you owe me…(非エロ)
千秋真一×野田恵


『楽しい音楽の時間』を目指して、私たちは天を仰ぎ歩く。
それでも、立ち止まったり後ろを振り返ったり、時には俯いたり。
進むのに疲れたのなら、隣を見て。そこに、私がいるから。

「you owe me nothing in return」

観客の惜しみない拍手の中、私はひとり静かに溜息をついた。
演奏は、決して悪くなかった。それは今まわりで起こっている歓声が証明してくれている。
そのことにホッとしながらも、昨日のやりとりが思い出されて。
指揮台の上に立ち客席に向かって挨拶する彼の表情はよく見えなかったけれども。
その心情を思うと……。もう一度、天井を見上げて大きく息をはいた。

バンッ!という大きなドアの悲鳴にびっくりして私の手は縮こまり。
ピアノが奏でていた音色は宙に浮いてやがて消えてしまった。
そおっと振り返るとそこにはとてつもなく不機嫌そうな先輩が立っていて。

「……悪ぃ」

と一言つぶやいて、そのままキッチンに向かい。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してボトルのまま口をつけ。
ゴクゴクと一気に飲み干して空になったそれをシンクの中に放りこみ。
再びリビングに戻ってきてソファにどかりと腰を下ろした。
そしてタバコに火を付ける。

……その間、無言。

「おかえりなさい」

と言うタイミングを失い。
なんとなくこの場にいてはいけないような気がして。
散らばった楽譜を片付けそっと鞄を手に取り。
できるだけ音を立てずに部屋から出て行こうとしたら。
右手が捕まえられた。

「……何か、弾いて」

その疲れた、いつもより張りの無い声色に、こちらの気分もつられそうになったけれど。

「いいですよ♪リクエストは?」

無理やり明るい声を出して、笑った。
もじゃもじゃ?ざけんな!といつもどおりの会話をして。
ピアノの前に腰掛けた私に、「明るい曲を」と声を掛けた先輩は目を瞑り。
私は少しでも力になれたら、と想いを込めて弾き始める。
マルティーニの『愛の喜びは』。
その旋律に、私の気持ちも織り込んで。
たった一人の、けれどもいちばん大切な観客へと優しい音楽を届けた。

「どでしたか?」

くるりと彼の方へ顔を向けると、「ん。よかった」と少し微笑って。
自分の隣の空いたスペースをポンポンと叩いた。
その様子に先程の暗い影はだいぶ薄れていたから。
私も微笑み返して、ゆっくりと先輩の横に座った。
同時に彼の腕が私の首にまわり、その頭は胸元にうずめられ。
ふうぅと息をはき出したので、表情を見ないようにしながら背中を撫でる。

「……カッコ悪ぃな。ごめん」
「そーデスね」

言ってからしばらく沈黙が続き、怒ったかな?と思ったけれど。
先輩がぶっと噴出したから私はようやく聞くことができた。

「ゲネプロ、うまくいかなかったんですか?」

問いかけに、腕の中の恋人は弱々しく首を振った。

「なんていうか、そこにオレの音がないんだ」

ポツリ、ポツリと話す内容は彼の苦悩が満ち溢れていて。
私は慰める術を持たない。

オケとの関係がうまくいってないわけじゃない。
彼らの技術が他のオケと比べて劣っているわけでもない。
それでも、納得のいく音にはほど遠く。

「結局、オレの実力がまだまだってことになるんだよ、な」

そう言って苦笑う先輩は、もうこの話はおしまいと私の頭を軽く叩いた。
前へ進めば進むほど、理想はその手で高く持ち上げられてしまうから。
きっと、壁に突き当たるのは、仕方の無いこと。
粘着の完璧主義者である先輩ならなおのこと。
そう思っても、なんだか口に出して言うのは憚られて。

「明日、のだめも行きマスから。心強いでしょ?」
「ばぁか」

私の軽口に先輩は笑い。
それから「ありがとう」ともう一度私の身体を抱きしめた。

そう、演奏は悪くなかったのだ。
けれども、先輩の言っていることもぼんやりとわかる気がする。
でもそれは、「オレの音がない」わけではなくて。
羽化する前の、過程。
一度溶けて、全て初めから構築し直すのは本当につらいけれど。
その先に見えてくるのは、雲ひとつ無い青空だから。
よし、と私は頷いて恐らく沈んだままの彼が待つ楽屋へと足を向けた。

コンコン。

ノックの音に、中から「oui」とくぐもった返事が届いて。
私はそっとドアを開ける。

……やっぱり。
ソファにぐったりともたれたままチラリとこちらに目線を向けた先輩は、
私に「何も言うな」と無言の圧力をかけて。
その大きな手で顔を覆い、深く溜息をついた。
こういう時、私に出来ることは1つだけ。
だから最初から何かを言うつもりなんかなかった。
彼が浮上するまで、ただ、側にいて、待つ。
だいじょうぶですヨ、ちゃんと見届けマスから。
ドアに背を預けながら心の中で呟いた。

「……暑ぃ」

かなりの時間が経過して、やっと顔を上げてくれたと思ったら。
その手はシャツのボタンを外しだし、先輩の上半身が露になる。
そういえばまだ着替えてなかったんだとぼんやりとした頭でその様子を見ていたけれど。
あわててくるりと背を向ける。

「何赤くなってんだ?」

後ろからニヤニヤした感じの笑い声が聞こえて。
これがさっきまで一人どん底に沈みまくってた人なのかとムカついた。

「先輩がフォーマルで上半身ハダカって妙に色気がありスギるんですヨ!」
「はあ!?なんだそれ?」
「あ〜あ、もっとこう恥じらいをもって着替えてくれたら、のだめも
影からコッソリ盗撮する気マンマンなんですケドね」

惜しいコトしましタ!この変態!!
いつもどおりのくだらない言い合いに、どちらからともなく笑いが起きて。
空気がふわり軽くなった。

不意に背後から気配を感じて。
あれもう着替え終わったのかなと首を後ろに向けると。
目の前に逞しい胸板が迫っていて私の心臓が跳ね上がる。

「オイ、なんで逃げる?」

後ずさるもすぐドアの壁に背中がぶつかり。

「な、なんででしょうねぇ。えへ♪」

自分でもよくわからないけれど、とりあえず笑って誤魔化してみた。
すると先輩の手がすうっと私のほうに伸ばされて。
思わずびくりと目を瞑る。

その手は私の頭を優しく撫で。
そして上から言葉が降りてきた。

「ありがとう」

それは昨日のものと同じだけれど。
きっと、ぜんぜん違う言葉。
やっぱりこの人は全部わかってる。
誇らしい気持ちになって、その胸に頬を寄せた。

「溺れたら、仕方ないから一緒につきあってアゲマス」
「それはどーも」
「でも1回きりデス。あとは知りまセンよ?」
「ん。そしたら他の女に人工呼吸してもらう」

ムキ――ッ!と顔を上げた私の唇に柔らかいものが触れて。
彼は、嘘だよと笑った。
つられて私も笑顔になり。
今度はどちらからともなくキスをした。

隣には彼が。
隣には彼女が。
そしてもたれることなくお互いの存在と音楽が支えとなり。
共に、歩く。
相手に出来るただ1つだけのことが、自分の誇り。
自分で立ち上がることが、自分の誇り。


何度も舌を絡め合っているうちに、私の意識はふわふわとしてきて。
遠くの方でカチリと音が聞こえた気がした。

「いま、の……何の、お……と?」

ん?と先輩はいたずらっ子のような目をして笑う。

「カギ、閉めた音〜」

へ?キョトンとする私の唇を塞いだまま彼は私を抱き上げて。
そのままソファへと移動する。

「ちょちょちょ、ちょっとしんいちくん!?」

あわあわと足を動かす私を無視して先輩は言い放った。

「だいじょうぶ。ここシャワーあるし」

そーゆう問題じゃないと思いますケド。
さすがカズオ。転んでもただじゃ起きまセンね。






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