千秋真一×野田恵
![]() 前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:24:24 ID:Ost7713A 過去の過ちを取り消すコトなんかできない。 けれど、再び繋がれた手は、離さない。絶対に。 「あなたの音がココにあって」 1.届く音、見えないモノ 肌寒さを感じて、目が覚めた。 ぼんやりとした頭で周りを見回すと、ここは俺の部屋のリビングで。 足元に散らばった楽譜にああそうか、と思い出す。 どうやら俺はスコアにチェックを入れながらソファでうたた寝をしたらしい。 んー、と伸びをして立ち上がった。 辺りはしんと静まり返り、窓から差し込む月明かりが未だ明けぬ夜を知らせる。 ベッドに入って休もうかと思ったけれど、再び眠気が訪れる気配も無く。 俺は暖房のスイッチを入れ、コーヒーを入れに台所へ向かった。 温かな湯気がたゆたうカップを手にして、テーブルに投げ置かれた雑誌に目をやる。 そういえば、まだ目を通してなかったな。 一年前にNYへ渡った彼女の動向を、この音楽雑誌で確認することが いつの間にか俺の習慣になっていた。 「とてつもない逸材。彼女の音は観客の息をつかせぬほどの張り詰めた 迫力と、触れれば切れてしまいそうな繊細さがあって……」 「演奏の後、観客はしばらく拍手することすら忘れる。 動けないのだ。自分の中にまだ鳴り響く美しい音を邪魔するのが怖くて。」 387 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:26:10 ID:Ost7713A NYでの初公演で、一気に彼女の評価が高まった。この記事を書いた評論家の言葉と 俺が彼女のピアノに持つイメージに初めは違和感を抱いたものの、きっと 新たな自分の音を見つけ出したのだろうと納得した。 その後も彼女は高い評価を受けている。 そして今、俺はそのことを素直に喜べるようになった。 ソファにもたれて手に取った雑誌をパラパラとめくる。やがてあることに気付き、 もう一度、今度は慎重にページを拾った。 やはり、無い。 2ヵ月後に予定されていたR管の演奏を告げる記事の中に、野田恵の名前は無く。 演目もピアノ協奏曲から交響曲に変更されていた。 388 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:27:19 ID:Ost7713A 2.手に入れるコト、失うコト ピアノの前に座って、どうしてなのかな、と考える。 どうしちゃったのかな。 どこから違っちゃったんだろう。 私の、音って、どんなだった? 目を瞑ると、蘇ってくるのは音楽ではなくて。 机の上に置かれた、一枚のメモ。 「ごめん」 そんなこと、言わないで。 「ちゃんと、笑って『がんばってこい』と送り出したいから」 そんな資格、ないんです。 「待ってて」 だって、先に手を離したのは、私なんだから。 ――ピアノを、感情を誤魔化す道具にしては、イケナイヨ。 ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。 お願いだから、私から音楽まで奪わないで。 祈っても。懇願しても。 答えてくれないピアノの蓋は、閉じられたまま。 389 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:29:04 ID:Ost7713A 3.満ち欠け どういうことだ? アイツの頑張りようは風の便りや紙面上からでもよくわかる程で。 こなした数々の演奏は、そのすべてが成功の輝きに満ちていて。 降ろされることなどありえない。ましてや日程も間近に迫っているというのに。 何か、あったのか!? 急いでパソコンを起動し、ネットに繋ぐ。 胸騒ぎをどうにか静めようとするけれど、悪い予感を振り払うことが出来ない。 やがて検索結果がウィンドウに表示され。 俺の背筋に冷たい汗が伝った。 「Megumi Noda 突然の休業宣言」 12月に予定されていたニューヨークR管の演奏会が急遽、その演目を ピアノ協奏曲から交響曲に変更した。さらにピアニスト・メグミ ノダ の休業を発表、クラシック界に激震が走った。 関係者は一切のコメントを控えているが、彼女が事故により再起不能と なったという説も出ており…… 嘘だろ!? アイツがもう2度とピアノを弾けないなんてこと……。 そんなことあるわけねーだろ!!! 390 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:30:22 ID:Ost7713A 時間を考える余裕もなく、俺は血の気が引いて冷たくなった指先でダイヤルを押す。 規則正しく繰り返される呼び出し音が、いやにゆっくりしていて。 何回目かのコールの後、「はい?」という相手の声を聞くなり語気を荒げた。 「アイツに何かあったのか!? 再起不能……事故って!」 言葉がうまく出てこない自分にイライラする。 俺の言葉に沈黙する相手に、縋るような思いで呼びかけた。「母さん!」 すると、受話器の向こうで一つ、溜息が聞こえた。 「……真一、今何時だと思ってるの?」 「何時って……」 俺は時計を見てから頭の中で計算する。日本は今、昼近くのはずだ。 「日本にいるんじゃないのか? ってそんなことより――」 「今、フランスよ。……のだめちゃんのこと、知ったのね」 事故っていうのは単なる噂だから、と説明する母の言葉に、ひとまず俺は安心した。 けれど――。 「復帰するのは、難しいかもしれない」という母の声が耳に届いて。 わけがわからなくなった。 「復帰が難しいって……。何か、知ってるのか!?」 教えてくれと頼む俺に、しばらく考えるように黙っていた母は静かに言った。 「のだめちゃんは、コートダジュールにいるわ。……私と一緒に」 391 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:31:29 ID:Ost7713A 4.透明な服に身を包み ド・レ・ミ、と口の中でつぶやいてみる。 音たちは空気に溶けて、すぐに消えてしまった。 追いかけても、もう届かない。 まるで誰かさんみたいだ、と思った。 初めて出会ってから、いつも背中を追いかけてた。 少しでも、追い付きたくて。置いていかれたく、なくて。 疲れて立ち止まったりすることもあったけれど。 差し出された手を拒絶することもあったけれど。 一緒にパリへ留学することになった時、だからすごく嬉しくて。 毎日が、すごく幸福だった。 それなのに。 繋いだ手を離したのは私。 それでも。 私がピアノを弾いているなら。 ずっとピアノを弾き続けていけるなら。 きっと音楽で繋がっていることはできる。 そう、思っていたのに。 これは私の音じゃない。 ずっと気付かないフリをしてきた間に、深まった、溝。 ピアノはもう、その声を私に響かせてはくれない。 392 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:32:47 ID:Ost7713A 5.You say goodbye, I say hello 懐かしいわね、と母は昔家族で住んでいたことのある俺の部屋を眺める。 俺はコーヒーの入ったカップを2つ、リビングのテーブルに用意して、 母に座るよう促した。 深夜の電話でとにかく説明しろ今から行くと必死だった俺に、冷静に話をしたいからと 朝方母は自分から出向いてくれた。その顔にはいつもの快活さがなく 僅かに影を落としている。 それはこの部屋に残る思い出のせいなのか、それとも……。 「ごめんなさいね。あなたもうすぐ公演を控えてるっていうのに……。 真一を巻き込むつもりなんて、本当はなかったんだけど」 のだめちゃんからも口止めされてたし、と母は視線を落とす。 そんなことはどうだっていい、と俺は首を横に振った。 「それで、アイツは……?」 落ち着いて話をしようとトーンを落とすが、声が震えた。 そんな俺の様子に少し微笑いながら、母はポツリ、ポツリと事の詳細を話し始めた。 393 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:34:05 ID:Ost7713A 「最初はね、小さなことだったの。オケと音あわせをしてる時に、彼女が少し 首をかしげるようにして。 気付いたステファンが、メグミ、どうかした? って聞くと なんでもないです、って笑って首を振って。 しばらくは普段と変わりなく演奏してたらしいのよ。 その後、休憩を取って――」 そこまで話してから、一つ息をふうっと吐いて、続ける。 「時間になってもなかなか戻ってこない彼女を皆が心配し始めた頃。 扉の前で、真っ青になって立っている彼女がいて。 ピアノ、弾けませんって言ったそうなの。 吃驚したステファンが駆け寄って理由を訊ねても、ただ首を振って 弾けません、音がわからないんですって繰り返すだけで。 そのまま、倒れてしまったの」 「私も連絡を受けたときは驚いたわ。慌ててNYまで駆けつけて。 とにかく休養させようってことになって」 コートダジュールの別荘に連れて来たのよ、と言って母は俺の顔を見た。 どうして、なんて疑問は、もう無かった。 1年前の出来事が未だに彼女の心を蝕んでいるなんてことは容易に想像がつく。 けれども、納得なんてしない。 俺はクローゼットを開けて出掛ける準備をする。 「ちょっと! どこに行く気!?」 突然の俺の行動に、母は驚きの声を上げる。 「決まってるだろ! あの馬鹿女に会いに行く!!」 394 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:35:23 ID:Ost7713A 6.明けぬ夜に ピアノを弾きたいと、NYに渡ったはずなのに。 いつのまにか。 ピアノを弾かなくちゃいけない、に変わっていって。 私の音が、どんどん、どんどん、見えなくなった。 それでも。 懸命に音を追いかけて。 手が届かなくても、私から離れていってしまっても。 懸命に、音を、追いかけて。 音楽を楽しむ気持ちが、だんだん、だんだん、無くなっていった。 そこにはただ、絶望だけがあって。 ――3ヶ月。それがタイム・リミットだ。 けれど僕は君がNYに必ず戻ってくると、信じて待ってるから。 どうして頷くことができるだろう。 だって私はNYで一度も「演奏」をしていない。 ただ自分の気持ちを誤魔化すためにピアノを弾いて。 大きな拍手にひとり足を竦ませていただけだ。 カチャリと扉の開く音がして。 私はのろのろと首をドアの方向へ曲げる。 征子サンが帰ってきたのかなと思った私の瞳には。 一番会いたくない、けれどもすぐにでも触れたいヒトが映った。 395 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:36:31 ID:Ost7713A 7.嘘つき 相変わらず、飛行機は苦手だ。 ニース空港まで1時間、その間毛布に包まってガタガタ震える俺に、母は笑った。 「そんなに嫌なら、電車にすればよかったのに」 「……5時間もかけてられるか。すぐにでもあの馬鹿を殴ってやらないと 気が済まねぇ」 素直じゃないわね、と母は呆れた顔をした。 部屋を出た後、ド・ゴール空港へ向かう俺を母は引き止めた。 とても話が出来る状態じゃない、そっとしておいてあげて、と。 ほっといてその後どうなる!? その結果が今じゃないのか!? 俺はもう2度と後悔なんかしたくねーんだよ!!! 怒鳴りつける俺に母は目を丸くしていたが、やがて力強く頷くと 一緒にタクシーに乗り込んだ。 この人も1年前から何か思うところがあったのかもしれない。 別荘に到着したのはまもなく昼になる頃だった。 俺は母に案内されて、1つの扉の前に立つ。 この中に彼女はいるわという母の声に、ゆっくりと息を吸って。 そっとドアノブに手を掛けた。 396 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:38:06 ID:Ost7713A のだめはぽつんとピアノの前に座っていて。 ドアの開く音にゆるゆると向けられた目は大きく見開かれ。 俺が一歩足を踏み入れると、その肩を僅かにびくりと震わせた。 「……久しぶり」と声を掛け、足を止める。 「お前が嫌なら、これ以上近づかない。だから聞いてくれ」 しばらく間をおいてから、俺は続けた。 「1年前のこと、たぶんお前と同じように、俺もいろいろ考えた。 もし、あの時、笑って送り出せていたなら。 もし、あの時、走り去ったお前を追いかけていたなら。 もし、あの時、……自分の気持ちを素直に伝えられていたなら。 もっと違う未来があったのかもしれないって」 黙ったまま人形のように動かない彼女に、俺は語りかけるように言う。 「でも、そんなこといくら思ってみても仕方が無いんだよ。 間違えてしまったことは、もう2度と取り返せない――」 「それでも!」 叫ぶような声で、のだめは俺の言葉を遮る。 「のだめは自分が許せません。……違うんです」そう言ってうなだれる。 「ほんとは、わかってたんです。先輩の気持ち。 のだめの邪魔にならないようにって、いつも思ってくれてた。 それなのに、その手を離したのは――」 「そんなのはどっちだっていいんだ。一方が悪いなんて関係じゃないだろ? 大事なのは……」 そこで言葉を区切って、俺はのだめの側へ足を運び、その細い身体を抱きしめた。 「めいっぱい後悔した後、どうするかってことだろーが」 397 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:39:00 ID:Ost7713A 腕の中で嗚咽が聞こえ、俺は彼女の頭をポンと撫でる。 「もう一度、新しく繋げばいい。今度は絶対離さないように。俺はそう思ってるけど?」 コンチェルトの約束だってあるしな、と言うと、 「……キ」と小さな声が聞こえた。 「何か言った?」 「うぅ……、先輩のウソツキ。近づかないって言ったクセにー」 「嫌?」 ニヤリと笑うと、首をぶんぶん振りながら、うわーん先輩はあいかわらずカズオデスー! 子供のように、泣いた。 ひとしきり泣いた後、のだめは真っ赤な目を擦りながらポツリと呟くように言った。 「……でも、のだめピアノが」 「ばーか」 俺はのだめにでこピンして笑う。 「お前が聴こうとしてないだけだ。じゃなきゃ誰があんな高い評価受けるかよ」 それでも尚疑いの目を向ける彼女に、真剣な顔をして言った。 「信じられないなら、俺の音を聴け。全部、お前にやるから」 398 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:40:26 ID:Ost7713A 8.Because you say love me 私は今、パリの懐かしいアパルトマンにいる。 先輩の、半ば強引に引っ張る手をどうにか離さないように小走りで コートダジュールの別荘を出るときに、荷物のことを思い出してあわてた。 「全部、あとで届けてあげるから」 征子サンは腕を組んだままにこやかに手を振り、私は引きずられるままに ただペコリと頭を下げた。 先輩は躊躇する私を当然のように部屋に向かえ入れ、「好きなように使え」と言った。 生成りのソファーに、たくさんの本が並べられている本棚。 四人がけのテーブルに、お気に入りのマグが入ったカップボード。 そして、ちょっとだけ染み付いたタバコの香り。 よく知るままのその様子に、鼻の奥がツンとして。 「何泣いてんだ」と笑われた。 彼は今、シャトレ劇場で演奏している。 5日間の日程で行われるコンサート。そのすべての日付がそれぞれ印刷されたチケットを 手渡しながら、先輩は言った。 「聴きに来い。待ってるから」 こんな時期に私をここまで連れてきてくれたことに吃驚して。 彼の言葉をすごく嬉しく思って。 けれど、私の足はどうしても、コンサートホールに向かなかった。 399 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:41:10 ID:Ost7713A 結局3日間、ホールに顔を出すことはなかった私を、先輩が責めることはなく。 疲れて帰ってきたはずなのに、ただ優しく微笑んで。 「おやすみ」と言って私をベッドに送り出し、自分はソファーにその身を横たえる。 私はソファーでいいからと訴えても、笑って首を振るだけで。 何をやってるんだろう、と一人呟いた。 朝というには遅い時間に起き上がってリビングに行くと、すでに先輩の姿はなく。 テーブルにはいつものように朝ごはんが出来上がっていた。 私はもそもそと食事をしながら、時計の針を見つめる。 あと、7時間。 ぼんやりと過ごしていても、私の視線は時計を捕らえ。 やがて日が翳り始めて窓から見える街並みが赤く染まる頃。 私はコートを掴んで外に出た。 400 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:41:59 ID:Ost7713A 劇場の前にある広場で、いつものように私の足が止まる。 開場時間になると、人々は流れを作って中に入っていき。 私は劇場に背を向けてベンチに腰掛けた。 やっぱり、怖い。足が竦んで、動けない。 寒さだけではない理由から震える両手に息を吹きかけていると。 「ココが、キミの指定席かい? のだめチャン」 後ろから声を掛けられた。 「……ミルヒー」 振り返って顔を見ると、彼はニコニコと微笑んでいて。 「先輩の演奏、もう始まってますヨ」 と言う私の言葉に首を振って、昨日聴きましたカラと言った。 「のだめチャン、チアキの音楽を聴いてあげて下サイ」 私の隣に腰を下ろして、ミルヒーはぽつりと言う。 「彼の音は、キミへの想いがいっぱい溢れているヨ」 聴いてるこっちが恥ずかしくなるくらいにネ、と片目を瞑った。 「でも、……怖いんデス」 「怖い?」 「これでもし、のだめの音がわからないままだったら……」 アハハハハッ、とミルヒーは私の言葉を笑い飛ばす。 「そんなコトは絶対にナイヨ。だってキミの音もまたあそこにある」 そうして指差した先は、シャトレ劇場。 首を傾げる私に、キミならわかるはずだヨと優しい眼差しを向けた。 「キミ達は不器用で、見ていてハラハラするケド、少し羨ましいネ」 立ち去るシュトレーゼマンの背中を見ていた私に。 ほんの一瞬、先輩の指揮するオーケストラの音が届いたような、気がした。 9.君に捧げる曲は 楽屋でスコアを見ながら、タバコに火をつける。 最終日の今日、彼女は来るだろうか? 昨日も用意した席は空いていて、内心ガックリしていた。 けれども、のだめには何も言わなかった。 ただ、寝る前に一言「明日、待ってる」と言ったら、 まっすぐ俺の顔を見て、こくりと頷いたから。 きっと、来てくれているだろう。 そろそろ時間だよ、と声を掛けられて、俺は楽屋を後にする。 やがて開演のブザーが鳴り、「今日もいい演奏を!」と楽団員は舞台に上がる。 俺はソデに控えながら彼らのチューニング音を聴き。 軽く深呼吸した後、指揮台へと歩みを進めた。 歓迎の拍手の中、俺の視線は20列18番の座席を探し。 そこに、のだめの姿を見つけた。 客席に向かって一礼してから、彼女に微笑みかける。 そして背を向け、俺はタクトを振り上げた。 402 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:44:31 ID:Ost7713A 10.乾いた地面を雨がうつ リムスキーの「シェヘラザード」。その音のひとつひとつが。 私の心に染み込んでいく。 まるで先輩に抱きしめられているように、音が私の周りを包み。 温かい、と思った。 ――大丈夫、お前なら見つけられる。 だって今の俺の音は、お前と過ごした日々そのものなんだから。 ココに、お前の音が無いワケないだろ? そうデスね。きっと、だいじょうぶ。 直接語りかけるような音に、うんうんと頷きながら。 私は一音も逃さず、彼の気持ちを受け取った。 その旋律に、こみ上げてくる涙を隠すこともなく。 403 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:45:14 ID:Ost7713A やがて指揮台の上の先輩の手がぴたりと静止して。 観客に夢の終わりを告げる。 その後沸き起こる大きな拍手の中で、私は誇らしげな気持ちになった。 挨拶を終えて舞台裏に戻った彼が、鳴り止まぬ人々の歓声に答えて 再びタクトを持ち。 会場が静まるのを確認してから流れ出すアンコールの曲は。 この、曲は。 ああ、私の頬に再び涙が伝い。 指は懐かしい旋律を追いかけ膝の上を叩く。 まるでそこに鍵盤があるかのように、タカタタカタ、タカタと踊るように。 いつしかオーケストラの音がその羽を静めても。 私の中に溢れる音楽が止まることはなく。 私は外へ駆け出した。 ピアノを、弾きたい! 404 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:46:34 ID:Ost7713A 11.あなたの音がココにあって すべての日程を終え、パリでの演奏会はその幕を下ろした。 打ち上げに誘われたけれども、大事な用があるからと丁重に断った。 自分でも納得のいく、最高の演奏ができたし。 アイツが終わるや否や駆け出していくのが見えたから。 疲れも忘れて、アパートの階段を駆け上る。 きっと、彼女はピアノを弾いているに違いない。 邪魔をしないように、そっとドアを開けると。 光り輝くピアノの調べが、洪水のように押し寄せてきて。 俺は誇らしげな気持ちになった。 弾いているのは、先程アンコールで演った曲で。 わかりやすいヤツ、と笑った。 それでも楽しそうにピアノを弾くのだめの姿を見て。 俺達以外に知る人がいないこの曲を無理に頼み込んで演らせてもらえたのは 感謝以外の言葉で表すことができない。 「これ、チアキが作ったの? 曲名は?」 コンマスに聞かれて、すごく恥ずかしい思いはしたけれど。 やがて最後の一音が部屋に響いて。 俺はその余韻にたっぷり浸ってから彼女に拍手を送った。 「ブラボー!」 その声を合図にしてのだめは立ち上がり、すぐさま俺の胸に飛び込んでくる。 「な? お前の音は、俺の中にもあるし――」 「のだめの音は、先輩の中にもある、デス!」 そう言って笑うのだめの唇に、自分のそれを重ねて。 とたんに赤くなる彼女の頬を撫でながら、だから大丈夫だと。 何度もキスを落とした。 405 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:48:02 ID:Ost7713A 空港まで一緒に行こう、と言い出したのが間違いだった。 今日はのだめが再びNYに飛び立つ日で。 俺も次の仕事先に飛ぶ予定があり。 わざわざ日時を合わせたというのに……。 「なんだってまだ荷造りが済んでないんだーっ!」 「ギャボ――ッ!!!」 あわてて空港に到着したのが、搭乗時間ギリギリで。 こんなんじゃドラマティックな別れもあったもんじゃない。 それじゃ、とゲートに走ろうとするのだめを引き止めて。 「忘れ物!」と1年前に彼女が置いていったモノを突きつけた。 「……コレ、お守り代わりにと思ってワザワザ置いていったんですケド」 はあ!? と変な声を上げる俺に首を傾げつつ、のだめは言う。 「だって、いつものだめのハートの一番近くにあったモノだから」 唖然とする俺にだから大事に持っててくだサイネと言い捨て、走っていってしまった。 普通、好きな男からもらったものを置いてくって、そういう意味じゃないだろ? まあ、アイツに「普通」は通用しないか。 クツクツと笑いながら、俺もそろそろ行かないと、と歩き出したとき。 後ろから聞き覚えのある足音が聞こえて振り向くと。 「忘れ物、デス!」という声とともに、唇に柔らかいものが触れ。 敵わないな、と思った。 「必ず、迎えに行くからな! それまで待ってろ!!」 ぶんぶんと手を振る背中に向かって、俺は大声で、言った。 そして、2年後――。 俺はNY行きの飛行機の中で、チケットとともに送られてきた手紙を読み返す。 「迎えに行くって言ったのに、お前が俺を呼び寄せてどうすんだよ」 NY最後の演奏デス! 聴きに来てくだサイネ♪ LOVEのだめ 406 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:49:14 ID:Ost7713A フィナーレ 「それじゃ、行くか」 彼の差し出した手を取って、二人一緒に舞台へとその歩みを進める。 ライトアップされたそのまばゆい場所に立ち。 彼女はゆっくりと中心に置かれたピアノの前に座り。 彼はしっかりとした足取りで、指揮台に上がる。 さあ、楽しい音楽の時間の始まりだ! 3ヶ月前、ソルボンヌ管弦楽団の常任指揮者に就任したシンイチ・チアキ。 彼の名は、もはや読者の皆様もご存知であろう。 この度、パリで行われた彼の演奏会は、彼の名に新たな名誉を刻んだ。 そして私たちの心にすばらしい音楽を刻み付けたのである。 さらに、彼が連れてきたピアニスト。彼女の名を懐かしく思う人もいるだろう。 メグミ・ノダ。彼女がパリに帰ってきた! 私はこの偉大な音楽家二人が、ここ芸術の都パリでデビューしたことを 誇りに思う。 二人のラフマニノフ、どうにかして読者の皆さんにお伝えしたいのだが、 私はその言葉を持たない。 言えるのは、たったこれだけだ。 Bravo! Bravo!! Bravo!!! 407 名前:あなたの音…/842[sage]:05/03/01 20:50:07 ID:Ost7713A ものすごい拍手の波に迎えられて、千秋は観客に深々と頭を下げた。 そして、指揮台を下り、ピアニストの彼女を迎えに行く。 その手に軽く口付けてから、今度は二人で挨拶をした。 一段と大きくなる歓声の中で、千秋はのだめに何事かを言う。 「―――!」 しかしその声は渦に巻き込まれ、のだめの耳に届かない。 のだめは、聞こえまセン! とジェスチャーを送り、なんとかその声を辿ろうとするが。 「―――!!」 やっぱり観客の拍手にかき消されてしまい、わかりまセンと肩をすくめた。 その様子にムッとした千秋が、もう一度大きく息を吸い込んだそのとき。 一瞬、観客の拍手が鳴り止み。千秋の言葉がホールに響く。 「結婚してやるって言ってんだよっ!!!」 その途端、パッヘルベルのカノンが会場を包み込み。 コンサートマスターが千秋に向かってウィンクした。 初めは何が起こったのかわからなかった聴衆も、舞台の真ん中で赤くなっている 二人のカップルに、温かな祝福の拍手を送った。 そうだ! もう一つニュースがあったんだ。パリはこの偉大なる音楽家を 生み出すとともに、ものすごいことをやってのけた。 恋の都でもあるこの街は、世界一幸せなカップルをも生み出した。 祝福を送る我らが同胞、この二人に向かって叫ぼう! Hallelujah! (Paris クラシック M.ロジャー) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |