千秋真一×野田恵
![]() 「おどけた話、エグモント風の物語、父親たちの出る家庭的な場面、結婚式、 これらを集めてノヴェレッテ(短編小説)と名付けました」 byロベルト・シューマン(1838) 力強く 楽しげに奏でられる 和音 そうかと思えば 切なげに流れる指先からの 旋律 掻き立てられた情熱と その中に ふと 生まれる 不安という名の 炎 その火は やがて わが身を焦がし 狂気へと追い詰める 愛するクララとの 幸福な日常を 夢見て しかし 焦燥と微かな絶望の予感は 確かにこの胸にある アパルトマンの中庭から、真一はあるひとつの窓を見上げた。 橙色の暖かな明かりが洩れて、その部屋にいる人物が未だベッドで休むことなく 起きているのだということが窺える。 腕時計はもうすぐ日付が変わってしまうことを持ち主に告げていた。 「……こんな遅くまで」 明日も学校があるだろうにと眉を顰めて、しかし自分の帰りを待っていてくれたのかと 思うと彼は唇の端を緩ませた。 ドアを開けた彼を待っていたのは、愛しいひとではなく。 襲い掛かるような、音。 畏怖さえ感じさせるそれは、真一が入ってくることを拒み、慄かせ。 しかし激しい愛を歌い、早く求め合いたいと誘う。 そのどちらにも縛られて、彼は暫く身動きが取れずに。 心に渦巻く不可解な欲望をただ、感じていた。 恵はシューマンの小さな狂気に飲み込まれていく自分を、どこか冷静な気持ちで 眺めていた。 ヴィークに反対され続けた二人の結婚。 その中で幾度も交わされた、愛に溢れた手紙。 シューマンの生涯で、確かに幸せだった頃の、記憶。 そこに産声を上げる小さな炎。 共に焼かれてしまうのも悪くないかもしれない。 それでも。 ピアニッシモで囁くピアノは、奥から湧き上がる不可思議な欲望を 彼女の前に曝け出す。 彼に、追い付きたい? 自分のピアノを認めてもらいたい? そうだけど、そうじゃない。 ただ、欲しい。 フォルティッシモは情熱と共に。 弾け飛ぶ汗、響き渡る和音。 説明のつかない、けれどもシンプルな感情は、心臓を締め上げ息を乱れさせる。 最後の音が空気に紛れても、鼓動が静まることはなく。 もう休もうと疲れきった身体をどうにか立たせるとそこには。 求めていたひと。 恵はそっと腕を伸ばし、無言のまま真一の首に縋りついた。 そのまま二人は恋の狂気に身を躍らせ。 一刻も早く抱き合いたいのだと衣服を脱ぐのももどかしく。 彼の手によって弾け飛んだボタンは軽快に跳ねたあと床に寂しく転がり。 消し忘れたライトにより露になった肌はいつもよりその存在を主張した。 が、すぐに彼の身体によって覆いつくされてしまう。 深く重ねた唇が離れると。 目の前には、獣の顔をした男。 目の前には、濡れた瞳と頬を上気させた女。 柔らかなふくらみに舌を這わせ、指で淫猥な水音を立てる男と。 叫び声を上げ、腿を震わせ、背中に爪を立てる女。 やがて肉体がぶつかる音と、間隔が短くなってく吐息。 弾け飛ぶ汗、囁かれる愛の言葉。 未来に思い描く 確かに幸福な 日々 それでも消えることのなかった 狂気の炎は いつかこの身を焼き尽くす けれど 彼女を 彼を 求める心は 止まることなく ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |