千秋真一×野田恵
![]() のだめが入院して3日経った。 のだめの記憶が戻る気配は・・・未だ、ない。 明日退院だったのを山口先生の許可で一日早くしてもらい、アイツは今日退院する。 母さんに退院時間を聞くと、午後3時位・・・との事だった。 今日は俺のオケの練習は午前中だから・・・ 昨日から持ち越した取材のインタビューを練習後に受けても、何とか間に合いそうだった。 「みんな、昨日は本当にありがとう。」 練習室に入ると、俺は真っ先に峰達に声を掛けた。 「何、水クサイ事言ってんだよ〜、千秋。俺達、親友だろ?」 そう言いながら、峰はバンバン!と俺の背中を叩いた。 「千秋さま。今日、のだめ退院って昨日言ってましたけど・・・。迎えに行かれるんですか?」 真澄が少し拗ねた様な上目遣いで聞いてくる。 「ああ、うん。一応行く予定。のだめの主治医の先生にお礼を言いたいし。 色々と母親に任せっきりだったから、最後くらいちゃんとしないと。」 「のだめちゃん、今日の何時に退院なんですか?」 「えっと・・・。午前中は診察があって。それから退院の手続きなんかが色々あるみたいだから。 ・・・3時過ぎになるって言ってたかな?」 「わたし達、午後は松田さんのオケ練があるから行けないけど・・・。」 そう言うと、薫が自分の荷物の所へ行って、可愛らしいフラワーアレジメントを手にして戻ってきた。 「コレ、みんなからのだめちゃんへ。退院のお祝いです。花束よりいいかなと思って・・・。 このまま飾れるし、オアシスだからお水の交換も必要ないし・・・。」 受け取ったアレジメントは、クリーム色の薔薇とパステルオレンジのガーベラ、 それと白い小花のマーガレットをメインにした、ビタミンカラーが眩しい初夏らしいものだった。 「黒木君が、絶対スズランがいい!って言ったんだけど。この季節、もうスズランなくてさぁ。」 「でも、似た感じのお花を入れて貰ったんだ。ほら、恵ちゃんにさ・・・似合ってると思わない?」 白い小花のマーガレットを指差しながら、黒木君は恥ずかしそうに俺に言った。 「いや、何だか、マーガレットはアイツには清楚で可憐過ぎる気もするが・・・。 それにもっと、こう、ごちゃごちゃした方がのだめっぽい気がする・・・。」 ---本当は、この元気が出るような瑞々しいアレジメント、のだめのイメージにピッタリだ・・・。 皆が思っているのだめのイメージと、俺のイメージが一緒で、すごく嬉しかった。 しかし正直にそう言えば絶対・・・からかわれる。 そう思った俺は照れ隠しもあって、ついそんな風に言ってしまった。 すると俺の発言を聞いた真澄が、間髪居れずに叫んだ。 「そうよ!だからのだめには、うつぼかずらとか、食虫花で良かったのよ!」 「いや、真澄ちゃん。そりゃー花屋の方が用意できねーから。」 峰の絶妙な突っ込みで、皆は大爆笑した。真澄は不満げに腕を組み、フン!と顔を逸らした。 「これ、本当にありがとう。のだめもすっげー喜ぶよ。じゃあ、練習始めようか。」 俺の合図で峰たちが定位置に戻ると、午前中の練習が始まった。 R☆Sオケとの練習も3回目。流石に3回目になると、色々と見えてくるものがある。 最初はお互いに様子見だった関係も、そろそろ本性が出てきたという事か・・・。 今回の公演は週末の土日二日間、それぞれ昼公演・夜公演の4回行われる。 A日程・B日程あり、それを俺と松田さんの二人がそれぞれ指揮する事になっている。 つまり、同じオケで同じ楽曲を、二人の個性の違う指揮者が振るという事だ。 土曜日の昼公演が俺のAプログラム、夜公演は松田さんのBプログラムだ。 そして日曜の昼公演は松田さんのAプログラム、夜公演は俺のBプログラムになる。 だから、例えば土曜日一日通して聴いても、曲がかぶる事がなく指揮者の競演が楽しめる。 また二日にまたいで昼か夜の公演のどちらかに行けば、同じ内容での指揮者の聴き比べも出来る手筈だ。 最初にこの計画を峰から聞かされた時は、革新的で面白い試みだと思った。 峰の目の付け所の鋭さに、俺は素直に感服した。 つまりオケと曲は同じで、違うのは俺が振るか松田さんが振るか・・・という一点だけだ。 こんな体験、滅多に出来るものではない。これこそ指揮者冥利に尽きるという訳だ。 だが。 今日の練習を通してハッキリと判ったのだが・・・。 俺の指揮が、いつの間にかもう一方の松田さんのアレンジの雰囲気にのまれつつある。 指示を出しても、オケのメンバーにはその通りに反応し切れない事が、ちょくちょく出てきた。 すっかり松田さんの色に染まっているこのオケでも、俺の指揮でそこから俺なりの音を生み出したいのだが・・・。 「違う!そこは次のDの動機に帰着する為の大事な部分だろっ!?もっと迷いながら!ためて!!」 「第2バイオリン!さっきから走ってる! 連続する音だから走リ易いなんて初歩的なミス、それでもプロのオケか!?」 「何回も言わせるなっ!そこの音程低い!!」 イライラが頂点に達する頃、俺の持ち時間のタイムリミットの12時になった。 公演まで後数日しかない。明後日にはもうゲネプロだ。 まだここには俺の求める音楽がない・・・!俺の音がつくりきれていない・・・! こんな状態のまま、本番を迎える事になるのか・・・?俺はしばし苦悩した。 「明日の午後は、今日まとめきれなかったBプログラムの曲を重点的にやります。 各自、そのつもりでいて下さい。ではこれで・・・。」 俺が午前中の練習の解散を告げると、オケメンバーのあちこちから何とも言えない溜息が漏れた。 峰が俺に何か話しかけたそうのが分かったが、取材の約束がこの後に控えていた為、 それには気が付かない振りをして俺はそのまま練習室を後にした。 オケが借りている練習室の近くにある喫茶店で、軽めの昼食を取りながら取材を受けた。 ・・・あまり食欲がない俺は、アイスコーヒーばかり飲んでいた。 流石に追加の三杯目を頼んだ時は、向かいに座っていたライターの女性が心配そうに俺に尋ねた。 「お加減でも悪いんですか?それとも何か、心配事でも・・・?」 「いえ、そんな事は。少し・・・暑さにやられているんだと思います。 日本の夏は向こうと違って、蒸し暑いですから・・・。」 「そうですか?あ、きれいなお花・・・。どなたかに?」 女性誌のライターは目聡く、バックの脇に隠すように置いてあった峰達から預かったアレジメントを見つける。 「オケのメンバーから共通の友人へです。今日、退院なので。」 「ご友人?どういったご関係の方ですか?」 「プライベートな事なので・・・。すみません、この後用事があるので、そろそろ取材の方・・・。」 俺がそう言ってその質問を遮ると、勘のいい女性らしく、それ以上は突っ込んでこなかった。 「千秋さん、本日は時間を取って頂いて有難うございました。公演の成功をお祈りしております。」 「いえ、こちらこそ。我が侭言って昨日から今日に変更して、本当に申し訳ありませんでした。 では、ここで失礼します。」 先に喫茶店を出て、ふと店のウィンドウからライターの方を見た。 すると彼女は何か思惑を秘めた瞳をして、じっとこちらを見つめている。 少し気になったがのだめの病院に遅れるといけないので、俺はそのまま小走りで駆け出していた。 予定より早く横浜に着くと、俺は母さんの携帯に電話した。 電話が繋がらなかったので、三善の家に寄らないでこのまま病院に行くかと思っていると、 すぐに俺の携帯が着信した。 それは公衆電話からで母さんだった。もうすでに、病院に来ているらしい。 諸手続きに色々手間取って、退院は一時間後の三時半位になるようだ。 今から俺も病院に向かう事を伝えると、母さんとはのだめの病室前で落ち合うことになった。 由衣子も学校が終わったらまっすぐに駆けつけると言っていたが・・・やっぱり間に合わないだろう。 病院に着くとすぐに、のだめの病室へ足を向ける。 病室前に行くと、母さんはまだ来ていない様だった。 もしかして・・・と思いフロアの向こう側にある休憩所の方を見るが、今は誰の姿もない。 母さんはのだめの部屋の中にでも居るのか? ・・・そう思いながら俺はドアを3回ノックした。 ・・・・・・ 今日は中から、アイツの声が聞こえてこない。 俺はドアをそっと開けた。 白いベットの上には、綺麗に畳まれた布団とのだめの荷物。 ・・・それから俺があげたトイピアノがポツンと置いてある。 どうやらのだめもここには居ないようだ。 山口先生の診察でも受けているのか?と暫く思案していると、後ろから急に声を掛けられた。 「千秋さん?千秋真一さんですか?」 「はい。そうですけど?」 年配の女性の看護士が中に入ってきた。 「のだめちゃんならこちらにいますよ。ご案内しますね。どうぞ〜。」 女性の看護士はそう言って微笑する。そして俺を先導するように、ハキハキと歩き出した。 俺はその看護士さんの後に従った。 「山口があなたとお話したがっておりました。後ほど山口も呼んでまいりますので。」 「山口先生が?・・・後、母が見当たらなくて。病院内にいるはずなんですが・・・。」 「千秋さんのお母様は今、会計の方へ行かれていらっしゃいますよ。もう間もなく戻ってこられると思います。」 「・・・そうですか。」 二階の吹き抜けに架かる渡り廊下を渡り切った所にあるエレベーターで、5階まで上がる。 5階に到着しエレベーターから降りた瞬間、すぐに此処には何科があるのか俺にも分かった。 壁一面は淡いピンク色で、所々に折り紙で形作った動物などが貼ってある。 休憩所も、可愛らしいウサギやクマの形をしたソファが置いてあった。 流されているテレビ画面の内容も、小さな幼児向けだ。 「ここ・・・小児病棟ですか?」 「ええ、そうですよ。あれなんて、すっごく可愛らしいでしょ?」 そう言って看護士さんは、壁に貼ってある子供達の絵の方を指し示した。 小児病棟の奥の方に一体何があるというのだろう?そう思いながら歩いていると・・・。 ・・・遠くから、ポロンポロン・・・と聞き覚えのある音が聞こえてきた。 ---ピアノだ・・・。 「もしかして、アレ・・・。」 「気がつかれました?ええ、のだめちゃんですよ。山口が小児科のプレイルームの中に アップライトのピアノがある事をのだめちゃんに教えましたら、弾きたいとおっしゃって。」 プレイルームに歩みを進める度、ピアノの音がどんどん大きくなる。 この曲は・・・そうだ、俺も知っている・・・。 のだめの好きな”プリごろ太”の主題歌だ。 「ほら、あちらですよ、のだめちゃん。」 看護士に指し示された方向を見ると、ピアノを弾いているのだめの後姿があった。 のだめを見た瞬間、俺は後ろから鈍器で頭を殴られた様に、愕然とした。 アップライトのピアノに向かうのだめの両脇や後ろに、沢山の子供達が甘えるように纏わりついている。 子供達が耳元で何かリクエストして・・・のだめは嬉しそうにピアノを奏で始める。 すると子供達から歓声が上がり・・・ピアノに合わせてのだめも子供達も一緒に歌い始めた。 ・・・ふと、のだめが右側を向く。 その瞬間、その横顔がこちらからも伺えた。 ---それはとても・・・とても楽しそうで・・・見た事もない位幸福そうな、のだめの笑顔だった・・・。 「では私は山口を呼んでまいりますので。こちらでお待ちになって下さい。」 そう言って、看護士は今来た道を引き返して行った。 俺は、この光景によって暗示された運命の残酷さに、暫く立ち竦んでいた。 もしかしたら・・・もしかしたら、俺に会わなかったのだめの未来予想図が、これなのか・・・? ・・・ひどく呼吸が苦しい。 脇の下から嫌な汗が流れてくる。 突付けられた現実に、俺の頭が思考する事を拒絶している。 ---そういえば。 俺はあの時、シュトレーゼマンに何て言ったんだ? これが”俺に会うまでただ楽しくピアノを弾いていた・・・のだめ?” 俺がアイツを引き上げられたら・・・なんて考え。 物凄く押し付けがましい独りよがりのエゴだった事に、今更ながら気がついた。 のだめにとって何が最善なのかは・・・俺にとって最善とは限らないという事も・・・。 だって・・・。 今のアイツは、五年前の”幼稚園の先生になりたいのだめ”だ・・・。 ---もしかして・・・。 ---もしかして、このまま記憶が戻らなかったら・・・アイツは・・・? 「のだめちゃん、もうすでに、子供達に大人気なんですよ。楽しそうに弾かれているでしょ?」 俺が苦悶している間に、山口先生がすぐ横に来ていた。 「千秋さんからのプレゼントだそうですね・・・あのアンティークの黒のトイピアノ。 ・・・あれを見て、ここのプレイルームにピアノがあった事を思い出したんです。」 そう言うと山口先生は腕組みをした。 「・・・今は楽しそう・・・ですが。少し気になる事があるんです。」 先生は表情を曇らせ、言いにくそうに話はじめた。 「もしかしたら・・・。少しのだめちゃんを過信しすぎたかもしれません・・・。」 ”私の不徳の致すところです・・・”と言って、山口先生は俺に頭を下げた。 「過信・・・ですか?」 「ええ・・・。実はのだめちゃん、昨日の夕食をほとんど残されたんですよ。今朝も半分程しか・・・。」 「え、食事を?アイツがですか?」 「入院した日から、食事だけはきちんと召し上がられていたので、のだめちゃんは大丈夫だと・・・。 やはり昨日のお友達のお見舞いに、何か興奮された様ですね・・・。」 ---昨日の、俺と峰達との見舞いの間、アイツはそんな素振り、ちっとも見せていなかったのに・・・。 「それに早めてしまった今日の退院も、本当なら延期したい位なのです。 ・・・昨日、あんな姿を目撃してしまったから・・・。」 「あんな姿?」 「ええ。私は昨夜宿直で・・・。 のだめちゃんが夕食をほとんど残した、と担当の看護士から連絡を受けておりましたので。 ・・・気になって、夜半過ぎに病室の方へ巡回に出たのですよ。」 山口先生は厳しい表情のまま話を続けた。 「深夜2時頃でしたか・・・。 様子を見ようとのだめちゃんの部屋の前まで行くと・・・扉が少し開いているのに気がついたのです。 おや・・?と思いつつも扉に手をかけた瞬間・・・中から”トーン”と木琴の様な音が聞こえて・・・。 私は一寸驚いて手を離しました。夜中でしたし・・・。病院では余り聞きなれない音ですからね・・・。」 そこで先生は少し笑った。 「・・・・・・暫くためらった後、私はおそるおそる中を覗きました。 すると窓際に立っている人の姿がぼんやり・・・と浮き上がっているのが見えました。 ベッドサイド脇のローチェストの上に置いてある”何か”を見つめている様でした。 ”のだめちゃん?” ・・・私はそう声を掛けようとして、途中で言葉を呑みこんでしまいました・・・。 のだめちゃんの表情が、余りにも遠くて・・・。 そこに居たのは・・・私の知らない表情をしたのだめちゃんでした・・・。」 先生は眉を顰め、廊下の壁に腕を組んだまま凭れ掛かった。 俺は先生の話を聴きながら、自分の表情がどんどん強張っていくのを感じていた。 「のだめちゃんの部屋はよく見ると窓が開いていて・・・ そこから、雨上がりの、湿った土の匂いを帯びた夏の夜風が吹き込んでいました。 月明かりの中、白いカーテンが風にはためいて・・・ ・・・のだめちゃんの入院着の裾も、同じ様に幻想的に揺らめいていてました。 のだめちゃんは、あのトイピアノを指で押さえた姿勢のまま、じっと考え込んでいて・・・。 彼女の瞳までは月の光も届かず、その暗く翳った色合いが益々彼女の表情を判りづらくさせていました。」 山口先生は深く息を吸った。 「”のだめちゃん?” ようやく私がそう声を掛けると・・・彼女は凄く驚いて振り返り、”あ、山口先生。”と言いました。 でももうその瞬間、のだめちゃんはいつもの表情に戻っていたのです・・・。」 「いつもの・・・。」 ”どうしたの?のだめちゃん・・・眠れないの?” ”いえ、トイレの帰りで・・・雨が上がったみたいだから、チョト窓の外のお月様でも見ようかナって・・・。 も、もう寝マス・・・。” ”・・・そう。あんまり夜風に当たって風邪を引くといけないから・・・。おやすみなさい。” ”ハイ・・・。おやすみなさい、山口先生・・・。” トイレ帰り・・・そう言った彼女の足元は・・・素足だった。 スリッパは、今彼女が立っている側とは反対側のベットの脇に、キチンと並べられて置いてあった・・・。 「のだめちゃんがどうしても今日退院したい、というので許可しましたが・・・。 暫くは彼女からなるべく目を離さないで下さい。特に千秋さん、あなたにお願いしたいのです。」 「俺に・・・何故ですか?」 「のだめちゃんは余り自分の本心を見せないきらいがあります。今回の事で良く分かりました。 でも、あなたは彼女にとって特別の存在なんです。昔も、もちろん記憶を失った今も・・・。 でなければ、あなたの贈られたあのトイピアノ・・・。 あんな風にのだめちゃん、深夜に一人で見つめていたりしないでしょうから・・・。」 ---特別な存在・・・。 ---記憶を失ったアイツにとって、俺は今でも本当にそうなんだろうか・・・? 「それから・・・思い出のある場所なんかに行かれる事があるかと思いますが・・・ 今はまだ、落木された場所だけは、絶対にのだめちゃんには見せないで下さい。」 「それは・・・アイツにとって・・・何か良くない影響をもたらすかもしれないんですね?」 俺がそう尋ねると、山口先生は強く頷いた。 「脳に異常がない・・・この事突き詰めて考えれば、 頭を打った事実が、余程のだめちゃんにとってネガティブな要素を含んでいるという事です。 この状態で、その場所を見せるのは、彼女の精神に深刻なダメージを与える恐れがあります。」 先生のこの言葉が、俺にある事実を思い起こさせた。 そうだ・・・!!大川でアイツの親父さんが言っていた、アノ事件・・・! 「あの、先生!これは・・のだめの父親から聞いた話なのですけど・・・。 ・・・昔、のだめがピアノのレッスン中に反抗して、先生の腕に噛み付いて・・・ その先生が振り払った手で吹っ飛ばされたアイツは、壁に頭をぶつけ流血した事があったそうです。 それから暫くの間、のだめはピアノを全く弾けない程、ショックを受けていたとか・・・。」 「それは・・・とても重要な事実かもしれません! 成る程・・・トラウマになっていもおかしくない・・・心の傷・・・。」 先生は思案顔で、子供たちに囲まれてピアノを弾いているのだめの方を凝視している。 「あ、真兄ちゃま、いたー!征子ママ、早く早くっ!」 廊下の向こうから、由衣子が制服姿のままこちらへ走ってくるのが見えた。 その後ろには母さんがゆっくりとしたスピードで歩いて来る。 手にはのだめの荷物と、俺のあげたトイピアノが入った紙袋を持っていた。 「・・・どうやら、退院の手続きが済んだようですね。 千秋さんが先程おっしゃった事、少し私なりに考えてみますので・・・。 お仕事色々お忙しいとは思いますが、のだめちゃんの事、私からもお願いします。」 「・・・はい。」 先生と俺の会話に割り込む様にして、由衣子が俺に飛びついてきた。 「よかったー!間に合ったー!!」 そして息を切らしたまま、キョロキョロと辺りを見回した。 「あれ、のだめちゃんは?真兄ちゃま、一緒じゃなかったの??」 「のだめなら、ほら後ろに・・・。子供達と一緒にピアノを弾いてる。」 俺が顎で指し示すと、由衣子と母さんは二人でプレイルームを覗き込んだ。 「のだめちゃん・・・楽しそう・・・。よかったぁ・・・。」 「本当ね・・・。だいぶ元気になったみたいで安心したわ。」 「母さん、のだめの事、全部済んだの?」 「ええ。大分時間がかかってしまってごめんなさい。 のだめちゃんの病室の前に行ってもあなたの姿が見えないし・・・。 そしたらロビーで由衣子ちゃんに会って・・・。看護士さんがここに居るって教えてくれたのよ。」 「おい!のだめ!」 俺はプレイルームの中にいるアイツに声を掛けた。 「あ、千秋先輩!」 のだめは振り返り、俺達を見つけると嬉しそうに笑った。 「退院の手続きが済んだから、先生に挨拶して帰るぞ!」 「あ、はーーーーい!」 のだめは周りにいる子供達に何やら話しかけ、ピアノから立ち上がった。 「えー!のだめ行っちゃうのーーー?」 「やだー!もっとおうた歌うーー!」 「のだめーー!!帰っちゃダメー!!」 子供達は、部屋から出てきたのだめの後を追いかけてきて、必死にアイツに縋り付く。 少し困った様に笑いながらのだめはしゃがみ込むと、子供達と視線を合わせて言った。 「ゴメンナサイ!のだめ、もう行かないといけないんデス!でも、また明日病院に来ますから!」 ”またみんなで一緒に歌いましょうネ〜!”と一人一人の頭を撫でてやっていた。 「お待たせしてごめんなサイ!あ、千秋先輩、綺麗なお花!」 のだめはようやく俺達の所に戻ってくると、真っ先に俺が手にしているアレジメントに目をとめた。 「あー、昨日見舞いに来た峰達から・・・。退院祝いにって。」 「ふぉぉぉ〜!のだめにですか?しゅてき〜!でも、昨日入院のお見舞いを貰ったばかりですヨ・・・?」 「ま、みんなの気持ちだからさ・・・受け取っておけよ。」 俺がアレジメントを渡すと、のだめははにかんだ笑顔を見せて、それをそっと大きな手で包み込んだ。 「あ、由衣子ちゃんも来てくれたんですネ〜。ありがとうデス!」 「えへへ。ホームルーム抜け出してきちゃった。由衣子・・・どうしてものだめちゃんのお迎え、来たかったの。」 「由衣子ちゃんは入院中も、毎日学校帰り、お見舞いに来てくれましたよネ・・・。 のだめ、スゴイ嬉しかったんですヨ?でも今日からはもう一緒ですね!」 「うん・・・。だからのだめちゃん・・・早く一緒に帰ろ?」 「ハイー!」 「それと・・・由衣子ね、のだめちゃんの”もじゃもじゃ”聴きたい・・・。」 「もじゃもじゃ!お安い御用ですヨ〜!あ、山口先生、色々とお世話になりました。」 のだめはピョコンと、俺の傍らに居た山口先生に頭を下げた。 「退院おめでとう、のだめちゃん。 身体の方は痛みも治まってきたみたいだけど、ちゃんと病院には毎日通って下さいね。」 「ハイ。明日の診察は・・・午後でしたよね?のだめ、ちゃんと通って早く治しマス!」 「退院したといっても、まだ本調子ではないのですから、無理をしてはいけませんよ?」 「気をつけマス。先生、本当にありがとうございましタ・・・。」 「山口先生、わたくしからもお礼を。・・・本当に色々と有難うございました。 まだまだお世話になる事があろうかとは思いますが、どうぞ今後とも宜しくお願い申し上げます。 ・・・ではわたくし達、これで失礼致します。」 母さんが山口先生に深くお辞儀した。俺達もそれに倣った。 タクシーで帰る俺達を、山口先生は病院のエントランスまで出てきて見送ってくれた。 車中から後ろを振り返ると、俺達の姿が見えなくなるまで大きく手を振ってくれている、先生の姿が見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |