病院にて
瀬文焚流×当麻紗綾


折れた両腕が使えないから、ダメだとか。
視界はいまだぼんやりしているから、ダメだとか。
脳の中でぐるぐると回る言葉は、どれ一つ今の状況を打開しそうになかった。
ただ目の前にのしかかってくる肌色をよくわからないとしか言えない感情で見つめる。
重みが肌に触れる、温度を感じる、髪が頬に触れる。
胸元に熱い雫が落ちる。
それは、涙だった。

「当麻?」
「黙っててください。今は」

静かな、いつだったか私情は禁物だと答えたときのように静かな声で、制される。
あの戦いの後、当麻の脳内にはいくらかの無視できない出血が見られるからと、緊急入院した。
病院を抜けだした俺もただでは済まず――ようやく顔を合わせたのは丸1週間たった今日のことだ。
当麻の祖母はあの男が来ないのを訝しがっていたが、

「研究で海外に行くことになった、と、聞いています」

との野々村係長の言で、腑に落ちない顔のまま頷いていたらしい。
――その話を後々当麻が知った時、ミジンコたちに生命の危機が訪れることになったのだが、それは今は関係ない話だ。
ともかく、食べる物を制限され、清潔な環境に放り込まれていたものだから、こいつの頭はどうかしたらしい。
いつもの餃子臭さはない。
それどころか石鹸の匂いがする。
割り当てられた個室のベッドの上で、服をはだけられた俺の上で、裸の当麻は泣いている。

「これはなんの冗談だ?」

状況がつかめないまま、我ながら間抜けな声を出す。
手が動くのなら、いつものように顎を掴むぐらいはするのかもしれない。
それとも初めて見る涙に、男の矜持で涙をの伝う頬を拭ってやっただろうか。
なんにしろ、動くはずもない手がもどかしい。

「……落ち着くんです、ここ」

そんな理由で全裸になる女を俺は見たことがない。
訝しげな表情で、顔とおぼしきあたりに眼を向ける。
細い、包帯だらけの指が眉をなぞってきた。
目を閉じると、その指はまぶたの上から眼球を軽く押さえるように触れてくる。

「見ないでください、お願いなんで」

ぐ、と指に力が込められる。
眼球を押しつぶされる、なんて恐怖は微塵も浮かばなかった。
口の端に笑みが浮かぶのを、抑えられない。

「見えてねえよ」

目を閉じたまま返した言葉に、当麻がどういう表情をしたのかはわからない。
ただ、笑ったのだということだけはわかった。

……全ての真実を疑えと、ひとりの津田が言っていた。
弐つの眼球が写す世界には疑うべき真実が溢れているのだろう。
視覚を閉ざした世界の中で、ようやく俺達は素直になれるのかもしれなかった。

「左利きと、あたしと。
付き合ってたって記憶は、全部偽物なんです」

いきり立つモノを包むのは、包帯のかさつきとなぞり上げる指の冷たさ、挟みこむような太腿の感触。

「指輪のことも、全部。
でもそれじゃ説明がつかないことがあるんすよ。あたしは何をあんなに恐れたのか」

指輪、なんて言われてもピンと来ない。少し熱を持った盛り上がりが腹に触れる。
左手首の縫い目なのだと、へそのくぼみにひっかかる指に気づいてようやくわかった。

「馬鹿馬鹿しい話ですけど、多分あたし、お嫁さんになりたかったんです。
左利きが結婚にこだわってたのも、多分、あたしの結婚願望を見透かしてのことだったんだと思います」

胸元、筋肉の窪みに沿って左手がぎこちなくはいあがってくる。
指はまだちゃんと動かないのだろう。リハビリをさぼるからそんなことになるのだ。

「何か言いたそうっすね」
「ひはびいはふぉうはらふぁ」

胸元に体重をかけ、右手の指を口の中に突っ込んできた。
指を意に介さず言ったつもりだが、発音はまともなものになるわけがない。
そのまま指に舌を絡めてやると、少し震えたようだった。
ゆっくりと、一本ずつ、時間をかけて舐めてやる。
当麻はその感触が気に入ったようだった。

「他に付き合った男は、記憶消されたわけでもなくて、いないはずなんです」

そのまま上体を俺に預け、耳元で囁いてくる。
腰のくびれがわかる重さの掛かり方に、こいつのスタイルは悪くないと思った。

「父みたいな、頭のいい人が好みだったんです……
瀬文さんとは全然まったくこれっぽっちも、かぶるとこないですね」
「そいつは悪かったな」

指を離し、悪態をついて見せる。
声が笑ってしまっているのは、どうしようもなかった。
腰を浮かせた当麻が、鼻にシワを寄せているのが見えたような気がした。

「本当ですよ。
責任取ってください」
「CBCの餃子、10人前でどうだ」
「たまには銀たこでもいいっすよ、たこ焼き鍋にします」
「冗談じゃない。付き合いきれるか、そんな悪食」
「じゃあ、他の方法でお願いしますね」

当麻が腰を下ろす。ぬるりと、挿し入れられた。
締めつけられるキツさは久しぶりで、最後に女を抱いたのはいつだったかと思わず考えこむ。
少なくともこんな上物は生まれて初めてだと結論づけ、浅い呼吸を繰り返す女の頬に頬を寄せる。

「痛いか?」
「……バカ痛」
「初めてか?」
「うっさい」
「動くぞ」
「あ!ゃ、だめ、いたっ、あー!」

腰を突き上げる。まともに動かない体では、それぐらいしかできそうにない。
それだけのことなのに翻弄されるとでもいうのか、苦しそうな声を上げるのが、たまらない。
それでも当麻は徐々に、穏やかなリズムながらも腰を揺らめかすようになり、主導権を奪おうとしてくる。
こりゃ早く怪我を治さなけりゃならないなと、強く思った。

真実は記憶された瞬間から変質していく。
それは、腹立たしいが、事実だと思う。
だから10%しか使われていない俺の脳じゃなく、体に刻みつける為に。
この女を忘れることなどないように、抱きしめるための腕で、遺伝子で、お互いに刻み付けあう為に。
心臓が息の根を止めるまで、真実はこの体の中にあるのだ。
勝ち誇った笑みを浮かべるようと、もうこの世にいない自称恋敵の顔を思い出そうとしたが、どんな顔だったか俺にはもう思い出せなかった。






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