々がのだめに送る歓声が、いつまでも頭の中に響いていた。 やがて、すばらしい演奏に興奮しきった観客が今日の主役をたたえながら、出入り口の扉 よりその音色の余韻に浸るようにゆったりとした足取りで出てきた。その流れに沿ってシ ュトレーゼマンも出口に向かう。キョロキョロとあたりをうかがうと、ロビーに設置され た喫煙所で煙を燻らす千秋が目に入った。 「一人でさっさと出て行くなんて、薄情な男デスネ」 声を掛け、自分もタバコに火をつける。 「アンコールの演奏も、すばらしかったですヨ」 のだめちゃん成長したネ、と賛辞を述べると、千秋は「そうですね」と一言返した。その 顔色はこの場に似つかわしくない程、暗い。楽屋には行かないの? というシュトレーゼマンの 言葉には答えず、千秋はそれじゃ、と背を向けた。 「そんなことじゃ、のだめちゃんと一緒にはいられないネ」 背中から掛けられた、すべてお見通しというような彼の言葉に、千秋の足取りは一段と重 くなった。 ――アイツの才能を俺が見出し、俺の音楽でアイツをここまで引っ張り上げた。 いままでずっとそう思っていた俺は、ただの自惚れ屋だな。アイツは自分で 自分の音楽を見つけ、そして自分の足であの舞台に立った。俺とアイツの音は、 こんなにも違う。それは当たり前のことなのに。 どうすることもできないモヤモヤを抱え、千秋は一人帰路についた。 シュトレーゼマンが楽屋の扉をノックすると、中から「はーい、どうぞ」と明るい声が聞 こえてきた。ドアを開けると、そこには初公演を無事成功させたという安堵と自信に満ち 溢れた笑顔があった。 「ミルヒー、来てくれたんデスね! 嬉しいデス〜」 どでしたか、と聞きながらも、のだめの目は傍らにいるはずの男を探す。 「チアキならもう、家に帰りましたヨ」 「えっ……」 シュトレーゼマンから花束を受け取りつつも、彼女は落胆の色を隠せない。しかし頭を軽 く振って顔を上げるとそですかー、疲れてるんですかね、と微笑った。 「ま、今日の感想はアパトに戻ってから聞けばいいしー。ミルヒーは? どう思いました カ? 今日ののだめの演奏は」 「とってもよかったデスヨ? のだめちゃん、がんばりマシタネ♪」 エヘヘー、さっきオクレールせんせにも褒められマシタ、と笑うのだめの頬に軽い祝福の キスを送り、シュトレーゼマンはつぶやく。 「……もしかしたら、チアキよりもキミの方が大人なのかもネ」 それってどーいう意味デスカ? と首をかしげる彼女に、秘密の話、とシュトレーゼマン はウィンクして答えた。 初公演を祝うパーティも終わり、のだめは酒でほのかに赤く染まった頬を両手で包み込み ながらタクシーに乗り込んだ。行き先を告げ、シートに深く身を預ける。 ――まだ、ドキドキしてる……。 初めての公演で自分らしい演奏が出来たこと、そしてそれにより沸き起こった観客の暖か な拍手と声援。彼女の心には先程の興奮が再びリアルに蘇ってきた。 ――先輩は、どう思ったカナ? のだめ、がんばったんデスヨ。 それにしても、と彼女は思う。どうして先輩は先に帰っちゃったんだろう? 一番に、よかったよって言って欲しかったのに。そうつぶやくのだめには、もちろん今の 千秋の心情を想像することができるはずもなかった。 アパートの吹き抜けに軽やかなステップを響かせながら、のだめは階段を駆け上がる。初 公演の成功を二人で祝いたいと思う気持ちが、彼女の心を舞い上がらせた。 だから、彼女が千秋の部屋を訪れた時、その暗闇に驚いたのも無理はない。 「あれ? 先輩、もう寝ちゃったんデスか〜?」 そっと明かりをつけると、リビングのソファーにその身を沈ませた千秋がいた。彼の表情 はのだめの位置からは窺えない。 「びっくりした〜! 起きてるじゃないデスか」 明かりもつけないで、どうかしましタカ? と彼女は心配そうに千秋の傍へ近づく。返事 がないので気分でも悪いのかと彼の額に手を伸ばす。 その瞬間、ものすごい力で腕を掴まれた。ビクッとのだめの身体が固まる。顔を上げた千 秋を見ると、その表情は今までに見たことのないものだった。 「ど、どしたんで――」 混乱するのだめをソファーに押し倒し、千秋は強引にその唇を塞ぐ。その手はすでに彼女 の太ももあたりを弄り、ワンピースのすそをたくし上げた。 突然の千秋の行為に、のだめは一瞬パニックになる。千秋の執拗なキスによって言葉を発 することも出来ずにいたが、やがて息苦しさから渾身の力を込めて、彼の身体を押し返した。 なおも圧し掛かろうとする彼を、肩で息をしながら制す。 「な、なに……するんですか、こんな……こんなのヤです……」 覆いかぶさるように両手をついている千秋に、見上げるような形で瞳を向ける。その目に は涙が溢れていた。 「今日は、のだめのデビューコンサートで。先輩も一緒に、喜んで……くれるかと」 言葉尻は嗚咽にかき消され、もはや聞き取れない程小さくなっていく。 「……なのに、こんな……ひど…ですヨ」 その時、「ごめん」という言葉とともに、のだめを拘束する力が弱まった。涙を拭った のだめが訝しげに窺うと、そこには今にも泣き出しそうな子供のような千秋の顔があった。 そのままの状態で、時計の針は静かに時を刻んでいく。やがて、のだめがその手を恐る恐 る千秋の頬に伸ばすと、一回り大きな手に優しく包み込まれた。暖かなその温もりにほっ としながらも、未だ尋常ではない彼の様子にのだめの心は恐れにも似た感情に支配されている。 戒めは解けたはずなのに、身体が自由に動かせない。 どうしてよいかわからずそのままの体勢でじっとしていたのだめの顔に、ぽつりと生暖か い雫が落ちた。 「……先輩、泣いて……!?」 握っていた手に一瞬キュッと力を込めた後、ソファーの上に流れた栗色の髪をそっと撫でて。 千秋はもう一度「ごめんな」とつぶやくように言った。 そのまま立ち上がろうとする千秋の腕を、のだめはがっしりと掴んで離そうとはしなかった。 こんな悲しそうな顔をする千秋を見るのは初めてだったから。逃がしちゃダメだ、と彼女 の本能が警告する。 「何か、あったんですか?」 優しい声色の問いかけにも、千秋はただ首を振り。ごめんと同じ言葉を繰り返す。 「謝ってもらいたいんじゃナイんです。ただ、話してほしいだけ……」 ツラそうな先輩の顔見てるのは、のだめもツライから。そう言って微笑う彼女に、千秋は 少しずつ自分の胸の内を明かした。 いつも、いつも傍にいて。まるでそうすることが当たり前のように、傍にいて。同じもの を見て、感じて、いつまでも手を繋いで、一緒に歩いて行くんだと思ってた。俺がお前の 手を引いて、同じ場所にお前を導きながらたどり着くんだって。傲慢、だよな。お前は いつだって、自分の足でがんばって歩いてきたのに。 いつからだったんだろう、そんな考えが不安に取って代わったのは。俺は、お前が自分の 音楽を確立していく中で、どんどん不安になっていった。もしかしたら、俺の存在は、お前 の音楽の邪魔をしているだけなんじゃないかって気がして。 それが、今日の公演で現実となって俺の前に現れたような気がした。すごかったよ。鳥肌が 立った。そして、……ああ、まるで違う、と思った。二人の音楽性の違いを改めて思い知った。 俺は無意識にしても、まだお前の手を引っ張っている気になってる自分に吐き気がしたよ。 最低だな、と吐き捨てるように千秋は言った。 うめくような声で、なおも千秋は続ける。 俺も、お前も、違う一人の人間で。そんなこと、当たり前のことのはずなのに。お前が、 俺の知らない場所に向かって羽ばたいていくのが、どうしようもなく、怖くて。喜ぶべき ことのはずなのに、どうしようもなく、怖くなって。 ふいに千秋のバランスが崩れ、頬の下に柔らかな感触が広がった。彼の首には、しっかり とのだめの腕が巻きついている。千秋を抱きしめながら、のだめは笑い声を上げた。 突然に起こった、この場の雰囲気にそぐわない笑い声に、千秋はムッとする。 「……お前、ここは笑うトコじゃないだろ?」 だってー、となおも笑い続けるのだめは、すぐ上にある顔にいたずらっぽい目を向けた。 「昔ののだめとおんなじなんだモン。おかしくって〜」 わけがわからないという表情の千秋に、のだめは優しく語り掛ける。かつて日本にいた時 の、自分が感じていた不安と想いを。 先輩と過ごした大学生活は、すごく、すごく楽しくって。でも、いつか先輩は遠くに行って しまうんじゃないかって、いつも、いつも不安でした。だから、先輩が飛行機恐怖症だと 知ったとき、嬉しかったんです。喜ぶことじゃないはずなのに、これでずっと一緒にいら れるんだって。先輩の音楽が大好きなのに、おかしいですよね。 でも……。R☆Sオケの初公演を聴きに行った時、わかっちゃったんです。ああ、この人は 神さまに呼ばれてるんだって。だから、行かなくちゃいけないんだって。 頭ではわかってても、先輩がどこか遠くに行っちゃうのは、すごく怖かった。のだめが がんばっても、追いつけないところに行っちゃうんじゃないかって、怖かったんです。 だから、おんなじ。フフフと笑うのだめに、千秋は胸の詰まるような思いでつぶやく。 「……初めて、聞いた」 そりゃーそデスヨ初めて話すんですカラ〜、とのだめは笑顔で返す。 「それでも、こうして今一緒にいるんです。たとえお互いの音楽が違う方向へ向かって いるのだとしても、それを結びつけることが出来ないはずアリマセン。そこから新しい 音楽を一緒に作っていけるんデス」 なんてったって、先輩とのだめのゴールデンコンビなんデスから〜と朗らかに笑う彼女を 千秋は呆然と見つめることしか出来ない。そんな彼の手を取って、のだめは続ける。 「『僕たちは音楽で繋がっている』デショ? それに〜のだめはこの手を離すつもりは さらさらないデスヨ」 参った。この女には、きっと、一生敵わない。 「凄いな、お前って」 そう言って、優しく口付けた。 先程とは違って、その手は慈しむようにゆっくりとのだめの肌の上を動く。彼女はその すべてを受け入れ、時折切なげな声を漏らした。その吐息ごと絡め取るように、千秋の 舌は彼女の口内を支配していく。右手が丸みを帯びた滑らかな胸にたどり着くと、のだめ の身体がビクリと反応した。それを合図に、唇を解放し、首筋に印を刻みながら、その 先端を舌で転がす。短く高い叫びが耳元で上げられ、頭を抱える腕に、僅かな力が加わる。 しっとりと汗ばんだ太ももを撫で上げ、茂みに隠された部分に指を潜り込ませると、そこ はもう濡れていた。 ツルリと指を滑らせると、一際高い声を上げ、のだめの身体は震えた。額に掛かる髪を梳 き上げて、千秋は耳元で囁く。 「俺も、お前の手を離す気なんて、さらさらないよ」 外気に晒された額に一つキスを落とすと、千秋は一気に彼女の中に入っていった。 後から後から沸き起こる快楽に翻弄されまいと、のだめはシーツを握り締めるが、彼から 伝わってくる激しいリズムに、もう、何も考えることができない。ただ、心の中にある 彼への愛おしさを千秋が感じてくれればと潤んだ目で見つめるだけで精一杯であった。 そんな彼女にもう一度深く口付けて、千秋は自身を解放した。 行為を終えた後も、千秋の腕はのだめの身体に絡みついたままで。ちょっと苦しいデスと 言う彼女の言葉にもますますきつく抱きしめる。 のだめは苦笑しながら言った。 「今日の先輩は、なんだか子供みたいデス」 「……うん」 我ながら呆れてる、と言いながらも結局両腕の戒めが解けることはなく。 二人寄り添ったまま、朝まで幸せな眠りについた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |