千秋真一×野田恵
![]() 元々、寝付きはあまり良い方じゃない。 『心地よい眠りにつくためには、悩みの種を考えられなくなる位まで考え尽くすか、それとも 初めから何も考え無いように努めるか、そのどちらかが必要だ』 そんな、昔何かで読んだはずの言葉を思い出す。 オレはそのどちらも苦手としているということだろうか…。 悩みの種は、もちろん音楽のことであり、仕事のこと…。それが大部分を占めているはずなのに、 最近は不本意なことに、今頃隣の部屋で気持ちよく眠っているであろう女のことで 頭の中が一杯になっている日も多い。 離れている日なんかは特に、そういう傾向が強い。 全く、それを自覚してしまったことが何よりも厄介だ。 最近、オレとのだめの間には微妙な空気が流れている。それはアイツだって多少は察しているはずだ。 こんな風に眠れない夜は、そろそろ枕を並べて互いの体温を感じながら眠る関係になってもいいはず…。 けれど、付き合いが長い分、羞恥心(その他諸々…)が邪魔をして、次のステップへと踏み出すのは至難を極める。 『離れている時間が長い分、早くしっかりと自分のものにしてしまいたい』 この思いは焦り以外の何ものでもない。 唇を深く割り、首筋を撫でると僅かに震えるあの細い体を、もっとしっかりと掻き抱きたいと、オレは強く望んでいるんだ。 「クソッ、これじゃあ、オレがお預け食らってるみたいじゃねーか」 「お前、今何時だと思ってるんだ?」 部屋中にゴンッと何かがぶつかる音が響いた。 こんな真夜中に何事だ?とベッドから体を起こすと、 今度はトントンとノックする音が聞こえてきた。 ドアを開くと、案の定、そこにはいつもと同じ間抜けな顔をしたのだめが こちらを見上げている。 「何?なんか用があって起こしたんだろ?」 大袈裟に溜息を吐きながら応対するが、のだめからの反応は無い。 大きな瞳をなおさらに大きく開いて、ただこちらを見上げているだけだ。 「オイ、お前どうかし…」 「ムキャー!!、先輩、無事で良かったデスっ!」 「な、何?」 「あ、あのデスね、のだめ凄い夢を見まして、ごろ太の世界をそのまま再現した様な 物凄いリアルさだったんですけど、その中で、なんとカズオが怪物にやられて 死んでしまったんデスっ!それはもう、バッタリと! それで、のだめ目が覚めてカズオ…じゃなくて、先輩に何かあったんじゃないかと 思って心配になりまシタ…。でも、無事でなによりデスv」 「お騒がせしました!」 と敬礼のポーズをとるのだめを前に、 俺は言葉を失っていた。 常識が通用しないのはいつものことだが、真夜中に、しかも薄手のパジャマ姿で 男の部屋に訪ねてきているというのに、そんな理由があっていいのか…!? それとも、コイツに多少なりとも期待を抱いたオレが愚かなのか? …本当に色気も減った暮れもありゃしない。 「お前は、そんなくだらない理由でオレの安眠を妨害しに来たのか…」 「ハイ!のだめには一大事だったので…」 「ふざけるなっー!!」 怒声と共に、力強くドアを閉めた。ベッドの前まで進み、 頭があいつの不在を理解すると、体の力が抜けたのが分かった。 「何が、カズオだ…」 ベッドに布勢って、のだめの顔を思い出す。 いつもと変わらない様子に思えたが、よくよく思い返してみればどこか違和感が拭えない。 暗くてよくは見えなかったが、顔色が青白かったような…。 そんなに恐ろしい夢だったんだろうか? いや、待てよ。あの大きく見開かれた目…。潤んでいたような…? のだめっ!と心中で叫びながら、ベッドから飛び起きる。 勢いよくドアを開くが、そこにはさっきの姿はない。 部屋を覗いてみるか…、と足を踏み出すと、眼下に顔を伏せ小さくうずくまった 背中が目に入った。 「お前、どうしたっ…?」 のだめの腕を掴み、無理やり立たせようとすると、その表情が理解できた。 真っ青な顔をして、けれど目だけは赤く腫らして泣いている。 「先輩…?ゴ、ゴメンナサイ…。すぐ落ち着きますので…」 うぇっ、うぇっとしゃくり上げながら泣く様子は、ひどく頼りなげで、 普段ののだめの様子とは明らかに違っている。 「とりあえず、中入って…」 部屋の中に戻り、のだめと一緒にベッドに腰掛けその背中を撫で続ける。 小さな嗚咽はなかなか止む様子がない。 学校で何かあったんだろうか…?それともまたピアノのことで煮詰まってる…? でなきゃ、オレが原因か!? いや、でも今まではこんな様子になったことはなかったはず…。なら、理由は…? 狼狽えたところで何も始まるはずがない。そう分かっていても、 今のオレはらしくないほどに動揺している。 のだめの今まで見たこと無い泣き顔に、オレのどこか深い部分が強く反応した気がした。 「のだめ…?」 背中を撫でるのを止め、座ったままのだめに覆い被さるようにして抱きしめた。 「ふぇっ、センパイ…?」 「少しは、落ち着いた…?」 「…ハイ。だいぶ…。夜中に迷惑かけてゴメンナサイ…」 「別に、迷惑じゃないけど…」 身体を離し、のだめの表情をうかがう。目は真っ赤なままだが、 言葉通り多少は落ち着きを取り戻した様だ。 何か飲むか?と尋ねると、「ハイ…」と薄く笑った。 「ほわぁー、あったかーい…」 湯を沸かし、気分が落ち着くようにとハーブティを煎れて部屋に戻る。 「ベッドの上でお茶飲むなんて、お行儀悪くてセンパイに怒られそうですネ…」 軽口を叩けるようなら、もう心配いらないか…と思いながら、 のだめの横に腰をおろした。 「何かあった?話したくないようなら、いいけど…」 「…イ、イエ、話したくないというか…、呆れられちゃいそうで…」 のだめはマグカップをベッドサイドへ置き、目をそらしながら言う。 「…言えよ。お前のことはもう呆れられないくらい、普段から充分に呆れてるから。 諦めろ。既に手遅れだ。それに、聞かないと気になって眠れない…」 「今、聞き捨てならない言葉がありましたネ…。別に大したことじゃ、 本当に寝ぼけただけなんデス。のだめ、昔から夢と現実の区別がつかなくなっちゃうことが たまに、あって…。それで、ちょっと…」 「ちょっと?」 「カズオじゃなくって、先輩が…」 「オレが?」 「い、いきなり何も言わないでいなくなっちゃって、のだめ追いかけようとするんですけど、 どうやっても追いつかなくて…、叫んで、『先輩!!』って何度も呼んでるのに、 振り向いてもくれなくて、それで、それで、消えちゃ…」 言葉を最後まで聞く前に、オレはのだめを再び胸の中に収めた。 吃驚したのか、微かな抵抗がある。 そんな夢を見て一人で泣くくらいなら、さっさとこの腕の中に収まってしまえば良かったのに…。 「オレはそんなに不躾な男じゃないぞ…」 「うぅ、分かってますよ…」 「お前、また泣いてる…?」 「ふぇ、思い出し泣きです…。先輩が悪いんデスよ。せっかく安心したのに、 また思い出させるから…」 「…こうしてると、安心できる?」 「はぅー、安心できマス。シンイチくんの匂いを嗅いで眠れば、とっても素敵な夢が見られそうです…」 「…変態」 小さな肩幅、薄い背中、髪の毛の間から見え隠れする首もと、柔らかな感触、暖かさ、匂い、 何もかもが、リアルなのだめだ…。 ひどく自分勝手に、胸元に押しつけるようにして抱きしめて、オレは心からの安心を得ている。 ざわめいていた心が、ゆっくりと解放されていく様な、そんな心地がする。 心がこんなにも満たされるのなら、寄り添った体がこんなにもぴったり合うのなら、 のだめもオレの我が儘を受け入れてくれるんじゃないだろうか…? 「…オレも今夜はこうしたいって思ってたよ」 「ほへ!?セ、センパイ!!なにサラッと衝撃発言してるんデスか! そういうことはもっとちゃんとのだめの目を見て言ってくれないと!モキャ…」 目をキラキラさせながら、顔を上げたのだめの頭を掴んで、再びオレの胸元へと押し戻す。 たまには力任せな言葉も使ってみたいけれど、のだめの顔を見ながらは、 さすがに、まだ、ちょっと…、無理だ…。 「じゃあさ、今夜からはずっと一緒に寝るか…?」 「もちろん、朝まで…」と、耳元でそっと囁くと、オレの安心源は茹で蛸のように真っ赤になった。 身体は明らかに硬くなり、口元では「あぅあぅ」と不可解な言葉を発している。 やはりまだ時期尚早…。だけど、近い内にきっと…。 心地よい響きと容赦ない胸の高鳴りを持った、同じ夢が見られる様…。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |