千秋真一×野田恵
![]() 先に手を離したのは、どちらだったのか? 今となってはもう、どうでもいいことだけれど。 そして僕らは間違っていく 1.届かない声 母、征子からの電話を受けたのは、演奏旅行で訪れたイタリアのホテルだった。俺は師匠である シュトレーゼマンに付いて、世界各国で行われる彼の演奏会に参加している。今回でもう5回目を 数えるそれの内容は、相変わらず彼の付き人的役割で。慣れたこととはいえ疲れることに変わりは なく、携帯の呼び出し音に気が付いたときもようやく雑事から解放された直後だった。 「はい?」 「真一?私よ。……何か疲れてるわね」 母さんか、と予想していた人物ではないことに少し落胆した。そういえば最近連絡がない。俺が パリを出てから毎日のように電話やメールを寄越してきた彼女だったが、まああっちもいろいろ 忙しいのだろうと自分を納得させる。 「今、演奏旅行中なんだよ。……で、何か用?」 「マエストロの付き人でしょ?のだめちゃんから聞いてるわ」 今イタリア?と聞いてきたので、そうだけど、と短く返す。 「何、最近アイツに会ったの?」 「ええ、まあ。それであなたに話があるんだけど……。明日私もそっちに行く予定があるから 会えないかしら?少しでいいから」 明日は公演の中休みだったから、久しぶりに丸一日空いていた。けれど、どことなく歯切れの悪い 母の言い方が気になり、逆に聞き返す。 「電話じゃ話せない内容?」 そういうわけじゃないんだけど……、と母は言葉を詰まらせる。 「とにかく、顔を見て話がしたいの。都合のいい時間を教えて頂戴」 「……わかった」 時間と滞在しているホテルの名を告げて、電話を切った。 2.鳥は羽ばたく 夕方、誰もいない小さな公園のベンチに座り、目の前の池をぼんやり眺める。白鳥が浮かんで いたので持っていたパンを小さくちぎって投げてやると、他の鳥たちも集まってきてあっと いう間になくなってしまった。 「ごめんね。もう、ないんデスヨ」 2度目となるNYの訪問だが、やっぱり冬は寒い。私はマフラーをもう一度きつめに巻き直し、 かじかむ手にはあーっと息を吹きかけた。 ――これは、のだめちゃんにとって大きなチャンスだと思うの。 先に帰ってしまった征子の、昨日の言葉を思い出す。突然呼び出されて、NYまで連れてこられた 私の前に置かれた、信じられないくらいの幸運な話。ピアニストとしての私は、素直に喜んだ。 けれど……。一瞬、彼の顔が浮かんだのも事実で。 「のだめは、何が不安なんでしょうね?」 一人つぶやいても、目の前の白鳥は答えてくれない。ふう、と思わずため息が漏れる。 ステファンと彼のオケとの競演は忘れられない。彼らとの舞台はとても刺激的で、毎回違う景色が 心の中に広がるのを感じた。まだ耳に残るその音にドキドキするくらいに。 そう、もう答えは出てる。もう一度、彼らと演りたい。 何かを吹っ切るように力強く立ち上がり、私は宿泊先のホテルへ向かった。 3.束縛の期限 約束の時間5分前にホテルのロビーへ行くと、もう母は来ていた。いつもは大抵待たされることが 多かったからちょっと驚いたが、彼女がビジネスとプライベートを分けている証拠なんだろうと思う。 そう、きっと話というのは仕事に関するものだ。電話の様子から俺はなんとなくそう推測していた。 母さん、と声を掛け二言三言挨拶を済ませると、俺たちは近くのカフェに場所を移した。 ウェイターにエスプレッソを2つ頼み、俺はタバコに火をつけながらいきなり本題に入る。 「で、話って?」 唐突な俺の言葉に、母は相変わらずせっかちねぇと笑った。 「また取材とかの話なら、事務所の方に――」 「そうじゃないのよ」 急に真面目な顔つきになった母は、俺の言葉を遮って言った。 「のだめちゃんのことなの」 「のだめ?アイツがどうかした?」 「3日前まで私、のだめちゃんとNYに行ってたのよ」 NY?だってアイツは今オフでパリに……。わけがわからない俺は、黙って母の言葉を待つ。 「初公演を終えてから、彼女いろんなところから客員として呼ばれて演奏してたでしょう? その間にオファーが来てね。ステファン・レノって知ってる?」 ステファン・レノと言えば、NYのR管で指揮を振るとともに、その監督をも務める有名な 音楽家だ。俺が頷くと母は続けた。 「彼がのだめちゃんのピアノを凄く気に入ってくれて、ぜひ専属のピアニストとして 籍を置いて欲しいって言ってくれたの」 すごい、と思った。のだめのピアノが世界に認められたことを誇らしくも思う。けれど……。 喜びとともに何か複雑な気持ちを抱えきれず、俺はつい聞いてしまった。 「……のだめは、何て?」 俺の言葉に母は小さくため息を漏らす。そして質問には答えず厳しい口調で言った。 「真一。彼女の恋人であるあなたが心配するのはわかるわ。離れることを不安に思う気持ちもわかる。 でもね、のだめちゃんはあなたの恋人である前に、一人のピアニストなのよ」 「そんなことはわかって――」 「いいえ、わかってない」ピシャリと言い放つ。 「このまま彼女をパリに置いておくつもり?自分は演奏で各国を飛び回っておきながら、それは あんまりじゃないかしら。のだめちゃんはあなたの付属品じゃ――」 バンッという大きな音に、店内にいた客の視線が一斉にこちらを向く。俺はビリビリと痛む 自分の右手を擦った。 「……ごめんなさい。言い過ぎたわ」 テーブルの上に零れた水を取り出したハンカチで拭いながら母は続ける。 「でも、真一。あなたには彼女を一番に応援してもらいたいのよ。そしてのだめちゃんには このチャンスを捕まえて欲しい。だから……」 彼女の背中を押してあげて、と言って立ち上がる。俺は顔を上げることが出来ない。 「のだめちゃんは、答えを保留しているわ」 去っていく足音を聞きながら、俺はまだ痛む右手を見つめる。この痛みは、たぶん図星を 指されたってことなんだろうと自嘲気味に、思った。 4.手にした価値 R管の事務所に行こうとしたけれど、自分がほとんど英語を話せないことに気付き、 少し落ち込んだ。決意したからには、早くサインをしていまいたかった。そうしなければ、 また気持ちが揺らいでしまいそうで、怖い。 「私が仕事に出掛けてる間、ゆっくり考えてね」 そう言って空港へ向かった征子サンが帰ってくるまで、あと2,3日。それまでどうしても 浮かんできてしまう先輩の顔と格闘しなければならないかと思うと、気が重くなる。 勝負はいつも、五分と五分だから。 気晴らしに近くの街をぶらついていると、大きなブックストアが目に入った。英語版プリごろ太でも 探してみようかと店内に足を踏み入れる。そこは見た目以上に広々としていて、吹き抜けの高い天井に 備え付けられた窓から光が差し込み店の隅々まで明るく照らしている。中央に大きな階段があり、 その周りには訪れた人がゆっくり本を読めるようにゆったりめのソファが設置されていた。 何やらいいニオイが2階から漂ってきたので階段を上ってみると、その小さなスペースはカフェに なっていて、スーツ姿の男の人が2人、本を片手にコーヒーを飲んでいた。 そしてその反対側には――グランドピアノがぽつんと置かれていた。 おいで、と私を呼ぶ声に導かれて、ピアノの前に腰を下ろす。弾いてごらん、と ピアノに言われて、私の指は蓋を持ち上げ鍵盤に触れる。まるでそうすることが 当たり前かのように。請われるままに溢れ出すラベルのソナチネ。その音色に 縋りつくように動く指先。 知りたいんです、と私は訴える。お願い、お願いだからと懇願する。 やがてその思いさえ掻き消えて、真っ白な世界の中にその身と最後の一音を投じた。 瞼を閉じると「お前の手の中に」という声が聞こえた気がした。 ふと我に返り、あわてて周りを見回すと、周囲に人だかりが出来ていた。そういえば 許可も取らずに勝手に弾いてしまっていたと今さらながらに思い起こし、冷や汗を掻く。 叱られることを覚悟しておずおずと立ち上がると、暖かな拍手に包まれた。突然のことに どうしていいかわからずただぺこりと頭を下げる。 するとぬいぐるみを抱えた小さな女の子がはにかみながらトコトコとやって来た。 「Thanks for your playing! It’s very wonderful and I’m happy to listen your sound.」 ニコニコと笑いかけてくる少女の、言葉の意味はわからなかったけれど。自分の中に芽生えた ある確信と覚悟を感じることができたから、私は微笑み返した。そしてありがとうと彼女の頭を撫でる。 「One more, please!」 その言葉に励まされて、私は再びピアノに向かった。 5.鳥かご 母が去った後も、俺はまだ一人悶々としていた。ホテルのベッドに身を投げ出し、 眠ってしまおうと努力してはみるものの先程の母の言葉が耳の奥でリフレインして。 ――このまま彼女をパリに置いておくつもり? そんなつもりはない、と言えばこれまで取ってきた行動が矛盾していることになると 自分でもわかっている。 当たり前のように同じ部屋で暮らし、幾度も「おかえりなさい」と彼女に出迎えて もらった。一緒に食事をし、同じベッドで眠った。そんな日常がずっと続くと考えて いた俺が、音楽家としての彼女の未来を考えていると言ってもまるで説得力がないだろう。 結局、甘えてるだけだ。 イタリアでの公演も最終日を迎え、その幕を下ろした。いつものように催されるパーティの 喧騒の中に入ってく気にもなれず、俺は窓際でぼんやりと街明かりを眺めていた。スーツの ポケットには、のだめからの連絡が来ず沈黙したままの携帯電話が入っている。 溜息をつくと、後ろから声を掛けられた。 「チアキ、師匠である私をほっといて悠長に溜息とは、いい身分デスネ」 お酒頼んでおいたデショ、と文句を言いつつシュトレーゼマンの顔は笑っていた。 「……それくらい自分でやって下さいよ」 「その態度にはムカツキマスが、ま、いいでショ」 そう言って、ワイングラスを持ったまま俺の横に並んだ。 「それで、その大きな溜息の原因はナニ?」 人生のセンパイに相談してみなさいヨ、という彼の言葉に「結構だ!」と返しながらも、 もしかしたらこの人も同じような経験があるのかもしれないと思った。 しばらく思い悩んだ末、俺は口を開いた。 「……鳥、飼ったことありますか?」 「鳥?カナリヤなら小さい頃に」 飼ってましたケド、と少し怪訝な顔をしてシュトレーゼマンは答える。 話の繋がりが見えないという彼の表情を無視して、俺は続けた。 「狭いカゴの中がかわいそうに思えて、家中の窓を閉めてからそっと放したこと、ないですか? 部屋の中を飛び回らせてやって。安心するんです。この鳥は羽ばたけるんだって。こんなにも 自由に飛べるじゃないかって。 でもそんなのは、自由じゃない。鳥にとっては何も変わってない。カゴの中だ。俺の傲慢な 考えこそが、彼女を閉じ込める鳥かごになってる。 そのことに気が付いても、俺は窓を開けることが出来ない。なぜなら――」 「二度と、戻ってこないかもしれナイから」 シュトレーゼマンは俺の言葉を遮って、ぽつりと言った。そして付け加える。 「だからと言って、彼女がキミとの穏やかな生活を忘れるわけじゃナイ。寧ろそれを糧に して大空を羽ばたけるのかもしれない。それをこそ誇りに思うべきじゃないのカナ?」 「……わかっては、いるんです」 そのキキワケの良さがダメなんデスヨ、と彼は顔をしかめる。え?と俺は彼の意図することが わからず混乱した。 「チアキに出来ることはたった2つだけデス。1つはわかっているようだケド、もう1つを 疎かにしては、大事なモノを失いマスヨ」 そう言い残して立ち去るシュトレーゼマンの背中を、俺はただ見つめることしか出来なかった。 6.置いてきた、心 征子サンがNYに戻ってきてからのこの数日間は、本当に忙しい毎日で。R管との契約、 スケジュールの確認、住居探しetc…と、めまぐるしいスピードで私のピアニストとしての 道は出来上がっていった。 「決めました。のだめ、NYでR管と演奏したいです」 帰ってきたばかりの征子サンにそう言ったら、少しの間、目を丸くしていたけれど。 ポツリと、言った。 「真一には……?」 名前が出ても、もう、揺るがない。 「いいえ。一人で決めたんです。求める音が、ココで見つかるかもしれない。 何が出来るのか、わかるかもしれない。そう感じたから」 先輩には、直接会って話します、と言うと、征子サンはちょっと困った顔をした。 「……あのぅ」 何かマズいことでもあるのかと不安になって、その顔色を窺うと。 「あ、違うのよ。ごめんなさいね」 手をヒラヒラとさせて、笑った。そして私の手を握る。 「あなたが決心してくれて、本当に嬉しいわ。おめでとう」 その笑顔にほっとしたら、なぜか涙が零れた。 NYでの生活の準備がすべて整い、私はホテルの一室で荷造りを始めた。 けれど、もともと突然のNY行きだったからたいした荷物もなく、すぐに終わってしまう。 時間を持て余していた私のもとへ、ドアをノックする音が届く。 「はい、どうぞー」と返事をすると、征子サンが入ってきた。 「あら、もう荷造りしちゃったの?出発は明日でしょう?」 「そうなんですケド。他にやるコトなくって」 呆れ顔の彼女に、苦笑いを向ける。すると、じゃあ出掛けましょうと征子サンは笑った。 え、ドコに?と私が聞くと、彼女は悪戯っぽく片目をつむる。 「さっきステファンから連絡があってね。帰る前にもう一度会いたいって」 紅茶の良い香りが辺りを漂う。私は運ばれてきたティーカップに口を付け、その味に頬を 緩めた。案内された部屋は開放的な設計がされていて、南側にある大きな窓の向こうには、 緑がセンスよく置かれたサンルームを見ることができる。 今日は休日であるらしいステファンは、私たちを自宅に招待してくれたのだった。 その会話のほとんどを征子サンが通訳してくれたのだけど、彼があまりにも私のピアノ を褒めてくれるのでなんだか恥ずかしくなってあまり話せない。 救いを求めるように中央に置かれたピアノへ視線を移すと、ステファンが何か弾いてよと 言った。いいデスヨ、と笑いながらピアノに向かう。 「じゃあ、ショパン繋がりで」 3ヵ月後の公演で、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演ることが決まっていた。 穏やかな午後のティータイムに、スケルツォの旋律が響き渡った。 「君がNYに来るのを、楽しみに待っているよ」 差し出された右手を、私は両手で握り返してから言った。 「ありがとうゴザイマス。がんばりマス」 それにしても、とステファンは付け加える。 「君の音、ちょっと変わったね。突き刺さるような迫力があるよ。嬉しい驚きだけど」 そですか?私はすこし首をかしげて、微笑んだ。 7.声を塞ぐ、唇 結局、のだめからの連絡はないままにシュトレーゼマンの公演はすべての日程を 終了した。 彼女はもう答えを出したのだろうか? どちらにしても、今頭を占めるのは俺の取るべき態度の問題だ。 彼女のピアニストとしての成功は、俺にとっても喜ぶべきことで。 彼女がピアニストとして望むことは、俺にとっても望むべきことで。 でもNYじゃなくても、ヨーロッパのオケからもオファーはあるだろう。 何より、彼女のピアノが、彼女自身が俺の側を離れることが。 それが何よりも――。 「大いに悩みなサイ。それがキミたち若者の特権デショ?」 シュトレーゼマンが別れ際に言った言葉。けれども、これは悩みなんかじゃなくて。 我侭、なんだよな。 ただ、彼の言う「もう1つ」が何なのか、引っかかってはいるけれど。 アパートの前で止まった足を、ふうっと吐いた息を合図に再び動かす。 中庭から特定の窓を見上げる。カーテンの隙間から明かりが漏れていた。 どうやら帰ってきているようだ。 俺は何となく段数を数えながら、いつもより長く感じる階段を上った。 扉の前で、一瞬中に入ることを躊躇する。 何が正しいかなんてことは、最初からわかってる。それでも。 のだめの顔を見た後で、自分が理想の形を取ることができるのか、わからない。 それが、怖かった。 それでもとにかく、彼女の話を聞かなければと震える手で呼び鈴を鳴らす。 すぐにパタパタとスリッパの音が聞こえ、ドアが開く。 「おかえりなさーい」 いつもの声と、にこやかな、顔。 ただいまと言う代わりに、その唇を自分のそれで塞ぐ。 それが逃げであることは、充分にわかっていたけれど。 8.楽になる方法なんてない いきなりキスされて、そのままベッドまで運ばれた。 突然のことに驚いて、先輩の腕を振り解こうとしたけれど、彼はそれを許さなかった。 「んっ、ちょっ…待って。のだめ、先輩に……」 話があるんです、と言いかけた私の目に、千秋先輩のつらそうな顔が映って。 私は抵抗するのを止め、彼の行為を受け入れた。 きっと、彼は全部知っているんだろう。 征子サンの仕事っていうのは、つまりこういうことで。 彼女のちょっと困った顔の理由も、納得だ。 ああでも、自分の言葉で、彼に。 伝えなければ――。 普段の優しい動きは影を潜め、その手はすべてを奪い去るかのように私の身体を這う。 私の身体はきしみ、悲鳴を上げるけれど、それさえも彼の唇に飲み込まれ。 彼の熱情により貫かれると、私は完全にシーツの波の中へ沈みこんだ。 それでも……。 その艶やかな黒髪からサラサラと零れる、いつもの香りが。 その意外と逞しい胸の、いつもの温かさが。 恵、と呼ぶ声の、いつもの掠れた感じが。 愛しくて、涙が出て。 抱きしめ返すことしか、出来なかった。 それが逃げであることは、充分にわかっていたけれど。 翌日、目が覚めるとすぐそこに先輩の顔があって。 目が合うと一言、「昨日はゴメンな」と私の頭を撫でた。 私はふるふると頭を横に振り、「おなか、すいたデス」と言った。 「じゃーメシでも食いに行くか」 早く着替えろよ。彼はクスリと笑って、言った。 近くのカフェで遅い朝食をとった後、私たちは黙って手を繋いで歩いた。 お互いに、タイミングを計っていたんだと思う。 けれども、手を繋いでいるのがあまりにも心地よくて。揺らいでしまう。 もうあまり時間がないのに。 これではダメだ、と私はNYで手に入れた覚悟を思い出す。 そして、手を繋いだまま口を開いた。 「のだめ、NYに、行きます」 繋いだ手を、願いを込めて、ぎゅっと握った。 9.この罪の、名は 隣で眠っているのだめの顔を、ずっと見ていた。 無理やりに近い形で彼女を抱いたことで、俺はますます自己嫌悪に陥ったけれど。 そんな俺を、昨夜彼女はただ優しく抱きしめてくれた。 この気持ちを、どう整理すればいいのかわからない。 やがて、カーテンの隙間から柔らかな朝の日差しが差し込み。 のだめの栗色がかった髪が艶やかな光を帯びる。 眩しそうに一瞬強く瞑った瞼はゆっくりと開かれ。 目を覚ました彼女の視線とぶつかった。 どうやって声を掛けようか一晩中考えていた俺の口から出た言葉は「昨日はゴメンな」。 徹夜で考えた台詞がコレか、と自分を呪いながらも右手は素直に彼女の頭に伸びる。 のだめは首を振り、「おなか、すいたデス」と小鳥のように鳴いた。 その様子に、俺は久しぶりに、笑った。 カフェを出た後、しばらく手を繋いだまま歩いた。 彼女は何も言わず、俺も黙ったままで。 それでも予感は確かにあって、俺は未だ答えにたどり着く術を持っていない。 けれど何か言わなくてはと、緊張で乾いた喉を無理やりこじ開けようとしたその時。 「のだめ、NYに、行きます」 手を繋いでいるのに、彼女の声がやたら遠くに聞こえた。 「相談もしないで、勝手に決めてゴメンナサイ」 そう言う彼女の足は、地面をしっかりと踏みしめ。 「けど、ステファンと競演したいっていう自分の気持ちを大事にしたかったんです」 そう言う彼女の首は、天に向かってすらりと伸び。 「のだめの音が、どこまで進化していけるのか、知りたいから」 そう言う彼女の瞳は、俺の顔を射抜くようにまっすぐ見つめた。 のだめの姿はその意思の強さを感じさせ、俺はまともに向かい合うことができない。 「……そこまで決心しているなら、俺から言うことは何もないよ」 目を逸らして、言った。 「行きたいと思うなら、行けばいい」 「それだけですか?何か言いたいこと、無いんですか?」 「ああ」 「勝手に決めてきて、NY行っちゃうんですよ?」 「……ああ」 「いつ帰って来られるかも、わからないんですよ?」 体中の血液が、逆流していくようだった。 「行くなとでも言って欲しいのか!?それでお前は行くのをやめるのか!? ふざけんなっ!!」 怒鳴り声にも臆することなく向けられる視線に、俺はますます感情的になっていく。 「それでもお前は行くんだろ!?俺にどうしろって言うんだよっ!」 「本心をぶつけて欲しいんです!誤魔化さずに――」 「お前がそれで良くても!俺が、嫌なんだよ!!!」 これ以上お前の邪魔はしたくないんだ、とは言えなかった。 今、どのような言葉を発しても、すべてのだめの足かせにしかならないと思った。 だから、しばらく押し黙った後、言った。 「……少し、距離を置かないか?」 「別れるって、ことですか……?」 彼女の瞳は初めて光を失い、俺の左手を束縛していた温もりが、消えた。 10.冷えた指先 先輩の、本心を、そのままぶつけてもらって。 まるごと抱えて、私は初めて飛び立てるんだと、思ってた。 でもそれは、自分勝手なきれいごと、だったの、かな? 離れてしまった手を、見つめる。 「手」を――。 ――この手を離す気なんて、さらさらないデスヨ。 前に、自分で言った言葉が、今、胸に突き刺さるようで。痛い。 先輩が何かを言いかける前に、2歩、3歩と後ずさり。 「ゴメンナサイ!のだめ、ちょっと行くトコありますから」 笑顔を作って、そのまま駆け出した。後ろのほうから声が聞こえたけど。 もう、届かない。 心臓の音がやけにうるさくて。 頭の中は、やけに静かだった。 目の前のボタンを押して、インタフォン越しに自分の名前を告げる。 しばらくして大きなドアが開き、中から小柄な男性が姿を現した。 「お久しぶりです」 彼は突然の来訪者に驚きもせず、私を部屋の中に招き入れてくれた。 「連絡も無しに、お邪魔してスミマセン」 「いや、キミが来てくれて嬉しいよ。ベーベちゃん」 もうベーベちゃんじゃないか、とオクレール先生は楽しそうに笑った。 NY行きを告げると、先生はコクリと一つ頷いて「オメデトウ」と言ってくれた。 「それで、わざわざお別れを言いに来てくれたの?」 「それも、あるんデスケド……」 出されたお菓子を紅茶で流し込んでから、私はピアノを指差す。 「最後に、もう一度レッスンしてもらおうかと思って」 私の言葉に呆れる仕草をしてみせて、彼はおおげさに溜息をついた。 「キミはもう私の生徒じゃナイでしょう?まったく人使いが荒いヨネ」 「いいんデス!先生はいつまでものだめの先生なんデスから!」 そこで顔を見合わせて、ウフフと笑った。 ラベルのクープランの墓を弾きながら、私は自分に言い聞かせる。 大丈夫、大丈夫だと。 だって私はピアノを弾いているのだし。 「僕たちは音楽で繋がっている」んだから。 旋律は流れ出し、私の涙はもう、流れることはない。 「メグミ、ボクが言えるのは一つダケ。ピアノに感情を乗せるのはかまわナイ。 けれども、感情を誤魔化す道具にしてはイケナイヨ」 私は曖昧に頷いた。 11.そして僕らは間違っていく ものすごい後悔と自己嫌悪に襲われながら、数日を過ごした。 のだめはあれからどうしたんだろうか? 結局、顔を合わせることなく、俺は次の仕事先であるチェコに飛んだ。 テーブルの上に僅かな希望を残して。 演奏に集中することで、鬱屈とした気分を紛らわせた。 それでも、後から後から覆いかぶさる黒い波に、押し流されそうになった。 音楽に対する情熱だけが、俺を支えていた。 楽屋に来たシュトレーゼマンに言われた。 「チアキは、本当に馬鹿デスネ」 ポンと肩を叩いた手が、暖かかった。 3週間後にパリに戻り、部屋の様子からのだめがもう旅立ったことを知った。 彼女の服が、本が、彼女に関わるすべてのものが消えていた。 呆然と立ち尽くす俺に、管理人のアンナが声を掛け、紙袋を手渡した。 中には、見覚えのあるネックレスと、一通の手紙が入っていた。 便箋には一言、「ありがとう。ごめんなさい」という文字が書かれていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |