やさしくしてくださいネ(非エロ)
千秋真一×野田恵


城でのパーティがお開きになって、のだめが部屋に戻ってきた。
オレは一足先に帰ってくつろいでいたところだが、
のだめはまだ余韻に浸っているようで、半分夢の中にいるような表情だ。

「あの、先輩、のだめお願いがあるんですけど」
「断る」
「ぎゃぼ!まだ言ってないですヨ!!」
「モーツァルトならもうやだ。帰ってから自分で読めよ」
「うう…。それも読んで欲しいですケド〜。そうじゃなくて」
「なんだよ」

「のだめ初めてなので、やさしくしてくださいネ」

オレは飲んでいたワインを盛大に噴いた。


 * * *


あれは忘れもしないノエルの夕暮れ時、あの時オレはようやく悟った。
こいつに世間一般の常識は通用しない。
いや、そんなことはとうの昔からわかっている。
でも、こいつを自分の恋人として受け入れた…というか諦めたばかりのころは
まだオレはありきたりな恋愛のカタチにとらわれていた。

たとえば…、会えない日は声を聞きたくて用もないのに電話してしまうものだとか、
クリスマスは恋人同士で甘い夜を過ごすものだとか。
あとは――
1,2ヶ月…いや、人によっては何日かすれば、
自然とお互いに体を重ねたくなるものだとか……?

そういう感覚をこいつだって(変態と言えども一応女なんだから)
持ち合わせているはず…と思ったオレがどうかしていた。
恋人になったからって、のだめはのだめだ。
普通の女じゃないこいつと普通の恋愛なんてありえない。
オレのつまらない固定概念は、あの日ポン・ヌフで宙に舞い石畳に砕け散った。
考えてみればオレだって四六時中いちゃいちゃベタベタするタイプでもないんだし、
今までどおりに、オレたちらしく付き合っていけばそれでいい。
深い仲になるのは……まあそのうち、奇跡でも起きればそんな機会もあるだろう。

で、オレたちは熟年夫婦のように一緒にメシを食い、
中学生カップルのように時々手をつないで歩く、実に清らかな付き合いをしてきた。
こいつはいつもマイペースで、いまだに何考えてるのか読めない時もあるけど、
オレはこいつのピアノを毎日聴いていれば満ち足りた気分になれたし、
あとは、他の男がこいつにベタベタ触らなければ、それで満足だ。

それなのに……


「じゃ、のだめシャワーを浴びてきますので、待っててくだサイね♪」


ほんとに読めねぇ。こいつだけは――


「……えぇ!?」

オレは数秒固まっていたらしい。
かろうじて出てきた裏返った声は、のだめには届かなかった。
ドアの向こうからは水音と脳天気な鼻歌が返ってくるばかり…。

……うそだろ!?

 * * *

……まず、落ち着こう。
タバコに火を付け、テラスに出て外の空気にあたる。
ヤバい。なにから考えればいいのかわかんねー…

……欲しくないわけじゃ、ない。
もっとしっかり自分のものにしてしまいたいと思うことだってある。
さっきも…庭でキスした時は、唇の柔らかさとか、睫毛が小さく震えていたのとか、
手のひらから伝わる体温が上がっていったのとか……全部、かわいいと思った。
だけど昨日のことが頭をよぎってすぐにブレーキがかかった。
昨夜、ベッドの上に正座でオレを待っていたのだめを見て、
不覚にも、一瞬『まさか!?』と思ってしまったが、
結局は仲良く一つのベッドで色気とは無縁の読書をするはめになった。
あいつの頭の中がモーツァルトでいっぱいいっぱいなことぐらい、わかってたのに……。
オレは、途中で眠ってしまったのだめの安心しきった寝顔を見て、あらためて決意を固めた。
セオリー通りの展開は期待しない。
それが変態の森で生きていくための秘訣だ。

…だけど、忘れてた。
なにが起こるか予想できないのも、変態の森だった。

のだめがシャワールームから出てきたら、どうすればいい?
まさかこんなに突然この時がやってくるなんて。
今夜、これから…あいつと――?

思わずシャワールームのドアを振り返る。
シャワーの音は、まだ聞こえている。
……ていうか、長いな。
そう言えばさっきまでの鼻歌は聞こえない。
そんな真剣に磨き上げてるのか? にしたって長すぎるだろ。
さすがに……心配になってきた。
ドアの前まで来て、しばし迷う――
とりあえず、声かけるか。

「…のだめ?お前、どうかしたか?」
「ふぎゃっ!だいじょぶデス。もう出ます!」

……?
なにしてたんだ?

「お待たせしました〜。ほわあ…」

シャワールームから出てきたのだめは、すっかりのぼせている様子だった。
昨夜と同じネグリジェの広めに開いた胸元がほてって色っぽくて……。
う…、目のやり場が……いや、見てもいいんだよな…って、そうじゃなくて!

「お前、大丈夫か?ふらついてるぞ…」

支えようと肩に手をのばした途端――

「ムキャ―――!!」

……ものすごい奇声をあげられた。


「ぎゃ、ぎゃぼ……」

なんだ? このリアクション…

「お前…」

ひょっとして、ちょっとわかりにくいけど――

「えーと…もしかして、緊張してる…?」
「はう、だから初めてだって言ったじゃないデスか!」

……自分から言い出しておいて逆ギレかよ。

「…あの、やさしく…してくれマスよね?
いつものDVみたいなのはナシでお願いしマス」
「…オイ、人をなんだと――」

つっこみ終わる前に、気が抜けた。

誰だ?こいつを変態だの普通の女じゃないだの言ってたのは……
今目の前にいるのだめは、真っ赤な顔してうつむいて、ごく普通の女の子に見えた。
緊張のあまり、ネグリジェの裾をつかんだまま硬直している。
普段ののだめからは想像も出来ないくらい不安げな顔で…。

「先輩、のだめどうしたらいいのかわからないんですケド…」

そんなの、オレだってわからない。
変態の森で人間の女に出会った時の対処法なんて。

まいった……。


けど、ここはとりあえず、変態の森の作法に従って――
本能にまかせて、抱きしめることにした。

「むきゃっ、先輩そんなイキナリ!のだめまだココロの準備が…」

ばーか。それはこっちのセリフなんだよ。
薄い布越しにのだめの心臓が破裂しそうに飛び跳ねているのが伝わってくる。
けど、それは――

「ふあ……? 先輩の心臓もばくばくしてマス」

「昨日海を見てから胸が高鳴りっぱなしなんだよ」
「……しんいちくん、目…そらしてませんか?」
「うるせ…」
「のだめ、もう死んじゃいそうデスよ。心臓壊れマス」
「……うん」

オレも同じだ。こんな自分は初めてで、どうしていいのかわからない。

「真一くん、大好きデス……」
「……うん」

それも、同じ。

「のだめ」
「は、ハイ」
「あのさ……モーツァルトの書簡集、読んでやろうか」
「え? なんで…さっき先輩やだって……」
「なんか、そういう気分。またお前が寝るまで読んでやるよ」

そう言うと、顔を上げたのだめは、コロッと表情を変えうれしそうに笑った。

ったく……お前、それ反則。


気がついたら、森の出口はとっくに見えなくなってる。
いつのまにこんな奥まで入り込んでいたのか……
まあ、今さら出口を探そうとも思わないけどな。



 * * *

「……九月十日 ヴィーン」
「あ!のだめの…」
「誕生日。だな」
「ふおお、さすが彼氏デスね〜v」

……調子のいいやつ。
さっきまであんなにガチガチだったくせに。

「のだめ。パリに帰ったら…」
「?」
「さっきの続き、な」
「………!!!」


――明日、パリに帰ったら。
心の準備期間には、十分だろ。






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