千秋真一×野田恵
![]() 其がこの手から 零れ落ちぬよう。 涙の水面に 浮かんで儚く 消えぬよう。 「花も千歳の春やにほはむ」 風の音が 窓の外からあやしく聞こえ。 落ち着かぬ中 ふと 傍らにあるはずのぬくもりが。 掻き消えたかのように 冷たさを覚える 枕のふくらみ。 胸に湧く 得体の知れぬ 黒き渦に。 ゆらり ゆらりと巻き込まれ 明かり無き部屋にひとり立つ。 まだ肌寒き夜のためか 皮膚がざわめくように思い。 上着を羽織りて 其の足はひとりの女を捜しに進む。 廊下には ピアノの調べが響かず。 あまりの静かさに 其の女の不在を知り 外界への扉を開け。 頭上に幾千の星が 瞬く 天。 月は群雲に隠れ 辺りは暗闇に沈む。 春の暖かさに けぶる 土のにほひと うっすら浮かび上がる 白き色。 漸く闇に慣れた目を 凝らして見れば 其は桜。 ひらり ひらりと花弁舞う 其の下に。 求めて止まぬ 女の 姿。 其の手は 花が散らす命をすべて 受け止めるが如く 頭上に掲げられ。 まるで まるで――。 「……先輩?」 声を掛けられ 金縛りが 解ける。 ほう と息をはき 未だいくらか感覚の戻らぬ身体を動かし。 背に伝う冷たき汗に 気付かぬふりで 其の女の許へと向かう。 「何やってる? 風邪ひくぞ」 上着を其の細き肩に 掛けてやり。 女は ふふふ と笑う。 「桜、見たくなって」 ざあ ざあと 流れる風に 散る花を 惜しみて再び手を伸ばし。 其の魂を 身体で受け止めるかの如き 女の姿に。 幻かと 疑う儚さを覚え。 つ と其の指先を 女の頬に触れさせる。 其の時 花を散らした風は 雲をも流し。 月明かりが 妨げられる事無く しずしずと 地に降り立つ。 女の身体は 其の光に 青く染められ。 指に触れた先の あまりの冷たさに 先程の不安がまたも襲い。 身体が覚える 女のぬくもりを欲して。 地を隠す程積もった花の上に 其の身を横たえ 口付ける。 「夜の桜は、少し、怖いですネ」 舌を這わす首筋は 未だ其の色を得ず。 「……桜花は、昔から死者に似合うって言うしな」 手のひらに覆う乳房は 其の鼓動を弱め。 「でも、キレイ」 いつもなら其の瞼に遮られる視線は ぼんやりと宙を舞う。 其れも つかの間。 すんなりと受け入れた 其の泉が音を立て始め。 やがて漏れ出た吐息に 湿り気を帯びた温かさが宿る。 青白き身体は かの唇に 紅く染め直され。 夜の闇に ほのかに 薫る。 そして 桜は男と女を埋もれさせるよう 白き花弁を降らす。 目が覚めて。 隣を見れば 普段と変わらず 女の白き背中。 夢だったかと ひっそり 溜息をつく彼は気付かず。 彼は気付かず 彼は気付かず。 其の胸元に 一片 桜花が降りていることに。 戻る |