番外編
![]() 「アロー、のだめ、帰ってる?」 「……ターニャかー? 入ってこいよー」 ターニャが千秋の部屋を訪ねると、奥から部屋主の声が聞こえてきた。 「のだめなら、まだ帰ってないぞ。おまえら学校で一緒じゃなかったの?」 「ううんー、探したんだけど……」 千秋がキッチンから顔を覗かせた。その顔を見たターニャは大声を上げた。 「ち、千秋!あんた、どうしたのよ!?」 「え、ターニャ?」 「……何か、マルレオケであったの!?」 「なにが?」 「そんな、目を真っ赤にさせて……鼻水まで垂らして」 あ……やべ。と、千秋は鼻を啜った。 「わり、いま、料理中で」 「玉葱?」 はい、とターニャはポケットからテッシュを渡してやった。 ずび!と鼻を噛む千秋の指がターニャの視界に入る。 ほっそりしたきれいな形の指は、しかし間違いなく自分と同じピアニストの指だ。 のだめに伝え聞くところによると、ラフマニノフのピアノコンツェルト二番を、 あのシュトレーゼマンの指揮で弾きこなしたらしい。 城で聴いたヴァイオリンだって上手だったし、つくづく多才な指揮者だとターニャは思う。 さらに今は厨房のマエストロである。しかもそれがけっこう美味しいから、かえって可笑しい。 「今日はなにを作るの?」 「日本のシチュー。食ってく?」 「日本のシチュー……ホワイトルーのよね?カリーじゃないのよね?」 「似てるけど……まあ、俺が作るし、……大丈夫だから」 「……頂くわ」 ……お互いに思い出しているのは共通の事項だろう。 リビングに座って見ると、流し場には山盛りの玉葱が刻んであった。 千秋の目はまだ赤い。 「カリーもそうだったけど、千秋はなんでそんなに玉葱を入れるのよ」 「……美味いから、だろ」 「そんなんじゃ、むしろ玉葱だらけじゃない?」 「俺もそう思う」 「?」 「いいんだよ。あ、パンねーぞ、食べたかったら部屋から持ってきてくれ」 「あんたたちホワイトシチューでもライスで食べるの!?さっすが日本人ね〜!」 「ほんとにな」 千秋は大量の玉葱を炒めつつ、ざくざくと野菜を刻んで鍋に放り込んでいく。 ターニャは椅子に座って、その姿をぼんやりと眺めている。 「千秋、マルレにはカッコイイ男、いないの?」 「男?そりゃいるけど……誰がフリーかまでは把握してないぞ」 「そこが大事なんでしょーが!今度全員に聞いてきなさいよ、指揮者権限で!」 「どんな権限だ!ってターニャ、まだ見つかってなかったのか」 「まだとは何よ。……そうよ、悔しいけどまだヨ」 むすーっとターニャが頬杖をつく。千秋は苦笑して、ターニャにお茶を出してやる。 「ねぇ、千秋」 ターニャは、自分の分も茶を入れている千秋に、ひたと視線を向けた。 「……私は、きれいになったでしょう?」 じっと見つめられて、千秋もターニャのほうを見る。 「まあな」 千秋は世辞というわけでもなく、素直に同意する。 「きっとお色気も上がったと思うのよ」 「まあ……」 「ムラムラこない?」 「俺が、ターニャにか?」 「ムッシュー千秋、……お望みなら、私を好きにしても、いいのよ?」 それで、このターニャの会話はバカンス直前の時の踏襲なのだと、千秋は気がついた。 だが……言葉は際どいが、ターニャは不機嫌そうにテーブルに頬杖をついたままだった。 まるでやる気が感じられない。 「……やめろよ、無意味だ」 「妻の留守中に、こういう会話はいけない?」 「あたりまえだろ」 「……否定しないのね」 「なにを」 「つ・ま」 千秋の顔が赤くなった。 仏頂面を作っていたムッシュー千秋のうえに動揺を見て。ターニャは愉快になった。 「千秋、鍋、煮えてるわよ」 あ、ほんとだ、と千秋はコンロに向かう。 「のだめ、遅いわね」 「寄り道はしないと思うんだけど」 まあ、あいつのことだから……と、千秋は微妙に遠い目をする。 ターニャも千秋と同様に、彼女に思いを馳せた。 「道中でなにして来るか、わかんないとこあるしねぇ」 「いったいなに考えてるのかさえも、いまいち分からないからな」 「……千秋でも、そうなの?」 「凡人の俺には理解できないことが多々ある」 「例えば、自分の彼氏を日常的に盗撮してたりとか」 「……まったく理解できない」 「……私、のだめの盗撮って、千秋の趣味でもあるのかと思ってたわ、被盗撮趣味とかいって」 「んなわけあるか!!」 「盗録は?」 「盗録ってなんだ。あいつ俺の練習でも録ってるのか?」 「…………千秋」 「…………わかった」 「……ガーボロジィも黙認してるわけじゃーないのね」 「なにそれ」 「ゴミ箱あさって調べたり収集したりするっていう」 「あ、あいつ、そんなことまでしてるのか」 「……知らなかったのね」 かなりのコレクションなのよ? というターニャのフォローは全くフォローになっていなかった。 「いったい、どんな……」 動揺している千秋に、ターニャはキレイなスラブ系の顔を、困った表情にした。 「…………わたしの口からは、ちょっと。……のだめが帰ってからにしない?」 「ターニャ、おまえなにを知っているんだ」 「……知りたいの?」 「頼む」 「……ゴミ箱の、ティッシュを」 「やめろ!聞きたくない!!」 自分で言い出したくせに、千秋は途中で遮った。 鍋の前で頭を抱えてしまった千秋を、ターニャは可哀想なものを見るような目で見た。 「千秋、私、思うんだけどさ」 「……なんだよ」 「そういうのだめに付き合える…っていうか、 ちゃんと認識したうえでムラムラできる千秋っていうのは、 ……のだめよりも変態、ってことにはならない?」 「え?」 「のだめは、ほら、たしかに変態だけど、一応、常識的な千秋のことが好きでしょう。 でも千秋は、……ああいう、のだめが、好きなんでしょ?」 「ああいうって……」 「盗撮されたり、盗録されたり、アレを収集されたりしても、それでも千秋は……」 「…………」 「……フランクとユンロンも、あんたたちについて、同じようなコト言ってたケド……。 千秋、今まで他の誰かにも、こういうこと、聞かれたことってないの?」 ……千秋はおもむろにタバコを取り出して、火をつけた。 煙をゆっくりと吸い込んで、ふうっと吐き出す。……その手は小刻みに震えている。 そのときバタン!とドアが開いて、ターニャと千秋は音のしたほうを振り返った。 帰宅したのだめが見たものは、 なんだか半べそをかいている千秋と、微妙な顔をしているキレイなターニャだった。 「タ、ターニャ、先輩を泣かしましたネ!?」 「おかえりーのだめ、あんた、あとちょっと遅かったら千秋は本当に泣いてたわヨ」 「か、かわいそうに先輩!ターニャ、のだめの先輩になにしたんデスか!!」 「なにって……」 「………のだめ」 「そんな、先輩、まるで迷子のキツネリスのように……はいはい、怖かったデスね〜」 うぅ……、と、千秋はのだめから目線を逸らした。 そんな千秋の頭を、よしよし、とのだめは撫でてやっている。 そして、こんな状況においてさえ、 「先輩、今日のご飯はなんですか」 なんて平然と千秋に尋ねるのだめに、ターニャは爆笑した。 他人に理解できない境地に立つひとは、たとえそれが完全に正気であっても、 他人から見れば「変態」と、思われるものなのかもしれない。 まったく、お似合いのカップルだわ。 ターニャは泣き咽ぶ千秋のかわりに、良い匂いをさせているシチューをかきまぜに行った。 大量の玉葱がホワイトルーのなかで、ぐつぐつと煮えている。 そういえば、のだめは、米と玉葱が好物だったっけ。 ターニャはようやく、本日の山盛りの玉葱の理由に気がついたのだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |