番外編
からりと障子を開けた結の背に、他の人影は無い。 「ミナトは?」 月海が苛立ったように言うが、結は悲しげに首を振る。 「勉強が一段楽したら、部屋で食べるって言われました……」 すでに彼が、引き篭もるように自らの部屋から出てこなくなって、今日で三日。 大家・浅間美哉の用意してくれる賄い。少なくとも、美哉の作る食事を住人一同、共に手を合わせて食べるというのが、この出雲荘の住人たちの不文律だったはずなのだ。 また、その調理過程にセキレイたちの手が(実質的にどれほど役に立っているのかはともかく)働いているのを知っている以上、葦牙として、何より男性として、その食卓に現れないなどということは、およそ在り得ないはずだった。 少なくとも、月海が知る佐橋皆人という男は、そういう人間ではなかったはずなのだ。 (ミナト……汝、一体どういうつもりなのじゃ……ッッッ!?) 月海が思った皆人の不審な態度への疑問は、口には出さねども、この場にいる全員が感じていた筈だった。なにしろ大家の美哉はともかく、出雲荘にいるセキレイたちは、基本的に全員、葦牙の皆人にくびったけなのだから。 まあ、雌雄一体型で、この場に不在な篝――焔は置いておくとして、の話だが。 「勉強で忙しくて、メシなんか食べてる場合じゃない」 仮にも二浪生の端くれである皆人がそう言うのならば、この場にいる者たちに、彼に食事を強制する事は出来ない。季節はそろそろ秋だ。入試の本番が冬である以上、受験生としての皆人の態度に、何ら理不尽なところは無い。 それは月海にも分かる。いや、一般常識に疎い、天然気質の結にしても、一応そこのところの説明は受けている。今は彼にとって、大事な時期であると。 だが、彼女たちにとって、そんな台詞で、この現状を納得するのは到底無理というものだった。皆人の学力は、現時点に於いて既に志望校に合格するに足る実力を充分に備えており、いまさら励む必要はないはずだと、一同、松から聞かされてからは、特に。 何より、セキレイとして、葦牙の無意識下と繋がっている彼女たちからすれば、皆人が自分たちに対して、何らかの鬱屈を抱えている事実など、それこそ手に取るように明らかだったからだ。 ぐすん、ひっく……。 草野が鼻をすすり上げる。 「くーたち、おにいちゃんにきらわれちゃったのかな……。くーたちがしらないうちに、おにいちゃんをおこらせるようなことしちゃったのかな……」 「くーちゃん……泣かないで」 結が悲しげに、そんな彼女の頭を優しく撫でる。だが、その結の顔色も、慰めるどころか下手をすれば草野と一緒に泣き出してしまいそうな表情をしている。 そんな事は無い。あるはずがない。 月海とてそう言ってやりたいが、さすがに丸三日も部屋から降りてこない皆人の態度を前にしては、そんな気安い否定の言葉を、この純真な幼女にかけることは出来なかった。 何しろ草野が呟いた不安は、この場にいるセキレイたち全員が共有している感情なのだから。 「松?」 月海は、鋭い視線を送る。 だが、智のセキレイを名乗る女も、無言で首を横に振るだけだった。 「なっ、なぜ分からんのじゃ!?汝の事じゃから、どうせミナトの部屋に隠しカメラの一つや二つは仕込んでおるのであろうが!?」 「それがですねえ、非常に間の悪いことに、二週間前の大掃除の時に、みなたんのお部屋のカメラやマイクは全部外しちゃったですよ。――美哉たんの命令で」 「なっ、なんじゃとぉ!?」 「それに――」 松は、そこで言葉を区切ると、寂しげに俯き、ポツリと呟いた。 「たとえカメラやマイクでみなたんを覗けたとしても、……心の中までは覗けませんよ」 ふう。 風花が大きく溜め息をついた。 「仕方ないわね、もう」 そう言うと、彼女はその場に立ち上がり、 「お食事っていうのは、そんな辛気臭い顔でするものじゃないでしょう?特に夕食といえば、一日の中でも最大の娯楽なんだから」 「風花?」 訝しむような美哉の視線を、風花はにっこりと笑って受けると、一同を見下ろすように言った。 「葦牙がいなくて寂しい晩餐を、楽しくする方法はひとつ。――でしょ?」 コンコン。 「佐橋さん、宜しいですか?入りますよ」 (いきなり「入りますよ」とは、……相変わらずムチャクチャじゃの、この大家殿は) だが、月海が感じた唐突さは、部屋の住人には、その数倍の威力を以って届いたらしい。当然予想された拒絶の返事どころか、 「え?」 という、間抜けな声がドア越しに聞こえただけだったからだ。だが、そんな声ですら、月海の胸をキュンとくすぐる。なにしろ久しぶりに聞いた葦牙の声なのだ。ちらりと横を見たが松や風花も、頬を染めていたように見えた。 そんな彼女たちとは全く異なる冷静な手際で、合鍵を鍵穴に差し込む美哉。 「あ、あの、ちょっと、大家さんっ!?」 ロックが開く音に、彼の驚く声がさらに響く。 皆人は、若干痩せたように見えた。 部屋の住人に無許可で開け放たれたドアに向かって、身をよじり、狼狽しながら手を伸ばしていた彼女たちの葦牙。ハッキリ言って、かなりブザマなポージングではあったが、数日ぶりに見る佐橋皆人の姿は、セキレイたちの胸に、ある種の温かいものを注ぎ込む。 (ミナト……っっっ) 理性の前に本能が動く――。 反射的に部屋に飛び込もうとした月海。だがそのとき、彼女の肩を白い繊手が掴み止めた。 「おにぃぃぃちゃぁぁぁぁんっっ!!」 呆気に取られた表情の皆人の胸に、飛び込んだ無垢な弾丸。 白無地の汗ばんだTシャツにしがみ付き、小さな肩を震わせて嗚咽の声を上げる一人の幼女。 そうなのだ。 ここにいるセキレイたちの誰もが望んだ皆人の胸。だが、彼女たちの中で最も皆人の不在に対する寂しさを募らせていたのは、やはり心身ともに未成熟な、この少女であろう。 セキレイNo108.ラストナンバー草野。 (ちびっこは得じゃの) 嫉妬がないといえば、嘘になる。 だが、草野に比べれば、少なくとも自分たちは大人の女だ。ならば、ここは大人の分別として、子供に譲ってやるべきであろう。優しげな眼差しで彼女をぎゅっと抱き締める皆人を見て、月海は改めてそう思い、背後を振り返った。 「礼を言うぞ大家殿。そなたが止めてくれなんだら、とんだ恥をかくところであったわ」 反射的に皆人に抱きつこうとした自分を、絶妙のタイミングで制止してくれた美哉が、艶然とした微笑を浮かべつつ、そこにいた。 「暑っつ〜〜〜!?皆人クン、よくこんなエアコンも無い部屋で勉強なんかしてられるわねぇ?」 草野に続いて部屋に入った風花が、呆れるように言いつつ風を操り、室温を一気に下げる。水のセキレイたる月海としては正直ホッとしたが、ぞろぞろ無断で自室に闖入してきた彼女たちを見て、皆人の瞳に再度、狼狽の光が宿ったようだ。 「なっ、何やってるんだよ、みんな!?」 「ああ、みなたんは気にせず続けて下さいです。松たちは松たちで、勝手にやるだけですから、勉強の邪魔はしないです」 「勝手にやるって、……何を!?」 松が答えるまでも無かった。 セキレイたちのしんがりを勤める結が、全員分の夕食が乗っている食卓を、軽々と持ち上げて皆人の部屋に入ってきたからだ。 (とんまな事を訊きおって!それでも吾の葦牙かっ!!) だが、そんな皆人の態度にこそ懐かしさを感じる自分を隠すように、月海は胸を張り、腰に両手を当てて宣言する。 「言うまでもなかろうがっ!夕食時にすることと言えば、夕食に決まっておるっ!!」 「……ここで?」 「ここでじゃ!」 「なんで、俺の部屋なの?」 ぽかんとしたまま、目を見開いて月海を見つめる皆人の眼。そんな視線にさえ恥じらいを覚えた月海は、頬を紅潮させたまま眼を逸らし、それでも声の勢いは落とさない。 「ひっ、一息ついたら、自室で食事を取ると申したのは、汝ではないかっ!?吾たちは、親切にも汝の食事に付き合うてやろうと思ったまでじゃ!!かっ、感謝せいっ!!」 そして、月海の言葉を風花が引き継ぐ。 「松が言ったように、私たちとしては皆人クンの勉強の邪魔をする気は無いわ。浪人のキミが、この時期に根を詰めるのも当然なんだし。――でも、そろそろお腹がすく頃合じゃないの?」 そう言いながら彼女は、いたずらっぽくウインクしながら、皆人の頬を突付いた。 「でも……俺……」 まだ何か言いたげな皆人に、周囲を圧する結の元気な声が飛ぶ。 「皆人さん!一緒にゴハン食べましょう!!」 そして、とどめの一言。 「佐橋さん。セキレイを泣かせるような葦牙は、当アパートでの入居は認められませんよ?」 そう言って笑う北の般若――浅間美哉の背後には、鬼の面が浮かんでいた。 結局、皆人はそのまま食卓につき、箸と茶碗を手に取った。 だが、――そこに明るい雰囲気はない。 皆人は俯いたまま終始無言だったし、その重苦しい空気の中で、やはりセキレイの面々も沈黙を保たざるを得なかった。 (ミナト……っっ!なぜ何も言わんっ!吾らに一体、何の不満があると言うのじゃっ!?) 月海は焦れるような面持ちの中、ちらりと彼に眼をやるが、眼前の受験生はそんな流し目など全く気付く様子もなく、黙々と箸を動かしている。普段なら、争って彼の口元におかずを運ぶはずの、結や草野でさえも、ちらちらと皆人の様子をうかがうに留まっている。 彼女ら二人ほど露骨ではないが、同じように困惑した表情を、松や風花も浮かべていた。 ――無理もない。 セキレイたちは何らかの形で、葦牙と精神的にリンクしている。 だから、葦牙が自分たちによって喚起された反応なら、ある程度まで肌で感じる事が出来る。 そして、食卓に着いて以降の皆人の反応は、おそろしいまでに明瞭だった。 最初は歓喜だった。 自分を慕うセキレイたちが、強引に部屋に闖入し、会食を強要する。 そのセキレイたちが皆、若く美しい女性であることからしても、彼の反応は全く当然のものだ。 だが、食卓に就いた数瞬後に、皆人の反応は、何かを思い出したように突如、灰色の曇天となる。 屈辱、絶望、悲嘆、恐怖、そして、さらなる自嘲。 半紙に落ちた一点のシミのような小さな闇が、みるみるうちに彼の心を覆い隠してゆく気配は、まさしく圧巻の一言だった。 (……っっ!!) 月海たちは、皆人のその反応に、一様に絶句せざるを得なかった。 セキレイたちと接する事で、こんな反応を示す葦牙などいるはずがない。一体、皆人の心に何があったというのだろうか? 「ごちそうさま」 そう言って茶碗を下ろした皆人だが、やはりほとんど食事に手をつけた様子はない。 米もおかずも、半分以上残っていた。 「あ……」 何かを言おうとした結を拒絶するように背中を向けた皆人は、そのまま肌着と下着をタンスから取り出すと、 「お風呂、先に頂きますね」 と言って、部屋から出て行こうとする。 「おにいちゃんっっ!!」 悲鳴のような声を、草野があげる。 が、皆人が動きを止めたのは一瞬だった。 セキレイたちを振り返った皆人の貌に張り付いていたのは、何かをこらえるような悲痛な表情であったが、……やがて彼は眼を逸らし、寂しげに笑ってドアを閉めた。 「一体、何があったというのじゃ?いくら何でも不可解すぎる。まるで別人としか思えぬではないか。そもそもあやつは、自分が吾らの良人(おっと)である事実を、ちゃんと理解しておるのか?この月海の葦牙であるという事がどういうことか、分かっておるのか?」 果てさえ見えない月海の愚痴に、隣で布団をかぶっている結は、何も答えない。 だが、この同居人が眠ってなどいないのは、月海には分かっていた。 (眠れるわけなどなかろうが) 泣きたいのは、正直言って彼女とて同じだ。現に草野は、皆人が部屋から出て行ってからは、まさしく火のついたように泣き喚いていた。 だが、むしろ月海の眼からは、セキレイたちの中で最もダメージを負ったように見えたのは、外見相応に幼い草野ではなく、この結だった。なにしろ常に元気を失わなかった巫女少女が、あの食事以降まるで口も開かず、うつろな眼差しさえ浮かべていたからだ。 結と月海の二人に居住空間として割り当てられた、出雲荘204号室。部屋の蛍光灯はすでに消え、数時間が経過していた。 (いま二時くらい、か?) 草木も眠る丑三つ時。時期といい時刻といい、納涼肝試し大会でもやるにはピッタリな頃合だが、無論そんな気分ではない。 月海はちらりと隣の布団を見る。 こちらに背を向けたまま微動だにしない結を確認すると、彼女はそっと身を起こした。 「皆人さんのところに行かれるのですか?」 やはり結は眠ってはいなかったようだ。しかしまあ、予想範囲内ではあったので、いまさら月海もうろたえない。 「汝も、吾とともに行くか?」 結は数瞬迷ったように見えたが、 「はい!結も行きます!」 そう言って、勢いよく身を起こした。もはや、その表情に先刻までの虚脱感はない。 月海は、笑った。 「さすがはコブシ系じゃの。切り替えも早いわ」 (やはり、な) 皆人の居室――202号室の前には、すでに先客がいた。 「くーちゃんに、松さん……?」 結は意外そうな顔をしていたが、これも月海にとっては当然予想できることだった。 「あれ、結たんに月海たんも……ですか?」 「はいっ!」 時間と場所も考えず普段通りの声で喋る結。 この状況下では、その気持ちも分からないではないが、あまり騒ぐと皆人が起きてしまう。そうなったら、寝込みを襲いに来た意味がなくなる。月海は、指を口に立てて(静かにしろ)と三人にゼスチャーを示し、そっと202号室のドアノブを握った。 「――行くぞ」 心臓が破裂しそうになっている。 この戸板一枚向こうに、皆人が眠っているのだ。 拒否されたらどうしよう。いや、その可能性は非常に高い。 (何を……何を恐れておるのじゃ吾は……ッッ!?あやつが何をほざこうが、有無を言わさず組み敷いて、吾の魅力を思い知らせてやれば済 む話であろうがッッッ!!そもそも、そのためにこそ夜這いなど仕掛けておるのであろうがッッッ!!) そう思っているはずなのに、肝心の指は、凍てついたように動かない。 (吾は、かようなまでに臆病じゃったというのか……!?) その時だった。 ドアノブにかけた月海の手の上に、さらに小さな両手が重ねられたのだ。 「草野……」 頭に植木鉢を載せた幼女が、にぱっと輝くような笑みを見せる。 「くーも、おにいちゃんのつまだも」 いや、草野だけではない。 「ずるいです。結だって、皆人さんの正妻なんですから」 相変わらず“正妻”という言葉の意味が分かっていないようだが、それでも自分たちの握るドアノブの上に、手を重ねてきた結の気持ちは、月海には痛いほど有り難かった。 「仕方がないですねえ。松は本来、そういうキャラじゃないのですが」 やれやれといった感じで苦笑しつつ、松も両手を重ねる。 その時だった。 「鍵かかってると思うけど。……多分ね」 ギョッとした表情をするセキレイたちの前に、ひょいっと風花が階段の影から顔を見せる。 「なっ、なんじゃ、大家殿かと思うたわい、まぎらわしい」 「驚かさないで下さいよ、風花さん」 結や草野もホッとした顔をしている。だが――。 「でも、確かに迂闊でした。鍵がないとみなたんの部屋には入れませんです。そして合鍵は……」 言うまでもない。 入居者の個室の合鍵を持っているのは、大家の美哉だけだ。 「『智』のセキレイたる松ともあろう者が……こんな在り得ないポカミスを……っっ」 「心配要らないわ、松」 風花は、懐からキーホルダーを取り出して、にこりと笑った。 「いま一応の許可を美哉から取り付けてきたの。葦牙クンとセキレイの絆を取り戻すためなら、やむなしってね」 「そ、それはつまり……」 月海が、ぐびりと喉を鳴らす。 「今宵に限り、当家での不純異性交遊の禁を解く。――出雲荘大家・浅間美哉との約定よ」 かちゃり。 ドアのロックが外れた音が響く。 月海は掌にじっとりと汗をかいている自分を感じていた。 (ミナト……っっ!!) 拒絶されるかも知れない。いや、それどころか嫌われてしまうかも知れない。 以前の佐橋皆人ならば、たとえ何があろうが、自分たちを嫌うなどという事態は在り得ない。そう安心する事はできた。だが、今の皆人は、かつて彼女たちが知っている葦牙の彼とは少し違う。どういう成り行きになっても不思議はない。 だがそれでも、事ここまで来た以上、いまさら尻込みは出来ない。 月海の隣にいた松が、唾を飲み込む音が聞こえる。 「よいな?行くぞ」 改めて、全員の手を重ねたドアノブがゆっくりと回され、細目にドアが開く。 部屋は真っ暗だった。 だが、室内の人間までは、その闇に溶け込んで活動停止しているわけではないらしい事は、さすがに月海には瞬時に分かった。 (これは……!?) 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