喪失
千秋真一×野田恵


その一報が俺の元のもたらされたのは、R☆Sオーケストラの練習の合間に取った休憩時間の時の事だった。

窓から流れ込む,ぬめっとした湿気を帯びた強風が、台風の接近を予感させる様な7月上旬。
俺は久しぶりに日本に帰国していた。

R☆Sオーケストラの企画で、俺のプラティニ指揮者コンクール優勝の凱旋も兼ねた客演に呼ばれたからだ。
今回は初代指揮者の俺と、それから現任指揮者の松田さんとの競演、というのもウリらしい。
立ち上げたばかりの新しいオーケストラは何かと大変だ。
斬新な提案をしていかなければ聴衆に飽きられる。・・・いつもそんな恐れがオケ関係者に付き纏う。
峰から最初その話をされた時、峰の考えている事も理解できたし、
正直、松田さんとの競演には俺も興味を持った。

けれども。

「千秋真一凱旋公演!と銘打ってやるからな、親友。」

---そんな事を言われたら正直戸惑いもあり・・・。
俺はまだまだ一介の駆け出しの指揮者、つまり修行中の身だ。
峰には悪いが、俺にはその言葉を受け入れるほどの自信も裏づけも今は、まだ持ち合わせていなかった。
それでも、躊躇する俺が、この客演を承諾した訳は、峰から言われたある一言にある。

「のだめもさー、試験終わってちょうど学校も休みになった頃だし、久しぶりに日本に返してやれよ。
お前がそっちに居ると、帰りづらいだろ?」

のだめと一緒にパリにきて、俺はその間コンクールがあったり、
シュトレーゼマンのワールドツアーに付き添ったり、客演に呼ばれたりと…と、
正直パリを不在にしている事が多かった。

でものだめは、その間ずっと一人でパリに居て…。
学校とアパートとの往復。
慣れない生活と、慣れない勉強。
日本に帰りたくなってもおかしくない状況なのに、あいつはそんな素振り全く見せなかった。
峰に言われてからその事に初めて気が付いた俺は、自分の配慮の無さに少し反省した。

−−−そんな訳で、俺は今日本に居る。
こっちに着いたのは今日の朝で、その足でオケが借りている練習室に来た。
時差ボケで少し辛かったけど、一刻も早く、顔合わせも兼ねた軽い音合せをしたかったからだ。

しかし、俺が練習室に入った瞬間・・・。

「千秋様ーーーー!!!」
「千秋君!!!!」
『会いたかった----!!!』(←シンクロ中)

と、両脇に真澄と高橋君からタックルを決められたのは一生の不覚だ。(・・・出来れば思い出したくもない。)
それを見た周りからどっとどよめきと笑い声が起こる。
ハァ・・・、これならまだ、萌と薫の方が良かった…。(←ムッツリ)

幸い、見知ったメンバーも多かったし、色々な事を含めて、今日は初日としては上々の滑り出しだ。
流石に松田さんに徹底的にしごかれてきているだけあって、
メンバーそれぞれが俺が居た時とはまた違った進化を遂げている。
俺はR☆Sの秘めたるポテンシャルの高さに心の底から感嘆し、
そして俺から引継ぎここまで育ててくれた松田さんに、・・・悔しいけど感謝と尊敬の念を抱いた。

今日は来ていなかったが、黒木君も帰国していて3日後の練習から参加するらしい。
久しぶりに初期メンバーが多く集まったせいなのか、休憩時間はお互いの近況で盛り上がった。

「あーあ。今ここに居ないのは結局、清良と菊地だけかー。」

峰が残念そうに笑った。俺はペットボトルのミネラルウォーターをゴクゴクと飲み干す。
相変らず日本の夏は・・・蒸し暑い。

「清良はあっちで室内楽、頑張ってるみたいだな。」

俺がそういうのを聞いた真澄が茶化すように言った。

「”真っ赤なルビー”が居なくても頑張んなさいよ!龍ちゃん。」
「なっ!あ、当たり前だろ!!」

こちらも”真っ赤”になって怒ってる峰を見ながら、萌と薫も楽しそうに笑っている。
俺も、はははと声をあげて笑った。久しぶりに感じる懐かしくて穏やかな雰囲気。

その時。
その静寂を破るかのように、そのベルは鳴った。

「あー、千秋の携帯鳴ってんぞ?」
「ああ、うん。」

俺がゆっくりとした動作で携帯に手を伸ばすのを、峰はリベンジとばかりにからかった。

「なんだー?早速のだめからか?本当は早く出たいくせに無理すんなよ。」
「うるせー!」

のだめは俺よりも1週間早く帰国していた。
俺の飛行機…の事もあったので、のだめは俺と一緒に帰りたがったのだが。
でもせっかくの休みを俺の為に無駄にして欲しくなかったし、だから俺はあいつに先の帰国を勧めた。
俺は常任をつとめているマルレの所用が入っていて、日程的にどうしても今日の帰国になってしまった。

のだめはその間に大川に帰っていた。
久しぶりの実家、あいつにとってもいい骨休みになったに違いない。
今朝、朝一の便で東京に戻ったと、成田からの移動中に見た携帯のメールに入っていた。

”のだめは今、三善さんのおうちに着きました。
先輩にって、ヨーコにお土産いっぱい持たされましたヨ〜。
午後は、由衣子ちゃんと一緒にピアノを弾きます。
先輩、今日は何時頃帰ってくるんですか?
東京出る時には、連絡下さいね。
LOVEのだめ

P.S.今日の晩御飯はのだめ特製のお鍋です。

P.S.2 先輩、早く会いたいです。”


あいつは用がないと電話してこないタイプなのはパリで嫌っ・・・という程、経験済みだ。
だから今鳴っているこの電話は、のだめからじゃないと思っていたが・・・。
案の定、携帯のディスプレイは公衆電話からの着信を知らせる表示だった。
誰だろう…、と思いつつも俺は電話に出た。

「・・・もしもし?」
---もしもしっ!?真一!?今どこに居るのっ!?

母さんの声はいつになく甲高く、何か気が動転しているようだった。

「どこって…。オケで借りてる練習室。東京だけど、どうかし」
---の、のだめちゃんがねっ、木っ、木から、木から落ちたのっ!!

「はぁ!?木ぃ!?」
---それで、意識がなくって、きゅ、救急車で、俊君が脳震盪起こしてるかもって、
由、由衣子ちゃんは私のせいだって泣いてっ・・・

母さんはすっかりパニックになっているらしく、何の話をしているかこちらもよくわからない。
のだめが木から落ちた、という単語を聞いて、瞬間的に俺も全身がカーと熱くなるの感じた。
が、俺がここで一緒に興奮してしまっては埒があかない。
焦る気持ちに抑えようと呼吸を整えながら、俺は努めて冷静に質問を返した。

「いいか、母さん。もう話さなくていいから、ただ俺の質問だけに答えて。」
---し、真一、ど、どうしよう?

「いいから…少し落ち着いて。今、どこから電話してんの?」
---び、病院よ!のだめちゃんがっ!運ばれた救急病院っ!

「のだめが木から落ちたんだな?」
---そ、そう。

「由衣子もその時そこに居た?」
---二人で、バ、バドミントン?をしていたらしいの。羽が木に引っ掛って…、
今日ほら、か、風強いから、それで、のだめちゃんがそれをと、取ろうとして…
「木に登って、落ちたんだな?」

---ええ。それで頭を打ったらしく、の、のだめちゃんの意識がなくて。
「俊彦は脳震盪じゃないかって?それで救急車を呼んだ?」

---そうなの。い、今、のだめちゃんは処置室に居るんだけど。由衣子ちゃんはもう泣きっぱなしだし…。
俺には由衣子が大声で泣きじゃくってるその光景が、手に取るように思い浮かんだ。

「…俊彦はそこに居る?」
---ええ、後ろに居るわ。

「ちょっと代わって。」
---え?わ、わかったわ。…俊君、真一が…

電話の声が少し遠くなった。母さんが俊彦に電話を渡しているらしい。

---もしもし、真兄?

「俊彦か?お前が居てくれてよかった。母さんと由衣子だけじゃ、今頃大変な事になっていた。」
---うん。もうあらかた状況はわかったと思うけど、のだめさんが木から落ちて、まだ意識が戻らないんだ。

「それで、先生は何て言ってるんだ?」
---頭を打っている事は確かなんだけど、詳しく調べてみないと今は何とも言えないって。
ただ、頭を打っている以外は、骨とかには異常がないみたい。
あちこち擦り傷と打撲はあるらしいけれど…。

「…のだめは頭から落ちたのか?」
---由衣子の話だと、そうみたいだね…。頭というか、後ろ向きに背中からって言うのかな…?

「とりあえず、俺、今からそっちに向かうから。病院の連絡先教えて。」
---わかった。あ、ちょっと待って、今手元に何もなくてわかんないから。
受付で教えて貰ってくる。電話、すぐに折り返すよ。

「うん。早くな。待ってるから。」

俺は電話を切りパチンと折り畳むと、肺から空気を全て出すように、大きく息を吐き出した。
冷静に振舞おうとした反動が出たせいかもしれない。
全身の血が逆流したみたいに体が熱い。急に心臓がドキドキしてきて、息が苦しくなってきた。

「千秋…。のだめに何かあったのか?」

峰が聞きづらそうに俺の顔を伺う。傍に居たメンバーも皆聞き耳を立てて俺の話を聞いていたのだろう。
萌と薫なんかこちらが吃驚する程、顔面蒼白になっていた。

「あ…、聞いてた通りあいつ、何か木から落ちて病院に運ばれたらしいんだ…。
それで、俺、悪いんだけど、後半の」
「いいっていいって!すぐ行ってやれよ!緊急事態じゃねーか!」
「悪いなみんな…。それで明日以降の練習の」
「んもう、そんなのいいから早く行ってください!千秋様!!こっちは大丈夫です。
あのコ、バカだから、きっと千秋様の来るの待ってるんですよ!」
「う、うん、本当にみんなゴメン。それからこの事、他の皆には内緒にしておいて…。」
その時、携帯電話が着信した。俊彦からの折り返しの電話だった。
「あ!じゃ、悪い。おれ行く!後、頼むな、峰!」

俺は峰に歩く手を上げ、俊彦からの電話に出ながら、足早に練習室を出て行った。

千秋は部屋のドアを閉めた途端、猛スピードで廊下を駆出した。

---本当はもっと早くにこうしたかった!!
みんなの手前抑えていたが、ここにきて一気に感情が爆発する。

”のだめ…!ったく、あの馬鹿っ!!”

”…でも、のだめ、どうか無事で…。”

最後にあいつを見たのは…、確か1週間前のパリ。

”明日の今はもう日本なんですヨ!”

そう言いながら嬉しそうに笑っていたのだめの顔が、何故だか無性に顔面にちらつく。
1週間以上離れていた事なんてざらにあったのに、何で俺、こんなに焦っているのだ?

千秋はまるで、もうのだめに一生会えない様な嫌な胸騒ぎがしてならなかった。
俊彦が耳元で言う連絡先を頭に叩き込みながら、タクシーを捕まえるべく、千秋は表通りへ飛び出していった。

俺が母さんから最初の電話を受けてから病院に着くまでに、ゆうに2時間は経過していた。

移動中のタクシーの中で俊彦から、再度着信があった。

---のだめさん、今、意識が戻ったよ。
先生が診察しているから、まだ僕たち、処置室には入れないけど。

のだめの意識が戻った事はもう知っているから、先程までのひりつく様な焦燥感は、今はもうない。
でも、とにかく一刻も早くのだめの顔が見たい。あいつが「もう大丈夫ですヨ。」と笑う顔が見たい。
ただ俺は、とにかく安心したかったのだ。

病院に着いたのはちょうど黄昏時で、今日の面会時間が終わった頃なのであろう。
一階ロビーのあちこちに、付き添いと見られる人達の姿がちらほら見えた。
皆大きな袋を持っていて、帰り支度をしている。


「すいません!あの、今日救急で運ばれた、野田恵、の病室はどちらですか?」
俺はロビーの真ん中にあるインフォメーションカウンターにいた女性に声をかけた。

「ご家族の方ですか?」

家族・・・、そう言われて、正直面食らう。

「・・・そうです。」

俺は少々後ろめたい気がしたが、早く知りたかった事もあり適当にそう答えてしまった。

「では、今、上に確認を取りますので。
こちらにお名前をご記入頂けますか?それから患者様との御関係をここに・・・。」

ああ、こんな事している場合ではないのに!俺は物凄くイラついた。
大体、関係を書け・・・って何て書いたらいいんだ??あ、兄とか?
違うだろ・・・。それなら、友人?
・・・確かに間違いではないけれど、でも、それだけじゃない。

「あっ!真兄!!こっちだよ!!」

その時吹き抜けに架かっている2階部分の渡り廊下から、
俊彦が身を乗り出すようしてこちらに手を振っているのに気がついた。
助かった・・・!
俺はインフォメの女性に軽く会釈して、そのまま俊彦のいる方へ向かった。

のだめの病室があるフロアの休憩所には、母さんと由衣子が所在なげに座っていた。

「ごめん。遅くなって・・・。途中で事故があったらしく、高速で渋滞にはまって・・・。」

・・・・・・?

何かおかしい。何故だか二人とも俺と顔を合わせようとしない。
由衣子に至っては、すすり泣き出す始末だ。
俺はその瞬間最悪の事態が頭に浮かんできて、背筋が凍りつくのを感じた。

「・・・のだめに・・・・・・何か・・・もしかして・・・・・・。」
「真兄。ひとまずのだめさんの部屋で顔を見てあげてよ。話はそれからで・・・。」

俊彦が俺の疑問を遮った。皆で何かを隠しているみたいだ。でもそれが何だか分からない。
俺は釈然としないまま、俊彦に背中を押されるようにして、のだめの病室へ向かった。

「とにかく会えば分かるから。」

そう言うと、俊彦も口を噤んでしまった。

---のだめはこじんまりとした個室部屋の白いベッドの上に、ぽつん、と居た。

俺が入った時にはすでにベッドの上で起き上がっていて、すぐにこちらへ視線を寄越す。
そして何やら合点のいかないすっとんきょうな顔をして、俺をじっと見つめていた。

「のだめ。大丈夫か・・・?」

何だ、全然元気そうじゃないか・・・。
俺ははぁーーと盛大に息を吐き出し、ようやく安堵した。
右頬に白いガーゼを当て、両腕と頭に包帯をぐるぐるに巻かれた様子は、確かに痛々しくはあったが。

「木から落ちて頭打ったんだってな。何でお前はそう、とんでもない事をやらかすんだ!」

俺は表面で怒って見せながら、のだめのベッドの方にそのまま歩み寄る。

「・・・意識がない、って連絡受けた時には、流石の俺も焦ったんだからな・・・。」

でも、相変わらずのだめはキョトンとしたままだ。

「指とか、手、ケガしなくて・・・よかったな?あ、でもおまえここ、顔、切ったのか?」

俺が白いガーゼの上からのだめの右頬をそっと触れると、のだめはびくっとした。

「ごめん。痛かった?傷、残らないといいな・・・。一応おまえ、女だし?」

俺が笑いながらそう言うと、俺を見上げるのだめの瞳に自分が映っているのに気が付いた。

ああ・・・。

その刹那、俺の体がふわっと弛緩する。のだめが無事なのをようやく体中が認識したのだ。
俺は感情の迸るまま、のだめの上体を自分の胸の中に、強く抱き寄せた。

「・・・ったく、このバカ!どれだけ人が心配したと思ってるんだ・・・。」

やばい、涙声になってしまった。俺は慌ててのだめの髪に、顔を埋める。
こうすれば少なくとも、俺の情けない顔はのだめに見せないで済むからだ。

「でも・・・。」
「本当・・・に・・・無事でよかった・・・のだめ・・・・・・。」

そうして、のだめの髪の匂いを思い切り吸い込んだ。
たった1週間離れていただけなのに、その匂いは眩暈がする程懐かしいものだった。

でも。

その瞬間、いつもと違う徹底的な何かを、のだめと自分との間に感じた。
のだめの体は俺の腕の中で、驚くほど強くこわばっていたのだ。
なんなんだ?この感じ・・・。
それは俺が今まで全く味わった事のない、のだめの妙なよそよそしさだった。

「のだめ・・・?」

俺は腕を緩めると、両手をのだめの肩に置いた。そうしてのだめの顔を覗き込む。

「のだめ・・・?どうした・・・?」
「あの・・・。」

困った様な、何か複雑な表情の、のだめ。
そんなアイツの口から続いた言葉は、弛緩した俺を再び凍りつかせるに十分な破壊力を持っていた。

「あの・・・えと・・・どちら様・・・デスか・・・・・・?」

目の前に居るのだめは、記憶を失っていた。

俺が真っ青な顔をして戻ってきたのを確認したからだろうか。
母さんと由衣子だけでなく、俊彦も何も言わずさっきからずっと俯いたままだ。
ただ、重苦しい空気だけが辺りを支配する。
そんな中、観念したのか、ようやく母さんが重い口を開いた。

「落ちた時のショックが原因じゃないか・・・って先生はおっしゃるの。」
「ショック・・・。」
「のだめちゃんね。目を覚ましてから、先生に色々聞かれて。
最初、自分の名前もすらすら言うから、すっかり安心してたんだけど・・・。」

そこで母さんは言葉に詰まった。

「でも、すぐに、私達に気が付いて、物凄く不思議そうな顔をして・・・。」

それまでずっとすすり泣いて聞いていた由衣子が、堪え切れず大声で泣きだした。

「ごめんなさい。ごめんなさいっ。真兄、ごめんなさい・・・!ゆ、由衣子がいけないのーー!
っひっく。の、のだめちゃん、由衣子が飛ばした、は、はね、とろうとしてっ、
木から落ちたのっ。だからっ、由衣子のせいなのーーー!!ううっ。うわーーん!!」

俊彦が泣きじゃくる由衣子を自分の胸元に引き寄せ、ぎゅっーと優しく抱きしめてやった。
俺もそうしてやりたかったが・・・。
でも今は俺がするよりも、俊彦がしてくれた方が由衣子も救われるだろう。

「由衣子のせいじゃない・・・。アイツが間抜けなだけだ・・・。」

放心したように呟く俺の言葉に、誰も言葉がなかった。
母さんも俊彦も、そして俺も。
誰がいけないかなんて今更言ったって、不毛な事だと分かっている。
震える涙声を隠そうともせずに、母さんは一番重要な事実を俺に告げた。

「真一・・・。のだめちゃんの中ではね・・・今5年前みたいなの。
先生に聞かれて、のだめちゃん、自分の歳を・・・18歳って言ったのよ・・・。」

−−-18歳のアイツ。

18歳の時のアイツと、俺はどんな言葉を交わした事があっただろう?
いや、それどころか・・・。状況はもっと深刻だ。
だって俺達、その頃にはまだ、出会ってさえいなかったんだから・・・。

俺は一人、目の前が真っ暗になるのを感じていた。

久しぶりに三善家は、千秋と夕食を共にした。
ただそこには、一家団欒なんていう暖かい響きも雰囲気も全く無く・・・。
誰もが皆黙々と、目の前にある料理に機械的に口を運んでいた。

「由衣子、全然食べてないじゃないか・・・。」

さっきからスープしか口にしない由衣子を、竹叔父さんが心配そうに見つめている。
何だかこちらが居た堪れない。

「・・・そういえば、千春叔母さんは?」

気まずい空気を打破する為にも、俺は話を逸らすかのように俊彦に尋ねた。

「母さんは、高校時代の同窓会があるって、今、神戸に行ってる。
久しぶりに実家にも寄るってさ。一週間位したら帰ってくるんじゃない?」
「そっか。」

---そういえば、今日、本当ならば、夕食はのだめが鍋を作るはずだった。
あのメールを最初に見た時、夏なのに鍋かよ?と、心底呆れさせられたんだっけ・・・。

”のだめ、お鍋とおにぎりには自信があるんデス!!”

でも今は無性に・・・アイツの作った鍋が食べたかった。

「こんな事になるとは・・・。急いで帰ってきたんだが、何も力になれなくてすまんな、真一。」

竹叔父さんが俺に詫びた。
一報を聞いた叔父さんは、急遽、出張先の愛知からとんぼ返りしてくれたのだ。

「いや、迷惑かけたのは俺達の方だし・・・。みんなも、色々ごめん。」

俺は申し訳なくて、ただ頭を下げるだけだった。

「のだめちゃんには、誰か付き添わなくてもいいのか?」
「ええ。今の所、身体の怪我の方は大した事無いから、付き添わなくていいって先生に言われたの。」

母さんが小さな声で答える。俺も俊彦も何も言わず、母さんの説明を聞いていた。

「頭の方は、一応明日もっと詳しい精密検査をして・・・。だからその結果が出るまでなんとも言えないみたい。
先生が言うには、どうも健忘症の症状に近いって言うんだけど。」
「健忘症・・・。」
「・・・記憶障害は、色々判断が難しいらしいの。明日急に思い出すかもしれないし・・・。
またはそれが1週間後だったり、1ヶ月後だったり・・・。」
「一生思い出せない、って可能性も否定できないそうだ。」

母さんの話で一番言い難いことを、俺は付け加えた。そうした方がいいと思ったからだ。

「・・・難しいな。」

竹叔父さんはそう呟いたきり、それ以上は何も話さなかった。

結局、みな夕食のあらかたを残し、久しぶりの家族水入らずは、重苦しい空気のままお開きになった。

---その夜。
各々自分の部屋に入ってしまったせいか、三善の家は怖いくらいに静まりかえっていた。

千秋は風呂から上がると、急に思い付いたかのように、二階の一番左奥にある客間へ足を向ける。
客間のドアを静にそっと開けると・・・、そこにはのだめのキャリーバックがポツンと置いてあった。
今日着いたばかりだったからであろう。まだほとんど荷解きもしていない状態だ。

---本来ならば、今ここに”のだめ”が居るはずだった。

そう思うと千秋は何だか居た堪れなくなり、すぐに客間の扉を閉め、踵を返すと自分の部屋に向かった。
自分の部屋の扉を勢いよく開け、後ろ手でガチャンと閉める。
そうして、明かりもつけないまま自分のベットに飛び込むと、頭から布団をかぶってしまった。

久しぶりの懐かしい自分のベッドの感触だったにも関わらず、千秋はその夜、殆ど一睡も出来なかった。

朝一でのだめの病院に行くと、ちょうど今から精密検査が始まる頃だった。
もしかして今朝になったら記憶が戻るかも・・・、と思った淡い期待もすぐに打ち砕かれる。

「のだめ、何で、忘れちゃってしまったんでしょうかネ?」

と、開口一番アイツに言われたからだ。

「何で・・・って、頭打ったからだろ?」

俺はそう苦笑したが、のだめの中ではまだ上手く整理がついていないようだった。

・・・そうだよな。あいつは18歳の記憶のまま、今ここにいるんだから。

そう思うだけで、俺は胸が苦しくなった。

昨日、あの後、俺はもう一度のだめの病室に一人で行った。
失ってしまったアイツの記憶を、今に至る時系列を、一応簡単に話してやったのだ。
隠していてもはじまらない。時間は一瞬たりとも止まってくれないのだから。
のだめは・・・、のだめの中の時計は、ちょうど音大に合格して上京したばかりらしい。
試しに『もじゃもじゃ組曲』の話をすると、谷岡先生と1曲目を仕上げたばかりだと嬉しそうに話した。

「・・・で、今、お前はパリのコンセルヴァトワールでピアノ留学をしている。」

補完の為の状況説明をそう最後に締めくくると、のだめは、むきゃー!とあの奇声を上げた。

「の、のだめがデスか?な、なんでパリに?」
「何でって・・・。ピアノの勉強の為だろ?」
「のだめ、幼稚園の先生になりたいんですヨ?諦めちゃったって事デスか?」

---そう言えばコイツ、昔そんな事言っていたな・・・。

俺がもっとピアノを頑張らないのか?と尋ねた時、コイツはその言葉を笑い飛ばしていたっけ。
でも。
あの後ハリセンについてコンクールに挑戦し・・・、そして俺と一緒にパリに来た・・・。
のだめの中に、どんな気持ちの変化があったかは、俺にだって全部は判らないけど。

それでもあの大川で・・・、

”のだめもピアノがんばりマス!いつか先輩とコンチェルトしたいから。”

そう言ってくれたのを、俺はまだ昨日の事のように鮮やかに憶えている。

---お前が憶えていなくても、俺はちゃんと憶えている。

「俺と一緒にコンチェルトするのが夢だって・・・そう言ってたかな。」

少し恥ずかしかったが、俺は正直にそう答えた。

「へ?コ、コンチェルト・・・?」

・・・のだめは相変わらず、頭から疑問符を出しまくりだったけど。

「俺とお前のゴールデンコンビは、世界中から演奏依頼が来るんだってさ。」
「でも、のだめが、ピアノって事ですよネ?それじゃー、ち、千秋さんの楽器は何ですカ?」
「千秋”先輩”」

俺がそう言い直すと、

「千秋”先輩”?」

のだめは鸚鵡返しのように素直に繰り返した。

「そ。お前は俺をそう呼んでいた。”先輩”って・・・。」
「千秋先輩、千秋先輩、千秋先輩・・・。」
「まじないの呪文みたいに言うな!ったく。」
「ぎゃぼ!ゴメンナサイ!」
「俺は指揮。で、お前はピアノ。」
「千秋先輩が指揮で・・・、のだめがピアノ?」
「うん・・・。」
「ほわぁー。のだめがコンチェルトですかぁー・・・。」

信じられないと言った風に、のだめは何度も首を傾げていた。

---本当はさっき・・・、のだめに”千秋さん”と呼ばれて心臓が凍りついた。

今、目の前にいるのは、絶望的にまで俺の事を忘れてしまった”のだめ”。
確かに”のだめ”なのに、俺の知っている”のだめ”じゃない。
泣きたくなるってこういう事なのか・・・?
でも、俺はそんな事、億尾にも出さないように話を続けた。

「ま、そういう訳だから。また明日、みんなで来るよ。今日はもう休め。」
「は、はい・・・。」
「まずは、体の方を治さないと。記憶の方は・・・、おいおい考えよう。」
「・・・ご迷惑、おかけしまして、誠に、も、申し訳ありまセン・・・。」

---昨日あの時、のだめは可哀想な位、俺に恐縮していた。

俺の方も、のだめが記憶を失ったと知ったばかりで、混乱していたから。
・・・だから少し、色々とぶっきらぼうな言い方だったかもしれない。

でも、記憶を失って一番心細い思いをしているのは俺じゃない。
アイツだったんだよな?・・・俺は反省した。
だから今日は、なるべくアイツの負担にならないような言葉をかけてやらなきゃいけないと、
朝、三善の家を出る時決意したのだ。

「昨日は良く眠れた?」
「ええと・・・、チョト、眠れなかったデス・・・。色々考えちゃって・・・。」
「俺も・・・良く眠れなかった。お前が心配で。」
「ええっ?の、のだめのせいですカ?」
「うん。だから、早く元気なってくれ。・・・俺の為にも。」

俺は照れながら、でも出来るだけ優しく言った。
のだめにもそれは伝わったんだろう。頬っぺたをピンク色に染めてハイ、と俯いた。

---それはすごく可愛くて・・・アイツが見せる・・・俺が好きな表情のひとつだった。

「検査はこれからだろ?緊張してないか?・・・あ、腕とか、身体の方はもう大丈夫?」
「落ちた時にぶつけた箇所は結構な青あざになっちゃってて、まだ痛いんですケド・・・、
それ以外は・・・、もう大丈夫デス。」
「そっか。でもお前、木から落ちたのに、大した怪我が無いなんて凄いよな。よっぽど丈夫なんだな?」
「むー!のだめ、きっと、落ち方が上手かったからですヨ!」
「普通、人間は落ちないようにするもんだ。って言うか、そもそもいい歳した女は木には登らない。」
「ムキャーーー!!千秋先輩、ひどいデス!!」
「ははは。ま、丈夫なのは、俺が肥えさせてやってんだから、当然だな。」
「こ、肥えさす?のだめ。ぶ、豚サンじゃないですヨ!?」
「お前・・・、俺が食わしてやった恩も、綺麗サッパリ忘れてんだな・・・。」
「ぎゃぼーん・・・スイマセン・・・。」
「ま、俺もお前の凄〜い料理、食わして貰ったけどな?」
「へ?のだめが千秋先輩に?しゅ、しゅご〜い料理?」
「のだめちゃん、山口先生が呼んでるわよ?」

いつの間に来ていたのか、母さんが後ろから声をかけた。

「精密検査、今からはじめますって。」
「は、はい。じゃ、のだめ行って来ますネ。」

俺達にそう言うと、のだめはベットを降りて検査室の方へ向かった。

「随分と話が弾んでいたみたいね?」

のだめの姿を見送りながら、母さんは言った。

「なるべく、気持ちを解してやりたいと思って・・・。一番不安なのはアイツだし。」
「真一。今回の怪我のことなんだけど・・・。
あなたに言われた通り、まだのだめちゃんのご両親にはお話してないの。」

母さんは言いづらそうに話を続けた。

「・・・でも、このまま、ずっと黙っているって訳にもいかないでしょう?
記憶の事は、否が応でもいつかは分かる事なんだから。」
「・・・わかってる。でも、もう少し待って欲しいんだ。せめて、俺とあいつがパリに戻る十日後までは・・・。」
「こういうの、黙ってれば黙っている程、言い出し難くなるわよ?」
「うん・・・。」
「のだめちゃんだって、こういう付き添いとか、身内の人が居てくれた方が安心するでしょ・・・?」
「そうだけど・・・。もうちょっと待って欲しいんだ。俺の我が侭で、ホント申し訳ないと思うけど。
のだめ、昨日福岡からこっちに来たばかりで・・・。それで・・・これだろ?
アイツのご両親にもの凄く心配かけてしまうと思うし、だからもうちょっと待って欲しい。」
「真一がそこまで言うなら・・・わかったわ。」

母さんは諦めたのかそれ以上俺を説得しようとはしなかった。

俺は午後からR☆Sオケの練習が入っていた為、母さんに後のことは任せ、そのまま病院を後にした。

このところ一日中オケのリハーサルが続いているせいか、メンバーにも少し疲れの色が見える。

昨日の電話の側にいた連中は少し事情を知っているだけに、俺が指揮をしている間、
ずっと心配そうな表情をしていた。
指揮中に何度も峰とも目があったけど、聞きたいけど、聞きにくい・・・、そんな顔だった。

「明日は一日オフになるけど。
どの様に過ごすかで明日以降の仕上がり方が違うのを、全員、言わなくてもわかってるな?
くれぐれもプロとしての責任を忘れないように。以上。」

松田さんの話で、今日の練習は終了した。

「千秋君。久しぶりだね。フランスでの活躍、色々と聞いてるよ。」

練習の解散を告げると、すぐに松田さんが俺に声をかけてきた。

「有難うございます。このオケで、また振れるのも、
今までこのオケを導いてくださった松田さんのおかげです。感謝しています。」
「ふーん・・。君にそんな事を言われると、少し勘ぐってしまうが・・・。ま、今は額面通り受け取っておくよ。」
「素直じゃないですね。」
「その言葉、そっくり君に返すよ。飲みに誘いたい所だけど、
僕達、一応”競演”って事になってるからやめておこうかな。・・・決着をつけてからって事で?」

松田さんはくっくっくと喉で笑った。

「俺・・・、今、自分がやれる事を精一杯やるだけです。宜しくお願いします。」
「相変わらず”優等生”でかわいくないねー。叩き潰されても知らないよ?じゃ。また。」
「はい。お疲れ様でした。」

松田さんが大股で部屋から出て行くのを確認すると、俺は急いで帰り支度を始めた。
今ここを出れば面会時間終了の6時半までに、アイツの病院に寄れるからだ。

「千秋・・・。なぁ、・・・ちょっといいか?」

後ろを振り返ると、峰と真澄が気まずそうに立っていた。

「ああ、うん。いいけど・・・。なるべく早くな。のだめの病院に寄りたいから。」

俺は二人にまた背を向け、指揮棒をケースに片付けながら言った。

「その、のだめの事なんだが・・・。」
「うん、ピンピンしてるよ。こっちが呆れる位。」
「え、そうなのか?だって、昨日意識が無いって・・・。」
「あの後、すぐに意識が戻ったんだ。身体の方は・・・、打撲とかすり傷はあるけど、特に異常なし。」
「もーーー!心配して損したっ!あの、ひょっとこ馬鹿娘!心配で眠れなかったわたしの睡眠時間返して!」

真澄が大げさに叫んだ。峰も拍子抜けしたように情けない顔で笑っている。

「ははは・・・は・・・。なんつーか、のだめらしいな・・・。」
「一応、今日の精密検査で異常が無かったら、あさって退院できるらしい。」
「え!?それじゃわたし達、明日お見舞いに行っても無駄?」
「いや、そんな事ないよ。顔、見に来てやって。」
「でも大した事なくてよかったな〜。さすがどうぶつ奇想天外・・・。」

峰の話を聞きながら俺は最後の荷物を入れ終わると、二人に振り返った。

「ただ、見舞いに来るなら。・・・言っておいたほうがいい事がある。先に言っとくな。」
「え?な、なんだ?」
「のだめ。記憶障害が出てて、ちょうど5年分位の記憶を喪失してんだ。
だから、多分お前達のこと見ても、アイツにとっては知らない人だから・・・。
それ見て、ショック受けないで欲しいんだ。」
「記・・憶・・・障・・害・・・?」
「うん。ドラマとか小説とかではよくあるけど・・・。まさか自分の身近な奴がそんな事になるなんてな。
事実は小説より奇なり・・・、ってヤツだ。」

俺は努めて淡々と状況説明をした。二人はまだ呆然としていた。
仕方がない。俺だってこの事を知った時には、目の前が真っ暗になったんだから・・・。

「ヤだ、ホントに・・・ひょっとこ馬鹿娘なんだから・・・。記憶喪失になるなんて・・・。」

真澄の顔は泣き笑いになっていた。

「あのコ、千秋さまのことも・・・、憶えていないの?」
「うん、清清しいまでにな・・・。でも、記憶がなくてもやっぱりその、のだめだけどな。」
「俺達・・・、明日見舞いに行かない方が・・・いいか?」
「いや、来てくれた方がアイツにもいいと思う。何がきっかけになって思い出すかもわからないから。
本人も記憶がなくて不安だから、話してあげるといい刺激になるらしい。」
「そっか・・・。じゃあ午後位にでも・・・。あ、萌と薫なんかも誘って行くから。後で病院教えてくれ。」
「わかった。じゃ、ごめん。先に失礼する。また明日、のだめの病院でな!」

俺は練習室を出ると、そのすぐ脇に自販機があるのに気が付いた。
そこでペットボトルに入ったミネラルウォーターを一本買う。
歩きながら、ごくごくと喉を鳴らして・・・一気に半分程飲み干した。
そうしてようやく息をつく。

---大丈夫。冷静に話したつもりだ。
---俺の動揺、アイツ等には伝わってないといいのだが・・・。

そう思いながら、夕闇が迫る中、のだめが待つ横浜の病院に向かった。

病院に着いたのは、面会時間終了の10分前だった。
俺は急いで病室へ向かう。
のだめの病室に入ろうとすると、その直前で、白衣を着た中年の男性から声をかけられた。

「もしかして、千秋真一さんですか?」
「・・・はい、そうですけど?」
「よかった・・・。私は野田さんの担当医で、山口と申します。」

山口先生は人好きしそうな、人懐っこい表情を見せた。

「ずっとあなたとお話したいと思っていたんですよ。今日お会いできて本当によかった。」
「すいません。何もかも母に任せきりで・・・。仕事が立て込んでいたものですから・・・。
僕の方も、主治医の先生から直接お話、伺いたいと思っていたんです。」
「そうですか。お互い、タイミングが合ったって事でしょうね。後で、私の部屋に寄って頂けますか?
野田さんにお会いした後でかまわないですから・・・。」
「はい。寄らせて頂きますので、よろしくお願いします。」
「では、後ほど・・・。」

山口先生は軽く会釈すると、ナースセンターのある方へ歩いていった。

ドアを軽く三回、ノックする。

「はーい。」

のだめの元気そうな声が聞こえてきたのを確認すると、俺は扉をそっと開いた。

「起きてた?」
「起きてますヨ!子供じゃないんですから、こんなに早くに寝れません!さっき、夕ご飯食べた所デス。」
「そっか。」
「千秋先輩は、お仕事帰りですか?」
「うん。ま、そんなとこ。」
「今朝も来てくれたのに・・・。一日に何回も来てくれなくても、のだめ大丈夫ですヨ!」

---なぁ、のだめ。
---頼むから・・・。
---こんなに残酷なこと、そんな風にふんわりと優しい笑顔のまま、俺に言わないでくれ・・・。

「・・・先生と話があったし。ついでにお前の顔も見ておこうと思っただけ。」
「あ・・・。そ、でしたか。えへへ・・・。なぁーんだ。」
「ったく。調子乗ンな・・・。」
「ぎゃぼ!別にのだめ、調子に乗ってなんかいませんヨ!」
「ま、元気そうなのは分かったからよかったけど。もう面会時間終わりだから俺、そろそろ行くな?」

俺が時計を見ながらそう言うと、のだめは少しがっかりした顔をした。

「せっかく千秋先輩来てくれたのに・・・、チョトしか話せなかった・・・。」
「え?・・・俺と、そんなに話したかった?」

のだめからそんな言葉が聴けるとは思えなかったので、俺は頬を高潮させた。

「山口センセが・・・。あ、山口センセはのだめの主治医の人の名前デス。
先輩と話をすると、思い出すいいきっかけになるかも、ってさっき言ってたんデス!だから・・・。」
「いい”きっかけ”。か・・・。」

期待は、すぐに落胆の色に染まる。

「なんかぁー、頭の中がモヤモヤしてー。上手く言えないんですけど、気持ち悪いんデス!
みんなのだめの事を知っているのに、のだめは知らなくて・・・。うぎゅー・・・。」
「それなら・・・、明日、お前の見舞いにみんな来るって言ってたから。いいきっかけになると思うよ。」
「・・・”みんな”?」
「ん。”みーんな”だ。お前が木から落ちて心配してくれてたぞ。詳しくは直接、自分で聞け。
何がきっかけで、記憶が戻るかわからないからな。」
「はぅぅー。”みんな”デスか・・・。のだめの知っている人、いますかネ・・・?」
「俺は明日も仕事が結構入ってて、朝は来れないけど。今日みたいにまた、夕方来るから。」
「・・・はい。」
「じゃあ。また明日な。」
「千秋先輩も気をつけて帰って下さいネ。」
「うん。」

のだめは俺が部屋を出るまで、ベッドの上で小さく”バイバイ”と手を振っていた。

のだめの主治医である山口先生の部屋を訪ねると、ちょうど脳のCTスキャンの画像を用意している所だった。

「失礼します、千秋ですが・・・。あ、これ、アイツのですか?」
「ええ。今日詳しい精密検査をして、一応結果が出ましたので・・・。ご説明致しますね?
どうぞこちらにお掛け下さい。」

山口先生は、とても紳士的な所作で、俺に椅子を勧めた。

「見て頂いておわかりになったと思いますが、
今の所野田さんの頭部には、脳内出血及びその他の気になる箇所等は認められません。」

俺でも分かる様に優しく噛み砕いた表現で、先生はのだめの症状を説明してくれている。

「つまりそれは・・・脳に異常はないという事ですか?」
「そういう事に、なると思われます。
出血した箇所が脳内部を圧迫して、それが原因で記憶障害が出ている訳ではないようですね。」

異常がない・・・という事は、のだめは何故、記憶喪失になってしまったのだろう・・・?

「よく、ラグビーをやられる方でいらっしゃるんですよ。
タックルを受けて脳震盪を起こされて、病院運ばれて来る方の中に、このような症状を見せる方が・・・。
CT等でも脳に異常は認められないのに、何故だか目覚められると記憶がない、って状態になっていて・・・。」

山口先生はのだめのカルテをパタンと閉じると、俺の方に向き直った。

「でもそういうのは、ほとんど一過性の場合が多いのです。
次の日には不思議と・・・ちゃんと記憶が戻られているのです。
それに加え患者さん本人は、その間の記憶がなかった事自体を、全く憶えていないケースが多いのですよ。」

先生は机の脇にあるコーヒーサーバーから二つコーヒーを注ぐと、俺の前にその一方を置いた。

「良かったらどうぞ。」
「あ、有難うございます。頂きます。」

二人で同時に、そのコーヒーに口をつける。先生の淹れてくれたコーヒーは、俺には少しほろ苦かった。

「野田さんの場合は・・・。脳にショックを受けた事による記憶障害に間違いないのですが・・・。
そのショックの部分が非常に大きかったという事かもしれません。もちろん・・・個人差はありますけど。
今の所は”部分的な健忘症”・・・というのが私の診断ですね。」

コーヒーカップを弄びながら、先生は慎重に言葉を選んで発言している様だった。

「部分的な、健忘症・・・。」

・・・表情が暗くなった俺が気になったのか。
さっきまでの、のんびりとした雰囲気とはうって変わり、山口先生は急にキッパリとした口調で言った。

「こういう時に、”気を落とさないで下さい”って言葉はツキナミなんですが。」

そうして、空になったコーヒーカップを置き、俺の目をしっかりと見据える。
その意志の強そうな眼差しがとても印象的だった。

「野田さんの記憶が絶対に戻らない、って決まった訳ではありませんからね。
あなたが野田さんをしっかり支えてあげることが大事ですよ。一番不安なのは野田さん本人ですから。」
「・・・はい。」
「あなたのお母様から聞きました。二人でパリに留学されているそうですね。
二人だけで共有している思い出とか、どんどん彼女に話してあげて下さい。まずはそこからです。」
「明日、他の友人達も見舞いに来るのですが・・・。会わせて大丈夫ですか?」

俺は一応気になっていたので、山口先生に峰達を会わせて良いか、確認を取る事にした。

「そうですね・・・。野田さんは割合しっかりしておられるから、まぁ、大丈夫でしょう。
記憶を失ってひどく混乱されている方だと、落ち着くまでは、ごくごく一部の方の面会しか認めないのですが。」
「のだめ・・・、いえ、野田恵に関しては、会わせても大丈夫なんですね?」

俺がアイツを”のだめ”と呼んで、慌てて訂正したのを聞くと、
山口先生はようやく厳しい表情を崩し、口元に柔らかな微笑を浮かべた。

「”のだめちゃん”って皆さん呼んでるんですよね。あ、本人も自分をそう言ってましたか?
面白い呼び名ですよね〜”のだめちゃん”。僕もそう、呼んでもかまわないですか?」
「ええと、あ、はい。」
「”のだめちゃん”なら大丈夫ですよ。冷静に自分の状況を判断している。順応性が高いんでしょうね。
案外、記憶のピースが一つでも失くした所に上手くはまれば、次々に思い出されるかもしれませんよ。」
「そうですか・・・。それを聞いて勇気づけられました。」

最後の先生の言葉を聞いて少しホッとした。
確かにアイツはパリでも抜群の適応能力を見せていた。
フランス語も・・・何だかんだ言って、あっという間にマスターしていたしな・・・。

「身体の方は、時間が経過すれば痛みも和らぎますので。まぁ、少し内出血の跡が痛々しいですけどね・・・。」
「ピアノの留学中だったので、手や腕にケガがなかったのが不幸中の幸いでした。」
「そうですね。でも、もしかしたらのだめちゃん、落ちる時に反射的に手を庇ったのかもしれません。
上半身の、特に背中から両肩にかけて、随分とひどく打撲していましたから。」
「・・・そうでしたか。」
「ピアニスト魂・・・でしょうか?」

先生は悪戯っぽい光を瞳に宿らせながら、俺を覗き込んだ。

「ったく、馬鹿なヤツ・・・。でも、そうならアイツらしいかもしれません。」
「では、今日はこれ位にしましょうか。
私どもも、全力でのだめちゃんの記憶が戻る様、お手伝いさせて頂きますので。」
「どうかよろしくお願いします。」

俺は山口先生に深々と頭を下げた。この先生にならのだめを任しても大丈夫・・・。そんな気がした。

「山口先生、今日は本当に有難うございました。」
「いえいえ。こちらこそ遅くまで引き止めてしまい申し訳ありませんでした。」

俺が失礼しようと立ち上がると、律儀に山口先生も自分の椅子から腰を上げた。

ドアを開ける前に山口先生に振り返ってもう一度深く一礼し、そして俺は先生の部屋を後にした。

今日は、R☆Sオケのオフ日だった。

昨日まで東京に接近していた台風は、結局関東地方に一度も上陸することなく太平洋側に逸れていった。
しかしゆっくりとした台風の進度に伴って前線を刺激したせいか、今日は朝から土砂降りの雨が降っていた。
せっかくのオフ日にこんな雨・・・そう思うオケメンバーも居るだろう。

---これは恵みの雨?
---それとも・・・。

俺は高速を走るタクシーの窓を叩く雨の雫の跡をじっと見つめながら、ぼんやりと物思いに沈んでいた。


今日は朝からハードスケジュールだった。
一日中マスコミ関連と言うか、取材関係の仕事で埋まっている。

・・・こういう仕事を、オケの練習がある日に入れて余計な気を散らしたくなかったから。
取材なんかは全部、オケのオフ日である今日に集中させてこなす事にしたのだ。

今日は、主に新聞各社の音楽欄のコラム等の取材が一番のメインで。
駆け出しの指揮者とオケの特集を、思った以上に大きく組んでもらったりしていて・・・本当に有難い事だ。
取材を受ける先は音楽系雑誌はもちろんだけど、情報系の男性誌や何故だか女性誌も何社か入っていた。
でも俺にとっては、これらはほとんどR☆Sオケの為の仕事、という位置づけだ。
何故ならば・・・本来なら引き受け(たく)ない仕事内容もあったからだ。

男性向けの、とある雑誌の撮影では・・・。
松田さんと絡みでスーツやフォーマルや私服なんかを何着も着させられた・・・。
松田さんは、カメラ目線でノリノリだったけれど・・・。俺はとにかく恥ずかしさを堪えるので精一杯だった。

---くそっ!!エリーゼのヤツ、本当に俺を馬車馬の様に働かせやがって・・・!!!

メディアと言えば、3日後にはあるテレビ番組にも宣伝を兼ねて出演予定だ。
これは、夜のニュース番組の特集で特別ゲストとして、ということらしい。
実はこれも松田さんと一緒の仕事だ。”新進指揮者二人の競演”が、メディア受けしたのかもしれない。
・・・ある意味、峰の目論見は十分に成功しているようだった。

この番組は初老の切れ味たっぷりの有名キャスターを冠し、だから日本ではとても人気がある。
俺も確かに楽しみではあるけれど・・・ライブだから、何が起こるか想定できなくて不安だった。
何しろ一緒に出演するのが、松田さんだからな・・・。

---つまり、そんなこんなで。

朝から、何回も同じ質問に同じ答えを繰り返したり、何回も着替えさせられたり、何回も髪を弄られたり・・・。
とにかく夕方まであっという間に経っていた。
もう最後の方は、慣れない事に対する気疲れを遥かに通り越して、ダウン寸前だった・・・。

午前中から入れすぎた取材の時間が押したせいで、
5時前の今でも、まだある女性誌1社の取材が残っていた。
本当ならば、もう今日の取材は終了する時間だった。

俺はのだめの病院に行く為に、その社の担当の人に頼み込んで、何とか今日の取材を切り上げて貰った。
撮影は何とか済ませたので、インタビュー部分のみ明日のオケ練の合間に取材、と言う形になってしまった。
まぁ、それは・・・止むを得ない。

とにかく午前中に買い物に行く時間も無かったので、俺はオリバーにある物の購入を頼んでおいた。

マネージャーだから、このスタジオの何処かに居るはず・・・と思い探すと。
目を凝らしてよく見れば、薄暗い撮影スタジオの隅の方で、場違いな程大きなシルエットが見える。
・・・オリバーだ。
俺は壁を背にして立っている彼に声を掛けた。

「オリバー!」
「あ、千秋。頼まれていたもの、買って来たよ!コレでいいのカナ?」

オリバーは今回俺のマネジメント担当で一緒に来日している。
日本だから別に俺一人でも大丈夫だったのだが・・・。
今回、オリバーが俺と一緒に行くと言って、珍しく強く主張して譲らないので、連れて来たんだけど。
・・・どうやら実は、観光目的のようだ。
そういえばこの前日本に来た時は、あのスケベ巨匠の捕獲役だったしな・・・。

「ああ、これでいいんだ。サンキュ!よくちゃんと買えたな。」
「日本人の女のコってみんな優しいね。困っていると、向こうから声掛けてくれた。」
「そっか・・・?まぁ。今日は俺も仕事終わりだから。オリバーもホテルに戻るなり自由にして。」
「Ya!じゃあ千秋、何かあったらいつでも連絡してくれ。」
「うん、お疲れ。買い物、本当に有難う。」

オリバーは気にするなとばかりに手を振って歩いていく。手にはもうしっかり日本のガイドブックを持っていた。

---後ろからチラッと覗いた感じでは、あれは今夜は六本木に行くつもりだな・・・。
---これもあのエロジジィの影響か・・・。(ため息)

鼻歌交じりでスタジオ内をオリバーは闊歩していく。
途中すれ違ったアシスタントの女の子が、
不気味なモノを見たかのようにギョッとしたのが遠くから見ててもわかり、とても可笑しかった。

今日は昨日より早く行く予定だったのに、またしてもこんな時間になってしまった。
それでも何とか電車とタクシーを乗り継ぎ、面会時間終了ギリギリの30分前に病院に着く。

昨日は朝に一度会っていたから、夕刻の面会は時間が少なくてもよかったけれど。
・・・今日はまだのだめの顔を見ていない。
なるべく毎日顔を見せて、一日も早くアイツの記憶が戻るきっかけになればいいのだけど・・・。

のだめの病室のあるフロアに上がると、休憩所に見知った面々が居るのに気が付いた。

・・・峰達だ。
そういえば今日見舞いに来るって言ってたな・・・。アイツ等まだ居たのか・・・?

見舞いに来てるのは、峰、真澄、それから鈴木姉妹の4人と。
そして・・・昨日はまだいなかった黒木君も、今日は来ている。
どうも、皆で何やら休憩所の窓側の方でかたまって話し込んでいる。
全員窓の外を見ながら後ろ向きだから、俺がその後ろに来ているのにまだ誰も気が付いていないようだ。
俺が皆に声を掛けようとしたその時、ぼそぼそと喋る、峰達の話し声が聞こえてきた。

「・・・のだめ、マジで何も覚えてないんだな・・・。」
「本当に・・・。真澄ちゃんからは話聞いてたけれど、やっぱり結構ショックよね・・・。」
「千秋さまかわいそう・・・。」
「バカバカバカ!!・・・バカのだめっ!ううう・・・。」
「真澄ちゃん、泣くなよ〜・・・。オレだって泣きたいの我慢してんだからよ〜・・・。」
「・・・ハンカチ。僕のでよかったら使って・・・?」
「・・・っひっく。ありがとう・・・。」
「・・・けどさ。アイツの中じゃ、今5年前なんだろ?
って事はさ〜、そうなるとオレはまだ皆と同じ2年で、ナント!留年してねーんだよ!!
・・・ちょっとだけ、オレ、のだめン中の世界に戻れたらいいなぁ〜ってそう思っちゃっ」
「ちょっ!ちょ、ちょっと、龍っ!!」

俺が背後にいるのに真澄が一番早く気が付き、慌てて小声で峰を制止した。

「あっ・・・ち、千秋!?何時からそこに?!い、居たのか・・・?」
「あーうん。今来た所。みんな大雨の中、ありがとな。わざわざこんな遠くまでのだめの為に・・・。
せっかくのオフ・・・潰してすまなかった。」

俺は峰達の話には気が付かなかった振りをして話し続けた。でも皆、顔を合わせて気まずそうにしている。

「もう、のだめに会ってくれたのか?」
「あ、ああ!今さっき、のだめの病室から出てきたばかりなんだ。み、みんなで・・・っな?」
「そ、そうなんです!千秋さま。のだめちゃん、意外と元気そうで安心しました!」

薫が峰をフォローするかの様に、早口で慌てて付け加えた。

「でも、ビックリしただろ?アイツ、本当に綺麗サッパリ記憶喪失になってて。」

そう言いながら俺が笑うと、かえって逆効果だったのか、皆黙したまま俯いた。

「・・・びっくりと言うか、僕は正直、胸が押し潰される様にとても苦しくて・・・辛かった・・・。
恵ちゃんとついこの間、室内楽を一緒にやったばかりだったから・・・。」

黒木君は切なそうな瞳で、素直に心情を吐露した。
それはとても・・・、とても黒木君らしい誠実で人間味のある言葉だった。

「・・・俺、今からのだめの病室行くんだけど、お前らも来ない?」
「え、オレ達、一緒に行っていいのか?」
「もちろん。っていうか・・・その方が助かるよ。
・・・俺ものだめと二人きりだと、まだちょっと・・・その、ぎこちなくて・・・さ。」

俺も黒木君を見習う事にした。
そうだよな・・・。なるべく、こいつらの前では自分を偽りたくない。
音楽を一緒に頑張ってきた、かけがえのない同士なんだから・・・。

「おっしゃー!じゃあもう一度、みんなでのだめの所行こうぜ!!」

峰は張り切って先頭を歩き出した。

昨日と同じようにドアを三回ノックすると、はーいとのだめの声が聞こえた。
よかった・・・。今日も元気そうだ。

俺達が中に入ると、のだめはすぐに驚いた顔をした。

「あれ?千秋先輩・・・と、皆サン?さっき帰ったんじゃ・・・?」
「そこのロビーで、ちょうど帰る所の峰達に会ったんだ。
せっかくだからまた一緒にお前のとこ行かない?って俺が誘ったんだ。」

説明してやると、のだめは納得したのかうんうんと頷いた。

「そでしたか。のだめ、今日はもう、千秋先輩は来られないのかなー?って思ってました・・・。」
「待ってた?・・・遅くなって、本当にごめんな。」
「いえ!遅くなんてそんな事・・・。今日もやっぱり来てくれて、とってもうれしいデス!」
「おい・・・。アツい・・・。この部屋、ものすンご〜くアツいぞ・・・。」

峰がわざとらしく手で額を拭い、Tシャツの胸元をパタパタとやった。
黒木君は両頬を染めて、俺達から目を逸らしているし・・・。
鈴木姉妹の方はと言うと・・・。
ハンカチを口で噛み締め”キィー!”っとやっている真澄を両サイドから宥めていた。

---っていうか、そ、そのハンカチ、黒木君のじゃ・・・?

「そだ!のだめ、千秋先輩にお伝えすることがありマス!」

のだめは何か良い事があったのか、嬉しそうに明るく笑った。

「明後日の退院、山口先生が明日にしてもいいですヨって!だから、のだめ、明日退院することにしました。」
「え?そうなの?山口先生が?・・・もう退院して本当に大丈夫なのか?」
「はい!そうなんデス。
身体の方はもう大丈夫なんで、病院にいるよりお家のほうがリラックスしやすいでしょうって。
毎日通院してくれれば明日退院してもかまわない、てそう言われたんデス!」

俺は、オリバーに買って来て貰った紙袋を見ながら呟いた。

「それじゃコレ・・・いらなくなっちゃったな・・・。」
「えっ?なんですかー?これ、のだめにデスか?」

俺がのだめに紙袋を渡すと、のだめははしゃいだ声を出して袋を覗き込んだ。

「ふぉぉぉ・・・!綺麗にラッピングしてあるぅー!先輩、開けてもいいデスか?」
「・・・うん。」

のだめは紙袋から包装された箱を取り出すと、
マーブルピンク色の包装紙を破らないように慎重にシールを剥がしている。

「わぁーー!何々?何が入っているの、のだめちゃん!」
「いいなー!千秋さまからのプレゼント、わたしも欲しい!!」

萌と薫も顔をくっつけるようにして包装紙を開けるのだめの手元を見つめていた。

「・・・あ!コ、コレ・・・!」

のだめは放心したように呟いた。

『きゃーー!カーーワーーイーーイーー!!』(←双子シンクロ中)
「あらヤだ、トイピアノじゃないの。しかもちゃんと黒のグランドピアノ!!」

何故だか鈴木姉妹と真澄が、のだめ以上に俺のあげたトイピアノで盛り上がっている。

「ほら入院中、暇かなって。それにお前、ピアノにも触れてないし。
代わりにはなれないけど、ま、気分だけでもどうかな?って。おもちゃだけど一応ちゃんと音出るし。」
「あ、ありがとうございマス・・・。のだめ、大事にしますネ・・・。」

のだめがトイピアノを宝物を扱うように両手で抱えた。

「でも明日退院なら、もう明日には本物に触れるな。ま、それまでの繋ぎって事で?」

---タイミングは・・・あれだったが、のだめが喜んでくれている様だから、まぁヨシとするか。

「ほら、真澄ちゃん見て!このトイピアノ、ちゃんと上が開くの!」
「本当ねぇ〜。いっちょまえに”グランドピアノ”なのねぇ?」
「ねね、のだめちゃん、何か弾いてみて!」

萌のリクエストにのだめは照れながらトイピアノに向かう。

「ええと・・・、じゃあ、こんなのどうですカ?」

---キラキラ星だ・・・。

小さなトイピアノに不釣合いな程、大きなのだめの手。
四苦八苦しながらも器用にメロディを奏でるその姿を見て、何故だか急に胸が切なくなった。

---暖かいはずのトイピアノの音が、俺には何故か悲しい音・・・?
---何故・・・なんだ・・・?
---トイピアノの音が・・・どこか感傷的だからか・・・?

俺にもよく・・・自分の気持ちが分からなかった。

暫くその理由を考え込んでいると・・・ふと、左から誰かの視線を感じた。
顔を上げると・・・それは峰だった。
峰は、何時もだったらありえないほど神妙な顔で、俺をじっと凝視していた。

俺は慌てて表情を戻した。もしかして見られたかもしれない、俺の困惑を・・。
変な所でコイツ、妙に勘がいいからな。気を付けないと・・・。

俺はとにかく誤魔化して・・・何事もなかった様に、のだめ達を見やる。
するといつの間にか真澄が自分の両手の人差し指をマレットに見立て、
マリンバよろしくトイピアノを叩いていた。

「きゃーー!さすが、真澄ちゃん!打楽器の女王!大天才ーーー!」
「ムキャーーー!茶色の小びんーーー!!」

---っていうか、トイピアノは打楽器じゃねぇだろ・・・。

「そうだ・・・。わたし達もおもちゃのピアノ、昔買って貰ったよね?」

萌は、思い出に浸る様にうっとりと遠い目をしていた。

「うん。ケンカしない様にって・・・おもちゃのトランペットとセットでね?」

そこで二人はもの凄い勢いで千秋の方に振り返った。

「でも聞いてください、千秋さま!私達、ピアノよりトランペットの取り合いだったんです!」
「そうそう。ピアノが一つしかないと喧嘩になるからって、付け足しで買ったトランペットの方が!」

二人はお互い頷きあい、見つめあい、とても楽しそうだ。
双子ってこういう時、面白い位シンクロするするものなんだな・・・。俺は心の中で妙に感心していた。

「へー。そうなんだ?」
「じゃあ、アレか?もうその頃から、萌と薫は”吹きモノ専門”だったって事か?」

峰がそう言うと、二人は”やだ!そうかもー!”とその指摘を嬉しがっていた。
真澄も峰も、そして俺もそれにつられるようにして一緒に笑った。

「・・・あのさ。もう面会終了時間を過ぎているみたいなんだけど?」

それまで黙って皆の話を聞いていた黒木君が言い難そうに口を開いた。
時計を見ると・・・面会終了の時間をすでに10分もオーバーしていた。

「あれー?ここって、面会時間が終わるのを知らせるアナウンスってないのか?」

峰は”普通、あるもんだろ?”と言いながらのだめに尋ねた。

「アレが流れるのは一部の病棟だけなんです。この階はそーゆー音、流しちゃダメなんだそうデス。」
「へーそうなのか。」
「・・・入院してるのだめが言うのもなんデスけど・・・頭の患者さんは色々デリケートですからネ・・・。」

のだめは態と声を潜め真面目な顔をして峰に囁く。そして次の瞬間、”にしし”と笑った。

「のだめ・・・。言っとくけど、それ、全然笑えないぞ・・・?」
「ぎゃぼ!!」
「まぁまぁ・・・。でも恵ちゃん、明日退院出来て良かったね。しばらくは千秋君の所でゆっくりするの?」

黒木君はのだめに聞きながら、でも視線は俺の方だ。え?黒木君、俺に対するその目は一体・・・?

「え、と。そう・・・なるんですかネ?どうなんですか?千秋先輩。」
「だって、恵ちゃんの実家は確か福岡だよね?
暫らくは病院に通院しなくちゃいけないんだし、もちろんこっちにいるんでしょ?」
「・・・もうすでにお前の荷物はうちの客間にあるから。・・・その・・・いつも通り・・・。」

黒木君の妙に迫力ある視線に耐え切れず、つい正直に答えてしまった。

「いつも通り・・・デスか?」
「・・・うん。」

あーくそー!
皆の好奇な視線を物凄く感じる中、何か一人で照れているのが馬鹿みたいだ・・・。

「・・・だそうですヨ。えと、・・・く、黒木君?」
「僕の楽器は・・・?」
「・・・オーボエ?」
「うんうん、ちゃんと合ってるよ。恵ちゃん。」

黒木君が目を細めて優しく微笑むと、のだめもそれにつられてふわり、と笑った。

「じゃー、そろそろ帰るか。俺らも明日から練習再開だしなっ!」

峰の一言で皆がドアの方へ歩みを進める。

「のだめちゃん、またね!」
「体調良かったらオケのリハーサル、見学しに来てね!」

鈴木姉妹はドアのすぐ側で振り返って二人で一緒に”待ってるからね!”とのだめに言った。

「ハイ!必ず!」
「じゃーね!ちゃんと体治すのよ、のだめ。そ・れ・と、千秋さまに迷惑かけるんじゃないわよ!」
「うぎ・・・。気をつけマス。」

俺が最後に病室を出て行こうとした瞬間、のだめが思い出したかのように叫んだ。

「あっ!千秋先輩!このピアノ、ホントにホントに、ありがとうございましタ!!」
「ん・・・。じゃーな!また明日。」

俺達はそのままのだめの病院を後にした。






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