千秋真一×野田恵
![]() 演奏旅行から久しぶりにパリに戻ってきた千秋が 自分の部屋のドアを開けても、誰もいなかった。 部屋の灯りをつけながら、千秋はまた少しガッカリする。少し前まではいたのだろう。 部屋の暖房がつけられてあった。 「ま、別にいーけど…。」 隣はしんと静まり返っている。 千秋がパリに戻ってきて最初に逢いたかった人は、空港にも来なかったし 部屋にもいなかった。時間は午前1時。 千秋はどっと疲れが出て、体が重たくなった。ざっとシャワーをあび、ベッドに倒れこむ。 アイツ・・・もう寝たのかな・・・。 その寝顔を思い浮かべ、千秋もまた深い眠りについた。 翌朝 昼過ぎに目覚めた千秋は、あいかわらずしんとしている隣を確かめてから いつものカフェでブランチを摂ろうと街へ出た。 久しぶりにあそこのクレープ食いてーなー。あーでももう売り切れてるかー・・・。 それにしても今日は学校休みなんじゃねーのかな・・・。 そんな事を考えながら、セーヌのほとりを千秋は歩いていた。 日曜日のセーヌ河は家族連れやカップル、観光客でにぎやかだ。その楽しげな雰囲気が 今の千秋には少し腹立たしかった。 「ま、別にいーけど…。」 そのうち戻ってくんだろうし。それにしても久しぶりに帰ってきたのに、なんだよ、アイツ・・・。 「かわいくねー…。」 そうつぶやいた時 「むっきー!!!」 という聞いた事のある声が、千秋の耳に届いた。 千秋は驚きながらも、その声の方へ足を進める。 昼間っからあんな奇声をあげるヤツなんて、この国で1人しかいねー。 そう思いながら探すと、予想どうりベンチに1人で座る姿が見えてきた。 「のだめ…。」 と声をかけようとした千秋は、立ち止まった。 のだめは、肩まで髪が伸びていた。前髪もかき上げられ、白い額をさらしている。 うつむいて膝上の教本を見つめる顏は物憂げに沈み 頭痛でもするのか、左手は目のあたりにあてられ その脇から髪がやわらかくサラサラとこぼれ落ちていた。 寒さのせいか赤くなっている鼻が、のだめを泣きそうな顏にみせている。 今までに見たことのない大人びたのだめを見つけた千秋は その艶めいた可憐さに息が詰まり、見とれてしまっていた。 髪伸びたんだなー・・・少しやせたか・・・? 確かに、のだめは少しやせていた。学校の課題がそうさせるのだろう。 と のだめがため息をつき、何かをつぶやきながら空を見上げた。 空はいつもどうり、あつい雲に覆われている。 そのせいか、のだめを見つめる千秋の心にも、影が差した。 もしかしたら・・・俺と一緒にいるって事は、俺が思ってる以上に、疲れさせているのかもしれない。アイツを・・・。 幼い頃からこういう生活だった千秋に比べ のだめのここ最近の環境の変化は、のだめに見た目以上の負担がかかっているに違いなかった。 苦しげに空を見上げるのだめの姿が、千秋の胸をギュッと締め付ける。 でも・・・そうだとしても・・・ 俺はオマエと一緒にいたい。離れたくないんだ。 オマエだって、そうだろ?だから、今、ここにいるんだろ? ほろ苦く、心の中で問いかけている千秋。 その隙をついて、見知らぬ男がのだめに声をかけた。 それは、あきらかにナンパだった。 男はのだめに話しかけながら、さりげなくのだめの隣に座った。 千秋の視界をさえぎるように。 それだけでも千秋には充分不愉快だったのに あろうことか男は、ちらりと千秋に視線を投げてよこしたのだ。 「声かけないんなら、オレがもらうぜ。」 と言わんばかりの不敵な笑みをこめて。 千秋の眉がビクッとはね上がる。 「上等じゃねーか!」 その男の挑戦を、千秋は低く雄の声で受け止め、のだめに向かって歩を進めた 「うーでも、今何時デスカ?」 のだめの声が聞こえる。 「うん?ああ、13:40を過ぎたかな?」 と男。 「あー、それならもう行かないと。」 のだめは教本をカバンにしまい、立ち上がった。 「どっか行くの?つきあうよ。」 と男はなおも食い下がる。 「ダンナサマがそろそろ起きてくる時間なので。」 「え?君、結婚してんの?」 男は信じられないっといった声をあげた。 「カズオさん、昨日寒いトコから遅くに帰って来て。ずっと逢えなくて淋しかったから すぐにでもハグしたかったんですケド、のだめ少しカゼっぽいからうつしちゃイケないし ピアノ弾いて起こしちゃカワイソウだったから。」 のだめはそう言って、それまでずっとポケットの中で握っていた、千秋の部屋の鍵を男に見せ ニッコリとほほ笑んだ。 「・・・・!!」 言葉をなくす男、そして千秋。 「というワケで、カズオさんの為にのだめ、カフェにサンドを買って帰ります。Adieu♪」 と言い残して歩き出したのだめに、聞き慣れた声がかかった。 「誰がカズオだって?」 「ぎゃぼ!」 振り返ったのだめの顏がパーッと華やぎ、軽やかに駈けよってくる。が 「センパイ♪よく寝られましたカ?」 と言って、のだめは抱きついてこなかった。 「ああ、静かだったからな。」 つい千秋は手を伸ばしてのだめに触れ、その冷たさにギョッとした。 のだめが笑うと、寒さで肩先が少し震えた。 「オマエ、朝からずっとここにいたのか?」 「そですヨ?だってセンパイが好きなあそこのクレープ、朝行かないと売り切れで食えないって 言ってたじゃないデスカ。だから、のだめ買ってきました。」 カゼっぽいという鼻をすすり、クレープを出そうとするのだめを 千秋は強く、強く、抱きしめた。 何も言わなかった。 何も言えなかった。 「……バカヤロー、体、冷てぇじゃねーか。」 やっとの事でかすれた声をだす千秋。 「うへへへ♪センパイの体はあったかいデス。でも、カゼうつっちゃいますよ? せっかくのだめ、昨日センパイの部屋あっためといたのに。」 そう言って千秋から離れようとするのだめだったが、千秋がそれを許さなかった。 疲れていた俺を、気遣ってくれてたのか?こんなに、冷たくなるまで・・・ 千秋はこらえきれなくなり、目を閉じて、のだめの髪に顏をうずめた。 胸がジンジンと熱かった。のだめのやさしさに、心の扉が開いてゆく。 せつない思い、締め付ける思い、苦い思い、そして、愛しい思い。 全ての思いが、千秋の中に流れ込む。 その流れに身をまかせ、千秋はのだめの冷たい耳元に 熱い吐息を吹きかけ、そっとささやいた。 「俺も、すごく淋しかった、めぐみ。」 八ッとしてまっ赤になるのだめの、冷えた顏を両手にはさみ 千秋は恥ずかしそうにほほ笑んで、やさしく白いおでこにキスをした。 今までにみたことのない素直な千秋を見つけたのだめは その可愛らしさに胸が詰まり、右手のなかの鍵をギュッと握りしめた。 あぜんと立ちつくす男に向かって、不敵な笑みをバシッとぶつけてやってから 千秋はのだめの肩を包んで、悠然とカフェに向かった。 この季節にしてはめずらしく、空に青空がのぞいていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |