喪失 のだめ?編
千秋真一×野田恵


千秋先輩の家は、見た事もない程、大きな豪邸だった・・・。

プラタナスの並木道が続く坂の上。
そこを上りきった所にあるその瀟洒な洋館は、まるでそこだけ外国みたいで・・・
気が付くと私の口元は、驚愕でだらしなく開いてしまっていた。

---今から行く所は千秋先輩のお母さんの実家、とは聞いていたケド。
---先輩・・・もしかして、ものスゴイお金持ちなんですか・・・?

そう思いながら、どうして自分がここに居る羽目になったのか・・・?と戸惑いを隠せなかった。

「のだめちゃん、早く早くっ!」

由衣子ちゃんに手を引っ張られる様にして、先輩の家の中へ入る。
どの部屋もそこかしこに、高価なアンティークの花瓶やお皿が・・・いかにも普通に置いてあった。
お部屋の中にひいてある絨毯も、足が容易く沈み込む位・・・ふかふかだ。

---こーゆうの、有名人の豪邸紹介!とかのテレビ番組で見たことありますヨ・・・。
---これで奥からペルシャ猫とか、おっきな犬が出てきたら、もう完璧でデス・・・。

気後れしている私には気が付かないのか、由衣子ちゃんは二階の方へ歩みを進める。
私は相変わらず家の様子に圧倒されながら、素直にくっついていった。

「のだめちゃんの部屋、ここね。のだめちゃんの荷物はあそこに置いてあるから。
それから今日はね、真兄ちゃまが晩ご飯作ってくれるって・・・のだめちゃんの為に!」
「え、千秋先輩が?の、のだめの為に?」
「何か足りない物あったら言ってね?ご飯出来たら呼びに来るから・・・。それまでゆっくりしててね!」

由衣子ちゃんはマシンガンの様に早口でまくしたてると、さっさと部屋を出て行ってしまった。


---こんな大きな客間に一人ぽつん、と残されて・・・のだめ、一体どうしたらいいんですかネ・・・?

特にやる事もないので、ひとしきり部屋をぐるっとした。
部屋の真ん中にはキングサイズのクラシカルなベット・・・。
傍には、おそらくアンティークと思われる琥珀色のドレッサーに、それと揃いのライティングデスクが・・・。
部屋の奥の方からは外に出れる様になっていて。
まるでロミオとジュリエットの舞台に出てくる様な、蔦の絡まったテラスが其処にはあり・・・

---自分がここに居るのが、ますます場違いな気がしてきた。

だから由衣子ちゃんが食事に呼びに来てくれた時も、私はソファに腰を掛けて放心したままだった。

いい匂いがしてくる1階の食堂へ降りると・・・部屋中に湯気が漂っているのにすぐ気が付いた。

「あ、お鍋!」

10人はゆうに座れるであろう長いダイニングテーブル上に、ちょこんと一つお鍋が乗っかっている。

「夏なのにお鍋ですか?皆サン、お鍋好きなんですネ〜?のだめも大好きですけど・・・。」

”だってお鍋は”・・・と私が言いかけると、先に来て座っていた俊君が、

「失敗した事ないから・・・でしょ?」

と悪戯っぽく続けた。

「な、何で知ってるんデスか?」

私が面食らっていると、俊君はさも簡単そうに種明かしをした。

「だって、のだめさんが初めてうちに来た時に作ってくれたのが、お鍋だったよ。」
「へ?そ、なんですか!?」
「後、おにぎりも失敗した事がないって、一緒に沢山出されたな・・・。」

千秋先輩の叔父さんが笑いながら部屋に入ってきた。

「皆揃ったようね。じゃあ、ご飯にしましょうか?」

先輩のお母さんが、綺麗に切り揃えられた野菜等が盛り付けられている大皿を運んできた。

「あ、のだめ、お手伝いしマス・・・。」
「いいからお前は座ってろ。かえって邪魔。」

千秋先輩が黒いギャルソンエプロン姿で顔を出した。
それは意外と似合っていて・・・私はちょっと赤面してしまった。

「あ、真兄ちゃま。これなぁに?」

由衣子ちゃんが先輩が持ってきた料理を覗き込む。

「ブロッコリーとミレリーゲ??お鍋と・・・イタリアン??」
「・・・ほら!お前の好きな”呪文料理”!!」

先輩は私の前に、クリームソースの料理をドン!と置いた。

「ほわぁ〜おっきいマカロニ〜!美味しそーですネ!」

私が料理に見とれながらそう言うと、先輩は一瞬きょとんとした顔をし、それからふ、と笑った。

「・・・言う事は・・・やっぱり同じなんだな・・・。」
「え?」
「いや・・・なんでもない。そろそろ鍋、始めるか・・・。」

先輩がエプロンを取りながら席に着くと、皆各々の椅子に座った。

「しかし・・・やっぱり暑いな・・・。夏に水炊きは・・・。」
「え〜!今日はのだめちゃんの退院祝いなんだから、お父さんそんな事言っちゃダメ!」

由衣子ちゃんが先輩の叔父さんに甘えるように抗議する。

「ははは。そうだったな?由衣子、お父さんが取ってあげるぞ?何がいい?」
「父さん・・・。まず始めにのだめさんにとって上げないと・・・。ったく、自分の娘に弱いんだから。」
「あ・・・・・・ああ。そうだったな・・・。つい、私とした事が・・・。」

叔父さんは俊君の鋭い指摘に気恥ずかしそうに笑って、私に何がいいか?と聞いてくれた。

「え?いいんデスかー?じゃ、のだめ、しいたけとマロニーとネギと鶏肉と水菜とお豆腐と・・・。」
「のだめ・・・。鍋は沢山あるんだから、焦ンな・・・。」

千秋先輩が白ワインをあけながら呆れた様に零すと、みんながどっと笑った。

その後、夕御飯も和やかに進み・・・。
今はみんなで食後のデザートのオレンジババロア(先輩特製)を堪能していた。

そのデザートは果肉をくりぬいた後のオレンジを容器にして、すごく凝っている。
スプーンを入れると中は二層になっていて、上はオレンジのムース、下がババロアだった。
それを大きく掬い取り、口いっぱいにほおばると、
ムースのふわふわっとした所とババロアのプルプル感が絶妙なハーモニーを奏でていた。
千秋先輩は、とってもお料理上手みたいだ。

---それはとても美味しかったのだけど・・・。

私にはどうしても今、聞いておかなければいけない事があった。
・・・実は先輩のお家に入ってから、ずっとタイミングを見計っていたのだ。
とうとう私は、”その事”を切り出した。

「あの〜。つかぬ事をお聞きしますケド・・・。」
「なぁに?どうしたの、のだめちゃん・・・?」
「なんだ?何か言いたいことでもあンのか?」

暫く私がもじもじとためらっていると、千秋先輩が早く言うように促した。

「その・・・のだめって・・・千秋先輩の・・・彼女、なんですよネ?」
「げほげほげぼっがほっ!!!」

先輩は食べかけのババロアを喉につかえさせ、激しく咳き込んだ。

ちょ、ちょっと真兄!大丈夫・・・?」

「きゃ〜〜!由衣子も聞きたぁ〜い!真兄ちゃま、どうなのぉ〜?」
「げほげほっ!お前っ・・・こんな衆人環視の中で・・・するような話じゃねーだろっ・・・!」
「だって・・・。ただの先輩後輩なら、こんなに良くして貰えるハズないしっ!
千秋先輩、入院中毎日お見舞いに来てくれたし・・・その・・・やっぱりのだめの彼氏なのかなって・・・?」
「真一、ちゃんとのだめちゃんに説明してなかったの?」
「せ、説明って・・・。そんなモン・・・別に・・・。」

千秋先輩は顔を真っ赤にしながら、低く小さい声で呟いた。

「我が息子ながら、最低ね。のだめちゃん・・・ずっと分からないまま、ここへ連れて来ちゃったの?」
「普通分かるだろ・・・。」
「のだめちゃんは、真兄ちゃまの彼女でしょ!パリにまで連れて行ったくせに!」
「え、そうなんですカ?だからのだめ、パリに行ったんデスか・・・?」
「っな!!違うっ!!そのっ・・・ちゃんと、せ、正式に・・・付き合いだしたのは・・・パリに行ってからで・・・。」
「ほー!正式にとは、一体どのような定義でだ?真一、私にも分かる様に説明しなさい。」
「え〜〜!そんなの嘘だぁ〜!のだめちゃん、パリ留学までずっーとここで由衣子達と生活してたんだよ?
普通彼女じゃない人と、一つ屋根の下で暮らさないでしょ〜?」

竹叔父さんや由衣子ちゃんが、先輩をからかう様に質問攻めするので、先輩はついに怒った。

「だからっ!そーゆー事は、後で俺から直接のだめに話す!この話はっ!これで終わりっ!」

一方的に話を打ち切ると、千秋先輩はさっさと部屋から出て行ってしまった。

「ごめんなさいねぇ〜?のだめちゃん・・・。出来の悪い息子で・・・。」

先輩のお母さんが笑いを堪えながら、私に詫びた。

「ま、あれじゃない?あの頃の真兄とのだめさんの関係って・・・友達以上恋人未満?
僕から見ると、ずっとそんな感じだったけど。」

---友達以上恋人未満・・・?

「むむん・・・!つまりあ○ち充の漫画みたいな感じだったんデスね?のだめ、少し分かりましタ。」

俊彦君は私の言葉が理解出来なかったのか、は?と首を傾げていた。


食事が終わった皆が、各々自分の部屋に戻ろうとし始めるのを見て、私は由衣子ちゃんに小さく声を掛けた。

「由衣子ちゃん、由衣子ちゃん・・・チョト・・・。」
「なぁに?のだめちゃん。」

隅の方へ由衣子ちゃんを連れてくると、私はあるお願い事を話した。

「あの・・・のだめと一緒にお風呂に入ってくれませんか?出来れば・・・背中とか頭とか洗って欲しいんデス。
のだめ、まだ身体が痛くて、自分一人じゃ洗えなくて・・・。」
「モチロン!いいよ!じゃあ、今から由衣子と一緒に入ろっか!」

由衣子ちゃんは二つ返事で引き受けてくれたので、私達はバスルームで10分後に待ち合わせした。

先輩のお家はやっぱりお風呂(しかも大理石・・・)も大きかった・・・。

手足を伸ばしても届かない位、広々ゆったりとした湯船につかると、つい鼻歌が出てくる。
由衣子ちゃんに頭も身体も洗って貰った私は、すっかりいい気分になっていた。

「のだめちゃんの背中、紫色・・・。すごい痕だね・・・。」

由衣子ちゃんが消え入りそうな声で言い、そっと私の肩辺りを撫でた。

「ごめんね・・・。由衣子のせいで・・・。」
「あはは〜。痕はスゴイですけど、もう痛みはだいぶ取れたんですヨ?気にしないで下サイ!」

---由衣子ちゃんの表情が曇ったままなので、調子に乗って、私はもう一つお願いしてみた。

「お風呂からあがったら・・・。
のだめのココに湿布張って、それから包帯を巻いてもらっても・・・いいですかネ?」

”手が届かないんですヨ〜。”と笑いながら伝えると、
由衣子ちゃんはお湯の中をぬって、私の右横につつつ・・・と寄ってきた。
何だろうと思い、由衣子ちゃんの顔を覗き込むと、いたずら好きそうな瞳がくるくると煌いていた。

「え〜それならぁ〜・・・真兄ちゃまにやって貰ったら?」
「ぎゃぼっ!?」
「・・・うふふ、嘘だよのだめちゃん・・・。由衣子がちゃんとやってあげるから安心して?」
「・・・もう、由衣子ちゃん、のだめをからかわないで下サイ。」

---もうこれで、由衣子ちゃんが私に余り気を遣わなくなってくれればいいのだけど・・・。

そう思いながら、今はシャンプーをしている由衣子ちゃんをぼんやりと見ていた。

部屋へ戻るともう11時過ぎだった。
病院ではとっくに寝ていた時間だったので・・・とても眠い。

でも昨日は、夜中起きている所を、山口先生に見られてしまって・・・。
先生は私の事どう思っただろう・・・?変に気をまわしてなければいいのだけど・・・。

ベットに入ろうとすると、テーブルの上に置いてある、トイピアノに目が留まった。
さっきまで、確かここには何も無かったから・・・。
先輩のお母さんが運んできて、置いていってくれたのかもしれない。

---先輩から貰った、素敵なアンティークの黒のグランド型のトイピアノ・・・。

そういえば、千秋先輩と今日はあんまりお話してないな・・・そう思った瞬間。
部屋をトントン、と控えめにノックする音が聞こえた。

---誰だろう・・・?もしかして・・・千秋先輩?

期待を込めてドアを開けると、そこには由衣子ちゃんが枕を両腕で抱きしめて立っていた。

「どうしたんですか?由衣子ちゃん・・・?」
「今日・・・のだめちゃんと・・・一緒に寝てもいーい?」
「もちろんですヨ・・・。さぁ、中へどぞ〜。」

由衣子ちゃんを部屋へ招き入れると、二人でふかふかのベッドに潜り込んだ。

「前にも、由衣子とのだめちゃん・・・一緒にこうやって寝た事があるんだよ・・・?」

ベッドに入った瞬間、急に眠気が襲ってきた為、私は半分まどろみながら由衣子ちゃんの声を聴いていた。

「のだめちゃん・・・さっきはありがとね・・・由衣子が気を遣わない様に、わざと頼み事・・・。」
「・・・え〜・・・何のコト・・・です・・・か〜・・・。」

眠たい振りをして、由衣子ちゃんの告白を聴かなかった事にした。

「ううん・・・別にいいの・・・なんでもない・・・。」

そう言うと由衣子ちゃんは、私の背中に手を回し、胸元に頬を寄せてぎゅーっ・・・としがみついてきた。

「・・・由衣子がこうしても・・・背中・・・痛くない?」
「大丈夫ですヨ〜。ふふふ・・・由衣子ちゃん、どうしたんですか〜?」
「のだめちゃん・・・。」
「・・・ん〜?・・・」
「あのね・・・真兄ちゃまの事・・・早く・・・思い出してあげてね?・・・お願いだから・・・。」
「・・・ハイ・・・。」

私がそう返事をすると、由衣子ちゃんは安心したのか大きな欠伸を一つ零した。

「でも・・・ふふふ。・・・のだめちゃんの・・・って・・・あったか〜くて・・・ふかふか〜で・・・やわらか〜い・・・。
由衣子・・・真兄ちゃまの気持ち・・・少し分かっちゃ・・・った・・・。」
「・・・へ?」

私がそう聞き返した時には、胸に顔を埋める様にして由衣子ちゃんはもう眠ってしまっていた。
どこか甘い香りのする由衣子ちゃんを抱きしめながら、私もすぐに深い眠りに落ちていった。

朝、目覚めると、ベットにはすでに由衣子ちゃんの姿はなかった。

時計を見ると9時過ぎを指している。どうやら寝過ごしてしまったらしい。
病院に居た時は規則正しく起こされていたから・・・。
そんな事をうつらうつらと考えながら、ベットの中でしばらくまどろんでいると、
遠くから、ピアノ曲が流れてくるのに気がついた。

---この曲は・・・バッハ?

ベットから抜け出ると、私は急いで身支度をし、ピアノの音がする方向へ廊下を歩いていく。
自分のいた客間から真っ先に続く廊下の先へ出ると、
眼下に・・・吹き抜けのサロンの様な広い空間があり、グランドピアノが置いてあった。
千秋先輩はTシャツに短パン、というラフな格好のまま、ピアノに向かっていた。

「バッハの平均律クラヴィーアですネ?」

私はサロンに続く階段を下りながら、先輩に話しかけた。

「千秋先輩、おはよーございマス。」

先輩はピアノを弾くのを止め、私に振り返った。
私の顔をじっと見つめると、一瞬何か言いたげな顔をしたが、すぐにそれを隠すよう微笑した。

「・・・おはよ。よく寝れた?」
「えへへ・・・寝坊しちゃいましタ。由衣子ちゃんはもう学校ですか?」
「とっくにな。由衣子が言ってた。のだめ、すっげーよく寝てたって。」
「由衣子ちゃん・・・とっても抱き心地が良くて・・・。はうん。」

私が由衣子ちゃんの柔らかな身体を思い出し、うっとりとしていると、先輩は小さな声で呟いた。

「・・・変態。」
「むきゃー!!千秋先輩、今、のだめのこと”変態”って言いましたか!?言いましたよネ!?」

私が口を尖らせて抗議すると、先輩は少し困った様に首を傾げた。

「・・・・・・?」

先輩の反応に戸惑っていると、今度は何か諦めにも似た表情を浮かべ、私の頭をポンポンと軽く叩いた。

「朝ごはんは・・・?食べるだろ・・・?」
「あ、ハイ。千秋先輩はもう食べちゃいましたか?」
「ああ、俺はもう俊彦や由衣子達と一緒に済ませた。千代さんに頼んで用意して貰えよ。」

そう言うと先輩はまたピアノに向かってしまったので、私はダイニングルームの方へ一人で歩いていった。

「おはようございます。のだめさん、朝ごはんは?」
「あ、いただきマス。」

ダイニングテーブルには、シックな色使いのランチョンマットが、一人分だけ用意してある。
私がその前に座ると、千代さんが朝食を運んできてくれた。

目の前には・・・グリーンサラダ、グレープフルーツの入ったヨーグルト、空豆の冷製スープ。

「卵はどうしますか?スクランブル?それともオムレツ?」
「えと・・・じゃ、オムレツでお願いしマス・・・。」

・・・しばらくして千代さんが再びダイニングルームに戻ってくる。

今度は、手際よく仕上げたオムレツとボイルしたソーセージ、
そしてバターの甘い香りのするクロワッサンを私の前に並べた。
温かいカフェオレを私のカップに注ぐと、”さぁどうぞ”と千代さんは言った。

「い、いただきマス・・・。」

---どうしよう・・・。こんなに並べられるとは思っていなかったんだけどな・・・。

千代さんが部屋から出て行ったのを確認し、一人ごちる。
余り食欲が無かったから・・・本当はヨーグルト位でよかったのだ。
仕方がないので、もたもたとクロワッサンを細かくちぎって食べていると、
何時の間に来ていたのか・・・千秋先輩が私の左隣の椅子にどかっと腰をかけた。

「パンばっか食ってないで、ちゃんと、オムレツも食え!ほら。」
「ハイ・・・。」
「それからサラダも。スープも。」
「ハイ・・・。」
「カフェオレも冷めないうちに、飲む。」
「ハイ・・・。」

先輩が隣であれこれ指示を出すので、私は無理して、朝食を全部食べなくてはいけなくなった。
最後のヨーグルトを私が何とか食べ終わるのを見届けると、先輩は千代さんを呼んだ。

「千代さん。あれ二つ、お願いできる?」
「ええ大丈夫ですよ、真一さん。今すぐお持ちします。」

---あれって何だろう・・・?

そう私が疑問に思っている間に、千代さんは耐熱ガラスのティーポットとティーカップを二つ持ってきた。
ポットの中には黄緑色の色の液体・・・何やら葉っぱの様なモノが、何種類か沈んでいる。
先輩は食卓の一番奥にかかった壁時計で、そこから三分ほど経過したのを確認すると、
用意されたティーカップに茶漉しを使って丁寧にその液体を注ぎ、一つを私に、もう一方を自分の前に置いた。

「どうぞ。」
「ありがとうございマス・・・。千秋先輩、これ・・・何ですか?」
「フレッシュのハーブティーだ。・・・いい香りだろ?整腸作用があるから、飲め。」
「あ、頂きます・・・。」

先輩の淹れてくれたハーブティを口元に持っていくと、ほのかに林檎の様な甘い香りがした。

「あ・・・美味しいです・・・。」
「だろ?千代さん特製だ。お代わりもあるから。」
「も、お腹一杯デス。」
「だめ。ちゃんと食わないと身体・・・良くならないだろ。」

千秋先輩は照れ隠しなのか、ぷいと私から顔を逸らし、黙々とハーブティーを飲んでいた。

---もしかして千秋先輩、山口先生から聞いたのかも・・・。病院でご飯を沢山残しちゃった事・・・。

先輩が静かに見守る中。
私はそれに応えるように、淹れて貰ったハーブティーを、きちんと最後まで飲み終えた。

「のだめ。何かピアノ弾いて。」

先輩がそうリクエストするので、食後、私達は再びサロンに戻った。

「何がいいデスか・・・?リクエスト、ありますか?」

私がそう尋ねると、千秋先輩はしばらく逡巡した後、ためらいがちに口を開いた。

「ベートーベンのピアノソナタ・・・・・・”悲愴”」
「”悲愴”ですねー?谷岡センセとこの間やったばかりデス!」

私は椅子に腰掛けピアノに向かう。
そして一呼吸おいて、ピアノソナタ”悲愴”1楽章を弾き始めた。

先輩はグランドピアノに腕組みをしたまま凭れ掛かかり、私の演奏をじっと聴いている。
弾いている途中で先輩の方を見ると、先輩は目を閉じていて、何か瞑想に耽っている様にも見えた。

連続して速い所が続く後半、私は差し込むような激痛を、両肩に感じた。

「っっいっ!!!」

演奏が急に止んだので先輩は驚いて目を見開く。
ピアノの前で固まってしまった私を見るや否や、慌てて駆け寄った。

「どうした!?大丈夫かっ!?のだめ!」

ピアノから手が放れ、急激に痛みを感じたその時の姿勢のまま、
私は後から付随して襲ってくる疼痛をじっと堪える。

「・・・ごめんなサイ。最後まで弾けませんでした。打撲した所がまだチョト痛くて・・・。」
「この馬鹿っ!!だったら早く言え!!」
「久しぶりにちゃんと弾いたので、痛めた腕と肩に、変に力が入っちゃっただけデス・・・。」
「・・・・・・。」
「も、大丈夫ですヨ?」
「・・・無理やり弾かせて、ごめん・・・。」

小さな声で謝りながら、先輩は私を支えながら立ち上がらせる。
その時、私を見下ろす先輩と私の視線が交錯した。
先輩の瞳は哀しげに揺れていて・・・何だか捨てられた子犬のように泣いているみたいだった。

---どうしたんデスか?千秋先輩。のだめの悲愴、そんなに悲しかったですか?

そう言いかけた瞬間、ふわり、と先輩に抱きしめられた。
そして先輩は、息がかかるほど耳元で、私に囁く。

「・・・本当に・・・もう痛く・・・ないか?」

それは、私に触れるか触れないかの甘く優しい抱擁。

「・・・は・・・はい・・・。」

---急にこんな事をされると・・・。
---どう、反応したらいいか分からない・・・。

私が先輩の腕の中で俯いたまま、まごまごしていると、あっけなくその拘束は解かれた。

---え・・・?

展開についていけない私は、慌てて先輩を見上げる。
けれど先輩は、先程の抱擁が嘘だったかの様に、いつも通りの少し怒った様な表情に戻っていた。

「お前、適当に弾きすぎ・・・。相変わらずデタラメ!!」
「へ?」
「それじゃ・・・”悲愴”じゃなくて”悲惨”だろっ!!」
「ぎゃぼーーー!!」
「でも”悲愴”だけは・・・ちゃんと弾ける様に・・・ならなくていい。」
「はぁ?それって、ど、どーゆー意味デスか?」
「・・・そーゆー意味。」
「訳分かりまセン!んもぅ!最初に言った事とゼンゼン違うじゃないですかー!」
「・・・そう?」
「ムキーーー!千秋先輩、のだめの事バカにしてるんですか?」
「・・・ははは。」

千秋先輩は伏し目がちに笑うと、”そろそろ支度しないといけないから”と言って、自室へ戻っていった。

---今日の山口先生の診察の予約時間は、午後三時。

千秋先輩は午後からお仕事らしく、さっき、タクシーのお迎えを電話で頼んでいた。
由衣子ちゃんも俊君もまだ学校だし・・・
先輩が出かけちゃったら一人でこの家にいるのは・・・少し退屈かもしれない。
そうだ・・・少し家を早めに出て、昨日病院の子供達と約束した、ピアノを弾きに行こうかな・・・。
そんな事を考えながら、私はリビングで一人、テレビをぼーっと見ていた。

先輩が呼んだタクシーが来たらしく、先程から玄関の方が少し騒がしい。
私は先輩の見送りに行こうと、リビングソファから腰を上げた。
エントランスへつながる廊下を曲がると、そこには峰くんと先輩が立っていた。

「おっ!のだめ!いたいたー!どうだー?身体の具合はー?」

峰くんは私の顔を見つけると、嬉しそうに笑った。

「あ、おとといはお見舞いありがとうございましタ。のだめ、大分元気になりましたヨ〜。」
「おおーよかったよかった。しっかし、千秋の家、すっげーよなぁ・・・。」

峰くんはエントランスから先輩に家をぐるっと見回すと、溜め息をついた。

「しかもあのゴミ部屋にいた女が、今いるのがこんな豪邸だぜ?
のだめお前・・・実はすっげー成り上がり人生だなっ!!」
「・・・のだめの部屋・・・ゴミ部屋・・・?」

私の低い声の抗議を、峰くんは鮮やかに無視した。

「でもよー、のだめ。こんなデカイ家じゃさぁー・・千秋がいない時、暇してんじゃねぇ?」
「・・・峰くんよく分かりますネ。」
「へへへ。そう思って、今日はのだめにビックニュースがあるんだぜ?」

峰くんは茶目っ気たっぷりにウィンクした。

「ほえー!ビックニュース?何ですカ?」
「じゃーーーん!ほら、こっちこっち!」

峰くんが退くと、後ろから現れたのは・・・ショートカットの女性。
そこには、私にも見覚えのある、懐かしい人が立っていた。

「マ、マキちゃんっ!!!!」
「のだめっ!!!!」

私達はお互いにひしと抱きしめあった。

「マキちゃんじゃないですかーーーー!ヤダ!のだめの記憶の中よりずっと大人っぽくなってマスーーー!」
「のだめのバカーーー!木から落ちて記憶がないなんて、相変わらずオトボケなんだからーー!!」

マキちゃんは涙ぐんでいた。
それを見たら、今まで堪えてたせいもあって・・・
私は両瞼から大粒の涙が溢れ出すのを、もう止める事が出来なかった。

「でもよかったです・・・。はぅぅぅ・・・。
のだめ、やっと知ってる人に会えました・・・。マキちゃん、来てくれてホントにありがとーデス・・・。」
「うん・・・うん・・・。私も昨日、峰さんから電話貰った時は驚いたけど・・・
のだめが思ったより元気そうだったから、安心した・・・。」
「マキちゃん、今はどうしてるんデスかー?」
「今はピアノがあるラウンジでバイトしてるの。ジャズ・・・弾いてるんだー。
だって、あののだめがパリ留学しちゃうし?私も、やっぱり音楽が・・・ピアノが好きだから!」
「ふぉぉ!ジャズ!そでしたかー!
のだめは・・・えへ・・・忘れちゃった自分で言うのもなんですけど、ピアノ頑張ってる・・・みたいデスよ?」
「あはは!!何よソレ!のだめらしー!」

千秋先輩と峰くんが側にいるのも忘れ、私達はひとしきり、二人で盛り上がっていた。

「のだめ、よかったな・・・。」

ようやく再会の興奮から落ち着きを取り戻した頃、千秋先輩が私に優しく声を掛けた。

「俺、もう行くけど・・・ちゃんと病院、忘れずに行けよ?」
「ハイ!」
「それから・・・。俺、今夜はお世話になってる佐久間さんって人と食事する約束してるから、帰りは遅くなる。
待ってなくていいからな。お前はちゃんと晩飯食って、早く寝ろよ?わかったか?」
「・・・おい・・・千秋って・・・意外と過保護だな・・・?」

峰くんが私の耳元で囁いた。

「何、人の事コソコソ言ってんだ?」
「な、なんでもねぇーよ!じゃあ、オケ練遅れるからそろそろ行こうぜ!マキちゃん、のだめの事よろしくな!」
「今日は有難うございました、峰さん。」

マキちゃんがお礼を言うと”いいっていいって”と峰くんは照れたように手を振った。

「じゃ、ごゆっくり・・・。」

先輩はマキちゃんの横を通り過ぎながらそう言い、待たせてあるタクシーの方へ向かった。

「おい千秋っ!待てよっ!じゃっ!のだめまたなー!」

峰くんは慌てて千秋先輩の後姿を追いかけていった。

「千秋。お前・・・横浜から練習室のある東京まで、毎日タクシーで通うとは・・・久々に、ムカっときたぞ?」

さっきから無言で総譜のチェックをしている左横の千秋に、オレは軽口を叩いてみる。
ただそれは、会話の糸口を見つけたかっただけの、ちょっとしたモンだったんだけど・・・。

「・・・気に入らないなら、今すぐここで降りろ。」
「っな!お前・・・オレ、高速のこんな所で降ろされたら、オケ練、間に合わなくなっちゃうだろー?」
「だったら大人しく座ってろ。俺は、練習前の精神集中も兼ねて、この貴重な時間を金で買ってるんだ。
一緒に乗せて貰えただけでも、有難く思え。」
「分かったよ・・・。ったく、パリに行って少しは丸くなったかと思ったら、相変わらず俺様なんだからよぉ〜。」

千秋のヤツ・・・物凄く不機嫌だ。

付き合いが長いから、オレにもそれ位は分かる。
・・・最初は”あの鬼千秋が帰って来たー!”と思ったのだが・・・。
でも昨日の千秋は何かに苦悩してもがいている様な・・・ずっとそんな指揮をしていた。

千秋の練習パターンは、俺達に怒鳴りながらハードな指示を与えて・・・。
・・・まぁ、そこまではいつもの千秋だ。別に問題はない。
けれど昨日のコイツは・・・そうした後で必ず・・・最後に溜め息を零した。

---あの溜め息が・・・。

音楽の悩みとはまた違った・・・別の苦しみに支配されている証拠の様に、オレはあの時感じたんだ・・・。

---多分・・・いや、きっと・・・。

それはのだめが原因だ。
オレだけじゃない。事情の知ってる奴らはみんな、そう・・・考えていたと思う。

「・・・峰。」
「・・・あ?」
「気を遣わせて悪かったな・・・。」

千秋はバツが悪そうに総譜から顔を上げ、俺の方を向いた。

「マキちゃんを連れてきた事か?あれはのだめの為にオレがしたくてしたんだから、気にすんなよ?」
「いや・・・そうじゃなくて・・・。勿論、その事・・・もあるんだけど・・・。」
「なんだー?きひひ。オレがお前の迎えに来てやったのが、そんなに嬉しかったのかー?」
「・・・・・・・・・断じて違う。」
「アハハハハ!冗談だって!なんだよ〜ハッキリ言えよ・・・。らしくないぜー千秋?」
「・・・昨日のオケ練、あれは確かに俺もよくなかった。」

そう言うと千秋は情けなく俯いた。こいつのこんな様子を初めて目撃したオレは、しばし動揺した。

「自分の音楽を見失いかけてた・・・。理由はどうであれ、お前達を愚弄したのと同じ事だな・・・。」
すまなかった・・・。」

そう言って自嘲的に笑う千秋を何とかしてやりたくて、オレはつい叫んだ。

「しょうがねぇだろっ!のだめがあんな事になっちゃったんだから!お前のせーじゃねぇよ!」
「俺、やっぱり出てるか?音楽に・・・その事が・・・。」
「・・・・・・!!」

---やべぇー・・・。オレ、今自分で墓穴掘っちまった・・・。

「・・・やっぱりそうか。今日はそうならない様に自分をコントロールしないと・・・。」

千秋の最後の方の言葉は、むしろ独白のようだった。

おととい、のだめの病室でこいつが見せた表情。オレはあれが忘れられなかった・・・。
あんな暗い瞳をして沈み込んだ様に考え込む千秋を、オレは今まで一度も見た事なかった。
親友が苦しんでいる時に力になれない不甲斐ない俺だけど、でも何とかしてやりたい・・・。
オレは夢中で話し始めていた。

「なぁ・・・千秋。」
「・・・・・・ん?」
「もう一回・・・最初からはじめればいいじゃねぇーか・・・。」
「・・・・・・。」
「のだめをさ・・・もう一度、お前に惚れさせればいいじゃねーか。自信あンだろ・・・?」
「・・・・・・。」

千秋は相変わらず黙ったままだったが、オレは構わず話し続けた。

「さっき・・・のだめとマキちゃんが盛り上がってた時さ・・・
お前、ものすごく切なそうにのだめの事、見てただろ・・・?あれ見て、オレも苦しくなった・・・。」

---恋人は、自分を忘れても、女友達は憶えているという残酷な現実。

「千秋はエライよな・・・。自分の感情押し殺して、のだめに普通に接してやってさ・・・。
オレ・・・清良に同じ事が起こったら・・・お前みたいに冷静でいられなくて、多分もっと混乱して、
みっともなく清良に当り散らすと思う・・・。」
「・・・そうかな。お前の方が俺なんかよりも、もっと上手く・・・包み込んでやれると思うけどな・・・。」
「なぁ、千秋・・・。好きなんだろ?のだめの事。」
「・・・・・・まぁ、な。」
「だったら、話は早いじゃねーか!もう一度最初からはじめたって、大事なのは二人の気持ちだろ・・・?」
「・・・・・・。」
「なぁ、大丈夫だって!のだめ、お前のことすぐに好きになるから!だって、相手はあの千秋真一なんだぜ?」
「・・・峰。」
「何だ?」

千秋は唐突にオレの言葉を遮った。

「・・・この話は・・・もう止めよう。」

そう言うと窓際に肘をつき、頬杖ついた姿勢で、俺から顔を背けた。

「ごめん・・・俺・・・ちょっと寝るから。もう、話しかけるな・・・。」

思いも寄らぬほど千秋の強い拒絶の態度に、オレはそれっきり何も言えなくなった。

結局その日オレは千秋と、それきり会話を交わすことも無かった。

先輩と峰くんが出掛けてしまった後、
私達はリビングで、私の記憶のある話題でしばらくの間また盛り上がっていた。
でもそれは主に、私がいかにマキちゃんのお弁当を盗み食いしていたか、だったのだけど・・・。

それでもマキちゃんはその事を、ひどく楽しそうに笑いながら話すので。
私はその顔を見ているだけでも、とても幸せな気持ちになっていた。


---久しぶりに、こんなに沢山笑った気がする・・・。


千代さんが淹れてくれた、ハーブティもとっても美味しくて・・・
ついつい時間が経つのを忘れて話し込んでしまった。
ふと気が付いて、リビングの時計に視線をやると、時計の針はもう二時過ぎを指していた。

「あ、マキちゃん。のだめ、3時から病院の予約があるので、そろそろ出掛けないといけないんデス。」

ためらいながら私がそう告げると、マキちゃんはすごく残念そうな顔をした。

「・・・じゃあ、のだめの病院前まで送るよー。確か駅前の方向だったでしょ?
のだめ送ったら、それからわたし、このまま仕事に行くから。」
「そですか〜?いいんですか〜?じゃあ、一緒に行きましょう!!」

マキちゃんにしばらく待って貰って用意をすると、私達は千代さんが呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。

「さっきの千秋さまもタクシーだったけど・・・。のだめ、あんたいい生活してるねー!!」
「ほえー?でも、お金持ちなのは千秋先輩で、のだめじゃないデス!」
「そうだけど・・・。大学時代、のだめが千秋さまに、始終纏わり付いていたのは知っていたけどさー・・・。
でもまさか本当に、あんたが千秋さまを陥落させるとは思わなかったわ・・・。」

マキちゃんはくくく、と何か思い出し笑いをしていた。

「そういえば、のだめが千秋さまを拾ったって話、あったなぁ〜。
それからレイナとも言ってたのよ。”のだめ、おそるべし”ってね。ぷはははは。やっぱ、あんたすごいよ!」
「ひどいですヨ〜!のだめ、化けモンじゃありまセン!!」
「くくくく・・・。ごめんごめん。
でもさ・・・のだめがちゃんと千秋さまに大事にされてるみたいで・・・
女友達としてはそういうの見るの少し寂しいけど・・・でもやっぱ、嬉しいもんだよ?」

さっきまで笑いすぎて涙まで流していたマキちゃんが、ふと急に真顔になるとこちらに顔を向けた。
そしてマキちゃんは自分の右手で、上から包み込む様に私の左手をぎゅっと握り締めた。

「ねぇ、のだめ。」
「ハイ?」
「大事にされてるんだから・・・”その手”を離しちゃダメよ・・・?」
「・・・は?”その手”・・・デスか?」
「うん。”その手”・・・。」

---”その手”って・・・・・・何?

「え?その手?どの手?・・・・・・こ、この手?」

私がそう言って自分の両手を見ながら首を捻っていると、マキちゃんは”そのうち分かるよ”とだけ言った。

「むーーー!マキちゃん意地悪、デス!のだめにもちゃんと分かる様に言って下さい!」
「だーめ。自分でちゃんと考えんの!みんなの王子様だった千秋さまを独り占めしたバツよ!ふーんだっ!」
「がぼん・・・。」
「そうだ!・・のだめ、明日暇??」

話についていけない私をさっさと置き去りにして、マキちゃんは急に話題を変えた。

「えと・・・。多分午前中に病院行ったら、午後は空いていると思いますケド?」

明日は午前中に予約した整形外科に行ったら、ついでに山口先生に顔を見せて・・・と思ってたから。
だからその後は、特に予定はなかったはずだ。

「ホント?じゃあさー午後から空けといてよ!
ほら、のだめの好きなプリごろ太の恒例の夏の映画!明日から公開なのよ!」
「むきゃーーーー!!プリごろ太っーーー!!それっ!!ほ、ほんとデスかっ!?」

私が鼻息荒くマキちゃんにかぶりつくと、マキちゃんはあきれた顔をした。

「本当に好きなんだ・・・。」
「行きマス!!行きマス!!!むきゃーーー!ごろ太ぁーーー!!カズオぉーーー!!」
「分かった、分かったから・・・。
のだめ、いい歳した女がタクシーの中でこっぱずかしいから少し落ち着きなさいよ・・・。
レイナも明日仕事休みだって言うし、三人でさー見に行こ!その後久々に夕食でも一緒しない?」
「もきゃーーー!!しマス!!しマス!!一緒にごはんーー!!」
「じゃあさ、のだめにわたしの携帯の番号教えておくから。詳しい待ち合わせとかは後で連絡する!
あ、のだめも携帯持ってるなら、番号教えてよ。」
「え、のだめの携帯ですカ?・・・持ってたかな?」

私はその時になって初めて、自分のお出かけバックの中をごそごそと見回した。
客間に置いてあった自分の荷物の中から引っ張り出してきたまま、それまでじっくり中を見ていなかったのだ。

「あ、ありマス、ありマス。きゃっほーー!のだめも携帯持ってましターー!!」
「のだめ・・・。携帯持ってるコトまで、忘れてんのね・・・。」
「あはは〜・・・。」

テントウ虫のブローチの付いたミニバックの底から、折り畳み式の携帯を取り出すと、パチンと開いた。
・・・しかしディスプレイは真っ暗なままだ。
試しに電源キーを長押ししてみたが、一向に電源が入る気配がない。

「ぎゃぼ?電池が切れて・・・電源が・・・入りまセン??」
「そりゃー携帯の存在すら憶えてなかったんだから、充電切れしてるだろうね・・・。」
「はぅぅぅ・・・。のだめの番号、教えられないデス・・・。」
「まぁ後で充電してから、わたしの携帯に連絡してくれればいいから。」
「ハイ・・・。そうしますネ。」

その時、タクシーが病院のエントランスに滑り込むようにつけると、左側の扉がすっと開いた。
初老の運転手さんが振り向いて、私達に声を掛ける。

「お客様、着きましたよ?」
「あ、のだめ着いたよ。ちょっと待って、わたしが先に降りるから。」

先にマキちゃんが降りると、私に手を差し伸べてくれた。

「ほら。つかまって?身体痛くない?」
「ありがとーデス!大丈夫ですヨ〜。」

マキちゃんにつかまりながら私もタクシーを降りる。

「じゃあ、のだめ、また明日ね?」
「ハイ!絶対、絶〜〜対っ連絡しますカラっ!!」
「くくく。わかったわかった。待ってるから。」

再度涙目になりながらマキちゃんは笑うと、再びタクシーに乗り込んだ。
それを見た私は、慌てて運転手さんに千代さんから貰ったチケットを差し出した。

「あ、タクシーの運転手さん。このチケットで。駅までこのまま行ってくだサイ!」
「え、のだめいいよー。わたしここから自分で払うよ?」
「いいんですヨ〜!どうせのだめのお金じゃないんですからぁー!
こ・れ・は、千秋先輩のおごりデス!!むきゃ。」
「・・・のだめあんたって。」
「ほえー?何ですカ?」
「いや、何でもない。じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうー千秋さまー。」
「明日楽しみにしてマス!!」

バタン!とタクシーが左側の扉を閉めると、再び音も静かにゆっくりと走り出した。
マキちゃんはすぐに後ろを振り向いて笑顔を見せると、ゆっくりと”ま・た・ね!”と口を動かした。
私はそれを見て頷き、同じように口を動かして”ま・た・ね!”と言いながら手を振った。

それから車中から振り向いて手を振るマキちゃんの姿を捉えられなくなるまで、
私はエントランスにとどまって手を振り続けた。

2時45分、ちょうど15分前に山口先生の診察室の前に着いた。
診察室前のソファに腰をかけて順番を待っていると、私より少し年上位の若い看護士が近づいてきた。

「野田・・・恵さん?」
「ハイ。そですけど?」

若い看護士はほっとした表情を見せると、にっこり笑った。

「良かった・・・!私、救急の時のあなたの担当だった者です。」
「あ、そなんですか?その節はお世話になりましタ!」

私はぺこりと頭を下げた。

「いえいえ、大事に至らなくて本当に良かったですね。体の方はもう大丈夫ですか?」
「ハイ。大分良くなりました。ありがとうございマス。」
「くれぐれもお大事になさって下さいね。今日ここに来たのは、実は・・・。」

そう言うと彼女は、ナース服のポケットから透明なジップの付いたビニル袋を取り出すと、私に差し出した。
袋の白く書き込める部分に目をやると、救急の日付と野田恵様、と私の名前がサインペンで書き込んであった。

「・・・これ。」
「ごめんなさい。あなたがこちらに運ばれてきた時に、身に着けていらしたネックレスです。
金属だから検査前に、外させてもらったんです。」

看護士さんは申し訳なさそうに続けた。

「その後の私の引継ぎがよくなくて・・・これだけそのままずっと救急でお預かりしたままになっていたんです。
大切な貴重品だったのでしょう?本当に申し訳ありませんでした。」

彼女は深く腰を折りながら、私に何度も謝る。
袋の中には・・・赤いハート型の宝石が付いたネックレスが丁寧に入れてあった。

「ネックレス・・・。」
「とても可愛いデザインですね!それ、若い女性に人気のブランドですよね?ご自分で買われたんですか?」
「いえ・・・。違いマス・・・。」
「そうですよね〜!やっぱり彼氏からのプレゼント、ですよね〜?素敵!いいなぁ〜。」
「・・・・・・。」

ネックレスをじっと見ている私をひとしきり羨ましがると、
看護士さんは再度、何度も謝罪の言葉を口にして帰って行った。


---かわいー・・・。
---ハートのルビーだー。

華奢な鎖の間から、ハートモチーフの紅い宝石が煌めくように覗いている。
・・・まだ、予約時間まで10分ある。
私はそれを袋から取り出すと、トイレの方向へ急いで足を向けた。

トイレに入ると、私は一番奥にある洗面台の前に立った。
ちょっとためらった後・・・思い切ってそのネックレスを付けてみる。
するとちょうど私の喉の少し窪んだ所に、まるで最初からそこにあったかの様に・・・
ハート型のルビーはちょこん、と収まった。

「きれー・・・。キラキラ、してマス・・・。」

ふと、ネックレスを巻いた喉元だけでなく、ネックレスをした自分自身を見ようと鏡の中の視線を上げた。

---ズキン・・・と胸が痛んだ。

そこにいたのは・・・私の知らない私だった。

・・・しばらくの間、上手く呼吸が出来なかった。

鏡の中には・・・見たこともない位変な顔をした、自分がうつっている。
何故だか分からないけど・・・こうしている事が、もの凄く罪悪・・・のような気がした。

そう思った途端、急に目がチクチクしてきて、更にみぞおちの辺りがキリキリ痛くなってくる。
私は震える手で、慌ててネックレスを外した。
そしてそれを、自分の手のひらの上に乗せ、じっと見た。

一目見ただけでも、可憐さの中にも洗練されたデザインが目を惹くネックレス・・・。
若い女性に人気のブランド・・・とさっきの看護士さんが言っていたように、
高価な品である事は、私にでもすぐに分かった。
漫画ばっかり買っていつも金欠で、まだ学生の自分がこの様な物を、自分で購入するとはとても思えない。

---だから・・・これはきっと・・・千秋先輩から・・・。
---今は此処にいない・・・失ってしまったもう一人の私への・・・プレゼント・・・。

「そっか・・・。」

いつの間にか独り言が勝手に口を付いて出ていた。

「ネックレスさん、自分の持ち主以外の人にされるの、イヤなんですネ・・・?」

そっと鎖を指でなぞってみる。

「ゴメンナサイ・・・。ネックレスさんの持ち主・・・今の”のだめ”じゃない、ですよネ・・・?」

涙で前が滲んでよく見えないけど、ハートのルビーも一緒に泣いているみたいに、ゆらゆら揺れていた。

私はさっきのビニル袋にネックレスを再び丁寧にしまうと、バックの底の方へそれをぐっと押し込んだ。

「調子はどうですか?昨晩はよく眠れましたか?」
「ハイ。ぐっすり眠れました。やっぱり病院より落ち着くみたいデス!」

山口先生の診察が始まった。先生は相変わらず穏やかな表情で、私を優しく見つめていた。

「そうそう。救急の方からネックレス、受け取られましたか?」
「ハイ!さっき、ちゃんと受け取りましたヨ〜。なんか、かえって気を遣わせちゃったみたいで・・・。
悪い事をしちゃいましタ・・・。」
「いえ。これは間違いなく、うちの不手際ですから。私からもお詫びさせて下さい。」

先生はそう言って頭を下げた。

「本当に、いいんデス、山口先生!ちゃんと返してもらったんですから!」

私がアタフタと慌てふためいてそう付け加えると、先生はふっ・・・と微笑した。

「のだめちゃんは本当にいいコ、ですね・・・。でも、いいコにしすぎると、疲れちゃう時もありますからね?」
「ほえー?」
「・・・記憶の方はどうですか?」
「全然思い出せてまセン。がぼん・・・。」

このまま思い出すことなかったら・・・と心配していた私にとって、それは一番辛い質問だった。

「そうですか・・・。うちの方の臨床心理士とも色々と相談したのですが・・・。一つ聞いてもよろしいですか?」
「ハイ?何でしょうカ?」
「退院する前の深夜、のだめちゃん・・・あのトイピアノの前に立っていましたよね?」
「・・・え。」

先生が急に、あの夜の話題を振ってきたので、私はひどくうろたえた。

「あ、あれは、ホントにトイレの帰りで・・・涼んでいただけで・・・。別に深い意味はありまセン!!」
「・・・私にはそうは見えませんでしたよ?あの後、しばらくして気が付いたんです。
あの夜あなたは何か・・・あのトイピアノに話しかけていた。・・・違いますか?」

先生は相変わらず柔和な表情を崩していなかったけれど、
眼鏡の奥から光る瞳は、とても真剣な光を帯びていて・・・。

だから私も、ごまかさないでちゃんと答えなくてはいけないと思った。

「その・・・。その・・・。」
「はい。」
「・・・チョト不安だったんです・・・。」
「うん、不安・・・。」
「のだめ、おうちに帰れるって聞いて、最初はすご〜く嬉しかったんですケド・・・。
よく考えたら、自分のおうちじゃなくて千秋先輩のおうちで。
だって、のだめにとっては病院と同じ位、そこは知らない場所に変わりなかったし・・・。」
「ええ、今ののだめちゃんには確かにそうでしたね・・・。」

山口先生は私の話に頷き、相槌を打っていた。

「・・・千秋先輩とか、先輩の家族の人に良くしてもらってるのはすごく分かるんですケド、
おうちに行っても、皆サンとうまくやっていけるかなって・・・。
それにこれから更にまた、のだめの知らない人達に・・・でも!のだめの事は知っている人達に、
いっぱい出会わなきゃならないのかなって・・・ホント急に、色々なコトが心配になっちゃって・・・。」
「・・・それに、千秋さんと過ごす時間も、病院にいらした時よりも多くなりますしね。」

先生が私の一番言いにくいコトを先に言ってくれたので、少し気が楽になって、私は説明を続けた。

「ハイ・・・。そなんです。その事も気になって・・・。そしたら全然眠れなくなっちゃって・・・。
ふと、横を見たら、あのピアノが目に付いたんデス・・・。」
「千秋さんがのだめちゃんに贈られた、あの素敵なアンティークのトイピアノですね?」
「のだめ・・・実は自分が・・・ピアノの勉強でパリに留学してる、ってコトもまだピンときてなくて・・・。
でも、ピアノだけはのだめの知りたいコト、全部知っているような気がしたんデス。」
「うん・・・。」
「だからあの時、ピアノに聞いてみたんデス。のだめ、どうして此処に居るの・・・?って・・・。」
「・・・教えてくれましたか?」
「ダメでした・・・。えへ、自分で考えろって事なんですかネ?のだめ、考えるの苦手なんだけどな・・・。あはは。」
「・・・そうでしたか。」
「でも、三善さんちはとても居心地いいですし・・・。
みんな良くしてくれマスし、のだめの杞憂に終わりましたヨ。も、平気デス!」
「ええ。」

山口先生が、まだ何か探る様な視線をよこすので、私は念を押した。

「・・・本当ですヨ?」
「わかりました。正直に話してくれてありがとう、のだめちゃん。」

先生はようやく口元に笑みを浮かべると、机の中から紙を取り出した。

「実はのだめちゃんにね、お願いがあるんですよ?」
「のだめに?お願いデスか?」
「今週の土曜日、入院病棟の方のエントランスにあるミニステージで、
病院付属の看護科の生徒達が、小児科の子供達やお年寄りの患者さん達の為に、
ちょっとした演奏会や劇を行うのです。月一度、こういう催しがあるんですよ。」
「ふぉぉぉーー!演奏会や劇ですかぁー!」
「それで、是非のだめちゃんも、ピアノでステージに上がってみませんか?」
「ええ!?の、のだめがですカ?」
「はい。子供達にその事を話しましたら、皆とても喜んでおりましてね。
のだめちゃんのピアノに合わせて歌うんだって・・・ほら、これ、リクエストを書いてよこしたんですよ。」

先生から渡された紙には、子供達に昨日弾いてあげた、アニメの曲や童謡がびっしりと書き込んである。

「のだめちゃんがピアノを弾いて子供達と歌っている所を、小児科の主任のナースも見てましてね。
是非お願いしたい、と彼女はこの紙を持って依頼しに、直接私の所に来たのです。」
「ほわー。のだめが、みんなの前でピアノ弾くんですカー・・・。」
「私もね。実はのだめちゃんのピアノを聴いてみたい一人なんですよ。
でも、ピアノを弾くとまだ身体の方が・・・
肩とか腕が痛む様であれば、無理なさらず断って下さって構わないのですよ?」

山口先生は、”身体の事が、今は一番大事ですから”・・・と付け加えた。

「いえ、ピアノを弾く位ならもう大丈夫デス。
早いパッセージの多い曲なんかを弾かなければ、全然問題ないデス。」
「そうですか・・・?どうでしょうか。一応時間は、土曜日の午後2時過ぎ位を予定しているんですが・・・。」
「土曜日・・・明後日ですかー・・・。」

ふと視線を下に落とすと、リクエストのメモが二枚あることに気が付いた。

「あれ?二枚ある?これって・・・クラシックの曲名・・・?」
「あははは。恥ずかしながら、スタッフの中でものだめちゃんは人気でして。
是非このクラシック曲を生で聴きたいという声が・・・。それは大人達からのリクエストなんですよ。」

先生は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「ショパンの革命・・・英雄ポロネーズ・・・ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女・・・ベトベンの月光・・・
あ、リストのラ・カンパネラ・・・。他にもイッパイ・・・。あは〜!全部有名な曲ばっかりですネ!」
「子供達の親御さん達にも聞いてみたのですが、ああ、こんな曲もあったなって再確認したりして・・・。
結構クラシックの有名な曲って沢山あるのですね。のだめちゃんのお陰でとてもいいきっかけになりました。」
「そんな事言われるとのだめ、なんか照れちゃいますヨ・・・。」

先生にそう言われた事がとても気恥ずかしくて、私は両手の人差し指をツンツンさせた。

「最初の20分を子供達の為の演奏に、次の20分を大人達の為の演奏に。
全部で40分位を予定しているのですが、どうでしょうか?」
「それだと・・・。クラシックの方は有名な部分を短めにアレンジするとかしないと、あまり曲数弾けないデス。」
「もちろん、そういうのはのだめちゃんにおまかせしますよ?」
「むー・・・。」

悩んでる私を勇気付けるように、先生は大きな両手でやんわりと私の両腕を包みこんだ。

「のだめちゃん。
さっきあなたが話してくれた事、あれで私の考えは間違っていなかった・・・と、今とても思っています。
あなたには例えば・・・催眠療法など、そういったアプローチは、今の所治療方針に入れない事にしたんです。」
「催眠って、あの、”アナタは眠くなーる・・・眠くなーる・・・”とかっていうヤツですカ?」
「ええ、まぁ・・・。そういったトラウマケア等ですね。
私はね、あなたにとって一番よい治療方法は、ピアノを弾くこと、ではないかと考えたのです。
千秋さんからもヒントを頂きました。」
「え?千秋先輩にですか?」
「そうですよ。
だから今回のステージも、のだめちゃんにとてもいい効果があるんじゃないかなって密かに企んでいるのです。」

先生は悪戯っぽい目をして、私を覗き込んだ。

「どうですか?もう一度、ピアノに聞いてみませんか?」
「もう一度・・・?」
「ええ、何度もチャレンジしたら、ピアノも根負けして、教えてくれるかもしれませんよ?」
「あはは〜!山口先生、面白いコト言いますネ!」

先生の発言に私が笑うと、先生も一緒に破顔した。

「山口先生、わかりました。でも、一晩考えさせて下サイ。千秋先輩にも相談したいし・・・。」
「そうですね。それがいいかもしれません。あ、千秋さんと言えば・・・そうそう!」

先生は右横に重ねていた書類のクリアファイルの束をくくると、その中から一つを引き出した。

「これ・・・昨日の毎朝新聞の夕刊と、今朝の東経新聞の朝刊に載っていたんですよ!
いやー、千秋さんってとても凄い方だったのですね。私、初めて知りました。」

先生は新聞の切抜きを数点、私の前の机の上に置いた。

「申し訳ありませんでした・・・私、クラシックに疎くて・・・。
でも、これを読んで本当に驚きました。千秋さん、クラシック界では若き貴公子・・・と呼ばれているとか。
それにマエストロ・シュトレーゼマンの唯一の弟子なんですね。凄い・・・!
シュトレーゼマンは私でも知ってる位、有名な指揮者ですからね。」

切抜きには、端正な顔の千秋先輩のイメージフォトの横に、プロフィールが簡単に紹介されている。

[桃ヶ丘音楽大学ピアノ科在学中から世界の巨匠、マエストロ・シュトレーゼマンに師事]
[その後首席で卒業後、同大学の院を経て欧州へ留学]
[プラティニ指揮者コンクールで優勝]
[現在は欧州を活動拠点に、パリにあるルー・マルレ・オケの常任を務める]


---それは私も初めて知る事ばかり、だった・・・。

記事は、先輩がインタビュアーの質問に答える、という形式で・・・。
今回はコンクール優勝の凱旋も兼ね、
日本で先輩が中心となって結成された、オケの公演に招かれたことが冒頭に紹介されていた。

「千秋さんのこの記事で、うちの医局は今日大騒ぎでしてね。
若い子達に聞いたら、クラシックのファン以外にも、特に若い女性に今絶大な人気があるとか・・・。
看護士の一人が今日これを買ってきたんですよ。」

先生は私に一冊の雑誌を目の前に差し出した。それは男性向けのファッション誌だった。

表紙には・・・パリッとしたスーツを着た、二人の男性。

ブラックのペンシルストライプのスーツを着て、右側に立っているのは千秋先輩だ。
その横にいる先輩より少し背が低い、
光沢のあるチャコールグレイの細身のスーツを着た左側の男性は、私の知らない人だった。

先輩は少し見下ろしがちの伏目をしていて、クールだけど、どこかもの凄く艶っぽい表情していた。
隣の知らない男性は逆に、こちらを射抜くような鋭い眼光を発していて・・・
口元ににやり、と浮かべた微笑がとてもセクシーだった。

「千秋先輩だぁー・・・しゅごい・・・かっこいーー・・・。」
「左の方は、千秋さんが初代を務められたオケの現任指揮者で、松田さん、という方だそうです。
この二人のビジュアルの組み合わせが、今すごく話題になっているとか・・・。
確かに男の私から見ても、くらくらきちゃいますよ。」

山口先生がそう言って笑うのを、でも・・・私はどこか上の空で聞いていた。

---千秋先輩は確かに格好いいけど・・・。
---はじめて会った時からもちろん今でも、こんな素敵な人がのだめの彼氏・・・なんて信じれないくらいに。
---でも、のだめに見せてくれる、時々照れたように笑う笑顔が、すっごく可愛くて・・・優しくて・・・。

だからこんな表情をした千秋先輩は・・・私にはまるでどこか遠くの、別の存在みたいに思えて仕方なかった。

「でもなんか・・・のだめの知っている千秋先輩じゃないみたいデス・・・。」

そう小さく呟くと、山口先生もそれに同意するように頷いた。

「ええ、そうですね。私も同じ事思っておりました。
あなたの前の千秋さんは、あなたを大事に思い気遣う、ただの一人の優しい男性、って感じでしたからね。」

先生は新聞の切抜きをコピーしたものを、私の前に差し出した。

「良かったらどうぞ・・・。のだめちゃん、さっきまじまじと読んでいらしたので。
必要ないかとも思ったのですけれど、でも用意しておいて良かったです。」
「あ、ありがとございます・・・。」

私は先生にお礼を言いながら、コピーを受け取った。

「雑誌は・・・。」
「あ、のだめ、帰り本屋でちゃんと自分で買って帰りマス!これはお返しします。」

そう言いながら渡されていた雑誌を、山口先生の机の上に置いた。

「すみません。本当はこれも差し上げたい位なんですけれど。私が購入したものではないので・・・。」

先生は申し訳なさそうに私に謝った。

「いいんデス、いいんデス!あ、でも雑誌の名前だけ控えさせて下さい。」

私は先生からメモ紙とボールペンを借りると、千秋先輩が載っている雑誌の名前を書き取った。

「ありがとうございました。土曜日のコト、山口先生にさっき言われたコト、のだめ、よく考えて見ますネ。」
「だめですよ、のだめちゃん。もっと気楽〜に考えて下さい。ね?」
「・・・はい。」
「では、明日は整形外科の方でしたね?診察が終わられましたら、こちらに声を掛けて下さい。

私は明日は一日ここで勤務しておりますので。のだめちゃんからのいいお返事、お待ちしております。」

「ハイ!」

私は貰ったコピーを丁寧にたたんでバックにしまうと、先生に再度お礼を言って、診察室を後にした。

帰り道、すぐにタクシーには乗らないで、私は病院から少し歩いて、駅前の方へ出た。

一角にある大型書店を見つけると、早速さっきのメモ紙を手に、あの雑誌を探し始める。
『男性誌』、と書かれたコーナーに向かうと、
すぐに一番手前に、目立つ様に平積されている先輩のあの表紙が目に入った。

---あった・・・!

他のコーナーも軽く見回してみると、
柱の向こう側に置いてある情報誌のコーナーにも、千秋先輩と松田さんが表紙の雑誌があった。

---千秋先輩・・・有名だったんですネ・・・。

そう一人ごちながら、他の雑誌の棚の間を、一通りぶらぶらと歩いてみる。
しばらくそうしてからさっきの男性誌のコーナーの前に戻ると、
女子高生位の制服を着た女の子が三人、あの雑誌を手に取り、ページを捲りながら何やら盛り上がっていた。

「千秋真一、超かっこいーよね!今、帰国してるんだって。」
「えー、あたし、こっちの松田さんの方が好きー。大人の男って感じじゃない?」
「私ねー、千秋真一が振ったR☆Sオケ。兄貴と聴きに行った事あるんだけど、すごいよかったよー。」

聴きに行った、と話す女の子は、肩から楽器を入れたと思われるショルダーバックをかけていた。
大きさからいって、フルートではないかと私は感じた。

「マミ、吹奏楽部だもんねー。確か音大目指してるんだっけ。なに、千秋真一の影響?」
「あーちょっとあるかも。」
「あたしこれ、買っちゃおっかなー。マミも買う?」
「うん買うー!兄貴も買ってきてって言ってたし。」

そうワイワイ言いながら、二人の女子高生は雑誌を手に取り、レジの方へ歩いて行った。

彼女達が書店から居なくなったのを確認し、更にしばらく時間を置いてから、私は再びあの雑誌の前に立った。

けれど。
それを手にする事も、ページを捲る事も、今の私にはひどく困難な事の様だった。
何故だか分からないけど、それ以上は、どうしても体が動かないのだ。

それでもようやく何とかして・・・
人差し指で表紙の千秋先輩の口元を、そっ・・・と触れてみた。

「千秋先輩・・・のだめ・・・本当に先輩の彼女・・・なんですカ?」

周りの人からいぶかしむような視線が注がれているのに気が付き、私ははっと我に返った。
心の中で言ったつもりだったのに、いつの間にか大きな独り言を言ってしまったみたいだ。
まるで私を奇異な人を見るかの様な・・・そんな表情で、周りに居た人達は眉を顰めている。
突き刺す様なその凝視に耐えられなくて、私は慌ててその場から逃げ出した。

・・・本屋から飛び出すその間。
後ろからかすかに漏れ聞こえる失笑が、よりいっそう私を惨めな気分にさせた・・・。

その後、帰り道にあったコンビニにも何軒か入り、あの雑誌を買おうとしたのだけれど・・・
どうしてもそれができなくて、結局、私はあの雑誌の購入を断念した。

途中で流していたタクシーをつかまえると、私はそのまま帰路についた。

夕ご飯を俊君や由衣子ちゃん達と一緒に済ませ、リビングでテレビを見てひと時くつろいでいると・・・
由衣子ちゃんが雑誌や新聞をいっぱい手にして、リビングに入ってきた。

「見て見て〜のだめちゃん!真兄の載ってる雑誌、こんなにあるんだよ〜!」

嬉しそうにはしゃぎながら、由衣子ちゃんは私の前のリビングテーブルにどさっ!とその束を置いた。

「すごいよね!どの真兄ちゃまもすっごいかっこいーの!由衣子、全部二冊ずつ買っちゃった。」
「二冊ずつ買ってどうすんの?」

俊君が不思議そうに由衣子ちゃんに尋ねた。

「んもー!俊兄には何にもわかってないんだからぁー!
一冊は保存用!で、もう一冊は観賞と貸し出し用!ねーのだめちゃん。」
「あはは〜。由衣子ちゃん、千秋先輩の大ファンなんですネ?」
「モチロン!真兄ちゃまは由衣子の憧れの人だもん!あ、のだめちゃんも雑誌読む?」

古いものから新しいものまで、由衣子ちゃんが雑誌を並べ始めた。
ふと、さっきのあの雑誌もその中にあるのに気がついた。

・・・さっきの苦々しい出来事が瞬間的にフラッシュバックして、私は慌てて立ち上がった。

「あ!のだめ、明日学校の友達と映画を見に行く約束をしてて、電話しなくちゃいけないんでしタ!
ちょっと、電話してきますネ〜!」

由衣子ちゃんが少し不審な顔をして私を見上げるのに目を逸らして、急いで客間の方へ向かった。

客間に戻り、机の上に置いてある携帯に手を伸ばすと、充電器からそれを取り外した。
夕ご飯を食べる前から充電をし始めていたので、今度は電源キーを押すとちゃんと電源が入った。

・・・自分の電話番号を確認し、マキちゃんに電話をかける。
マキちゃんは午後1時に、映画館が入っている大きなステーションビルがある駅を、待ち合わせ場所に指定した。
私はメモを取り、明日楽しみにしている事を告げると、マキちゃんは電話口でもまた笑っていた。

マキちゃんとの電話を切って、携帯を再び充電器に戻す。
はぁーと大きく息を吐いて、私はソファに思い切りぼふっ!と座り込んだ。

---このモヤモヤとした気持ちは一体なんだろう・・・。

あの事故から随分と経つのに、私の記憶は一向に戻る兆しがない。
少しでも何か思い出す事があれば、それだけでも随分と勇気付けられるのに・・・。
誰を見ても、誰と話をしても、何も感じる事がない・・・のだ。
まるで・・・最初からそんな記憶はなかったみたいに・・・。

千秋先輩の事をこんなに思い出したいのに・・・全く思い出せない自分が腹立たしくて・・・哀しかった。

---先輩の顔が見たい・・・。
---先輩の口からちゃんと、のだめは先輩の何なのか・・・言って欲しいんデス・・・。

私は思い立ち、客間を出て廊下を辿り先輩の部屋の前まで行くと、軽くノックしてみる。
返事は・・・やっぱりない。
今日は遅くなるから・・・と今朝先輩が言っていたように、まだ家に帰ってきていないのは明らかだった。

先輩の部屋のドアをそっと開けると、案の定真っ暗だった。
暗がりの中で明かりのスイッチを探して点けると、
シンプルにレイアウトされた、男性らしい部屋の様子が浮かび上がった。

・・・本棚には、沢山の音楽関係の本。
机の上には、総譜やその資料と思われるものが散乱していて、飲みかけのコーヒーが一客置いてあった。

私は机の上から何も書いてないレポート用紙を見つけると、
側においてあったペンで、先輩宛に書き置きを残した。


千秋先輩へ


先輩にお話ししたい事があるので、帰ったらのだめの部屋まで来てください。

寝ないで待っています。もし寝てても、起こしてください。

のだめ


先輩の部屋を出ると、ちょうど二階に上がって来た由衣子ちゃんと出会った。

「あれーのだめちゃん。廊下で・・・こんな所で何してたの?」
「えへ・・・。ちょっと三善さんち☆探検!してましタ。」
「あはは〜何ソレ!そうだ。お友達への電話は終わったの?」
「ハイ!電話終わりましたヨ〜。病院も行くから、明日ののだめは大忙しデス!」
「そっかーよかったねー!じゃあさ、そろそろ、由衣子とお風呂に入らないー?」
「ハイ!今日もよろしくお願いしますネ。」
「うん!じゃあ、10分後ね。」

昨日と同じ様に由衣子ちゃんとお風呂で待ち合わせすると、用意の為に客間の方へ戻った。

お風呂からあがると・・・
その晩も由衣子ちゃんがやっぱり私と一緒に寝たい言うので、客間のベットで二人して寝ころんだ。

自分の枕を抱いて、いつの間にかスヤスヤと安らかな寝息をたてた由衣子ちゃんを見つめながら。
そうして千秋先輩の帰りを、随分待っていたのだが、結局いつの間にか自分も一緒に眠ってしまい・・・

先輩が夜半過ぎに帰宅したことに、私は気がつかなかった・・・。

翌朝私が目覚めると、先輩はすでに起きていて、リビングでコーヒーを飲んでいた。
ソファに深く腰をかけながら遠くを見つめているその後ろ姿だけで、先輩がかなり疲れているのがわかった。
声をかけるのを少し憚られたが、数秒先輩の方が先に気がついて、私に振り返った。

「…ああ、起きたのか。おはよ。」
「先輩、昨日は随分遅かったんですね。すみません…。待ってたんですケド、つい寝てしまって…。」
「別に・・・。先に寝てろ、と言ったのは俺の方だし。」
「でも、起こしてくれたらよかったのに…。手紙・・・読んでくれなかったんですカ?」

私は俯きながらぼそぼそと呟いた。

「読んだけど・・・。でも、本当に遅い時間だったから。・・・別に無視したわけじゃない。」

つっけんどんな先輩の言い方がらしくなくって、私は急に心配になった。

「もしかして先輩、寝てないんじゃ…。」
「・・・少しは休んだから平気。」
「あまり無理をして身体・・・こわさない様にしてくださいネ・・・?」
「何言ってんだ。お前の方こそ、早く身体治せ。それより手紙に書いてあった話したい事って・・・何?」
「あ、話・・・。その・・・。」

私が戸惑っていると、先輩は一瞬やるせない表情を見せた。
が、何かを隠すようにすぐにその目は用心深く無表情になった。

「何か言いたい事があるんだろ・・・?」

そんな風に突き放すように言われたら、
昨日話したかった事・・・聞きたかった事・・・全部、私は言えなくなってしまった。

「あの・・・今日のだめ、マキちゃん達とプリごろ太の映画を見に行くんデス。今日から公開で・・・。」
「・・・プリごろ太・・・。」
「その後、夕ご飯を一緒に食べようって約束したんですけど、行ってもいいデスか・・・?」
「・・・話したい事って、その事?」
「えと・・・。ハイ・・・。」

先輩は呆れた様にハァ・・・と溜め息をつくと、かぶりを振った。

「別にそんな事・・・俺にワザワザ断らなくてもいいから・・・。ま、楽しんでこいよ。」

低い声でそう言いながらソファから立ち上がると、千秋先輩は前髪をかき上げた。

濡れた黒曜石を思わせる漆黒の瞳は充血し、溜まった疲労が端正な頬に翳を落としていた。
私は二階の自室へ歩いていこうとする先輩のジャケットの袖を、無意識に慌てて掴んでいた。

「あ、あのっ…!」
「何・・・?まだ何かあンのか・・・?」

肩越しに振り返った先輩の顔は、見た事もないくらい不機嫌だった。
その様な先輩の態度に驚いた私は、思わず口に出そうとした言葉を飲み込んでしまった。

「いえ・・・。何でも・・・ありまセン・・・。」

私が先輩の裾をぱっと離すと、先輩はそのままこちらに視線もくれないで、リビングから出て行ってしまった。
私は暫く呆然とそこに佇んでいたが、朝食の準備が出来たと私の名前を呼ぶ千代さんの声に我に返り、
ダイニングルームへ重い足を向けた。

---山口先生に頼まれた、土曜日のピアノのミニコンサートの話も、先輩に相談できなかった・・・。

千代さんが卵を焼いている間、私はさっきまでの先輩とのやり取りを思い出していた。
先生が指摘した様に、やっぱり病院に居た時とは違って・・・千秋先輩と過ごす時間が多くなって・・・。

・・・先程の先輩は、昨日までの優しかった先輩が嘘の様に、よそよそしく、どこか・・・冷淡だった。
でももしかしたら・・・あれが本来の千秋先輩なのかもしれない。
怪我をした私を気遣って、わざと無理をして、優しくしてくれていただけなのかもしれない・・・。

---でも・・・。でも・・・。

そんな事を止めどもなく、悶々と考えていると、千秋先輩が食堂に入ってきた。
昨日と同じ様に私の左隣に席を取ると、手に持っていたバックをその隣の空いた椅子の上に置いた。
私はまた食事の指図をされるのかと思い、
更に先程の先輩の態度と相まって緊張が最高潮に達し、思わず身体を固くした。

「のだめ・・・。」
「ハイ・・・。」

先輩は窺うように・・・小さくこぼした。

「さっきはごめん・・・な。」
「・・・え?」
「その・・・仕事が自分が思ったように、上手くいってなくて・・・苛ついてて・・・お前当たった・・・。」
「・・・・・・。」
「のだめ、本当にごめんな・・・。悪かった・・・。俺・・・最低だな・・・。」
「・・・・・・。」

先輩は自嘲的に笑った。
先輩からそんな事を言われると思わなかった私は、混乱して言葉に詰まってしまった。

「映画・・・楽しんでこいよ。でも、あまり遅くならない様に・・・。身体、まだ完全に良くなってないんだからな?」

先輩は目を伏せて優しく私に囁いた。それはいつもの先輩の声色だった。

「俺、今日はゲネプロだから、忙しくて電話に出れないけど・・・。
映画館でもレストランでも、移動する時は必ず母さんか、千代さんに電話して?・・・心配だから。」
「・・・ハイ。分かりました。」
「それから・・・今日も夜遅くまで仕事入ってるから、また遅くなる。先にちゃんと寝てて・・・。」

先輩の・・・私への配慮のにじむ柔らかな表情が、先程の先輩の態度と全く反していて・・・
私は余計に戸惑いを隠せなかった。

「じゃあ、俺行って来るな・・・。」

出掛ける、という先輩を見送ろうとして立ち上がりかけた私を、先輩はやんわりと制した。

「あ、見送りはいいから・・・。お前はちゃんと朝飯食ってろ。」
「・・・ハイ。」

千秋先輩は、ふと・・・何か思いつめたような瞳で私を凝視した。

「あの、さ・・・お前・・・その、携帯・・・。」
「・・・携帯?」

私は先輩の言葉に不思議に思ってそう尋ねると、先輩は慌てて首を振り、私から視線を外した。

「いや・・・。何でもない・・・。それなら・・・別にいいんだ・・・。」
「・・・・・・?」
「ホント・・・何でもない・・・。」

どこか念を押すように、先輩はそう言った。

まだ不思議そうに見上げる私の右頬に、先輩はそっ・・・と手を寄せ、頬にかかっていた私の髪を耳に掛けた。
優しく、どこか甘いその仕草に、私は頬が急激に高潮するのを感じていた。

---キス・・・される・・・?

先輩は私の右頬を優しく数回撫でると、ポンポンと今度は手の甲で触れた。

「良かったな・・・。あと、残らないみたいだ・・・。」

擦りむいた右頬の事を言ったのだと分かった瞬間、私は意識しすぎた自分が猛烈に恥ずかしくなった。
勝手に一人で先走ったこの状況に耐え切れなくて、思わず顔を伏せてしまった。

「・・・じゃあな。行ってくる。」

先輩はどう思ったか分からなかったけど、私は恥ずかしさのあまり、食堂を出て行く先輩の後姿も見れなかった。

部屋に戻り、病院に行く用意をしていると、昨晩から携帯を充電器に入れたままだったのに気がついた。
充電ランプはとっくに消えている。

「ふぉぉぉ〜!これでしばらくは大丈夫ですネ!」

独り言を言いながら携帯をパチンと開くと、新着メールが1件入ってるのに気がついた。

---誰だろう・・・?

そう疑問に思いながらメール画面をたどっていくと、差出人は・・・千秋先輩だった。

---件名は、Re:?・・・私からのメールの返信??

不思議に思いながらも、メール本文を慌てて開く。
しかしそれを読んで私は・・・しばらくの間動けなかった。

”Re:

俺も早く会いたい。
のだめ。今、何処にいるんだ・・・?”


---それはとても・・・哀しいくらいにとても・・・短い文章・・・だった。

私が送ったと見られるメールの本文も、震える手で確認する。
数日前に送ったと見られる私のメールの最後には、”先輩、早く会いたいです。”と結んであった。
それはまだ記憶を失う前の・・・もう一人の私、からの最後のメールだった・・・。

携帯に残されたいたメールのやりとりをそのまま読んでいると、
それは私達がかつて、恋人関係にあった事を確かに示していた。

ふとさっきの先輩のメールの送信日時を見てみると・・・
それは昨日の夜12時54分になっていた。

私はそれを知って・・・すべてを理解し、初めて大声を上げて一人で泣いた。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになったけど、構わずしばらくの間そのまま泣き続けた。






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