喪失 ミニコンサート前編10
千秋真一×野田恵


コンコンコン……。

……中から返事はない。
私はドアの前で首を捻った。

―――どうしよう……。勝手に開けて大丈夫ですかネ?でも、こんな深夜だし……。
―――先輩、ただ単に電気消し忘れて寝ちゃっただけかもしれないし……。

何度もそんな事をぐるぐると逡巡した後、意を決して私は先輩の部屋を開けた。

部屋の中にそっと入ると、すぐに先輩の後姿が見えた。
先輩はベットではなく、正面の机に突っ伏した状態で寝ていた。
私は忍び足で机に近づくと、先輩は広げた楽譜の上で腕を組み、その上に頬をのせた不自由な体勢のまま眠り込んでいた。

私は先輩の下にある楽譜をチラッと見る。

―――アレ?これって……ヴァイオリン協奏曲??

どうやら、R☆Sの公演で振る曲の楽譜ではないようだ。
明日に本番を控えていても、先輩はもう次の公演の勉強をしているらしい。

……そういえば、部屋の中は締め切っているせいか少し蒸し暑い。部屋を見回してみるが、エアコンも切れているようだ。

―――空気が少し淀んでますネ……窓を開けましょうか……。

私は後ろのローテーブルにトレイを置くと、窓の方へ移動する。
なるべく音を立てないように静かに窓の止め具を外すと、窓をゆっくりと開放した。
ふわっ…と夏の冷たい夜風が吹き込んできて、レースのカーテンと共に私の髪も揺す。

しばらくそこで涼んだ後テーブルの方へ戻ると、ポットから冷茶グラスに、麦茶を氷ごと注ぎいれた。
そして机の上に広げられた楽譜を濡らさないように注意しながら、
机上の右脇にグラス敷きをひいて、その上にグラスを置く。
その時、私の耳元に、先輩のすーすー……という小さな寝息が聞こえてきた。
私はその寝息に誘われるようにゆっくりと顔を寄せ、先輩の顔を覗き込んだ。

―――わぁ……千秋先輩の寝顔…かわいー……。

今まで先輩の顔をこんな至近距離で見たことなかったから、私の胸は早鐘のようにうっていた。
普段の端正でクールな表情と違って、無防備に眠り込んだ先輩の顔は、いつもよりずっと幼くみえた。
それがとても可愛くて……。だって先輩の頬っぺたはピンク色だし、口元は僅かだけど小さく開いているし……。

その時、固く閉じられた瞼の下で、先輩の瞳が僅かに震えた。

―――あ……。

それを見た私の胸の中に、ストン……と何かが落ちた。
その小さな何かは、水面に波紋が広がっていくように、最後に私の心を大きく揺らした。
そしてようやく……それが何か思い当たる。
それはいつもずっと気になっていた、先輩のあの眼差し……。

先輩は時々、困ったような、やるせないような……どこか切なげで寂しげな……
そんな瞳で私を見ている事があった。
でもすぐにその表情を先輩は隠してしまうから…私は今まで深く考えもしなくて……。
それが何だったのか……今ようやく分かった。

―――ねぇ、千秋先輩。……先輩はのだめを見ていて…のだめを見ていなかった…んですネ……?

あの瞳をする時の先輩はきっと……私の中に“もう一人の私”を探していたのだ。
そして、見つけられなかった事の落胆が……先輩にあんな表情をさせて……。
でも優しい先輩は、私に気づかれちゃいけないと思って、すぐにそれを隠そうとして……。

―――先輩ごめんなサイ……。“今ののだめ”は…“先輩の大事なのだめ”…になれなくて……。

記憶を失ってしまった自分自身に対する怒り、そしてそれが戻らない事に対する絶望感…哀しみ…
私の頭の中は醜い物思いで、ぐちゃぐちゃだった。

「う……ん……。」

その時、先輩が溜め息ともつかない寝言を小さく零した。
起こしてしまったかと思い慌てて顔を近づけると、先輩は相変わらず気持ちよさそうにすーすー寝息を立てていた。

優しそうな寝顔を目の当たりにして、私は衝動的に先輩の背中に抱きついてみたくなった。
先輩が寝入っているのを何度も確認してから……
心を突き動かされるままに、寝ている先輩の背中に覆い被さるように上半身を寄せてみる。

先輩の背中は思った以上に筋肉質で、それはまさに男の人の身体で…私よりもずっと体温が熱く……。
そして何だかとても……いい匂いがした。
そのまま先輩の背中にぴたっと張り付くと、私はうっとりとその背中に頬を押し付け、瞳を閉じた。

―――っ!?
―――私っ!何やって……!?

急に我に返る。
途端に猛烈な恥ずかしさが込み上げてきて、私は慌てて先輩から身体を離した。
こんな…寝込みの先輩を襲うような…自分でもなんでこんな事をしてしまったのか分からない。
私はしばし、一人で勝手にパニックになっていた。

―――あっ!そだ!せ、先輩…起きてないデスよねっ……?

息遣いも荒くそこに突っ立っていたのに気が付き、慌てて息を止めると、先輩の顔を横から恐る恐る窺う。
先輩はいまだぐっすりと寝ていた。

―――よかった……。

安堵した瞬間、自分が興奮の余り、体中ぐっしょりと汗をかいていた事に気がついた。
それは顔から火が出るくらい恥ずかしい事実で……とにかく一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。
私は先輩の部屋を弾丸のように飛び出すと、猛スピードで客間へ戻った。

**********

−−−あー……ふわふわ気持ちいいー……。


オレは虹色のまどろみの中、あったかくて柔らかい“何か”に包まれていた。

この感触……オレは知っている……。

いつも近くにあって、オレが安心できる、そんな幸福な重みをもった……。

そうだ……オレは今、“それに”に抱きしめられているんだ……。



“バタンッ!”

何かが立てた音に吃驚して、オレは慌てて飛び起きた。

―――えっ?えっ?

寝ぼけた頭で左右を見回す。
何が起きたか分からずしばらく呆けていると、意識が徐々に覚醒してきた。
どうやらオレは、机の上でぐっすりと眠り込んでしまっていたらしい。

―――そっかオレ…楽譜チェックしてて…ついそのまま……。

広げっぱなしの楽譜の上に、涎までは垂らしていなかったのが救いだった。
不自由な体勢で寝てしまったせいか、肩が張って体のあちこちが痛い。
強張った体をほぐそうと両腕を伸ばした瞬間、オレの身体の右から左へふわっと風が通り過ぎた。

不思議に思い、風が流れてきた方向に顔を向けると、いつのまにか右奥の窓が開いている。
そこから夜風がゆったりと吹き込んでいて、一定のリズムでカーテンを揺らしていた。

―――なんだ……さっき夢の中で感じていたのは……コレだったのか……。

誰かに抱きしめられているように感じた感触の正体が風だと分かり、オレは苦笑いした。
いくら夢の中とはいえ、そんな風に思った自分が…少し気恥ずかしい。
頭をかきながらふと机の上に視線をやると、グラスに入った麦茶が置いてあるのに気が付いた。
グラスの表面は水滴で一面曇ってはいたが、氷はまだ溶けていない。

―――誰かが……これを……?

オレはその麦茶を一口飲んだ。
寝起きで喉がカラカラに渇いていたから、五臓六腑にしみわたるような冷涼感がたまらなく美味かった。

―――冷たい…と言う事は…まだコレを置いてからそうは時間は……。

さっき誰かに包まれているように感じたあれは…本当に風だったのだろうか?
それとも……これを持ってきて、窓を開けていった、誰かが……?

―――もしかして……のだめ?

立ち上がって部屋を見渡すと、麦茶が入ったガラスピッチャーがローテーブルの上に置いてある。
オレは飲み干した空のグラスに追加の麦茶を注ぐと、それを飲みながら風が吹き込む窓の方へ歩いて行った。



さっきの夢の中の感触……どこか懐かしかった。
あれはオレの知ってるあいつの感触に……どこか似てた……。
でも…まさか、な……。そんな事、ある筈がない……。
そう…だよな。……きっと、これを持ってきたのは、おそらく千代さんか母さん辺りだろ……。



窓際に佇んでしばらくそんな物思いに耽けながら、オレは麦茶の入ったグラスを弄んでいた。
窓から顔を出して夜空を見上げると、サロンでのだめと一緒に見た月がもうだいぶ下の方へ沈んでいる。
けれど涼風は相変らず、オレの顔に吹き付けていた。

ふと室内の時計を見る。時計の針はもう4時前を指していた。

―――いけね!少しでもベットで体を休めないと……。

オレは一気に残りの麦茶を飲み干すと、窓を閉め、部屋の中央へ戻る。
そして、テーブルに空のグラスを置いた。
時計のタイマーをセットしてから部屋の照明を落とすと、急いでベットに潜り込んで目を閉じる。

先程の事がチラリ…と再び脳裏をよぎったが、疲れていたオレはすぐに再び深い眠りに落ちた。






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