千秋真一×野田恵
![]() 「どうしました?目元が少し赤く腫れていますけど、何かありましたか?」 「昨日の夜、プリごろ太の映画を見ちゃって、感動の涙を流しすぎたせいデス……。」 「プリ……?」 ―――昨日の約束通り、整形外科の診察が終わったのだめちゃんは、私の診察室に顔を見せに来てくれたのだが……。 一目見ただけで、山口にはそれが泣き腫らした顔である事はすぐに分かった。 彼女はややむくんだ顔を、別に何ともないといった風で、特に気にしていない様だったが……。 「山口先生、プリごろ太、知りませんかー?」 「いえ…知ってますよ、有名な漫画の……。」 「そーデス!のだめ、今日これから音大の友達と、今年のプリごろ太の夏の映画の公開初日に行くんデス!!」 「……はぁ。」 「それで昨日の夜からのだめ的に、つい盛り上がっちゃってー。 のだめの一番お気に入りの過去の作品なんですけど……それを見ちゃったんデス! 何度見ても、やはり感動ーでしタ!!」 「……そうでしたか。」 山口はやや話についていけなかったのだが、のだめはお構いなしに話し続ける。 「また今から、新たな感動の嵐!が待ってるんですヨ〜!今年分の涙の総決算してきマス!!ぎゃはぁ!」 のだめが本当に嬉しそうにプリごろ太の映画の話をしているので…… 情けない事に、山口はそれが嘘か本当か分からなくなってしまった。 でも……少なくとも嘘をついているようには、彼には思えなかった。 「始まる前からそんなに泣いてしまって……。きっと今日の映画を見た後は、せっかくの可愛い顔が台無しですよ?」 「カ…カワイイ!?のだめがっ!?」 のだめはそう言われ慣れてないのか、目を白黒させた。 「可愛いですよ〜のだめちゃん。それにとってもいいコですしね。千秋さんの気持ちが分かります。」 『千秋さん』と山口が言ったのを聞いた瞬間、のだめはやや不自然に、つい…と目を逸らした。 「……そ、そんな事ない、と思いますヨ?……先輩、のだめの事は変態、って言ってましたカラ……。」 ―――おや……? ―――これは…ちょっとおかしい。 のだめの今までとは違った反応に、山口は少し警戒した。 「……昨日お話した土曜日の件、考えて頂けましたか?」 少し様子を見る為にも、彼は態と話を変えた。 「ええと、ハイ!」 すると、のだめは明らかにホッとした表情を見せた。 ―――どうやら千秋さんと何かあったようですね……。 山口はそれを直感的に悟った。 「のだめ、お引き受けする事にしましタ!頑張りマス!」 「本当ですか?それはよかった……。有り難うございます、のだめちゃん。子供達も喜びますよ。」 「のだめもお役に立てて嬉しーデス。だって…のだめにはピアノしか…ありませんから。 あっ!コレは取り柄、って言う意味ですヨ?」 ピアノしか、という言い回しに言った本人も驚いたのか、のだめは自分の発言を慌てて最後に訂正した。 「明後日の土曜日で、時間が余りありませんが……大丈夫でしょうか?」 「子供達と一緒に歌う曲はそんなに難しくないですし、のだめの得意分野でもあるので大丈夫デス。 クラシックの方は……有名な部分を短くアレンジして弾くだけだから、かえって楽な位デス!」 ここにきてようやく、のだめはいつもの元気な笑顔を山口に見せた。 「では後程、ミニステージにあるグランドピアノまでご案内致しますね。」 「ハイ!あの、ピアノ…調律はしてあるんですか?」 「ええ。のだめちゃんに絶対引き受けて頂けると思っておりましたので、昨日の内に手配しておきました。 事務局長に頼み込んでね……経費を出して頂きました。」 「え、そだったんですか?」 「のだめちゃんに弾いて頂くのに、ひどい音では失礼ですからね……。 あのグランドピアノ、生徒達が使う以外は入院病棟のエントランスの飾りみたいになっていて、 購入して以来、調律した事なんて無かったみたいです。 調律師さんもこんないいピアノ、処遇が余りに酷くて可哀相だ…っておっしゃってましたから。」 「じゃあ、のだめのコンサートが終わった後も、ちょくちょく弾いて可愛がってあげて下さいネ。」 「……看護科の生徒達に、そう言っておきましょう。」 「そだ!あの中に、山口先生のリクエストってあったんですか?」 ふいにのだめは山口に訊ねた。 「ええ、ありますよ。どの曲かお分かりになりましたか?」 のだめは可愛らしく小首を傾げて、困った様に笑った。 「むむむ。チョトわからなかったデス。ごめんなさい。のだめ、先生の好み、よく知らないですから……。」 「ははは。そうでしたね。私のリクエストは“愛の夢・第3番”って曲ですよ。」 「ふぉぉぉ〜!リスト!有名な甘〜いロマンティックな曲ですネ!先生…実はロマンチスト?」 ロマンチスト、といわれて山口は大いに照れた。 「いえいえ。実はクラシックの曲名、私はこの曲名以外は、聴いた事はあっても殆ど知らなかったもので……。 この曲だけは、ある人から教えて貰って憶えていたのです……。」 「ほえー。ある人ですか……?」 のだめは興味津々と言った風情で、身を乗り出してきた。 「恥ずかしながら……。私の青春の一ページといった感じでしょうか……。」 「むきゃー!甘酸っぱい青春の思い出??のだめ、是非聞きたいデス!!」 「私の話なんて……あまり面白くないですよ?」 「いいんデス!いいんデス!話して下さい!」 のだめが余りにせがむので、山口は記憶を辿りながら、ぽつぽつと話し始めた。 「私がまだ医学生だった頃の話です……。私は地方から上京してきた苦学生でしてね。 その頃は三畳一間の風呂・トイレ無しの、ぼろぼろのアパートに住んでおりました。 もちろん…今はそれも懐かしい思い出ですけどね。」 「ふむふむ。」 「その頃同級生に…まぁなんというか…憧れの存在がおりましてね。 彼女はその大学の……いわばマドンナ的存在で……。 東京にある、大きな大病院の一人娘さんでして…田舎者の私にとっては、とにかく眩しい存在でした。」 「むきゃ!マドンナー!山口先生、寅さんですネ?」 「はははは。彼女はいつも長く美しい髪をさらさらと風に舞わせて……。 そう……白いレースの日傘をさし、それにとてもよく似合うワンピースを身に纏ってました。 彼女の傍からは何とも言えない良い香りがして、近くの席に座れた日は、授業なんて頭に入らない位でしたよ。」 のだめはうっとりとした表情で彼の話を聞いていた。 「そうですよネ……。やっぱり学生生活には、勉強だけでなくトキメキがないと……!!」 「ある時、実験病棟に移動する際、大学内にある音楽室の近くを通ったら、ピアノの音が流れてきたんです。 誰だろうと思って覗いてみると……それは彼女でした。 あの頃ピアノなんて弾ける人は、裕福な家庭に育った人位でしたからね……。 私のいた田舎では、ピアノは音楽の先生が授業で弾く程度のものでしたから。」 「そなんですかー。」 「……初めてでした。本格的なクラシック曲…というようなものを聴くのは……。 だからしばらくの間、私がぼーっと彼女のピアノに聴き惚れていると、 私がでくの坊の様に、突っ立っているのに気がついたのでしょう。 彼女はこちらに視線を寄越しピアノを弾く手を止めると、女神の様に微笑して言いました。 『山口君も、クラシック好き?』とね……。」 「ぎゃはぁーー!のだめだったら、後ろに花飛ばしマス!!」 「私は何も口に出せず、ただブンブンと首を横に振ることしか出来ませんでした。 それまで、彼女とろくに口も利いたことなかったものですから……。 純情青年…といえば聞こえはいいですが、実際はただの奥手の田舎学生でしたからね。」 山口はあの時の情景を心の中に思い浮かべていた。 「すると彼女はふわり…と頬にかかっていた髪を掻き上げると、優しく微笑んで…… 『今のはリストの<愛の夢・第3番>・・・好きな曲なの。』と私に教えてくれたんです。」 「あへ〜!素敵な思い出じゃないですかーーー!!」 「そうですか?」 「そうですヨ!じゃあこの曲は、山口先生の思い出の曲でもあるんですね。」 「そうなります…か?さぁ、私の恥ずかしい話はこれ位にして、エントランスの方へ参りましょうか。 ちょうど、昼食時間ですから。」 いい加減気恥ずかしかった山口は、そう言ってのだめを促すと、彼女は『ハイ!』と素直に立ち上がった。 ********** グランドピアノは昨日、看護科の学生が調律の後に磨いたのだろうか……黒く光沢のある艶を発していた。 「わぁ〜!本当にいいピアノですネ!弾いてあげなきゃ可愛そうですヨ。」 のだめは瞳をキラキラさせながら呟くと、鍵盤の蓋をふわりと開ける。 そして人差し指で、ポーーーーンと音を鳴らした。 「ふふふ……。ちゃ〜んと調律してありマス……。」 ピアノの前に座ったのだめは本当に嬉しそうで、彼女が本当にピアノを愛している事が山口にも伝わってきた。 「えへ。先生の思い出!デス!」 そう言って山口にいたずらっぽい眼差しを向けると、聞き覚えのあるあのフレーズを奏で始めた。 「……“愛の夢・第3番”。」 素人の彼でも、これがロマンティックな愛の曲という事は知っている。 のだめは頬を染めながら、時々口を尖らせたりして、とても幸福そうにピアノを弾いている。 ……少し酷だとは思ったが、山口はここで彼女の反応を見る事にした。 今日最初に会った時に彼女が見せたあの違和感を、自分なりに解決しなければならないと思ったからだ。 「……そういえばのだめちゃん。この事、千秋さんにご相談されましたか?」 その瞬間、演奏がパタリと止んだ。 「……モチロンですヨ。」 「千秋さんは何ておっしゃってました?」 「別にいいんじゃないか?って……。 先輩、今、お仕事すっごく忙しいみたいで、のだめもそれ以上聞きませんでした。」 「そうでしたか……。」 ふと、のだめはピアノの鍵盤に視線を落とした。 視線は鍵盤にあるけれど…それでいて何処か遠くを見ている様な、暗い翳のある凝視だった。 ―――この表情は……あの夜に見たのと同じ……? 「山口先生。」 相変わらず視線を鍵盤に向けたまま、のだめは唐突に話し出した。 「子供の頃、クッキーの空き缶とかを、宝物とか大事なモノ入れにしませんでしたか?」 「え?あ、空き缶……?そういえば…メンコ入れにしていた事がありましたね。」 「……久しぶりに缶を開けてみたら、大事なモノだけがその中から無くなっていたんデス。……先生ならどうしますか?」 「え……大事なもの?」 「そです。大事なモノだけ、無いんデス。」 「そうですね……。私なら、ひとまず別の場所に無いか、探して見ると思いますが……。」 「じゃあ、大事なモノを入れていた缶はどうしますか?見つかるまでそのままにしておきますか? それとも、缶だけあっても仕方ないから……捨てちゃいマスか?」 ―――のだめちゃんのこの謎かけ……。一体彼女は何を言いたいのだろう……? この発言の表層的なものに囚われずに、何とか冷静に真意を見極めねばと、山口は頭の中をフル回転させていた。 「のだめだったら…もしかして捨てちゃうかもしれません。 ……大事なモノが入っていなかったら意味ナイ、ですから。」 そう言ってのだめはピアノの蓋をパタンと閉めると、立ち上がった。 「……のだめ、そろそろ帰りマス。」 「あっ!一緒にお昼ご飯でもいかがですか?明後日のお礼に、是非私にご馳走させて下さい。 病院の食堂も、結構美味しいですよ?」 「ゴメンナサイ、山口先生。のだめ、1時に友達と約束しているので…もう行かないと。 先生と一緒にご飯、食べたかったんですけど……。」 「いえ……。それならばいいですよ。映画、楽しんでいらっしゃい。 では明後日、一時半にはこちらに来て頂けますか?色々と準備がありますので。」 のだめはこくんと頷いた。 「ハイ、明後日一時半ですね。必ず伺いマス!」 そう言うと、グランドピアノのあるステージ上から軽やかに飛び降り、彼の前に立った。 「じゃあ、山口先生、また明日!先生の診察の予約は、確か…午前9時でしたよね?」 「ええ。明日も忘れずに、ちゃんといらして下さいね。」 「ハイ!」 のだめはそう言うと、水色のワンピースの裾を翻し、やや小走りに歩いて行った。 途中一度、入り口の自動ドアの所で振り向くと、山口に小さく手を振り、また軽やかに歩き去った。 ********** 午前中に行うはずだったオレのゲネプロは、松田さんのスケジュールの都合で午後に変更になった。 松田さんはどうしても午後、外せない仕事が入ってしまったらしい。 オレはゲネプロ前までに、少し頭を冷やしたかったので、それはかえって好都合だった。 本来なら人のゲネプロは聴かない主義だったけど……。 オレはホールの後ろの方の座席に座って、松田さんのゲネプロをぼんやりと見学していた。 ―――今朝のオレは最低最悪だった。 ―――オレはのだめに酷い事をした。 昨日のR☆Sオケのリハーサル。 その前の日の失態を繰り返さないように、オレは努めて自分をコントロールし過ぎた結果かえって無口になり、 オケのみんなを震え上がらせてしまった。 一部では鬼・千秋、って呼ばれていた位だから、オレの様子はおそろしく不気味だったんだろう……。 それでも何とか曲想はまとまった。 が、はっきり言って何とか聴ける程度になったという位で、オレの音楽はそこには全くない。 もがけばもがくほど、オレの求めてる音が…想いが…指の間から砂の様に虚しく零れ落ちていくのを感じていた。 ……そこには絶望的な無力感しかなかった。 夜、約束していた食事会の席で…… 佐久間さんも大川先生も、オレの様子が少しおかしいのに気づいて、凄く心配してくれていた。 大丈夫ではないのに、『大丈夫です』と答える自分が自分でないようで…情けなくて腹立たしかった。 ―――こんな時……。 ―――あいつがオレだけに奏でてくれる…あのハチャメチャなピアノでも聴けたら…それだけで……。 佐久間さん達と別れ、三善の家へ帰るタクシーの中で、オレは虚ろな顔をしてそんな事を考えていた。 何時だってあいつは、オレが進むべき道を見失いそうになる度、軌道修正してくれていた。 Sオケの時も……指揮者コンクールの時も……。 『んもう!先輩!またカズオ!!』 『先輩はー粘着の完全主義だからー!』 あいつはそう言ってオレを甘やかすわけでもなく、さりげなく導いていてくれていたんだな……。 今更になって気がついた。 傍に居てくれただけで、オレはそう…こんなに救われていたのだと……。 ……気がつくと、オレは携帯のメール画面を見ていた。 あの事故があった以来、それはなかば癖になっていた。 それはもう無意識に……いつも同じ画面だった。 それは記憶を失う前ののだめが、最後にオレにくれた、あのメールの文面だった。 ―――このメールをくれた時には確かに、“オレののだめ”はちゃんとそこに居た。 深夜、無言で行きかう…無機質な車のランプしか見えない、高速のタクシーの中だからだろうか……。 それとも、食欲が無く、その代わりに飲み過ぎたワインのせいだろうか……。 あの時のオレは、確かに感情が高ぶっていた。 “先輩、早く会いたいです。” のだめからのメールの最後にあったこの一文に、何故だかその時のオレは、激しく心を揺さぶられていた。 ―――オレだって……会いたい……! ―――会って…抱きしめて…お前の存在をこの腕にちゃんと感じたい……!! 『千秋先輩は、甘えん坊さんですネ。』 ―――そう言って何時もの様に……オレをからかって欲しい……。 気がつくとオレは、あのメールに返信を打っていた。 “オレも早く会いたい。”と……。 ……我に返ったのは、送信ボタンを押してしまった後だった。 自分がしでかしてしまった事の重大さに、オレは血の気が引き、青ざめた。 もし…このメールを“今ののだめ”が読んでしまったら……? オレはひどい罪悪感に苛まされた。 車中でそんな事があったオレに更に追い撃ちをかけたのは、のだめからのあの書置きだった。 “話たい事がある” あの手紙を読んだ瞬間、オレは崖から突き落とされたような、深い絶望を感じた。 のだめが事故で記憶を失ってから、ずっと考えていた事……。 いや、考える事を今まで拒絶していた事、と言った方が正解かもしれない。 しかしのだめのあの書置きがその瞬間、その事を一筋の光のように照らし、オレの目前に晒したのだった。 『のだめ、パリに戻らないで、大川に帰りマス。』 オレはそう言われる事を、ついに覚悟しなくてはならなかった。 三善の家に帰り着いたのは深夜一時半過ぎで、家中ひっそりと寝静まっていた。 “もし寝てても、起こしてください。” その一文が、心臓を抉り取られるような痛みを伴って、オレに早く覚悟をしろと詰め寄っているようだった。 本当は向かいたくない客間だったけど…… オレは疲労感と心の重さををずるずると引き摺りながら、結局のだめの部屋へ行った。 ノックなしでそっとのだめの部屋の扉を開けると、ベッドサイドの小さな明かりだけが灯っていた。 オレは足音を立てないように、そっとベッド際まで近づく。 ベットの中を覗き込むと…… ぼんやりとした薄暗い明かりの中、由衣子とのだめが向かい合わせで寝ているのに気がついた。 由衣子は、枕を抱き枕のように抱えこみ、可愛らしい様子でぐっすりと眠っている。 一方のだめは……由衣子の体にそっと手を添えて、包み込むような仕草で寝入っていた。 まるで母親が、赤子をあやしながら一緒に寝入ってしまった時のような……。 のだめの長い睫に縁取られた目元はほんのりと薔薇色に染まり、唇は少しだけ緩く開いていた。 それはオレも何度か見たことのある、懐かしいのだめの寝顔だった。 パリに居た頃は、息がかかる位近くで…そう…オレのベッドの中で…… 何度もコイツのこんな表情をオレは見ていたのに……。 ―――お前はすぐ近くに居るのに、どうしてこんなに遠い……? ……オレは寝ているのだめの頬に触れようと、そっ…と右手を伸ばした。 しかしどうしてもそれをする事が躊躇われ、結局右手は虚しく空を切った。 行き場を失ったその手を……オレはそのままだらりと降ろすと、 鬱屈した気持ちを押さえ込むように、その手が痛みに悲鳴を上げるまできつく握りしめていた。 そうして……オレはやるせない気持ちまま、のだめの部屋を後にした。 疲労感はあるのに気が高ぶってほとんど一睡もできず、オレは明け方まで机に突っ伏して悶々と過ごした。 それでも、今朝……やっぱりのだめに会ってからゲネプロに行こうと思いなおして……。 オレはリビングで、あいつが起きて来るのを待っていた。 ―――けれど。 のだめの顔を見た瞬間、オレの中で何かどす黒いものが蠢いてくるのを、もはや止める事は出来なかった。 ……オレは本当に、卑怯で卑劣な男だった。 オレは態と冷酷な態度を取って、何かを言おうとしていたあいつの言葉を封じた。 聞きたくない言葉を、最初からあいつに言わせない様に仕向けたのだ。 案の定、オレの態度にのだめは戸惑いを隠せず、口ごもってしまっていた。 だからあいつの口から話したい事がプリごろ太の事だと言われた時は、見境も無くついカッとしてしまって……。 ―――オレがこんなにお前の事で苦悩しているのに、プリごろ太かよ? ……そうなじりたい気持ちを抑えるので、あの時のオレは精一杯だった。 でも、人間として未熟なオレは結局それを隠し切れず……のだめを冷たく切り捨てる様な言動を取ってしまった。 今思えば…もしかしてプリごろ太の話は嘘で…本当の“話したい事”は別にあったのかもしれない。 あいつは最後、怯えた瞳でオレを哀しげに見ていた。あんな表情…決してさせてはいけなかったのに……。 その後自室に戻って、オレは猛烈に後悔した。 後悔するなら始めからしなければいいのに……本当に愚かで浅はかだった。 だからオレはすぐにダイニングルームにとってかえし、のだめに謝罪したが…… 正直、何をどうちゃんと謝ったか憶えていない。 のだめはオレに対して…虚しくなる位他人行儀な様子で…何を言っても『ハイ。』としか言ってくれなかった。 記憶を失ってから始めて病院で再会したあの時みたいに……のだめは身を固く強張らせ、その笑顔は引き攣っていた。 それを目の当たりにしてオレは更に動揺してしまって……ついあの“携帯の事”を口走ってしまった。 ……幸運な事に、のだめはどうやら携帯の事にはまだ気がついていない様だったけれど……。 その携帯の話に不思議そうに目を丸くして、オレを見上げるあいつの表情を見た時…… ふと、右頬の擦り傷が目に留まった。 オレはもう本当に無意識に……のだめの髪を掻き上げ、頬を触ってしまっていた。 その前の晩、寝ているのだめにさえ出来なかった事なのに……。 もちろん突然こんな事をしても、益々あいつを動揺させるだけだと十分わかってはいたが……。 でもそんな事を考えるよりも早く、オレの体が動いてしまっていた。 久しぶりに触れたあいつの頬は…ふわふわ柔らかくて…暖かかった。 ……泣きたくなる位、懐かしい感触だった。 触れた指先から、オレの気持ちがあいつに伝わってしまいそうで…… どうやってこの手を引っ込めたらいいのかと思案し始めたその時、オレはのだめの顔が劇的に真っ赤に変化するのを見た。 それは戸惑いや困惑、動揺…そういったものをすべて紅色にして頬にのせたような…そんな表情だった。 だからオレが手を話した瞬間、のだめはもう耐え切れないといった様子で、すぐに顔を伏せてしまって……。 昔は同じように顔を真っ赤にしても…… あいつは恥ずかしがりながら陶然と……オレを見詰めかえしてくれていたのに……。 そう……あいつの柔らかな眼差しは、何時でもオレを温かく包み込んでくれていて……。 それはオレに……ただ一筋に愛を伝えてくれていた。 オレを見つめるあいつの大きなあの瞳は、オレを好きだと…愛しているのだと…いつでも告げていてくれた……。 ―――胸がヒリヒリと痛んだ……。 俯いたまま、ひどく居心地悪そうに目も合わせてくれないあいつの頑なな様子を見て、 オレは暗澹たる思いで、ただその場を立ち去る事しかできなかった。 あの日以来感じている……この“喪失感”。 オレはこの苦しい感情と、一体いつまで向き合っていかなければならないのだろうか……? 「千秋君。すまなかったね。」 後ろから急に声を掛けられて、オレは身体をビクンとさせた。 気がつくとステージ上ではオケのメンバーが楽器を手にして椅子から立ち上がり、 あちこちで談笑しながら舞台袖の方へ引っ込んでいる所だった。 「ここで僕のゲネプロ見てたとは知らなかったなぁ。君、そういう事をするようなタイプじゃないと思ってたから。」 「あ……。松田さん。お疲れ様でした。」 オレは慌ててホールの座席から立ち上がり、松田さんに一礼した。 どうやらオレがのだめの事で苦悶している間に、松田さんのゲネプロが終了していたようだ。 「ふーん……。じゃあ僕も午後、ぎりぎりまで君のゲネ、見せて貰っても…かまわないよね?」 松田さんはニヤリと右の口角を上げ笑うと、オレに突き刺す様な鋭い視線を寄越し、腕を組んだ。 「千秋君、今回は随分と自信があるみたいだし?……じゃあ、また。」 「……え?」 松田さんはそう言うと、『お昼ご飯〜♪』と鼻歌を歌いながら去っていった。 オレは松田さんの言ってる意味が分からなくて、しばらくそのまま茫然と立ち尽くしていた。 「おーーい千秋ぃーー!!昼メシ食いに行こうぜぇーー!」 振り向くとステージ上で、峰がヴァイオリンを上に掲げながらオレに叫んでいた。 その周りには真澄や黒木君もいて、鈴木姉妹は手を振っていた。 「ああ……!」 オレは大きな声でそう返答すると、皆が待っているステージの方へ向かった。 ********** 「ああもうっ、そんなに泣いちゃって……。のだめ、今すごい顔になってるよ?」 横でびーーむ!と、鼻をかんでいるのだめに、マキは水で濡らしたハンカチを絞って渡すと、 のだめは『ありがとーデス。』と言いながら、素直に瞼の上に乗せた。 「のだめ〜。わたしはあの映画のどこに、そんな泣かせポイントがあったかそっちが知りたいよ……。」 レイナは、のだめの後ろで手を拭きながら、呆れた様に苦笑していた。 「レイナちゃん!どうして分からないんですカ〜!最後、ごろ太とカズオの……」 「はいはい……。分かった分かった二人とも。トイレ混んでるんだから、もう行くよ?」 口を尖らせて抗議するのだめを宥めながら、マキ達はトイレを出た。 映画が終わった後の女子トイレは、物凄く混んでいた。 今日の映画は内容から考えて当然だが、圧倒的に若いママとその子供達が多く、 年頃の女性だけのグループは、マキ達だけだった。 しかもそのうちの一人ののだめが、周りが引く程号泣していた為、 トイレにいたマキ達以外の誰もが、奇異な視線で3人をじろじろ見ていたのだ。 ……それがマキには、ものすごく恥ずかしかった。 「っぷ!のだめ、今すっげーブサイクだよ……?」 のだめの頬っぺたをぐにゅ!っと押しながら、レイナはクスクスと笑いを堪えている。 マキもレイナに同調して、のだめをからかった。 「あはは〜!確かにブッサイク〜!! ってゆーか、待ち合わせに来た時から、のだめの顔、ちょっとむくんでたじゃん? ……ったく、映画が楽しみで眠れなかったなんて、 小学生が遠足の前の晩に興奮して眠れないと同じだよ……。あんた、小学生……?」 「ヒドイですーー!!二人とも!!のだめは小学生じゃありません!23歳の立派な大人の女性デス!!」 「あー立派な大人の女性が、プリごろ太で号泣とはねーー。」 「ムキーーーーー!!」 「まぁまぁ。二人とも……。マキちゃんこれからどうするの?夕ご飯まではちょっと時間あるけど。」 さっきと変わり、今度はレイナがマキとのだめの仲裁に入る。 「それなんだけど。夕飯前にちょっと寄りたい所があるんだ♪二人とも付き合ってくれる?」 「もちろんいいけど……。どこ?」 「ふふん。着いてからのお・楽・し・み。」 「ふぉぉぉぉ〜!着いてからのお・楽・し・み……。」 レイナものだめも、不思議そうにお互いの顔を見合わせていた。 マキはいたずらが成功した時のような笑みをコッソリ浮かべると、二人の先に立って、駅の方向へ歩き出していた。 電車で20分程揺られていると、マキが目指している目的地のある駅に着いた。 ―――ふふっ。わたし達が今どこに向かっているか……二人ともまだ気がついていないっ♪ マキは心の中で、自分の作戦が上手くいっている事を喜んだ。 3人連れ立って改札を抜け、バスのターミナルがある方向とは逆に出ると、 一面ガラス張りで整備された、新しい歩行者通路が一直線に伸びていた。 「あー!歩く歩道ーーー!!」 のだめは嬉しそうに軽やかに飛び乗ると、まるで子供のように手すりに寄りかかった。 「マキちゃん、もしかしてこれから行くのって……。あそこ?」 レイナが前方奥のほうに見える建造物を指差しながら言った。 「え??何っ?何があるんですか?」 のだめも慌てて、指差された方向に視線を合わせている。 そこには昨年7月に竣工されたばかりの、 真新しい現代的なデザインが施されたコンサートホールが、夏の日差しの中ぼんやりと浮かび上がっていた。 「……コンサートホール……。」 のだめは半ば放心したように呟いた。 「もしかして…マキちゃん。ここって……。」 レイナはようやくすべてに合点がいったのか、興奮に頬を軽く紅潮させている。 「えへへ。そうだよー。驚いた?R☆Sオケ、今日ゲネプロやってるんだって。 峰さんから特別に許可貰って、見に来ていいよ、って言われてたんだー。」 「ええーー!本当??わたし達、R☆Sオケのゲネプロ見学してもいいの?やったーー!!」 マキちゃん、さすが!と言いながら、レイナはマキに抱きつく。そして嬉しそうに笑った。 「……ゲネプロ。」 のだめは相変わらずどこか遠くを見ている様な表情で、ぼんやりとしている。 少し変に思ったマキは、のだめの顔を覗き込んだ。 「のだめ?どうした?ゲネプロ、見たくないの?」 「いえ!すっごく見たいデス!見たいんですケド……。萌ちゃんと薫ちゃんも見に来てね、って言ってたし……。」 「……何か問題でもあるの?」 「だってっ!……のだめ、今すっごいブサイクだって、さっき二人してあんなに言ったじゃないですか〜……。 だから…のだめ…あんまり今の顔・・・人に見られたくないデス・・・。」 「おーー!のだめが女の子してるーー!!」 レイナが驚いたように目を丸くさせた。 「ぷぎーーーー!!のだめだって、23歳のお年頃な……。」 「ハイハイ、大人の女性ね〜。それはもう分かったから。 ……要するに、その顔を千秋さまに見られたくないのよね?んー?」 そう言ってからかうと、のだめはこちらが吃驚する程顔を真っ赤にさせた。 何か抗議したいようだがうまく言葉が出ない様で、口をパクパクさせている。 「大丈夫、大丈夫。ゲネプロが終わる頃には、そのブサイクも大体直ってるって。」 少しも慰めにもならない事を、レイナはのだめの肩をポンポン叩きながら言った。 「……二人して、のだめのコト、馬鹿にして……。」 拗ねたようにのだめは、低い声でぶつぶつといつまでも文句を言っていた。 コンサートホールのエントランスに入ると、“大ホールは只今ゲネプロ使用中”と掲示してある。 しかしロビーの向こう側で、楽器を手にしたオケのメンバーと思われる人達が、 ドリンクを飲みながら談笑しているのに、マキ達はすぐに気がついた。 「あれーー?もう、ゲネプロ終わっちゃったのかなぁ……。」 レイナは残念に思う気持ちを隠しきれずに、横にいるマキに尋ねた。 「ええ〜!?まだそんな時間じゃないと思うけど……。おかしいなぁー。 ちょっと事務局に行って聞いてくるよ! あ、それから峰さんに、三人分のスタッフパス、貰ってくるからぁーーー!」 そう言うとマキは、舞台袖につながる通路に向かって、猛スピードで走って行ってしまった。 「……相変わらず、マキちゃんは元気だなぁー!ね、のだめ?」 そういって同意を求めるように、レイナはのだめに振り返った。 ……のだめはそれには答えず、レイナの背中に隠れるようにしがみつきながら、極限まで顔を伏せている。 そのくせ、どこか挙動不審な様子で、じろじろと辺りを窺っていた……。 どうやらここに居るであろう知り合いに、よっぽど顔を見られたくないらしい。 「ごめんごめん、さっきは言いすぎた。そんなにヒドイ顔じゃないから、のだめ心配しなくても大丈夫だよー!」 レイナがそう謝ると、のだめは低い声でぼそぼそと呟いた。 「そんなに…じゃなくても…ヒドイ顔…には変わりないじゃないですかぁ〜……。」 「んもー!何よー!のだめのくせに乙女心出してー!」 「レイナちゃん……ひとまず人のいない方へ行きましょうヨ〜……。」 「だってここを動いたら、マキちゃんとはぐれちゃうかもしれないじゃん!!」 「それならあそこ!あそこのテラスなんかどですか?ねっ?あそこのテラスに行ってましょうヨ〜! あそこなら同じフロアだし、マキちゃんもすぐ見つけられマスって!ね?」 「ええええー?」 「ね?そうしまショ!そうしまショ!ささ、早く早く〜!」 のだめが余りにしつこく粘るので、レイナは渋々のだめに従う事にした。 「レイナちゃん、ほらっ!もっとシャキシャキ歩くー!」 のだめはレイナの背中を信じられない位強い力でぐいぐいと押して、テラスの方へ押し出していた。 のだめにせかされ、二人は一面ガラス張りの、サンルームのようなテラスに向かう。 コンサートホールはほぼ全面禁煙なのか、移動途中にあったテラスの案内版の下には、 “R☆Sオケ関係各位喫煙はこちらでお願いします”と手書きの紙が張り添えてあった。 さっきのエントランスからは、手前の柱が邪魔して分からなかったが、 サンルーム内の、ちょうどその柱の裏側の傍に、どうやら先客がいるようだ。 ……人影は二人。 一人は黒いスーツを着た、すらりとした長身の男性。 もう一人は遠目から見てもスタイルの良い、ノースリーブのサファリワンピを着た若い女性だ。 二人はリラックスしたムードでタバコを燻らせながら、親しげに談笑していた。 「あ……。」 レイナはのだめより先に、その二人が誰だか気が付き、無意識に足を止めてしまった。 すると、のだめは不満げ顔をちょっと上げ、 「もー!レイナちゃん、何で急に止まるんですかー!さっさとテラスに行きま」 そう文句を言ってる途中で、レイナに少し遅れてテラス内にいた先客の姿に視線が釘付けになる。 ……のだめは、言いかけた言葉をそのまま飲み込み、口を噤んでしまった。 「……。」 「あれ……。千秋さまと…確か、多賀谷彩子……。」 「たがや…さいこ…サン?」 たどたどしい口調で、のだめはレイナに尋ねた。 「ああ、うん……。千秋さまの音高時代からの同級生で……。声楽科にいた……。」 レイナがその続きを言うのを躊躇っていると、のだめは食い入るような真剣な瞳で、次の言葉を待っている。 「その……。高校時代から二人は付き合っていたらしいけど……。」 「……つまり元カノ…ですカ?」 「うん…まぁ……。でもっ!大学に入って別れたらしいから……。」 「そですか……。たがや…さいこサン……。しゅごいキレイな人ですねぇ〜……。 千秋先輩…何であんなキレイな人と、別れちゃったんですかねぇ〜……?」 「そんな事……当人同士にしか分からない事でしょー? もうっ!今カノはのだめなんだから、しっかりしなさいよー!わかった?」 レイナは少し居心地悪いこの場の空気を変えたくて、ワザとはっぱをかけるようにのだめに言った。 「ほわー。先輩、すっごく楽しそーデス……。 ……千秋先輩があんなに大口開けて笑うの、のだめはじめて見ました〜……。」 のだめはどこか虚ろな表情で、ふふふっと笑った。 「そっかぁ〜……。のだめは先輩に…無理…させてばっかりだったんですねぇ〜……。」 それはいつも通りの、のだめらしいのんびりとした口調だったものの、 その刹那、レイナは妙な違和感を背後に感じた。 ―――え……? ―――わたしの背中でしがみつく様に服を握り締めてるのだめの手が…微かだけど…震えてる? 「ちょ、ちょっと……のだめ?」 レイナは慌ててのだめに向き直ると、俯いているのだめの顔を覗き込んだ。 のだめの顔は、心持ち青ざめているようだった。 「どうしたの?二人の事、気にしてるの?んもぉーバカのだめ!のだめが全然心配するような事じゃないでしょー?」 レイナはのだめの両手を握り締めた。のだめの両手は季節が夏だとは思えない程、氷の様に冷え切っていた。 「ほーら!そんな顔しないの!もぉーブサイクなのが余計ブサイクに……。」 レイナの声を遮るように、のだめはすっ…と顔を上げた。 それは今までに見た事の無いような、冷静なのだめの表情で……レイナは少しうろたえてしまった。 のだめは感情をどこかに置き忘れたような……無表情なその顔のまま言った。 「のだめ…朝から動きすぎてチョト疲れました……。 それにやらなければいけない事があったのを…今思い出しましたヨ……。 ごめんなさい、レイナちゃん。のだめ、もう帰りますね?」 そう言ながらようやく微かに笑うと、レイナの手をやんわりと振り解いた。 「一緒に夕ご飯…食べたかったんデスけど…マキちゃんにも謝っておいて下さいネ。 今日は本当に楽しかったデス!っじゃ!!」 そう言うとのだめは、エントランスの方へ向かって脱兎の如く駆け出した。 「え?え?ちょっと、待ってー!!のだめぇーー!?」 走り出したのだめの腕を咄嗟に掴もうとしたが、 ワンテンポ遅れたレイナの右手は宙を泳ぎ、逃げ足の速いのだめを捉える事が出来ない。 取り残されたレイナは、のだめの後姿がコンサートホールの入り口からあっという間に消えるのを あっけにとられながら、ただ見ているだけしか出来なかった。 「あーー!レイナー!ここに居たーー!!」 マキがさっき走っていった方向とは逆から、手を振りながらこちらに全速力で走ってくる。 そのちょっと後ろには峰もいて、同じ様に小走りでこちらに向かって来ていた。 「はぁっっ……!はぁっっ……!もうー!さっきの所に戻ったら、のだめもレイナもいないんだもんっ!! 二人を探してホール一周しちゃったよ〜!ふぅーー!いい運動したーー!」 マキは息を整えながら額の汗を拭うと、レイナにパスを差し出した。 「はい!レイナの分!これがあれば大ホール内に入っても大丈夫だって。」 「あ…ありがとー。ごめんねマキちゃん、走らせちゃって……。」 レイナは首からぶら下げるタイプのパスを、マキから受け取った。 「さっきから、大ホール内の空調の調子がちょっとおかしくて……それでいったんゲネプロ止めてンだ。 今、緊急メンテナンスしているらしい……。んで、仕方ないから休憩中〜。」 少し遅れてマキ達に合流した峰は、肩を竦めながら苦笑いした。 「よう!いらっしゃい!久しぶりだなー?今日はじっくり見学していってくれ!」 「はい。ありがとうございます、峰さん。」 レイナが峰にお礼を言ってるそばで、マキはきょときょと左右を見回している。 「あれ?のだめは?トイレ……?」 ようやく、マキはのだめがここにいないのに気が付いたようだ。 「それが……。」 ……レイナはさっきの顛末を、二人に簡単に説明した。 「えー!?じゃあーのだめ帰っちゃったの!?っな……!!」 レイナの話を聞いたマキは、絶句して言葉が続かない。 「確かにあそこにいるの…千秋と多賀谷だなー……。でもたいした事じゃないんだぜ? うちの今回の公演のスポンサーの一つが、多賀谷楽器なんだ。 スポンサーとマスコミ関係にはゲネプロ公開することになってて。ほら、多賀谷って多賀谷楽器のお嬢様だろ? だからただ単に、ついでに千秋に、公演前の挨拶に寄ったっちゅーだけで……。」 「そうなんですか……。」 レイナが峰の言葉に納得していると、峰は急に真面目な顔をして尋ねた。 「なぁ、のだめ…そんなに気にしてた?あいつらの事……。」 レイナは、のだめが自分の背中に隠れながらも二人から目を離せず…… それでいて指先が白くなる程自分の服を握り締めていて…… ……そしてその手が小刻みに震えていた事を、峰に伝えた。 「ふーーん。そっかぁ……。」 レイナの話を聞いた峰は思わせぶりに右の眉を上げ、何故だか嬉しそうに、にーと笑った。 「え?え?何で峰さん、嬉しそうなんですか?」 面食らってるレイナに、峰はバチン☆とウィンクした。 「だって、つまりそれっていい傾向、ってコトだろー?そっかー!のだめ、気にしてたのかーー!」 峰は腕を組みながら、うんうんと頭を上下に振って、一人で悦に入っている。 レイナ達は峰が言っている意味が今一よく分からなくて、二人して顔を見合わせて首を捻った。 「まぁまぁ!のだめには後でオレから、電話でも入れておくからさっ!」 峰はレイナ達の背中を順にバンバンッ!と叩くと、豪快に笑った。 「あいつはいないけど…二人とも予定通り、今夜はうちで夕メシ食っていってくれっ! 親父、朝から張り切って用意してたから。」 「あ、ありがとうございます。お言葉に甘えて、お邪魔させていただきますね、峰さん。」 マキが峰へお礼を言ってぺこりと頭を下げたので、レイナも慌ててそれに倣った。 「……あ、それからこの事。……千秋にはナイショ、な?頼むぜ?二人とも……。」 思わせぶりに小さな声で、二人のの目を交互に覗き込む様にして峰は頼んだ。 「ええと……。はい。」 「はい。分かりました。」 マキ達は素直に頷いた。 「……よし!サンキュ!二人とも!」 「おーーーい!峰ーー!ゲネ再開だってーーー!」 その時ロビーにいたオケメンバーの一人から、峰に声がかかった。 「おーーー!今行くーー!!」 峰は大声でそう返事すると、二人に振り向いた。 「じゃ!オレ行くわ!二人ともR☆Sのゲネプロ、楽しんで行ってくれよな。」 峰はマキ達にお茶目な感じで敬礼!のポーズをとると、大きなコンパスでホール内へ走り去った。 ********** 予備校に行く前の俊彦が軽めの夕食を済ませていると、玄関の方から『ただいまーーデス!』という声が聞こえてきた。 ―――あの声は……のだめさん? ―――今日は確か夕飯は友達と、外で食べてくるって言ってなかったっけ……? 俊彦は疑問に思って食堂から出ると、同じような事を思ったのか、ちょうどリビングから出てくる由衣子と目が合った。 「あ、俊兄。今の、のだめちゃんの声だったよね?」 「……うん。」 俊彦と由衣子は一緒に玄関に向かうと、 ちょうど大きな袋を2つ抱えたのだめが、ヨタヨタと玄関の扉を閉めていた所だった。 「のだめちゃん、お帰りなさーい。」 「……お帰りなさい。」 二人がそう声を掛けると、のだめはふぃーっと息を吐きながら、『俊くん、由衣子ちゃん、ただいまデス!』と笑った。 「のだめちゃん、今日はお友達と夕ご飯食べてくるんじゃなかったの?てっきり今日は遅くなるんだと思ってた……。」 由衣子がそう尋ねると、のだめは少し疲れた表情を見せた。 「そだったんですケド……。今日は朝から動いたせいか、少し体がバテちゃったみたいで……。 先生から『余り無理しないように』って言われてたし、二人には謝って、のだめだけ先に帰って来ちゃいましタ。」 「え?バテちゃったって……。のだめちゃん、体の方は大丈夫なの?」 由衣子は心配そうに、のだめの顔を見上げた。 「大丈夫ですヨ〜!ちょっと大事をとっただけですから。それにのだめ、やらなきゃいけないコトもあったし……。」 「やらなきゃいけないコト?」 「……その袋が関係あるの?」 のだめの持っている大きな袋を顎で示しながら俊彦がそう指摘すると、彼女は照れた様にはにかんだ。 「えへへ。さすが俊彦くん、鋭いですネー。実はのだめ、ピアノとお話しようと思って〜。」 「ピアノとお話??」 「……それってどういう意味?」 のだめの言っている意味がよく分からなくて、二人は聞き返した。 「え?言葉どおりですヨ?“ピアノとお話”デス!おしゃべりなのだめと違って、ピアノは少しケチで無口なんですヨ〜。」 あはは〜と暢気に笑いながら、のだめは相変わらず意味不明な事を言っていた。 「イマイチよく分からないんだけど…まぁそれはこの際置いておいて……。 それで、その“お話”する為に何を買ってきたの?」 俊彦はそれが理解できる回答でなかった事に少し苛立ち、不満げな声色で尋ねた。 「えと、楽譜とか音源とか? ……楽譜は…へへへ…今ののだめは…まだちょ〜っと苦手なんで、ひとまず沢山CDを買ってみましタ。」 二人によく中身が見えるように、のだめは持っていた袋を大きく開いて見せた。 「わー!のだめちゃん、ずいぶん沢山買ったねー!」 中を覗き込みながら、由衣子は感心したように呟く。 「そのせいで、のだめのお財布からは諭吉サンが一人もいなくなってしまいましタ……。 それどころか、もうプリごろ太の最新刊も買えません……。とても悲しい事デス……。」 のだめは後ろに陰を背負いながら、どこか空虚な目をして呟いた。 「……のだめさん。ちょっとボクと一緒に来てくれる?」 「……?いいデスけど……。何ですか?俊彦くん。」 「……来ればわかるから。」 俊彦はそれだけ言うと、まだ頭から疑問符を出しているのだめを、二階のある部屋の方へ先導した。 「……さぁ、どうぞ。」 俊彦は、千秋の部屋の斜め左前にある部屋の扉を開くと、のだめに先に入るように促した。 「ふぉぉぉぉ〜!!しゅごい〜!!ここってオーディオルームですか〜?」 のだめは奇声を上げながら、感嘆したようにオーディオルームをぐるっと見回している。 「……まぁ、たいていのレコードとか楽譜とかは、ここに揃ってるんだけど。」 のだめが持ってる袋を指差しながら、俊彦は冷静かつ簡潔にその事実を伝えた。 「別に買ってこなくても、それ、うちにも全部あったのに。」 「ぎゃぼ!?」 「……つまりのだめさん、諭吉さん達とお別れしなくても良かったんじゃない?」 「ぎゃぼーーーー!!と、俊彦くん、何でのだめにこの部屋の事教えてくれなかったんですかーー!!ヒドイ!!」 のだめはショックのあまりか、持っていた袋をドサリと落とした。 「だって、てっきりもう知ってるものだと思ってたから……。」 「ムキーーーー!!知らなかったですヨ!こんな部屋があるのーー!!」 のだめは白目になりながら、猛烈に俊彦に抗議した。 「あれー?でも、昨日の夜…のだめちゃん、確か三善家☆探検!…してなかったっけ?」 「……は?……三善家☆探検?何ソレ。」 由衣子の発言に俊彦が不審げに眉を顰めるが、 それに構わず、のだめは聞き取れないぐらい低い声でぶつぶつと独り言を言っている。 「……これなら昨日…全部の部屋…開けておくんでしたヨ……。」 「え?」 「……こっちの話デス。」 のだめはまだ白目のまま、怨めしそうに俊彦から顔を逸らし、口を尖らせた。 「ごめん。でもボク本当に……のだめさんはもうこの部屋の事知ってると思ってたんだよ。」 「…も、いいデス……。」 のだめは落としてしまった袋を拾い上げながら、CDケースにヒビが入っていないか一つ一つ手にとって確認していた。 「買う前に真兄に相談すればよかったのに……。真兄からこの部屋の事、説明なかった?」 「あのさ俊兄……。その…最初の夜、由衣子とお父さんがちょっとからかったから、 真兄ちゃま……デザートの途中で居なくなっちゃったでしょ? それからもお仕事忙しくて、ほとんどおうちにも居なかったし……。 ごめんね、のだめちゃん。これってまた…由衣子のせいかも……。」 由衣子はしょげたように項垂れた。 「由衣子ちゃんや先輩の叔父さんのせいじゃないですヨ〜……。本当にもーいいんデス。」 のだめは最後にリストの楽譜を取り出すと、いとおしそうな眼差しでそれを撫でた。 「のだめがこうやって身銭を切って買ったんだから…… ピアノものだめをチョトかわいそーに思って、気を許してくれるかもしれませんネ……。 ……イヤ、もしかしたら更にその上、手心なんかを加えてくれるかも……?」 何を妄想しているのか、うぷぷぷ……とのだめは少し不気味に笑っている。 それを見た由衣子と俊彦は、困惑を隠せずにお互い顔を見合わせた。 「あ!夕ご飯食べたら、のだめ、ここのお部屋使ってもいいデスか?」 「別にかまわないと思うけど……。」 「じゃあ、お言葉に甘えて!ありがとうございマス!」 のだめはニコニコしながら、傍にあったテーブルの上にさっきのCDと楽譜を置いた。 「真兄、今日明日ゲネプロで、明後日はもう本番だから……。多分ここの部屋使わないと思うし。」 「きゃー!そっか、もう明後日なんだー。楽しみだね!ね、のだめちゃん♪」 由衣子が嬉しそうに同意を求めると、のだめはきょとんとした顔をした。 「明後日……?」 「え?まさかのだめちゃん…真兄ちゃまの公演がある事も…知らなかった!?」 「いえ……。それはモチロン知ってましたけど……。」 「あ、チケット?チケットの心配してるの?大丈夫!のだめちゃんの分もちゃーんと用意してあるから。」 「のだめの分も?」 「うん!一応土曜日と日曜日の全部の公演のチケット買ってあるから。 ホール近くのホテルも取ってあるし。ねー?俊兄。」 「ボクは土曜日の夜は予備校があるから、松田さんのBプログラムは聞きに行けないけど……。 ま、真兄が振るのは午後1時半からのAプログラムだからね。もちろんそっちは行くけど。」 「土曜日午後1時半……。」 のだめは小さな声で由衣子に告げた。 「……のだめ、ソレ、行けません。」 「ええー!?なんでっ!?どうしてっ?のだめちゃん!」 「のだめ…土曜日の午後、病院の子供達にピアノを弾いてあげる…ってお約束しちゃったんデス!」 「そんなの、別の日にしてもらえないの?だって、真兄ちゃまの指揮者コンクール優勝の凱旋公演なんだよっー?」 「最初に約束したのはこっちデスから。それに子供達も、すっごく楽しみにしてて……。 ……のだめの都合で子供達を悲しませるような事は、出来まセン。」 そうきっぱりと言い切るのだめの語調は有無を言わせない響きがあって……。 由衣子を見据える瞳には、その返答に対する一片の迷いも無かった。 「えぇーー…でもーー……。」 「……由衣子、しょうがないだろ?じゃあのだめさん、日曜の夜7時からのBプログラムの方は大丈夫?」 「ハイ。日曜は今の所、病院もありませんし、丸々一日、空いてマス!」 「んもぅ〜……。どっちも聴かなきゃ、この公演の意味ないのにぃ〜……。」 由衣子はまだ不満げな様子を見せた。 「日曜にゆっくりと一日楽しめるんだから、もういいじゃないか。 ほら、土曜、日曜連チャンだと…今ののだめさんの体の具合だと、少ししんどいかもしれないし。」 「……本当にごめんなさい、由衣子ちゃん。土曜日はダメだったけど、日曜日はのだめと一緒に行きましょうネ?」 のだめは拗ねてる由衣子の頭を撫でると、ようやく観念したのか由衣子は頬をゆるめた。 「うん、わかった……。のだめちゃん!日曜日、絶対だからね?」 「ハイ!絶対!」 「……と!ボク、もう予備校に行く時間だった!」 俊彦が慌てて腕時計を確認すると、時計の針はもうとっくに彼が予備校に向かっているはずの時刻を指していた。 「ヤバイ……。完璧遅刻だ……。」 「ゴ、ゴメンナサイ。のだめがなんか引き止めちゃったみたいで……。」 「俊兄〜!もう、今日はお休みしちゃったら?一日位、いいんじゃないー?」 「バカ!その一日の油断が、ライバルに更に引き離される原因になるんだ!」 俊彦は由衣子に怒った。 「俊兄、毎日あれだけ勉強してるんだから、少し位平気よぉ〜……。 むしろ俊兄の事をライバルだと思っている人達に、ちょっと油断を与えてあげる位の心の余裕さっていうかぁ〜……。」 「由衣子っ!!!」 「っきゃ!こわ〜い!!俊兄の怒りんぼーーー!!」 由衣子はのだめの後ろに隠れると、『いーーだっ!!』と言いながら舌を出した。 「ったく!でもま、確かに…由衣子の言う事にも一理あるな……。そっか…うん、余裕……。」 「……と、俊彦くん?ど、どーしたんですカ?」 考え込む俊彦を不審に思ったのか、のだめはおずおずと上目遣いをして様子を窺っている。 「よし!今日はこのまま休むか……。それに今夜は、真兄のテレビ出演もあるし! ま、今日欠席した授業は、来週の月曜に代替すればいいだけだし!」 さっき由衣子を叱り付けてしまった手前、俊彦は腕を組み、出来るだけ難しい顔をして言った。 「……あれだけ由衣子のコト怒ってたクセに…結局休むんじゃん……。」 「……何か言った?」 「別にぃ〜〜……!!」 「あの〜二人とも……ケンカ終わりましタ?」 俊彦と由衣子の間で少し困っていたのだめは、もじもじしながら口を挟んだ。 「のだめ、さっきの俊彦くんの発言でチョト気になる事があったんですけど……。」 「何?」 「今夜は、先輩のテレビ出演がどーとかこーとか……?」 「え、のだめさん聞いてなかった?今日の夜のニュース番組のゲストでさ、真兄出演するんだよ。松田さんと一緒に。」 「ええっ!?千秋先輩がっ!?テ、テ、テレビにっ!?」 のだめは興奮からか、やや上ずった声を上げた。 「うん。ほら10時からやってる有名なニュース番組あるでしょ? あの中で“現代のクラシックブームを探る”って特集が組まれて、R☆Sオケが取り上げられるんだってさ。」 「ふぉぉぉぉぉ〜!!!!」 「んもぉー!のだめちゃん!今夜の三善家は夜10時前には全員リビングで、テレビの前に集合よっ!!」 「……由衣子なんてさ。この日の為だけに、父さんにおねだりしてDVDレコーダー買って貰ってるんだよ。」 「さ…さすが由衣子ちゃん……。」 「あ〜〜〜!!真兄ちゃまのファン、ますます増えたらどーしよう?由衣子…それだけが心配。」 「……おまえがある意味一番怖いファンだよ……。」 「……俊兄、何か言った?」 「別にぃ〜〜……!!」 「っっぷ!……ぎゃははははははは!!!!!」 二人のコミカルな応酬を見ていたのだめは、爆発したように腹を抱えて笑い転げた。 「二人とも仲いいんデスね〜?夫婦漫才みたい!あ、違う。これは兄妹漫才デスね〜〜?」 「っは?」 「ぎゃはー!!兄妹漫才〜!!いいですよネ〜兄妹って…はうん……。」 「あのー、のだめさん?話がよく見えないんだけど?」 「あー!!そう思ったら、のだめもよっくんの事思い出しちゃいましタ!よっくん、元気かなぁ……。」 「……よっくん?だぁーれ?のだめちゃん。」 「のだめの弟デス!のだめに似て、とってもシッカリ者でお料理上手デス!」 「……のだめさんに、“似て”?……何かのギャグ?」 「そだ!!由衣子ちゃん!うちのよっくんのお嫁サンに来ませんカ〜?? ムキャ!!そしたらのだめにも、かわいい妹が出来マス!!しゅてき!ナイスアイデア!!」 「え〜それだとぉ〜…のだめちゃんが俊兄と結婚したって、由衣子はかわいい妹になれるよぉ〜?」 「ぎゃぼ!!」 「ぎゃぼ!!って何だよっ!?それはこっちの台詞!!!」 「……と、俊彦くん。のだめじゃご不満ですカ……?」 「……そうなったら、少なくとも真兄は不満だろうねっ!!ふんっ!!」 「ぎゃぼぉ〜……。」 「ふふふ。のだめちゃんの負け〜〜〜!!」 「……か、完敗デス。師匠…のだめ、1から漫才修行し直してきマス……。」 「だから、さっきから何だよ?漫才、漫才って!!」 「……あら、結局3人でコンビ組んだの?」 クスクスと忍び笑いをしている征子が、3人の後ろに立っていた。 「あ、征子ママ。お帰りなさーい!」 「……お帰りなさい。」 「お帰りなさい、デス!」 「ただいま。みんな、夕ご飯は食べちゃった?」 「ううん。由衣子とのだめちゃんはまだだよ。あ、俊兄は食事途中だったけどぉ〜?」 思わせぶりな視線で、由衣子は俊彦を見上げた。 「……ボク、今日は予備校、休みます。」 「あら、そう?私、今日お昼食べ逃しちゃってペコペコなのよ。みんなは?」 「由衣子もお腹すいたー!」 「のだめもー。先輩のお母さんと一緒に夕ご飯、食べたいデス。」 「じゃ、みんな、こんな所でトリオ漫才してないで、早くダイニングへ!ね?」 『はーーーーーい!!』 「っは?トリオ漫才!?」 「俊兄、お先〜〜!」 「早く来ないと、のだめが全部食べちゃいますヨ〜??」 俊彦に声を掛けつつオーディオルームから飛び出した二人は、競うように食堂へ走り出した。 「だからぁーー!!さっきからその、漫才って何だよぉーーー!!」 俊彦はまだ納得がいかないのか、走る去る二人の後姿に向かって叫んだ。 しかし二人があっという間に階下に消えたのを見てバカらしくなったのだろう。 ぶつぶつ何か独り言を言いながらも結局、オーディオルームを出て行く。 それを見た征子は、再び起こった笑いを俊彦に聞かれないように堪えながら、 彼の後を追って、ゆっくりと食堂へ歩を進めた。 ********** 「峰さん、峰さんのお父さん、今日は本当にご馳走様でした!」 「おー!また来いよーー!」 「公演、楽しみにしてますね!」 「まかせとけっ!!じゃーな!二人とも気をつけて帰れよ?」 『ハイ!』 峰は店の表に出て、マキとレイナを見送る。二人は手を振りながら裏軒を後にした。 峰は裏軒の暖簾を器用に外すと店の中に立て掛け、表に吊るしてあった営業中の札をひっくり返した。 「親父ぃー!今日はもう店仕舞いだ!」 「はいよっ!今日は何てったって、この後に先生のテレビ出演もあるしねー。」 峰が時計を見るとちょうど9時5分前。彼は携帯を手にした。 「マキちゃんからさっき聞いてたんだ。のだめの携帯のナンバー。あ、これこれ。」 峰はさっき彼女達が座っていたテーブルの上の、 調味料入れの側に置いてあった小さい紙切れを見つけると、携帯に入力し始めた。 「おお?龍、のだめちゃんに電話かいー??」 「うん。今日あいつ来なかったしなー。」 「のだめちゃんに、新作麻婆、食べに来てよ!って伝えておいて!」 「わかった。親父のあの力作なー!」 峰が携帯を耳に当てると、しばらくして規則正しい呼び出し音の音が聞こえ始めた。 トゥルルルルルル……トゥルルルルルル…… ―――……プチっ ―――……も、もしもし? 少し警戒したようなのだめの低い声が、峰の耳元に聞こえてきた。 「もしもし?のだめかー?オレ!峰だけど。」 ―――あ!峰くん。こんばんわー。のだめ、誰かと思いましたヨ。知らない電話番号だったから……。 「ごめんごめん。マキちゃんからのだめの携帯のナンバー聞いたんだ。」 ―――そでしたかー。 「おまえ、今日夕飯食いにうちに来なかっただろー?ゲネプロも見ないで帰っちゃうし。 ―――……ご、ごめんなサイ。 「どうしたんだよ。うちの親父、おまえに会うの楽しみにしてたんだぜ? おまえの好きな裏軒☆スペシャルの新作麻婆、用意して待ってたのによー。」 ―――……し、しんさくまーぼ? 「(のだめちゃーーーん!待ってるからいつでも食べに来てよーーー!) ……だってさ。ははは!聞こえた?」 ―――ハイ……。 「さっき、レイナちゃんがのだめが体調悪そうだった、って言ってたからちょっと心配になってさー。 そンで電話してみたんだ。大丈夫か?」 電話越しとはいえ、のだめはやはり少し元気がない様子で、峰は気になった。 ―――も、大丈夫デス。ちょっと朝から動いてバテちゃたっただけで……。今日は本当にごめんなサイ……。 「いいっていいってー。でも、のだめ、あんま無理すんなよー?病み上がりなんだからな?」 ―――ハイ、気をつけマス。 「おまえに何かあったら、うちのオケにとってもマイナスなんだからなー?」 ―――……へ?な、何でデスか? 「何でって。バカのだめー!うちの大事な明後日からの公演、千秋次第なんだからなー? おまえいつも言ってたじゃん。“夫婦はいつも一緒デス!”だろ?」 ―――…………。 「千秋をあンま心配させんなよー?ああ見えてあいつ、オレ様のクセして結構繊細なところあるから。」 ―――……き、気をつけマス……。 「……なぁー…のだめ。」 ―――……ハイ? 「……千秋にしておけよ。」 ―――え? 「千秋にしておけよ。」 ―――……あの? 「おまえ、相手はあの千秋真一だ。男のオレから見ても、最高の男だぜ?」 ―――……。 電話口ののだめは黙っていたが、峰はそれに構わず電話を続けた。 「千秋はおまえがあんなに学生時代追いかけて、ようやくおとした男だろーー? あいつ、才能はあるくせにストイックで妥協しなくて…それで時々完璧主義が過ぎて、トラブる事もあるけどさ……。 ……でも、あんなに真摯に音楽に取り組んでる男、そうはいないぜ?」 ―――…………。 「しかもオレ様のクセして、すっげー面倒見が良くて……。ホントはお人好しなんだよなぁー、あいつ……。 そうそう!オレ達留年しそうで、徹夜で一緒に千秋に勉強教えてもらった事あったっけ……。」 ―――……っ。 その時峰の耳元には、電話の向こうでのだめが息をのむ音が聞こえた。 「おい。のだめ、ちゃんと聞いてンのかー?」 ―――……聞いてますヨ。 「今のおまえ、すっげー得だぞ?昔と違って、千秋がおまえにベタ惚れの状態からはじめられるンだからな!!」 ―――……そんなこと、ナイ……。 「あ?何だよおまえ、千秋に不満でもあンのか……?」 ―――……峰くん。のだめ……先輩の側にいる資格、ないんデス。 「は?資格って、のだめ何言ってんだ?んなモン、男と女の間に要るわけないだろー?」 ―――……そうじゃなくて……。と、とにかく、のだめ、先輩の側にいちゃいけないんデス。 「の…のだめ?もしかして千秋と何かあったのか……?」 ―――(のだめちゃーーーん!先にお風呂入っちゃうよーーー?)ハーーーイ!今、行きマスーー! 峰くん、ごめんなサイ。のだめ、人を待たせてるんで!じゃっ! 「おいっ!?のだめ!?ちょっ……。」 ―――ぶちっ! ツー……ツー……ツー…… 「あいつ切りやがった……。」 峰はしばらく携帯を握り締めたまま、茫然としていた。 「龍……のだめちゃん、どうかしたのかい?」 テーブルの上に残っていた皿を片付けながら、峰の父親は言った。 「なんか…あいつ、変な事言ってた。“自分は千秋の側にいる資格がない”とか……。」 「うーん。のだめちゃん…やっぱり気にしてるのかねー……。」 「は?気にしてる?なんだそりゃー!親父ぃ!」 峰の父親は息子の言葉に困ったように首を振ると、食器類を流しに持っていき手際よく洗い始めた。 そして彼は、息子を諭すような落ち着いた声色で言った。 「……龍太郎。お前も先生とのだめちゃんのことを心配に思うなら、温かく見守ってやんな。 ……とにかく、周りがアレコレ言い過ぎないことさ。」 「わかってるけどよぉー……。やっぱり心配なんだよ。 オレ、自分が考えていた以上に、あいつらが二人で一緒にいるのが好きだったんだなぁ……って思うとさ。 もう、何とかしてやりたくて……!」 「でも龍から先生の事、あんな風に言われたら……のだめちゃん、困っちゃうんじゃないか? なんてったって、記憶を失って一番辛いのは…のだめちゃん自身なんだから……。」 「……あ。」 『もう一度最初からはじめたって、大事なのは二人の気持ちだろ……? なぁ、大丈夫だって!のだめ、お前のことすぐに好きになるから!だって、相手はあの千秋真一なんだぜ?』 『峰……この話は……もう止めよう。』 その時峰の脳裏に、昨日のタクシーの中で、千秋と交わした言葉が卒然浮かぶ。 『今のおまえ、すっげー得だぞ?昔と違って、千秋がおまえにベタ惚れの状態からはじめられるンだからな!!』 『……そんなこと、ナイ……。』 彼は、自分の一方的な考えや思いを、千秋とのだめの双方にぶつけてしまったのをようやく自覚した。 「……違うかい?」 「……うん、そうだな……。親父の言うとおりだ……。オレ、少し無神経すぎた……。」 無神経・・・と自分自身をそう思った瞬間、罪悪感が悪心のように峰の喉元にこみあげてくる。 それを抑えようとして彼は、自分のTシャツの胸元を乱暴に絞り取るように握り締めた。 ……ひどく落ち込んだ様子の息子を見て、彼の父親は優しく声を掛けた。 「さ……。もうそろそろ先生が出るテレビの時間だから。その前に風呂に入ってきな……。」 「……うん。」 峰は立ち上がると、店の奥の方へトボトボと歩いて行った。 彼の父親は心配そうに息子のしょげた後姿を、皿を拭きながら見守っていた。 ********** 千秋はオリバーを伴ってテレビ局の関係者通用口へ入ると、前方に自分の名前が掲示してあるのに気が付いた。 「オリバー。オレ達、こっちの控え室みたい。」 日本のテレビ局が物珍しいのか、キョロキョロしているオリバーに千秋は声を掛けると、彼の前に出て歩き出した。 「これじゃ、どっちがマネージャーかわからないじゃないか。」 「ゴメンゴメン!」 控え室は松田の名前も掲示してある。どうやら一緒のようだ。 千秋が軽くドアをノックすると、中から『どうぞ〜!』という男性の声が聞こえた。 「あ、松田さん。お疲れ様です。」 「やぁ!千秋君、遅かったね。もうすぐ本番だよ?早く着替えとかしないと。」 「すいません……。ちょっと今日、色々トラブルがあって……。」 「ああ、僕は途中で退席したから知らなかったけど、午後のゲネプロはとんだ事になったらしいね。 ホールの空調が壊れたんだって?」 「……そうなんです。結局直ったんですけど、時間がものすごく押してしまって……。」 「ふふふ。僕、午前中にしておいてよかったなぁ〜!」 「……そうですね。」 千秋は幾分ムッとして答えた。 その時、ドアから軽くノックの音が聞こえた。 二人同時にドアに振り向くと、松田がさっきと同じように『どうぞ〜!』と声を掛けた。 するとドアが静かに開き、手に金属製のメイクボックスを下げた、若い女性が中に入ってきて一礼した。 「失礼します。私が本日千秋さんを担当しますヘアメイクの者です。よろしくお願いします。」 「あ、よろしくお願いします。」 千秋が会釈すると、『では、髪の方からよろしいですか?』と言って彼女は千秋の髪のセットし始めた。 雑誌の撮影の時と同じように、人にこうやって髪をいじられ慣れしていない千秋は、 気恥ずかしいのか鏡の中の自分さえ見れず、伏目がちに俯いていた。 その時、隣で千秋が髪をセットされてるのをニヤニヤしながら見ていた松田が話しかけた。 「ねー可愛いお嬢さん。千秋君を僕より男前にしないでね?」 「え?」 ヘアメイクの女性の手元が止まった。 「ま、松田さんっ。何でもありませんから…あの、続けて下さい。」 千秋にそう言われ、彼女は小首を傾げながらも作業を再開した。 どのようにセットするかしばらく髪を弄んでいた彼女は、鏡の中の千秋の目を覗き込むと訊ねた。 「千秋さん、特にご希望等はございますか?」 「特になし!千秋君、そのままでも十分男前だから!適当でっ!!」 「……適当でいいです。」 松田の発言を受け、千秋はどうでもいいといった声色で答えた。 千秋はゲネプロ会場から、水一つ飲まないで急いで移動してきた事を思い出し、急に喉の渇きを覚える。 鏡越しに部屋を見回すと、入り口の脇に立っていたオリバーを見つけ、声を掛けた。 [オリバー……悪いけど、これで何か飲み物買ってきてくれないか?] [何がいい?ミネラルウォーター??] [……それでいい。] 控え室からオリバーが出て行くのを横目で確認すると、千秋ははぁーと溜め息をつく。 ふと、鏡を見ると、その中に映っていたヘアメイクの女性が目を丸くしていた。 「あの……?何か……?」 「千秋さん、ドイツ語しゃべれるんですね!」 「はぁ……。まぁ……。」 「ねー嫌味でしょ?さっきの大きなドイツ人の男性、千秋君のマネージャーさんだよ?」 「ええっ!?そうなんですか?」 「ええ……。まぁ……。」 結局、ヘアメイクが終わるまで松田にからかわれっぱなしだった為、 オリバーがミネラルウォーターを手に控え室に戻った頃には、千秋は相当疲れきった表情をして椅子に座り込んでいた。 ********** 「さて、今夜のニュース・サマリー・10の特集は、素敵なゲストをお二人、お招きしております。 うちの南なんて、始まる前からキャーキャー言ってましてねー。 え?早く紹介しろって?あっちゃん、今日は声が上ずってるよ?ははは。では、お呼び致しましょう〜!! 新進気鋭の若手ばかりのオーケストラ、ライジング☆スターオーケストラを指揮する二人の若きマエストロです。 松田幸久さん、千秋真一さんどうぞ!」 アンカーの日比野さんが席を立つと、奥のゲスト控えにいたオレ達は会釈しながら移動し、 メインテーブルの前の空いている、二つの椅子に揃って腰を掛けた。 「ようこそお越し下さいました。今夜はゲネプロの後という事で、お二人とも大変お疲れのようですが。 大丈夫でしょうか?」 もう一人の女性キャスター南さんが、オレ達に柔らかい微笑を口にたたえながら声を掛ける。 「ええ、大丈夫です。ご心配頂きましてありがとうございます。」 松田さんは得意のキラースマイルで彼女にそう答えると、南さんはオレから見ても分かる位、可愛らしくポッと頬を染めた。 ―――松田さん……。年上までも……。 オレは本番中だっていうのに、そんな事を考えていた。 「サラリーマン諸兄のアイドル、南亜希子をここまで骨抜きにするゲストは久々ですねー! えー、私のすぐ横にいらっしゃるのが、千秋真一さん。あっちゃんの横が松田幸久さんです。 どうも〜こんばんわ!はじめまして!」 「はじめまして!」 「こんばんわ……。はじめまして……。」 「今日はお忙しい中、NS10にお越しくださいまして、ありがとうございます。」 「いえこちらこそ、お招き頂きまして、本当にありがとうございます。」 「ありがとうございます……。」 「千秋さんは、ちょっと緊張されてるのかな?」 「……はい。その、テレビに出るのは初めてなので、とても緊張しています……。」 「その点、松田さんは堂々としていらっしゃいますねぇ〜!」 「いえ、本当は内心、緊張でドキドキなのですが…今日は千秋君と一緒ですからね。 少し無理をして、平静を装っているんです。一応、僕は先輩ですから。ははは。」 「そうなんですか?そうはとても見えませんよ?」 ―――絶対嘘だ……。 笑いあう日比野さんと松田さんを横目で見ながら、オレは思った。 この松田さんに、そんな殊勝な考えがあるはずがない。 「松田さんと千秋さんのプロフィール等も入った、本日の特集VTRがありますので、お二人ともご一緒にご覧下さい。」 南さんが松田さんにそう話しかけると、松田さんは南さんの瞳をじっと見つめて言った。 「こういうのって…何だか気恥ずかしいですね?」 「ふふふ。今お二人が明後日に控えている、R☆Sオケの公演のリハーサル風景もお楽しみ頂けますよ?」 「ええっ!?いつ、撮影を……?」 二人の話のある一部分に疑問を持ったオレは、ライブだというのについ言葉に出してしまった。 すると松田さんはオレの方を見て、思わせぶりに笑った。 「千秋君には言ってなかったんだけど、販売用DVD様にって回していたカメラ、あったでしょ。 アレ、実はここのスタッフさんだったんだ。」 「えっ!?アレ?!そ、そうだったんですか?」 「千秋君に言うと、怒られそうだったから。内緒にしててごめんねー。」 「ま、松田さんっ……!」 「なんか息のあったコンビというか、仲の良いお二人ですね?では、仲の良いお二人、VTRをどうぞ〜!」 絶妙のタイミングで日比野さんがVTR紹介を入れると、画面が切り替わり、特集が始まった。 「はぁー……。」 「何?いいじゃない。ちょっとドッキリみたいで楽しみでしょ?」 「……松田さん、もう隠し事ないですよね?」 「えーそれはどうかなぁ……?ほらほら、リハの風景だ!千秋君話してないで、Vちゃんと見ないと!」 「す、すいません。」 オレは机の上にある個人用モニターで、VTRを慌てて見ながら謝った。 画面ではリハの風景から、オレ達の紹介画面に切り替わっていた。 自分の事が紹介されているのにどこか他人事のような気がして、オレはぼんやりとVTRを見ていた。 だからオレはその時、松田さんがオレの事を目を細め、鋭い視線を送っていた事に、ちっとも気が付かなかった。 「どうでしたか?VTRの感想は?」 VTRが終わると、すぐ横の日比野さんが話しかけてきた。 「僕達や、R☆Sオーケストラの事をとてもよく取り上げて頂きまして、光栄に思っています。 けれど、若い人にクラシックブームが起きているというのは、僕達だけの功績ではありません。 多くの演奏者、その関係者、 そして何よりも、クラシックを楽しんでくださる聴衆の皆様あっての事だと思いますので……。」 「千秋さん、真面目な方なんですねー?」 「そうなんですよ。千秋君、師匠に似なかったんですよねーそこは。」 松田さんが、茶化すように口を挟んだ。 「あ、千秋さんの師匠は、マエストロ・シュトレーゼマンでしたね。どうですか?唯一の弟子から見た世界の巨匠は。」 「え……?シュトレーゼマンですか?音楽はとても尊敬できる人です。」 「……それ以外は尊敬できない?」 「いえ!そういう訳ではなくて……。」 オレはなんて答えたらいいのか戸惑っていた。あのジジイなら、この番組も後でチェックするに違いない。 変な事を言えば、執念深いあの性格から考えても、相当恨まれると思うし、 それで弱みを握られたりしたら大変だから、おいそれと迂闊な事は言えなかった。 「ははは。千秋君が困っているようなので、話を変えましょうか。 今週末のR☆Sオケの公演はお二人の競演が聴けるともあって、チケットが発売開始20分で売り切れたとか。 すごい人気ですねー。その事、どう思われましたか?」 「あ、そうなんですか?すみません、それは初めて聞きました。すごく…その、嬉しいです。 沢山の方々と音楽を通して、素敵な時間を共有できるように頑張りたいと思います。」 「松田さんは如何ですか?」 「ええ、そうですね。僕も大変嬉しく思っています。演者はやはり、聴衆あっての事ですから。 特に指揮者は、オケのメンバーと違って担当する楽器がありませんからね。 独り善がりにならないよう、その辺はいつも肝に銘じています。」 オレ達の返答に日比野さんは軽く頷きながら、さらに質問してくる。 「二日間通して、お二人は同じプログラムをそれぞれ振られる、という事ですが。 どうでしょう?やっぱり意識しますか?お互いの音楽性…など。」 日比野さんのその質問は、多分聞かれるだろうと予想していた事柄だったので、 オレはあらかじめ用意しておいた返答を、なるべくそれらしく述べた。 「もちろん意識してない、といったら嘘になりますが……。それが今回の公演の見所の一つであるわけですから……。 でもなるべく自然体で自分の音楽を楽しめたら、また皆さんにも楽しんで頂けたら…と思います。」 すると、松田さんがさっきまでとは明らかに違う声のトーンで話しだした。 「僕は千秋君と違ってですねー……。」 そこまで言うと、オレの方へねっとりとした視線を向ける。 「今回の公演は、若く、そして有能な千秋君が競演相手、という事でとても意識しています。 でも僕のそんな想いとは違って…千秋君は何か別の事に気を取られているというか…悩んでいるみたいで…… 今回の公演に対して、今ひとつ集中しきれていないようなんですよ。 ……まぁ、そんな青いところも、“千秋真一”の魅力の一つ、なんでしょうけどー?」 ―――……松田さん?一体何を……? ……オレは動揺した。 さっきまでの飄々とした松田さんの雰囲気と違って、それは明らかにオレを挑発している態度だったからだ。 怯んだオレの姿を見た松田さんは、睨み付ける様な鋭い視線のまま、それでいてどこか満足げにニヤリ、と笑った。 「ですから今回僕は、“千秋真一になめられているな”と、結構頭にきてましてねー。 それに僕は、後輩を育てるといった、偽善めいた優しさは、全く持ち合わせてない人間ですから。 彼が本気でぶつかってこないようなら、それを好機に、完膚なきまでに叩きのめすまで、ですよ!」 ―――なっ……!? その刹那、オレ達の視線は青い火花が飛び散るように、激しく交錯した。 スタジオは、凍りついたように静かになる。 オレも松田さんも一瞬たりとも目を逸らさずに、じっとお互いを凝視し続けていた。 「ま、松田さん。大丈夫ですかー?テレビでこんな発言をされてしまって……。」 日比野さんは少し慌てたように、オレ達の会話に入ってきた。 アンカーらしく場を何とか和ませようとしているのが、オレにも伝わってくる。 松田さんはようやくオレから視線を外すと、日比野さんに向かってにっこりと微笑んだ。 「ははは、大丈夫ですよ。だって、自分を脅かす若い才能の芽は、出来るだけ早く摘んでおきたいですからねー。」 「わー!大胆な発言ですねぇー。千秋さんはどうですか?只今の松田さんの発言をうけて。」 日比野さんはテレビ的に面白い展開になったのに勘付き、この状況を逃さないとばかりに、 興奮した様子でオレにも話を振ってきた。 「松田さんからのこの言葉、そっくり返したいと思います。 僕も相手が先輩だからといって、絶対に手を抜くことはしません。 正々堂々、真正面から自分の音楽に取り組むのみ、です。」 オレは努めて冷静に、自分の気持ちを話したつもりだった。 しかし隣にいた松田さんはやや不満げに、鼻をふん!と鳴らした。 「千秋君はこう言ってますけど、この結果はもう週末には分かる事ですから。 来て頂けるお客様には、どういった結末になるか、その辺りもしっかりと見届けて欲しいですね。」 松田さんのその発言を聞いた瞬間、オレの中で何かが急激に目覚めるのを感じた。 ―――そうか……! ―――松田さん…オレの音楽が未完成なままであるのを…見抜いて……。 先程のゲネプロの昼休み時、『千秋君、今回は随分と自信があるみたいだし?』と言われた真意が今はっきりとわかった。 オレの中で、沸々と自分に対する怒りがこみあげてくる。 そうだ……。オレは忘れていた。自分が全身全霊をかけて求めてきた、オレの音楽の事を……!! のだめの事があったからと言って、それをおざなりにしていいなんて理由、どこにもなかった。 ……オレは音楽を冒涜し、松田さんを冒涜していた。 松田さんが激怒するのも分かる。オレがその立場だったら、相手を張り倒していたかもしれない。 ……なぁ、のだめ。 オレ達の間には、いつも音楽があったよな……?オレ達…音楽を通して、こんなにも強く惹かれあってきた。 そうだ……。オレが自分自身を見失い、そして音楽を穢す事は、二人にとってこんな悲劇的な事はないんだ。 それはおまえが記憶失って……オレを忘れてしまう事なんかよりも……。 ……なぁ、そうだよな?…のだめ……。 ―――もしかして……。 ―――松田さんはこの事をオレに悟らせようと……態と今この場所で…オレを挑発、したのか……? いつの間にかトーク内容は、現代のクラシックブームについて、に変わっていた。 和やかに談笑する日比野さんと松田さんの会話を聞きながら、オレはある決意を固めていた。 『今、自分がやれる事を精一杯やるだけです。』 松田さんと再会した時に言った、オレのあの言葉に“嘘”は、ない……! オレはこの収録が終わったら“ある事”を、松田さんに提案しようと心の中で考えていた。 ********** 『本日のゲストは、松田幸久さんと千秋真一さんでした。 公演が成功する事を、私も祈っております。お二人とも本当にありがとうございました。』 『ありがとうございました。』 『どうもありがとうございました。』 短いBGMが挿入され、画面はCMに入った。 三善家では、久々に家族全員がリビングに揃ってじっとテレビを見つめていた。 CMが流れ出すとそこにいた全員が一斉に、はぁー…と盛大な溜め息を吐き出した。 「……なんか真兄、松田さんにいじめられてたけど…大丈夫かな?」 俊彦が低い声で呟く。 すると、今まで食い入るように見ていたテレビ画面から顔を外した由衣子が、口を尖らして俊彦に言った。 「由衣子……松田さんキライ……!」 「……でも真一には、いい刺激になったみたい。最後の方のあの子のあんな表情……私、はじめて見たわ。」 征子はテーブルに置きっ放しになっていた、空のティーカップを片付けながら言った。 松田に対して息子が見せた火のように燃えあがった先程の瞳を、彼女は思い出していた。 「真一の調子が今ひとつなようだと、R☆S事務局から聞いていて私も心配だったのだが……。 今日のテレビ出演が、真一にとってこの公演がどれだけ重要な事か、 再認識するいい機会を与えてくれたのかもしれないな。」 竹彦は右手で顎を撫でながら言った。 「松田さんの挑発に奮起して、真兄のR☆Sの公演が成功するといいね。」 「でもぉ〜…よりによってテレビ出演の時に、あんな風に言わなくってもぉ〜……。」 「大丈夫ですヨ、由衣子ちゃん。」 まだ不満げに言い淀む由衣子に、のだめはキッパリと言った。 「……千秋先輩なら大丈夫、デス!」 そしてソファから立ち上がると、 「のだめも……がんばらないと……。」 そう独り言のように呟いて、リビングから出て行った。 「の、のだめちゃん……?」 「……のだめちゃんにもちゃーんと伝わってるのね…真一の気持ち。」 「え?征子ママ、それってどういう事?」 由衣子が訊ねると、征子はふわりと笑った。 「ね?由衣子ちゃん、二人を優しく見守ってあげましょう。私達にはそれ位しかできないから……。」 どこか遠くを見るような眼差しで話す征子の言葉に、 由衣子は今まで考えたくなかった事が急に頭に浮かび、不安になった。 「……真兄ちゃまとのだめちゃん…別れちゃったり・・・しない・・・よね?」 「二人がどうするのかお互い考えて出した結論を、私達は尊重してあげないと・・・ね?」 その言葉を聞いて涙ぐむ由衣子の髪をそっと撫でると、征子は優しくその肩を抱いた。 その仕草に誘われるように由衣子は征子の胸にしがみ付くと、声を出すのを堪えて泣き出す。 征子は由衣子の背中をポンポンとあやすように叩き、そしてそんな二人の様子を、竹彦も俊彦も黙って見つめていた。 病院の予約時間が9時だった為いつもより早めに起きると、ちょうど千秋先輩も朝食をとっている所だった。 「あ、先輩おはようございます。」 「おはよ。のだめ、今日は早いな?」 先輩が自分の左に座るよう目で促すので、私は少し緊張しながらもそれに従った。 「由衣子ちゃんと俊彦くんは?」 「もうとっくに学校に行ったよ。二人とも通学時間、結構かかるからな。」 「……そでしたか。」 昨日の今日なので…余り長く会話が続かない。 私は何となく居心地の悪さを感じながらも、頑張って先輩に話しかけた。 「あの、昨日のテレビ、見ましタ。由衣子ちゃん達と一緒に。」 「……うん。」 ―――先輩の反応はやっぱり良くない。 ―――あんまりあの事に、触れられたくないんだ……。 言わなければ良かった……と、私はすぐに後悔した。 しかし、先輩は俯く私の顔を覗き込んで額を掴むと、髪をくしゃくしゃっ!と乱暴にかきまぜた。 「うぎゃっ!せ、先輩!な、何するんデスかっ!?」 「ばぁーか。おまえまで、そんな情けない顔すンな!」 「えっ?」 「……昨日のオレ、情けなかっただろ?松田さんにやりこめられてて。」 「あ……。」 そこで先輩はカフェオレを一口飲んだ。 「でもあれで、オレも完璧目が醒めたっていうか…ホント松田さんに感謝しねーと……。 それに…オレもやられっぱなしじゃ絶対終わらせねー……。リベンジしないと…な?」 先輩はそう言って、私を見て笑った。 昨日までの先輩と違って、それはどこかすっきりとした表情だったので、私は拍子抜けしてしまった。 「そういえばのだめ…明日来れないんだって?」 先輩は食事をする手を止めて私の方を向き、テーブルに頬杖をついた。 「さっき俊彦達から聞いた。病院の子供達にピアノを弾く約束をしたとか……。」 「そなんです……。ごめんなサイ。」 私が頭を下げると、頭上からはぁー…という先輩の盛大な溜め息が聞こえてきた。 「少しショックだな……。おまえ、何時からそんなに薄情になった?」 「ぎゃぼ!ほ、本当にごめんなサイ!でものだめ、先に子供達と約束しちゃったんです。だから……。」 慌てて顔を上げると、先輩は拗ねたような瞳をしてこっちを見ていた。 「……オレより子供達の方が、そんなに大事?」 「そ、そーゆー訳じゃないんデス!!ただ、本当に先に約束しちゃったからっ……!!」 ―――ど、どうしよう?どうしたら先輩の機嫌が直るんだろう……? うろたえていると、先輩が急に肩を震わせて笑い出した。 「くっくっくっく……。ごめん、ごめん。ちょっといじめすぎた。オレ、別に気にしてないから。」 「……へ?」 私は間の抜けた返事を返す。 すると先輩は頬杖をつくのをやめ、その手で頭をかくと、照れたように笑った。 「その…正直に言えば気にしてなくはないンだけど……。うん…ちょっと残念…かな……。 けど、仕方ないしな、子供達と約束したんじゃ……。それにおまえ、日曜日の方は大丈夫なんだろ?」 「あ、ハイ。日曜日は三善家の皆さんと、松田さんのAプログラムから聴きに行く予定デス!」 「そういえば明後日のBプログラムの方が、おまえ好みの内容かもな。」 「え?そですか?」 「うん。後でパンフレットでも見ておけよ。俊彦か由衣子が持ってると思うから。」 「ハイ。そうしマス。」 ふと、先輩は食堂に掛かっていた時計に目をやると、慌てたように立ち上がった。 「いけねっ!オレ、もう行く時間だ!」 「えっ?もう行っちゃうんですか?」 「ごめん。やらなきゃいけない事が急に決まって、時間がすっげー足りないくらいで……。 いや、これはオレがいけないんだけどっ……。 あっ、今日はなるべく早く帰るようにするよ。帰れたらその…一緒に夕飯食べよう……な?」 「あ、ハイ……。」 先輩は椅子をダイニングテーブルの内側の元の位置に戻すと、座ってる私の後ろを通り過ぎながら言った。 「じゃ、行ってくる!千代さんに、せっかく用意して貰った朝食、残しちゃってごめん、って伝えておいて!」 「分かりましタ。先輩、気をつけて下さいね!」 「ん。じゃーな!」 食堂の入り口で、先輩は一度こちらに振り返り手を上げると、すぐにその姿は消えた。 「ふぅー……。」 先輩が居なくなったのを確認してから、私は息をついた。 お互い避けている訳じゃないけど……昨日からのこの気まずさだけは、私だけでなく先輩も感じているはずだ。 今日は、先輩といつも通りの会話が出来たような気がするけど……。 これも私に気を遣って努めて普通にしてくれてる結果なんだ……と思うと、 胸がぎゅっ…と締め付けられるように苦しくなった。 「あら、のだめさん、お早いですね。おはようございます。」 千代さんが淹れたての湯気の立つコーヒーを、トレイにのせて食堂に入って来た。 「食後のコーヒーをお持ちしたんですが……真一さんは?」 千代さんは食べかけの朝食が残されたテーブルを見ながら私に聞いた。 「先輩なら、もう出掛けちゃいましタ。何か急いでいるみたいで……。 千代さんに、『朝ごはん残しちゃってごめんなさい』って、先輩言ってました。」 「そうでしたか……。のだめさんの朝ごはんも今、用意しますね?」 「ありがとうございマス!あ、千代さん!そのコーヒー、のだめが飲みます。」 「え、これでよろしいんですか?ブラックですけど……。ミルクとかお持ちしますか?」 「いえ、それでいいんデス!」 言い張る私を不思議に思ったのか、千代さんは目を丸くしながらも、そのコーヒーをコトリ、と置いた。 「では、のだめさんのご飯、用意してまいりますので……。」 千代さんはいそいそと食堂から出て行った。 先輩が飲む筈だったコーヒーに、ふぅーふぅーと息を吹いて冷ます。そして……ゆっくりと一啜りした。 ―――わー……。やっぱり苦い、デス……。 普段コーヒーをブラックで飲まない私には、やっぱりというか…それはとても苦く……。 ……どこか酸味を感じる味わいだった。 ―――千秋先輩のコーヒーの好みは、ブラックなんですネ……。 らしいというか、あまりにも先輩のイメージにはまってて、私は少し可笑しくなった。 ……こうやって、一つ一つ先輩の事を新しく知っていく度に、 意識したくなくても、自分の中で、彼の存在が否が応でも大きくなっていく。 ―――それなら千秋先輩が、私が “前の私” と違う……という事を感じる度に、 ―――先輩の中で “今の私” が占める割合はどうなるんだろ……? ……考えたくはなかったけど、結論は明らかだった。 頑張って全部飲んだけれども、そのコーヒーは私にはやはり……ひどく苦かった。 ********** 昨日大ホールでトラブルがあった事に責任を感じたのか…… ホールの支配人が、約束していた時間よりも二時間早くホールを提供してくれた為、 ゲネプロも、予定より二時間早く始まる事になっていた。 「なぁ……。昨日のテレビ見たか……?」 峰がそう言うと、鈴木姉妹、黒木、そして真澄は一様に頷いた。 ゲネプロ前の軽い音あわせ中に、いつものメンバーがステージ下に集まっていた。 「千秋さま…松田さんにいじめられてたわねぇ……。」 「うん。松田さん、千秋さまをすっごい挑発してたよね?私達テレビの前で、どうなるかとドキドキしっぱなしだった!」 薫がやや興奮気味に言うと、萌も首をうんうんと縦に振った。 「いやー最初はどうなるかと思ったよなー……。 まさかテレビで……しかも生放送であんな事が起きるとは思わなかったしさー。 おかげで昨日の夜から、事務局に公演の問合せの電話がバンバンかかってて、すっげー大変らしいぜ?」 「そうなんだ……。でも僕は…昨日のあの放送を見て…すごく嬉しかったよ。 ようやく、千秋君が音楽に対して、情熱的になる姿を見られたからね。」 黒木が一言一言噛みしめるように呟くと、そこにいた全員が同意の意を表した。 「やっぱ松田さんはスゴイよな……。だって公共の電波使って、あの千秋を本気にさせたんだぜー?」 「千秋さまの…一瞬にして燃え上がるようなあんな熱〜い瞳…わたし初めて見たわぁー。シビレちゃった!!」 「千秋君さ……恵ちゃんの事があってから、すごく悩んでいたみたいだったよね。 それがその…千秋君の音楽に出ちゃってて……。松田さんはその事を指摘したんだろうな。」 冷静に分析するような黒木の言葉に、鈴木姉妹は静かに相槌をうつ。 「うん……。千秋さま、指揮を振りながら…ずっと苦しそうだったよね……。 私達、千秋さまの今の気持ちとか、置かれている状況とか…それがわかるから余計に辛くて……。」 「でも千秋君、僕らには何も話してくれないし……。 僕だって力になりたかったけど、これは千秋君が自分で解決しなくてはいけない問題だったから……。 でも、昨日のあのテレビ…あれで千秋君、いい意味で吹っ切れたんじゃないかな? 松田さんを睨んだあの目……。あれは彼が本気になった時の目だったよ……。」 黒木の話を受けて、峰は興奮したように拳を突き上げて叫んだ。 「今日はオレ達、覚悟してゲネプロに臨まねーとっ!!帰ってくるぜ?鬼・千秋がよー!!」 「ははは。久々に嵐の予感…かな?……楽しみだね。」 「あら、わたしはとっくに用意できてるわよー?」 黒木も真澄も、嬉しそうに決意を語っている。 すると、峰は急に何かを思い出したのか、手をポンと打った。 「あ!そういや沙悟浄からさっき聞いたんだけど、昨日の夜遅く、テレビ出演後の千秋から電話貰ったって。」 「え?千秋さまから?なんで?」 萌と薫は不思議そうな顔をして峰を見ている。 「オレもよくわかンねーんだけど……。 何か今までR☆Sが公演で演奏した曲目のリスト、一覧にしてファックスで送って欲しいって頼まれたとか……。」 「曲目のリスト?今までやった分の?千秋さま……一体何を考えているのかしらぁー……。」 「……さぁ。オレにもさっぱり検討がつかねー。まさかプログラムを急遽変更する…とかじゃねーよな? 少なくともそれじゃあ、“競演”の意味がなくなっちまうし……。 それに、あのオレ様で負けず嫌いの千秋が、はじめる前から松田さんに敗北を認めるとは思えねーしな・・・。」 「各自、集合!!ゲネプロ前の最終ミーティングを始める!!」 ホールに松田の良く通る声が響いた。話し込んでいた峰達は、それを聞いて急いで定位置に戻る。 松田と千秋が揃って、舞台袖からステージ中央へ歩いてきた。 「みんな、おはよう。いよいよ明日から本番だ。 昨日の午後のゲネプロはトラブルに見舞われたけど、今日は支配人の好意でその分多く時間が取れた。 今日は最終リハーサルも兼ねたゲネプロだから、気を引き締めていってもらいたい。」 松田さんはオケのメンバーをぐるっと見回しながら、厳しい表情でそう宣言した。 「……それから、急にで申し訳ないが、僕は昨日、千秋君からある提案を申し込まれた。 千秋君のその提案を……僕は非常に興味を持って聞いた。 これが上手くいけば、今回の公演はいい意味でとても面白い事になる。だから試してみる価値はある、と僕らは考えた。 しかし、これは僕達だけの一存では決められない。ここにいるメンバー全員の協力が、絶対条件だ。 提案者の千秋君から、その事について説明してもらおうと思っているのだが、みんな構わないだろうか?」 オケのメンバー達は近くにいる者同志で顔を見合わせ、『一体何だろう?』と口々に囁いている。 「みんなー!構わないよねー?」 コンマスの高橋が場をまとめるように発言すると、全員が頷いて同意を示した。 「では、千秋君……。」 メンバーの同意を得たのを確認した松田は、指揮台から降りて身を引き、千秋に中央に行くよう目で指し示した。 今まで松田の側に控えていた千秋は、入れ替わるように壇上に上がる。 「まずはこの様な機会を与えてくれた松田さんと、そしてここに居るオケのメンバー全員に感謝の言葉を述べさせて欲しい。 本当に有難う……。では早速、松田さんの話にあった、オレの提案の件だけど―――。」 千秋はいつになく熱っぽい眼差しでオケのメンバーを一人一人見つめながら、その事を話し始めていた。 ********** 本日の山口の朝一番の患者は、のだめだった。 診察室に入ってきたのだめを一目見て、僅かに山口は目を見張った。 今日の彼女が身につけているのが黒い細身のワンピースだからだろうか…… 昨日のむくんだ顔が信じられない程ほっそりとした…それでいてどこか透明な印象を、山口はのだめから受けていた。 「昨日、整形外科の担当医からも聞きましたが、打撲した箇所の回復は順調なようですね。」 「ハイ!むちうちの症状も余り出なかったので、のだめはラッキーでしタ! 背中の内出血の痕がスゴイんですケド……。 整形外科の先生は、後2週間もしたら体内に吸収されて綺麗に消えるから安心して下さいね、って言ってましタ。」 「そうですね。この痕は残る事はないですから大丈夫ですよ。」 「ほら、こっちのほっぺたの傷も大丈夫そうですヨ?先輩も、痕残らないみたいで良かったな、って言ってくれました。」 のだめは山口に右頬を向けて、擦り傷の痕を見せた。 「おや、もう大分綺麗に治ってますねー。 ふふふ。のだめちゃんの可愛い顔に痕が残ったら……と、千秋さんもさぞかし心配だったのでしょう。」 そう言って山口が笑うと、のだめはどこか返答に困ったような顔をして俯いた。 ……この話をもう終わりにしたいのか、のだめは急に思い付いたかのように、膝の上にのせていたバックの中をまさぐり出す。 「のだめ、先生に渡したいものがあったんでしタ!」 そうしてバックの中から一枚の紙を引っ張り出すと、山口の前に突き出した。 「これは……?」 「明日のミニコンサートの曲のリストです。一応、のだめなりに考えて、 今の体調に無理のない範囲で出来る、クラシックのリクエスト曲のプログラムを考えてみました!」 「明日のステージの曲目ですね?わぁー!のだめちゃん、わざわざ有難うございます。」 渡された紙に目をやると、クラシックの作家とその曲名が、若い女性らしい可愛らしい文字で数曲書き記してある。 あのリクエストメモにあった、有名な曲ばかりであった。 「そういえば今、看護科の生徒が明日の準備をしているはずです。 ちょうど顔合わせにいいかもしれませんね。受付の者に言って、案内して貰って下さい。 このリストもこのまま生徒達に渡して頂けますか?それで明日の簡単なリーフレットを、生徒達が作りますから。」 「ふぉぉぉ〜リーフレット!分かりましたー。」 山口はのだめに紙を返しながら、ふと、もう一度紙面に視線を落とす。すると彼はある事に気がついた。 「おやー?のだめちゃん……私のリクエストしたあの曲、明日は弾かないのですか?」 「あ!気がついちゃいました?」 のだめは山口から紙を受け取りながら、バツが悪そうに頭をかいた。 「えへへ。ごめんなサイ!プログラムの構成上、あの曲入れにくかったんですヨ〜。」 「そうなのですかー?うーん…それは残念ですね。是非のだめちゃんに、“愛の夢”を弾いて頂きたかったのに……。」 「でも、昨日ちょっぴり弾いたじゃないですかー。」 「ちょっぴり…じゃなくて、たっぷり…聴きたかったなぁー?」 「ぎゃぼ!先生、本当にごめんなサイ!!」 「じゃあ、いつか……私の為にあの曲を弾いて下さいね?」 「あ、ハイ!」 「約束ですよ?のだめちゃん。」 「ハイ!必ず!」 のだめは右の小指を、“指きり”の形にして山口の前に出した。 山口は幼い子供のする仕草を自分がすることに照れ臭さを感じながらも、素直にのだめの指に自分の小指を絡める。 のだめは、『指きりげんまん♪』とお決まりのあのフレーズを口ずさみ、二、三度繋いだ指を上下に振った。 そうして絡めた指を解くと、山口にふんわりと笑った。 「―――そういえば……のだめちゃん。」 「ハイ?」 「千秋さんとはお話できていますか?」 「え……?」 「何だか退院してからの方が、お二人……すれ違ってるのではないかと、少々心配になりましてね……。」 山口は少し心配そうな瞳でのだめを見つめていた。 「山口先生、大丈夫です。のだめ、今朝もちゃんとお話しましたヨ?」 「千秋さんとですか?」 「もちろんデス。」 「それならいいのですけど……。」 山口が言葉を濁すと、のだめは視線を足元に落とした。 「先輩、明日がもう公演だからとても忙しそうで……。 でも、毎朝のだめが起きるのを待っててくれて、のだめの顔を見てからお仕事に行くんデス。 だからここ数日は、朝しか会ってないですケド……。」 そこまで言うと、のだめは両足をぶらんぶらんと小さな子どものように揺らした。 「先輩、のだめにとても気を遣ってくれてて……お仕事大変なのに……。」 「千秋さんにとっては……それだけのだめちゃんが大事、って事なんですよ?」 山口は優しくのだめに語りかけた。 「男ってそういうものなのです。大事な人の為なら、つい頑張ってしまうものなのです。」 「……山口先生も?」 「もちろんです!」 「そですか。」 熱心な口調で山口が説いたにもかかわらず、のだめの反応はひどくそっけないものだった。 こういう時の彼女はそっとしておいた方がいい事を昨日の経験で知った山口は、それ以上は何も言わなかった。 「さてと……のだめちゃん、夜もよく眠れているようですし、今日からお薬を減らしていきましょう。」 山口は机に向かい、診断カルテと処方箋に書き込みをはじめた。 「お薬……。記憶を取り戻すお薬も……あったらよかったのに……。」 のだめは独り言のようにポツンと呟いた。その小さな声を、山口は聞き逃さなかった。 しかし山口はその事には敢えて触れず、聞こえなかった振りをして書類にペンを走らせていた。 「今日の診察はこれで終わりですよ。では明日、午後一時半に。のだめちゃん、宜しくお願いしますね。」 「ハイ!一時半ですね!のだめの方こそよろしくお願いします、デス!」 のだめは笑顔でそう言うと、すくっと立ち上がって山口に丁寧にお辞儀をし、ドアの方へ歩いていく。 しかしすぐには出て行かないで、診察室入り口のカーテンの仕切り前でピタリと立ち止まった。 「あのね?先生……。」 そしてそのまま振り向かず、静かな声で話しだした。 「のだめ……ピアノがんばりマス! ここにはもう居なくなってしまった……もう一人ののだめの為にも……。 この道を……ちゃんと今の自分の足で歩いて行きマス。そしたら…もう一人ののだめも…許してくれますよネ?」 そこまで言ってからようやくこちらに顔を向ける。 山口ははっと息を呑んだ。 ……のだめは、山口に微笑していた。 迷いのない真っ直ぐな瞳が、山口を見つめている。 しなやかな、それでいて透き通るような凛としたその立ち姿に、のだめが何事かを決心をしたことを、山口に察知させた。 山口は目の前ののだめに、医師として何か言うべき言葉を瞬間的に探した。 「じゃあネ!山口先生、また明日!」 しかしのだめは山口に口を挟ませず、元気よく手を振ると、明るく笑って診察室を出て行った。 のだめの後姿を見送った山口は、しばらくの間茫然していた。 ―――最後の笑顔……あれは紛れもなく、いつもののだめちゃんの笑顔だった。 ―――だが、しかし……。 昨日の謎かけのような…宝物を入れた缶の話といい、今日の…まるで何かの決意表明みたいな発言といい、 理解を超えるのだめの言動に、彼は自分の医師としての無力感を痛感していた。 山口しばし目を閉じ、今まで自分に投げかけられた、のだめの言葉を自分の中で反芻してみる。 だが、彼の望んだ回答は、一向に思い浮かんできそうもない。 しばらくそうしていたが、山口は果ての見えない思考の闇から抜け出そうと、溜め息をつきつつ目を開く。 ふと、机の書類の下に埋もれている、クリアファイルの一つに彼の目が留まった。 それは昨日のだめに見せた、千秋を取材した新聞の切り抜きを入れておいてあったものだ。 何とはなしにクリアファイルから切り抜きを取り出し、それに目を通していると、彼はある重要な事実に気がついた。 山口が目を凝らして何度見ても……“そこ”には“そう”書いてある。 ―――しまった……!私は何ていう、とんでもないミスを……!! のだめの先程のあの言葉が、山口の頭の中にこだまのように響いてきた。 『のだめ……ピアノがんばりマス!ここにはもう居なくなってしまった……もう一人ののだめの為にも……。』 “もう一人ののだめ” その言葉がパズルのピースの一片となって、ある欠けた部分に、不思議なくらいすっぽりとはまるのを山口は感じた。 それまでバラバラだった全ての欠片が…次々と面白いようにはまり、山口の疑問は音を立てて氷解していく。 ―――そうかっ!でも、まずは千秋さんに電話を……! 山口は慌ててのだめのファイルをめくると、そこに記してある千秋の携帯電話の番号を指で確認する。 机の上の電話機の受話器を取り、外線ボタンを押すと、一つ一つ確認するようにボタンを押し始めていた。 ********** 看護科の生徒さん達との軽い打ち合わせが終わり、私は病院を後にした。 病院の中庭にあるフラワーガーデンに立つ時計台を見ると、時間は11時をちょっと過ぎた所だった。 ―――今、三善さんちに帰っても誰も居ないし……。 ―――でも、ピアノの練習もしなきゃいけないんだケド……。 私はタクシーには乗らず、駅に向かって歩き出していた。 目指すは―――事故があった日以来、ずっと行きたかった“あの場所”。 駅から電車を何本も乗り継ぎ、一時間半以上かけて移動すると、懐かしい風景の中に私は降り立った。 『桃ヶ丘音楽大学』 駅の案内板にその文字を見つけると、右手をその文字の上にそっと置いてみる。 そこから何かを感じ取ろうと、私はしばし瞼を閉じた。 しばらくそうしてから目を開けると、私は一歩一歩確かめるように歩き出す。 ……それはまるで失ってしまった思い出を…必死に辿るような足取りだったかもしれない。 駅からそのまままっすぐ道なりに進むと、すぐに左右に軒を連ねる商店街に入った。 「もきゃ!?スーパーひとしくん!?のだめの記憶の中と違って、改装して綺麗になっていマス!!」 私は驚きと嬉しさで興奮しながら、お店の中へ勢いよく飛び込んだ。 ひとしきりスーパーひとしくんの店内をひやかすと、ペットボトルのお茶を一つだけ購入して店を出る。 向かいの店を見ると、マキちゃん達とよく食べに行った回転寿司屋さんがある。 そこは概観も何も変化することなく、記憶の中と同じように今もそのまま営業していた。 ―――千秋先輩と一緒に……この道も通ったのかな……? そう思ってはみるが……やっぱり何も感じる事がない。 ややもすると落ち込みそうになる気持ちを鼓舞して、それでも私は大股で歩き出した。 『桃ヶ丘音楽大学』と銘の入ったプレートのついた大学の通用口に立つと、大きく深呼吸した。 そうして気持ちを落ち着かせると、大学内へ歩みを進める。 ―――のだめの中じゃまだ大学1年生なのに……実際は違うんですよネ? 今はちょうど試験期間内なのだろうか……大学の敷地内に人影はまばらだった。 辺りをキョロキョロ見回しながら、私はレッスン室のある校舎へ向かう。 夏の明るい日差しの外とは違って、少し薄暗いレッスン室が並ぶ校舎。 どこか……懐かしい匂いがした。 入ってすぐにある掲示板を見ると、試験期間中の注意事項や、教室変更を知らせる張り紙等が掲示してある。 沢山の演奏会のお知らせの中には、あのR☆Sの公演ポスターも貼ってあった。 「野田くん……?そこにいるのは野田くんじゃないか?」 後ろから急に自分の名前を呼び掛けられて、私は慌てて声のする方へ振り返った。 「ああ、やっぱり野田くんだ!」 廊下の向こうから見知った顔が、人好きのする笑顔でニコニコと私に近づいてきた。 「た、谷岡センセっ!!」 「久しぶりだねー。元気で頑張っていたかい?」 「ハ、ハイ!」 「ああ、そうか!千秋くんと一緒に帰ってきてたんだねー?どうかな?パリの音楽院での勉強は……。」 「はぁ…その…のだめ、がんばって……いるような……?」 私がしどろもどろになりながら答えると、谷岡先生は可笑しそうに笑った。 「はははは!慣れない海外で大変だろうけど、頑張るんだよー?」 「ハイ。のだめ、がんばりマス……。」 「そうだ!江藤先生が野田くんに、とても会いたがっていたよ!」 「へ?江藤……センセ?」 急にハリセンの名前が出てきたので、私は面食らった。 「彼は今ちょうど、京都で行われているセミナーに講師として行っていて不在なんだ。 あー野田くんが学校に来ていたと知ったら、きっと残念がるなー。」 「残念……がる?」 「ほら、野田くんが江藤くんと一緒につくった『もじゃもじゃ組曲』のラストの第12曲。 彼はアレを、自分の生徒達にエチュード代わりに弾かせている位、お気に入りでねー。」 「もじゃもじゃ組曲の…“だい12きょくぅっ”!?」 『もじゃもじゃ組曲』が第12曲まで作られていた事実を知って、私は唖然となった。 「ええと、<幸せ色の虹>変ロ長調……だったかな?うんうん、確かにあれはすばらしかった! もじゃもじゃ組曲の中でも、間違いなく最高傑作だよねー。江藤くんが自慢するのもわかるなぁ。」 「は、はぁ……。」 「ふふふ。私と野田くんとで作った11曲も、なかなか良かったんだけどねぇ……。」 谷岡先生は口元に、いたずらっぽい微笑を浮かべながら言った。 「おっと、もう次の教室へ行く時間だ!この期間、試験監督をしなくちゃいけないから色々大変でねー。 そうだ。野田くんも明日からの千秋くんの公演、行くのかな?」 「あ、ハイ。」 「ボクも聴きに行くんだよ。じゃあ野田くんともまた会場で会うかもしれないね? 江藤くんも大事な教え子の公演だから京都から駆けつける、って言ってたし……。彼にも会えるといいね。」 「……そ、そですネ。」 「それじゃあ、野田くん。また!コンセルヴァトワールでの勉強、しっかりね!!」 「ハイ!谷岡先生もお元気で!また!」 谷岡先生は手に持っていた試験用紙を入れたと思われる封筒を脇に抱えると、私に手を振った。 私も谷岡先生に大きく手を振る。 先生は優しい表情を浮かべ、“わかった”とでも言うように私に目配せすると、大教室がある方向へ姿を消した。 ―――ビックリ……。 私は額にかいた汗を、ハンカチで拭った。 先程スーパーひとしくんで買ったお茶を、息もつかずごくごく飲み干す。そしてぷはーと息をついた。 まさか谷岡先生とバッタリ会うなんて予想していなかった。心臓がまだドキドキいっている。 谷岡先生の話で……私は色々とまた新しい事を知った。 一つ目は、『もじゃもじゃ組曲』が12曲目で完結しているいう事。 自分の中では、つい最近1曲目を谷岡先生と完成させたばかりだったから、それはとても変な気がした。 それから二つ目はハリセン……。 そういえば病院で、千秋先輩に簡単に私の過去の話をしてもらった時に、 確か4年生の時に江藤先生についてコンクールに出たって聞いてはいたけれど……。 ―――あの話、間違いじゃなかったんですネ……。 『ちなみにオレは3年の時にハリセンから谷岡先生に担当が替わったから、おまえの逆だな。』 そういえば千秋先輩、そんなことも言ってたっけ……。 どうやら私は4年生の時に、あの江藤先生と『もじゃもじゃ組曲』の第12曲を一緒に作っていたようだ。 その……ちょっとまだ信じられないけど……。 その後にコンクールを目指したのだろうか? ―――でも、なんで私がコンクール?? そんな事をぐるぐると頭の中で考えながら、学校の外へ出る。 考え事をしていた私の前に、ふと、ラーメンのいい匂いが漂ってきた。 すると私のお腹が、ぐるるるるる〜と派手に鳴り響いた。 「ふわぁぁ〜。美味しそーなとんこつラーメンのいい匂い〜!そういえば、お昼ご飯食べてないんでしタ!」 時計を見ると午後2時をとっくに過ぎている。8時過ぎに三善家を出てきてから随分と時間が経過していた。 「あっ!のだめ、勝手に大学に来ちゃって、千代さんに連絡してない!」 私は出かけにお昼までに帰る、と千代さんに言ってきてしまった事をようやく思い出した。 あわてて、バックから携帯を取り出す。 そういえば病院に入る前に電源を切ってしまっていた。私は急いで携帯の電源を入れた。 ―――もしかして千代さんが心配して携帯に電話くれていたかも……。 病院からここに来る前に、ちゃんと電話を入れておけば良かったと後悔した瞬間、 携帯からプリごろ太の着メロが盛大に鳴り響いた。 〜♪〜♪〜♪ ―――えっ?えっ? 随分とタイミングよく電話が着信した事に戸惑いながらも、私は携帯をパチンと開いた。 液晶画面は、先輩のお母さんからの電話である事を示している。 知っている人からの電話なのが分かってホッとしながらも、私は急いで電話に出た。 「も、もしもし?」 ―――のだめちゃん!?のだめちゃんなの!? 先輩のお母さんの少し早口な声が、電話口から聞こえてきた。 「そですけど?どうしたんですかー?」 ―――のだめちゃん!心配したのよ?今、どこにいるの? 「え?い、今ですか?のだめ、ちょっと買いたいモノがあって……東京の方へ出てましタ。」 大学に来ているとは言い辛くて、私はとっさに嘘をついた。 ―――そうだったの?それなら先にそう言ってくれないと……。 「ご、ごめんなサイ!電話するの、ウッカリ忘れちゃって。」 ―――もう、のだめちゃんの携帯も全然つながらないし……。 「病院で電源切ったっきり、電源入れるの忘れちゃってて……。 ほ、本当にごめんなサイ!のだめ、今からすぐに三善さんちに帰りマスから!」 ―――いいのよー。もう、何もなかったんだから。のだめちゃんだって、一人でしたい事だってあるでしょうしね? ただ真一が、ちょっと心配性なだけなんだから……。 「え、千秋先輩?先輩がどうかしたんですカ?」 ―――さっき真一から電話があって、のだめちゃんがそこにいるかって訊くのよ。 そしたら千代さんが、『のだめさん……お昼には帰るって言ったきり連絡もないし、まだ帰ってきてません。』 ……な〜んて言うものだから、ふふふ…真一、ちょっとパニックになっちゃってー! 「せ、先輩が…パニック……?」 ―――『のだめの携帯もつながらない!』って、もう、そりゃー大騒ぎして……。あの子って意外と……過保護ね? 先輩のお母さんはクスクス笑いながら言った。 ―――のだめちゃんと連絡がついたって、私から真一に伝えておくから大丈夫よー? 「スイマセン……。のだめ、今から急いで戻りマス!」 ―――いいのよ?ゆっくり……気をつけて帰っていらっしゃいなー。 あ、じゃあー駅に着いたら電話してくれる?迎えに行くから。 「ハイ、分かりましタ。電話しマス!」 ―――本当に急がなくて良いからね?じゃあのだめちゃん、また後で……。 先輩のお母さんが電話を切ったのを確認してから、私も電話を切る。 そういえば昨日先輩に、『移動するときは必ず連絡して』と言われていた。 さっきの電話で、先輩のお母さんは『真一がパニックになっちゃって』と言ってたけど……。 先輩のお母さんは大げさに言ったんだとは思うけど……千秋先輩はすごく心配性なのかもしれない。 ―――千秋先輩の重荷にならないようにしなくちゃ……と決意したばっかりだったのに。 ―――のだめ……何やってんデスか……。 脳裏に、昨日峰くんに『千秋に心配かけるなよ』と言われた事も思い浮かんで……私は更に落ち込んでいた。 本当はこの後、一人暮らしをしていたアパートにも行ってみるつもりだったけれど……。 私は予定を切り上げて大急ぎで駅にとって返し、帰路に着いた。 ********** ゲネプロ終了後、急いで帰ってきたつもりだったが、オレが三善の家に着いたのは夜の9時過ぎだった。 帰宅してすぐにリビングへ顔を出すと、俊彦と由衣子が二人で何やら雑誌を読み比べしていた。 「ただいま……。」 「あっ!真兄。お帰りー!」 「お帰りなさーーい!真兄ちゃまーー!」 「二人とも、夕飯はもう食べたか?」 「うん、今日はのだめちゃんが『お昼ご飯食べてなくてお腹がすいたー!』って言うから、 由衣子、のだめちゃんと一緒に早めの夕ご飯食べたの。 俊兄はそのご飯の途中で帰ってきたから……。その後3人で一緒にデザートを食べたよー?」 「そっか。……そういえば、のだめは?」 その時、リビングの外からピアノの音が微かに流れてくるのに気が付いた。 「……アレ、のだめ?」 「うん、そうなのー。由衣子が学校から帰ってきた時には、のだめちゃん、もうピアノ弾いてたよー。 千代さんが言うには、病院から帰ってきてそれからずっとピアノの練習してるみたい。」 「へぇ……。」 「のだめさん、昨日はずっとオーディオルームに篭りっきりだったし……。 今日は夕食とお風呂の時以外は、ずっとピアノの前に居るって感じだねー。」 「うん。そんな感じ!」 「えっ…のだめが……?」 「のだめさん、パリにピアノ留学してる位なんだから、これ位当然の事じゃないの?」 「……う、まぁ…前のあいつ…だったらそうなんだけど……。」 言い淀むオレを見て、聡い俊彦は事情を察したらしく、急に話を変えた。 「そういえば真兄、夕食は済ませてきたの?」 「いや、まだだけど。」 「じゃ由衣子、千代さんに言って、真兄ちゃまのご飯、用意して貰って来るね〜!」 「うん、ありがとう由衣子。」 礼を言うと、由衣子は嬉しそうに頬を染め、元気よくリビングを出て行った。 「じゃあ、オレ……ちょっとあいつの顔見てくる。」 「うん、わかった。真兄の夕ご飯の用意が出来たら、呼びに行くよ。」 「ああ、頼むな。」 俊彦をリビングに残し、オレはサロンの方へ向かった。 サロンに通じる廊下を静かに歩いて行くと、ピアノの音がどんどん近づき響いてくる。 ―――この曲は……ドビュッシーの『月の光』……? のだめが弾くには少し感傷的だと思ったが、こんな月の綺麗な夏の夜には……合っているのかもしれない。 サロンのピアノには、ノースリーブのクリーム色のルームワンピース姿ののだめが居た。 洗い晒しの柔らかいのだめの髪が、夏の夜風にふわり、ふわり…と舞っていた。 「これは、明日弾く曲?」 オレが後ろからそう声を掛けると、のだめは椅子から弾かれたように飛び上がった。 「千秋先輩っ!?いつからそこにっ!?」 「今さっき、帰ってきたとこ。サロンからピアノの音がするから……。」 「そでしたか!びっくりしたー!あ、お帰りなサイ!」 「……ただいま。」 「あ!先輩ゴメンナサイ。のだめ、先に夕ご飯食べちゃいました。」 「ん、由衣子から聞いた。オレ、帰るのちょっと遅くなっちゃったしな。」 「今日のだめ、お昼ご飯食べ損なっちゃったんで〜それで待ちきれなくて〜……ぎゃは!」 「そんな事より……。のだめ、どうして嘘をついたんだ?」 「へ……?」 「子供達にピアノを弾くって約束したって話。あれ本当は、山口先生にミニコンサートを頼まれたんだろ?」 「あ……。」 のだめは気まずそうにオレから目を逸らした。 「今日の昼間、オレ、先生から電話を貰ったんだ。」 「べ、別にのだめ、う、嘘なんてついてませんヨ?子供達がのだめのピアノで歌を歌いたいそーなんデス。 明日、看護科の生徒さん達がそういう催し物をするので、たまたまそれがステージ上になっただけで……。 だから、先に子供達と約束したっていうのは、本当のコトなんデスよ!」 のだめは相変らず目を逸らしたまま、一生懸命オレに言い訳をしている。 ―――こいつの…こういう所は…やっぱり全然変わらないな……。 オレは心の中で苦笑していた。 のだめは今も昔も、都合が悪い時や嘘をつく時は、目を合わせないようだ。 「……ふーん。でも山口先生は、のだめはオレにその事を相談して決めたって言ってたけど?」 「ぎゃぼ!」 「……これでも嘘じゃない?」 「ゴ、ゴメンナサイ!」 「いいんだ。その…別にその事を問い詰めたいわけじゃない。ただ…何でちゃんと話してくれなかったのかな…って。」 「せ、先輩、あの……とっても忙しそーだったから!だから、のだめ……。」 「え……もしかしてお前の話したい事って……この事だったのか?」 「あ、えと、ハイ……。」 「そっか……。じゃあ、オレがいけないんだな……。自分の事で手一杯で、お前の事考えてやる余裕がなくて…ごめん……。」 「いいんですヨ!先輩は大事な大事な公演を控えてるんですから、そんなの当然の事ですヨ! それにこれはのだめ自身が決める事ですし、別に先輩が気にすることじゃないんデス! のだめが自分で考えて、そうしたいと思ったから、ミニコンサートを引き受けることしたんデス!」 いつになくきっぱりと言い切るのだめの様子を見て、オレは昼間の電話で、山口先生に言われた事を思い出していた。 『どうものだめちゃん…… 記憶が戻らない自分は、千秋さんにとってもはや重荷でしかない、そんな風に考えているようなのです。』 『だから、それが“もう一人ののだめちゃん” ……つまり、”記憶を失う前の自分自身”に対しても申し訳ない……と感じているようで……。』 「……分かった。おまえが考えて自分で決めた事だ。オレは何も言わない。けど……。」 「……けど?」 「今度からはそういうの、ちゃんとオレに話せ。言ってくれないと、かえって気になるだろ?」 「そ、そですよね……。ゴメンナサイ。これからはちゃんと先輩に話します。」 「うん。そうしてくれ……。」 オレ達の間に、しばし沈黙が訪れる。 オレは、昼間山口先生から色々言われていた事もあって、何をどう言うべきか考えあぐねていた。 しかし、先に静寂を破ったのは、のだめの方だった。 「……山口先生、何て言ってましたカ?」 「え?」 「今日、先輩に先生から電話があったんでショ?」 「ああ……うん。」 オレが言葉を濁すと、のだめは悪戯っぽい眼差しでオレを見る。 「言ってくれないと、かえって気になりますヨ〜?」 さっきのオレの言葉を、そっくりそのままのだめに返された。 言った後ののだめは“してやったり!”といった表情をしていて、オレは少々ムッとした。 「何言ってやがる……。」 「だって先輩が、先にそう言ったんじゃないですかぁー!」 「おい、こら!調子に乗ンな!」 「ぎゃぼーー!」 会話にいつもの調子が出てきた。オレ達は顔を見合わせて久しぶりに少しだけ笑いあった。 「さっきの山口先生の電話の件だけど……『申し訳ない』って先生、オレに謝ってた。」 「え?何でですかー?」 「明日、おまえに頼んだミニコンサートがオレの公演と重なっていただろ? 知らなかった事とはいえ無神経な事をしてしまったって、先生ひどく恐縮してた。」 「うーん。山口先生はチョト、気にし過ぎやサン、ですネ!」 「確かにな……。別にこれから幾らでも、オレの公演を聴くチャンスなんてある訳だし。 それにおまえ、日曜は来れるんだからな。」 「ふふふ。千秋先輩、のだめがいなくても、明日の公演大丈夫ですカ〜?」 「はぁ!?当たり前だろ!オレ様を誰だと思ってんだ。ンなもん、おまえが来てようと来てまいと関係ねー!」 「うぎっ!……千秋先輩、カズオ……。」 「カズ……。ったく…今のおまえにまでそう呼ばれるとはな……。」 「えっ!?前ものだめ、先輩のことカズオって呼んでいたんデスか?」 「……たまに…嫌がらせのようにな……。」 オレがはぁーと溜め息をつきながらぼそりと呟くと、のだめは嬉しそうに奇声を上げた。 「ふぉぉぉぉーー!カズオーー!!」 「“カズオ”じゃねぇ!!オレの名前は“真一”だっ!!」 「ぎゃぼ!ごめんなサイ!えと……真一くん?」 のだめに久しぶりに『真一くん』と呼ばれて、オレは思わず胸がドキン、と高鳴った。 のだめがオレの事をそう呼ぶのは…二人きりの…その、ごくごくプライベートの時かなんかで……。 しかもそれは、記憶を失う前ののだめに関してだ。 だからまさか“今ののだめ”に、そんな風に呼ばれるとは予想だにしていなくて……。 意表を突かれたオレは青臭いガキみたいに、自分でも恥ずかしい程顔が真っ赤になってしまった。 「……?先輩?どーしたんですカ?」 「……別に。」 「変な千秋先輩ですネー!」 「…………。」 のだめは可愛らしく小首を傾げながら、赤面したオレを不思議そうに見上げている。 俺は火照った顔を早くクールダウンしたくて、レースのカーテンが揺らめいている窓の方へ移動した。 窓から顔を出すと、オレの頬を一陣の湿った夏の夜風が、すっと撫でていった。 「あー…外は気持ち良いな……。夜風が吹いて……虫の音が聞こえて……。」 「ほら!先輩、見て!今日はお月様がまん丸ですヨー!」 いつの間にかのだめも後ろに来ていて、空に向かって人差し指で月を指し示した。 「本当だ。今日は満月か……。」 「先輩とのだめ……明日、同じ時間にステージの上に立っているんですネ……。」 「……そうだな。」 「先輩はのだめがいなくても、全然平気ですよネ?きっと……。」 いつになくしんみりとした口調でのだめが呟いた。 「え……?」 「でものだめもネ、一人で大丈夫ですヨ?ちゃんと自分でやっていけますから! 明日だって……!それに、これからも……きっと……。」 のだめは遠い彼方に思いをはせているような感傷的な眼差しで、今夜の満月を見ていた。 『記憶が戻らない今の自分からは、いつか千秋さんが離れていってしまう、そう思い込んでいるようです。』 『私が、“きっといつかピアノが教えてくれますよ。”……なんて言ったものですから、 のだめちゃん、もう自分にはピアノしかない、と思い詰めたみたいで……。』 『……つまりですね。のだめちゃん、ピアノを頑張る事によって、 失ってしまった自分の過去と、今の自分との…何というか、折り合いをつけたいようなのです。』 オレの頭の中に、山口先生との昼間の電話のやり取りが浮かんでくる。 先生は、のだめの今の心理状態を酷く心配していた。 でもオレは最初に先生からその話を聞かされた時、胸の奥から何か甘酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じていた。 そしてそれと同時に……自分がとても恥ずかしくなった。 昨日までのオレはのだめに…… “パリに行かないで大川に帰る”“やっぱり幼稚園の先生になりたい”、 ……そんな事を言い出されたらどうしようとビクビク怯えていた、愚かで心の狭い男だった。 でも、そうだ……のだめはそんなヤツじゃない。 オレが惚れたのだめは……そんなヤワなヤツじゃなかったんだ。 男としてはこういう時こそ、頼ってくれた方が嬉しかったりするんだけど……。 でもそれじゃ、やっぱり“のだめ”じゃないしな。 のだめは自分なりに考えて、その結果……ピアノを頑張ろうと決心したんだろう。 理由は……まぁ、ともあれ……。 オレがおまえから離れるなんて思い込みの激しい所も、のだめらしいといえばのだめらしいけど……。 ……そういえば、記憶を失う前の“のだめ”もそうだった。 派手にすっころんでも……オレが手を差し伸べる前に、いつもおまえは自力で立ち上がってきたんだよな? コンクールに失敗したあの時も……オレが大川へ迎えに行かなくても、おまえはすでに留学することを決めていた。 オレは何時だって、決心したおまえの背中を、最後にちょっと押す位しか役割がなくて……。 情けないけど…おまえがオレにしてくれた事に比べれば、オレはおまえにホント些細な事しかしてやれてないんだな。 だから今も、ただおまえをこうやって見守る事しか出来ないけど……。 「真兄ちゃま!ご飯の準備できたってー!」 由衣子がサロンの入り口来ていて、オレに声を掛けた。 「ああ。今行くよ。」 オレが返事をすると、由衣子は気をきかせたのか、すぐにリビングの方へ戻って行った。 「先輩、今からご飯ですか?」 「うん。ちょっとバタバタしてて。」 「のだめ、もうちょっとピアノ弾いてますんで。早く行かないとご飯冷めちゃいますヨ?」 「そうだな。メシ食って、今日はもう休むか・・・明日の為にも。」 「のだめもそれが良いと思いマス!」 そう言うと、のだめは再びピアノの方へ歩いて行く。そして椅子に腰をかけると、さっきの『月の光』の続きを弾きだした。 オレは窓際でのだめの演奏を少しだけ聴いてから、ダイニングルームへ向かった。 その晩オレが夕食をとっている間中、のだめが奏でるピアノの音色はサロンから途切れる事はなかった。 ********** その夜、私は喉の渇きを覚えて深夜に目を覚ました。 時計を見ると……夜中の3時をちょうど過ぎた頃。 隣で寝ている由衣子ちゃんを起こさないようにそっとベットから抜け出すと、客間のドアを静かに開けて廊下に出た。 しんと寝静まっている三善さんのおうちでは、僅かな足音でも響くような気がする。 私は音を立てないよう慎重に歩みを進めながら、キッチンのある階下へ降りて行った。 キッチンに入り冷蔵庫を開けると、手前のドリンクフォルダーに麦茶が冷えている。 洋風の三善家では余り麦茶を飲む習慣がないらしく、これは私が千代さんに頼んで作って貰ったものだ。 「やっぱり日本の夏は、冷た〜い麦茶ですよネ!」 鼻歌交じりにそう一人ごちると、手ごろなサイズのグラスを食器棚から取り出し、麦茶を注ぎいれた。 そしてそれを一気に飲み干す。 冷たくて香ばしい琥珀色の液体が、一瞬にして私の渇いた喉を潤した。 「ぷっは〜〜〜!やっぱり夏の麦茶は最高デス〜〜!」 もう一杯飲もうと麦茶の入ったガラスポットを傾けると、ふと、キッチンの窓にぼんやりと映る明かりが目に入った。 ―――あれ?なんだろ……? 注ぐのを止めてガラスポットをキッチンテーブルの上に置くと、私は窓際まで近づいた。 キッチンの窓から外を見上げると、ちょうど二階の客間と反対の方にある部屋に明かりが灯っている。 ―――あそこは……確か千秋先輩の部屋? ―――サロンで会った時には、明日の為にも早く休むと言っていたハズなのに……? その時、私は先輩に麦茶を差し入れすることを思いついた。 後ろの食器棚を再び見回すと、ちょうどぴったりな可愛らしい水泡の入ったガラスピッチャー…… そしてそれとお揃いの冷茶グラスがある。 製氷機から氷を取り出してピッチャーの中に入れ、その中に麦茶を半分ほど注ぐと、トレイの上にグラスと共に載せた。 来た時と同じようにゆっくりと慎重に、私はそれを持って二階へ上がった。 ―――麦茶だったら緑茶と違ってカフェインが入っていないから、深夜に飲んでも大丈夫ですよネ? 先輩の部屋の前まで来ると、やっぱりどうしても先に躊躇いが出る。 私は呼吸を整えると、トレイを右手と胸元を使って上手く支えながら、左手で部屋を小さくノックした。 コンコンコン……。 ……中から返事はない。 私はドアの前で首を捻った。 ―――どうしよう……。勝手に開けて大丈夫ですかネ?でも、こんな深夜だし……。 ―――先輩、ただ単に電気消し忘れて寝ちゃっただけかもしれないし……。 何度もそんな事をぐるぐると逡巡した後、意を決して私は先輩の部屋を開けた。 部屋の中にそっと入ると、すぐに先輩の後姿が見えた。 先輩はベットではなく、正面の机に突っ伏した状態で寝ていた。 私は忍び足で机に近づくと、先輩は広げた楽譜の上で腕を組み、その上に頬をのせた不自由な体勢のまま眠り込んでいた。 私は先輩の下にある楽譜をチラッと見る。 ―――アレ?これって……ヴァイオリン協奏曲?? どうやら、R☆Sの公演で振る曲の楽譜ではないようだ。 明日に本番を控えていても、先輩はもう次の公演の勉強をしているらしい。 ……そういえば、部屋の中は締め切っているせいか少し蒸し暑い。部屋を見回してみるが、エアコンも切れているようだ。 ―――空気が少し淀んでますネ……窓を開けましょうか……。 私は後ろのローテーブルにトレイを置くと、窓の方へ移動する。 なるべく音を立てないように静かに窓の止め具を外すと、窓をゆっくりと開放した。 ふわっ…と夏の冷たい夜風が吹き込んできて、レースのカーテンと共に私の髪も揺す。 しばらくそこで涼んだ後テーブルの方へ戻ると、ポットから冷茶グラスに、麦茶を氷ごと注ぎいれた。 そして机の上に広げられた楽譜を濡らさないように注意しながら、 机上の右脇にグラス敷きをひいて、その上にグラスを置く。 その時、私の耳元に、先輩のすーすー……という小さな寝息が聞こえてきた。 私はその寝息に誘われるようにゆっくりと顔を寄せ、先輩の顔を覗き込んだ。 ―――わぁ……千秋先輩の寝顔…かわいー……。 今まで先輩の顔をこんな至近距離で見たことなかったから、私の胸は早鐘のようにうっていた。 普段の端正でクールな表情と違って、無防備に眠り込んだ先輩の顔は、いつもよりずっと幼くみえた。 それがとても可愛くて……。だって先輩の頬っぺたはピンク色だし、口元は僅かだけど小さく開いているし……。 その時、固く閉じられた瞼の下で、先輩の瞳が僅かに震えた。 ―――あ……。 それを見た私の胸の中に、ストン……と何かが落ちた。 その小さな何かは、水面に波紋が広がっていくように、最後に私の心を大きく揺らした。 そしてようやく……それが何か思い当たる。 それはいつもずっと気になっていた、先輩のあの眼差し……。 先輩は時々、困ったような、やるせないような……どこか切なげで寂しげな…… そんな瞳で私を見ている事があった。 でもすぐにその表情を先輩は隠してしまうから…私は今まで深く考えもしなくて……。 それが何だったのか……今ようやく分かった。 ―――ねぇ、千秋先輩。……先輩はのだめを見ていて…のだめを見ていなかった…んですネ……? あの瞳をする時の先輩はきっと……私の中に“もう一人の私”を探していたのだ。 そして、見つけられなかった事の落胆が……先輩にあんな表情をさせて……。 でも優しい先輩は、私に気づかれちゃいけないと思って、すぐにそれを隠そうとして……。 ―――先輩ごめんなサイ……。“今ののだめ”は…“先輩の大事なのだめ”…になれなくて……。 記憶を失ってしまった自分自身に対する怒り、そしてそれが戻らない事に対する絶望感…哀しみ… 私の頭の中は醜い物思いで、ぐちゃぐちゃだった。 「う……ん……。」 その時、先輩が溜め息ともつかない寝言を小さく零した。 起こしてしまったかと思い慌てて顔を近づけると、先輩は相変わらず気持ちよさそうにすーすー寝息を立てていた。 優しそうな寝顔を目の当たりにして、私は衝動的に先輩の背中に抱きついてみたくなった。 先輩が寝入っているのを何度も確認してから…… 心を突き動かされるままに、寝ている先輩の背中に覆い被さるように上半身を寄せてみる。 先輩の背中は思った以上に筋肉質で、それはまさに男の人の身体で…私よりもずっと体温が熱く……。 そして何だかとても……いい匂いがした。 そのまま先輩の背中にぴたっと張り付くと、私はうっとりとその背中に頬を押し付け、瞳を閉じた。 ―――っ!? ―――私っ!何やって……!? 急に我に返る。 途端に猛烈な恥ずかしさが込み上げてきて、私は慌てて先輩から身体を離した。 こんな…寝込みの先輩を襲うような…自分でもなんでこんな事をしてしまったのか分からない。 私はしばし、一人で勝手にパニックになっていた。 ―――あっ!そだ!せ、先輩…起きてないデスよねっ……? 息遣いも荒くそこに突っ立っていたのに気が付き、慌てて息を止めると、先輩の顔を横から恐る恐る窺う。 先輩はいまだぐっすりと寝ていた。 ―――よかった……。 安堵した瞬間、自分が興奮の余り、体中ぐっしょりと汗をかいていた事に気がついた。 それは顔から火が出るくらい恥ずかしい事実で……とにかく一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。 私は先輩の部屋を弾丸のように飛び出すと、猛スピードで客間へ戻った。 ********** −−−あー……ふわふわ気持ちいいー……。 オレは虹色のまどろみの中、あったかくて柔らかい“何か”に包まれていた。 この感触……オレは知っている……。 いつも近くにあって、オレが安心できる、そんな幸福な重みをもった……。 そうだ……オレは今、“それに”に抱きしめられているんだ……。 “バタンッ!” 何かが立てた音に吃驚して、オレは慌てて飛び起きた。 ―――えっ?えっ? 寝ぼけた頭で左右を見回す。 何が起きたか分からずしばらく呆けていると、意識が徐々に覚醒してきた。 どうやらオレは、机の上でぐっすりと眠り込んでしまっていたらしい。 ―――そっかオレ…楽譜チェックしてて…ついそのまま……。 広げっぱなしの楽譜の上に、涎までは垂らしていなかったのが救いだった。 不自由な体勢で寝てしまったせいか、肩が張って体のあちこちが痛い。 強張った体をほぐそうと両腕を伸ばした瞬間、オレの身体の右から左へふわっと風が通り過ぎた。 不思議に思い、風が流れてきた方向に顔を向けると、いつのまにか右奥の窓が開いている。 そこから夜風がゆったりと吹き込んでいて、一定のリズムでカーテンを揺らしていた。 ―――なんだ……さっき夢の中で感じていたのは……コレだったのか……。 誰かに抱きしめられているように感じた感触の正体が風だと分かり、オレは苦笑いした。 いくら夢の中とはいえ、そんな風に思った自分が…少し気恥ずかしい。 頭をかきながらふと机の上に視線をやると、グラスに入った麦茶が置いてあるのに気が付いた。 グラスの表面は水滴で一面曇ってはいたが、氷はまだ溶けていない。 ―――誰かが……これを……? オレはその麦茶を一口飲んだ。 寝起きで喉がカラカラに渇いていたから、五臓六腑にしみわたるような冷涼感がたまらなく美味かった。 ―――冷たい…と言う事は…まだコレを置いてからそうは時間は……。 さっき誰かに包まれているように感じたあれは…本当に風だったのだろうか? それとも……これを持ってきて、窓を開けていった、誰かが……? ―――もしかして……のだめ? 立ち上がって部屋を見渡すと、麦茶が入ったガラスピッチャーがローテーブルの上に置いてある。 オレは飲み干した空のグラスに追加の麦茶を注ぐと、それを飲みながら風が吹き込む窓の方へ歩いて行った。 さっきの夢の中の感触……どこか懐かしかった。 あれはオレの知ってるあいつの感触に……どこか似てた……。 でも…まさか、な……。そんな事、ある筈がない……。 そう…だよな。……きっと、これを持ってきたのは、おそらく千代さんか母さん辺りだろ……。 窓際に佇んでしばらくそんな物思いに耽けながら、オレは麦茶の入ったグラスを弄んでいた。 窓から顔を出して夜空を見上げると、サロンでのだめと一緒に見た月がもうだいぶ下の方へ沈んでいる。 けれど涼風は相変らず、オレの顔に吹き付けていた。 ふと室内の時計を見る。時計の針はもう4時前を指していた。 ―――いけね!少しでもベットで体を休めないと……。 オレは一気に残りの麦茶を飲み干すと、窓を閉め、部屋の中央へ戻る。 そして、テーブルに空のグラスを置いた。 時計のタイマーをセットしてから部屋の照明を落とすと、急いでベットに潜り込んで目を閉じる。 先程の事がチラリ…と再び脳裏をよぎったが、疲れていたオレはすぐに再び深い眠りに落ちた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |