千秋真一×野田恵
![]() 『appassionata』 この想いは 段階を 軽く飛び越えて 唐突に 張り詰めた 一本の糸は 気がつけば心にあった密やかな 火種によって 瞬く間に 燃え落ちていく 否 燃え落ちるは 我が身か 彼のひとか 「……ぅん?」 夢の中でまで腕を絡ませていた心休まる温もりがすうっと溶けていくようで。 真一は手繰り寄せようとするも、その手は再び他者の熱に触れることなく。 さらさらとシーツの感触だけが残る。 そこには少し前まで確かに隣で眠っていたひとの痕跡となる皺が刻まれており。 すぐに戻るだろうと彼はもう一度瞼を閉じる。 夢うつつの彼の耳に突然飛び込んできたのは、ピアノの音。 蜜事の後迎える朝にはおよそ似つかわしくない激しい旋律、ピアノソナタ『熱情』。 それは昨晩の情事を思い起こさせる艶を含んでおり。 たとえば、鎖骨を唇でなぞったときに洩れ出た熱い吐息、とか。 あるいは、ふくらはぎから足の付け根まで指を這わせたときの喉奥から聞こえた嘶き、とか。 中に入っていくときに絡まった視線。一瞬の微笑。顰められる眉。伝う汗、零れる汗。 震える白い肌。刻む紅い印。押し殺した声、耐えられずに上がる鳴き声。 リアルに頭の中で再現され、真一は思わず赤面する。 こうなってしまうと再び夢の住人になることは最早叶わず。 「……朝っぱらから、なんつー弾き方してンだ」 2度寝を諦め、彼は床に散らばった衣服を身に纏った。 恵は第1楽章の途中で指を止め、赤らむ頬をその大きな手のひらで覆った。 「な、なんで?」 目が覚めて何となくピアノが弾きたくなり。 真一の腕の中から彼を起こさぬようそっと抜け出し。 他意なく弾き始めたのが『熱情』。 ちょっとうるさいかなとも思ったけれど、そろそろ起きなくてはならない時間だったし。 目覚まし代わりにと指を鍵盤に滑らせるも、その脳裏には昨夜の情事が思い浮かび。 たとえば、頂を転がす舌の濡れた鮮やかな赤、とか。 あるいは、律動する身体に合わせて薄目を開けたときに見えた漆黒の瞳、とか。 中に入ってくるときに絡まった視線。一瞬の微笑。顰められる眉。伝う汗、零れる汗。 引き締まった腕。頭を撫でる優しい手。掠れた声、囁かれる自分の名。 とにかく落ち着こうと恵は深く息を吸った。 ヨゼフィーネへの激しい恋情につられてしまったのかもしれない。 けれど途中で曲を変えて弾くのはベートーヴェンに失礼な気がして。 比較的穏やかな旋律の第2楽章から弾き始めた。 なぜか途中で止まってしまったピアノは、すっとばしていきなり第2楽章へ。 こいつ分かってんのかな、と真一は静かに溜息をつく。 静かなパッション。 しかしその奥には抑制されてますます燃え上がる想いがあるということを。 ほら、繋がっていく。 間を置かずに始まる第3楽章。 どうしよう、さっきよりずっと鼓動がうるさい。 でも指はどんどん欲張りになっていって、止めることができない。 激しいパッション。 私はその中に、いる。 火照ったむき出しの肩に、冷たい指先が乗せられてゾクリとする。 「おまえ、なんで第1楽章を途中でやめたの?」 クスクスと笑う真一の声が降りてくる。 「え、えと。ドキドキしすぎるから……です」 赤くなって俯く恵の顎を、彼の指は掬い上げて。 深い、深い口付け。 気がつけば心にあった密やかな 火種 やがて大きくなって 理性の水では 消すことが出来ない 時に静かな 時に激しい パッション 私たちは その中に いる ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |