白と黒の記憶
瀬文焚流×当麻紗綾


季節は冬。

重く沈んだ灰色の空。
毎日、歩道橋から見下ろす景色は灰色一色だ。
空も街も灰色にくすみ、空気が痛いくらいに冷たい。
でも、冬は嫌いではなかった。


あの日からずいぶん時が経ったような気がしていた。
何もなかったかのように毎日が過ぎていくからだ。
修羅場のような日々は終わり、毎日が何となく過ぎていく平穏に瀬文はまだ慣れずにいた。
相変わらず、冗談を言う野々村係長とおかしな当麻と、くだらない仕事をこなしやり過ごしていく。
腕と目はまだ全快とは言えないものの日常生活に支障はなく、無理をしなければ痛むことも殆どなくなっていた。

ただ、当麻にはあの事件以来変わってしまったことがある。

一つは餃子の匂いがしなくなったこと。
CBCがなくなってから当麻は、毎日すき家のメガ盛り牛丼を食べていた。
これでもかと紅生姜を乗せるものだから、ニンニクの代わりにショウガ臭くなるのではと心配になる。
前から思っていたがコイツはよく飽きもせず毎日同じものが食える。
餃子も牛丼も、たまに食うから美味いと瀬文は思っているので毎日『うまっ』と漏らし悦りながら餃子を頬張る当麻が不思議で仕方なかった。
それもバカ舌ゆえなのだろう。

もう一つは、当麻のトレードマークになっていた三角巾をしなくなったこと。
左手のリハビリが進み、全く動かない、から少しは動くようになった左手にギプスは必要なくなり、今は縫合の傷跡をリストバンドで隠すのみとなっている。
良くなっているにもかかわらず時々痛みに鈍感な左手をデスクにぶつけたりと、雑に扱っているあたりはいかにも当麻らしかった。

そしてもう一つは…
当麻は仕事中、よく眠るようになった。
前から居眠りはあったがそんなものではなく、いきなり気を失ったようにコタッと頭が後ろへ仰け反り、眠り始めるのだった。
初めはふざけていると思い無視していたが、一度立っている時に急に倒れたことがあり、当麻はそのせいでまた傷を作る羽目になる。
勢いよく横に倒れた当麻は机の角で額を切り、3針縫った。打ち所が悪ければ死んでいたかもしれないような倒れ方だった。
頭を怪我すると傷の割に大量の血が出る。
未詳にいる時のことで、野々村があまりの出血に慌てふためいた姿が忘れられない。
男二人であたふたと簡単な止血をし、瀬文に抱え上げられた当麻はいびきをかいていた。
病院で縫合のあと色々検査をされている間も、当麻は眠りっぱなしだった。
地居に記憶を弄られすぎて脳に傷害でも出たかと心配したが、最終的に病状の説明をしたのは精神科の医師だった。

「彼女はずいぶん、罪の意識に苛まれているようですね」

医師は女性で、はじめ家族の代わりに話を聞いた瀬文と係長を"兄と父"と勘違いしていた。

「何か彼女を苦しめている事柄があるのでしょう。それを意識すると脳が自動的にシャットダウンしてしまうようです…無意識に自分を傷つけまいとする防衛本能ですね」

瀬文と野々村は顔を見合わせた。
思い当たるのは一つ…ニノマエの件だろう。

「精神的なものなので徐々にケアしていくしかありません。彼女の場合かなりの拒否があるようですから周りの方もよく見ていてあげて下さい」

医師の穏やかな口調に2人は頷いた。

病室にいくと額にガーゼを貼って穏やかな顔で眠る当麻がいた。
傷はちょうど前髪の生え際のあたりだったので良くなれば目立つ事はない場所だ。
知らぬ間に顔に目立つ怪我を負うのは(いくら当麻が変わっているといっても)女にとってはショックなことに違いない。
その点は野々村も安堵していた。
しかし、いくら防衛本能だからとは言えよくこんなに寝れるものだ。

「当麻くん…ずいぶんと自分を責めているんだろうね」

野々村が小さな声で呟いた。

仇として命をかけて戦った相手が実の弟と言う現実は想像を絶するものだろう。
それが恋人だと思い込んでいた男の仕組んだことだったとは…

『私は、私の罪を背負って生きていく』

地居にそう言い放った当麻だが、24歳の女が背負うにはあまりに重く辛い荷だった。
当麻はあれ以来あの時の事は殆ど口にしない。
以前と変わらずおかしな奴で、相変わらず時々言い合いになったりもした。
だが実は人知れずずっと独りで悩んでいたのかと思うと、瀬文は胸が痛んだ。
普段は変人でも、独りになると泣いたりしてるんだろうか…

「当麻が起きたら自分が送っていきます。野々村係長は先に」
「そうだね…頼んだよ瀬文くん」
「はい」

野々村を見送り、ベッド脇の簡素なパイプ椅子へ腰掛ける。
こうして眠っている当麻を見ていると、毎日志村を見舞っていたことを思い出す。

―――またか…
また自分は何もしてやれてなかったのだと気付く。
つくづく頼りない無力な男だ。
当麻の方がよっぽど強い。

「すまない…」

思わず言葉を漏らすと、当麻がパチリと目を開けた。

「あ…瀬文さん」
「大丈夫か」
「……でこ痛いっす」
「傷になってるからな」

うーん、と伸びをし額のガーゼを触って確認する。

「何か…最近よく眠れてなくて……そのくせ急に眠くなって…何かの病気すかね」
「心配すんな、医者は脳には異常はないと言ってたぞ。ひどい寝不足のせいだとさ」

本当のことは何となく言いづらく、瀬文はとっさにごまかした。今言ったとしても何の解決にもならないし、解決策だってまだ分からない。

「そっか………ありがとうございます」

当麻は真っ直ぐに瀬文を見て言った。
ありがとう、とは何に対してのありがとうなのだろう…と思いつつ、当麻の眼差しに瀬文もその目を見つめて頷く。

以前は、自分のしたことや私情を押し通そうとする疚しさから、当麻の目を真っ直ぐ見れないことが多かった。
だが、今は目を逸らしてはいけないと思った。
これからは当麻に向き合っていこうと、瀬文は決心した。

それから、瀬文は常に当麻の様子を気にするようになっていた。
自分がそばにいながらまたケガをさせるわけにはいかない。
当麻は最低でも1日1回は突然眠りに落ちた。(野々村はそれを発作と呼んだ)
大概はデスクに就いている時なので倒れるようなことはなく、瀬文は当麻が崩れ落ちないように椅子を静かに引きずっていって仮眠スペースの上に敷いた布団に寝せてやった。
失神しているのと変わらないくらい寝ているので少々乱暴に扱っても起きることはなかった。
当麻はあれほどの大食いにもかかわらず見た目どおりとても軽かったので、それは野々村でも難儀する事はなかった。
いつの間にか、出勤すると当麻の布団を敷いてやるのが日課になっていた。

一度眠りに落ちると30分ほどで目を覚ます。
当麻は初めこそ遠慮がちだったが、最近は目を覚ますとパッと起き上がり

「当麻紗綾、起床しました。業務に取りかかります」

と敬礼しながら発し、何事もなかったように仕事を始める。
そんなことが日常になりつつあった。


ある日、瀬文は当麻と二人、仕事終わりに街へ出た。
以前、里中と一緒に飲んだ店の親子丼がまた食べたいと、当麻に催促されたからだ。
特に断る理由もなく、瀬文は連れて行くことにした。

店は相変わらずの繁盛ぶりで、空いているのはカウンターだけだった。
二人は並んで腰を下ろした。
まずビールで乾杯、と思ったが当麻の額の傷が抜糸を終えたばかりだったので、烏龍茶を頼んだ。

「お疲れ」
「うぃ」

チン、とグラスが鳴る。
当麻の額の絆創膏はかなり小さくなった。
そういえば、こうして仕事関係なく二人で外食するのは初めてかもしれないと思った。

「アレ、やんないんすか?」
「え?」
「決めゼリフ」
「…ああ。俺はもう完璧に未詳の人間になったみたいだからな」
「瀬文さん…」
「……そんな顔すんな。いいから食え、今日は奢る」
「まじすか!わーい、何食べよう〜」

急にコロッと態度を変えメニューを眺める当麻が、色気より食い気のいつもの当麻で安心する。

真面目なことを話していたと思えばおちゃらけてみたり、天才かと思えば舌バカの変態だったり、つくづく掴めない女だと思う。
そうは言っても女だ。
殴ったり怒鳴ったり、自分はいつも女である当麻に辛く当たっていた。
それでも当麻は、馬鹿にすることもあったが自分を慕って仲間として信じてくれている。

……もっと優しくしてやれば良かった。
こうしてメシに連れてきたり、今までSITの仲間としてきたように笑い合っていれば、もっと違う間柄になっていたかもしれない。
自分が未詳にきたことで、大きな事件に巻き込むことになったのではないかと思ったりもしたが、そもそも未詳にこなければ当麻と出会うこともなかった。
運命というのは、全く複雑だ。
今、当麻が抱えている運命も……

二人は親子丼を注文した。

「傷、痛いか」

額を指し、瀬文が尋ねる。

「痛くないっていったら嘘になりますけど。安心しました」
「何が?」
「いや……もう、病院…行かなくていいんで」

当麻はばつの悪そうな顔をして烏龍茶を啜った。
何か言いづらそうな、誤魔化すような言い方に瀬文はなんとなく、本当は当麻は病院へいくのが苦痛だったのだと感じた。
きっと、色々思い出すのだろう。
重い雰囲気になる前に、タイミング良く目の前から大将がどんぶりを二つ差し出した。美味そうに湯気が上がっている。
当麻は急に笑顔になり、すぐに嬉しそうに食べ始めた。

「うまいか」
「…はいっ、バ カ う まです」

目を細め、頬張りながら喋る姿に瀬文も負けじと食べ始めた。

どんぶりに添えられた当麻の左手には、ニット製の赤い可愛らしい手袋がはめられている。
それは、当麻があまりに荒っぽく左手を扱うことを気づかって野々村がプレゼントしたものだった。
そういうところの気遣いができるのはやはり年の功というか、とりわけ野々村は若い女の気持ちが良くわかるのだろうと瀬文は思った。
だからその手袋の赤を見る度、何故か歯痒い気持ちになり、またどうして自分はそんなことを思うのかと不思議な気持ちになる、のを繰り返していた。

何となく分かっていたが認めたくないのだ。
プライドとか今までの経緯云々とか理由をつけて、瀬文はいつも自分の中に頭をもたげようとしているこの感情に蓋をしている。
それが、その赤色を見る度に思い出される気がして歯痒く、そんな自分が最高にみっともない気がして嫌だった。
野々村にまで、そんな自分の気持ちを見透かされているような気になって、瀬文は手袋から目をそらす。

当麻の例の発作をきっかけに…いや、きっともっと前から何となくあった思いにいつか素直にならなければいけないとわかっていながら、瀬文は躊躇してしまっていた。
それは自分の内情よりも今、当麻が背負っている重荷を考えてしまうからだった。
結局、瀬文はまた、里中に言われた『おまえの人生』ではないところで二の足を踏んでしまっていたのだ。


肩を並べ大した話もしないまま、瀬文は親子丼を2杯、当麻は8杯食べ、二人は店を出た。

外の空気は冷たく、温まっていた頬の熱を急激に奪っていく。
白い息を吐きながら、二人は道路沿いの細い道を歩いた。
瀬文が少し前を、当麻がその後ろを、いつものようにキャリーバッグを引いて。
時折振り返り、当麻がついてきていることを確認する。
交通量が多いので、二人は特に会話もなく黙々と歩いた。

今夜の寒さは一段と厳しい…こう寒いと、治りかけの腕が痛む。
瀬文はコートの襟を立てた。

歩速は特に合わせなくても、当麻との距離は開かなかった。
今までの時間で何気なく培ってきた二人の自然な距離感。
一番自然で、心地よい距離だった。
いつもガラガラとやかましい音を立ててついてくる。
しかし、何となく安心する。

そうか……今の、それが自分の素直な気持ちなのかもしれない。
当麻がいると安心する、ということが。

そうだ、今はそれで良い。
何だか妙に納得して、瀬文は少し笑った。


「あ、あたしこっちなんで」

分かれ道で当麻が後ろから声をかけた。
瀬文も足を止め、振り返る。

「そうか、一人で大丈夫か?」
「なぁに言ってんすか、いっつも一人で帰ってます」
「そうだな…」

何か言ってやろうとしたが、何も浮かんでこない。
沈黙の間、車のライトが尾を引きながらひっきりなしに脇を流れては消えていく。


「瀬文さん」

口を開いたのは当麻が先だった。

「今日はごちそうさまでした」

ペコリ、と頭を下げる。

「あと、嬉しかったです。つれてきてもらって」
「……そうか。またいつでもつれてきてやるよ」

素直にそう言われ、何だか恥ずかしくなりぎこちなく瀬文は答えた。

「はい」

嬉しそうに、当麻が微笑んだ。
瀬文も同じ様に笑う。
こうして素直に笑い合えるのは嬉しい。とても新鮮な気がした。

「じゃあ……お疲れやまでした」
「お疲れ」

キャリーを引いて、当麻が歩き出す。
その背中を思わず呼び止めた。

「当麻っ」

ふいっと、いつもの無表情で振り返る。

「……お前さ、無理すんじゃねぇぞ。色々」

少しだけ離れた当麻に聞こえるように、いつもより大声になる。
薄暗がりで、当麻が目を丸くしているのが何となく見えた。
何故か緊張して、言葉がうまく口から出ない。
カッコ悪いと思いつつ、それでも今言わなければいけないという思いが口を動かす。

「つらい時は、もっと俺に頼れ。何かあったら、連絡しろ、すぐ駆けつける」
「……それ、前に忘れろって言いましたよね」
「撤回する」


「…………はい」

ガラガラとキャリーを引いて歩き出した当麻は、少し笑っていた。
その背中を見送り、瀬文も家路に向き直した。


いつもの街灯の下、帰り慣れたはずの道のり、足取りが軽い。
歯切れの悪いものを吐き出して、喉の支えが取れたような気がした。

―――なんだ俺、浮かれてんのか。

急に恥ずかしくなり口元を押さえた。
安っぽいガキみたいでえらくダサい。年甲斐もなくこんな気持ちになるなんて、しかも当麻に。
ひどく照れくさく、瀬文は家路を急いだ。

…フワッ

目の前を、白い細かいものが落ちていく。
見上げると、細かい雪が降り出していた。どおりで寒いわけだ。
思わず立ち止まり、空を眺めた。

都会の夜空は明るく澱んでいるが、雪はそんなことはお構いなしに白かった。
本当に小さなふわふわした雪が、細かく空から落ちてくる様は見ていて飽きない。
明日には少しぐらい積もるのだろうか。
次から次に、雪はまるで湧いてくるようでどちらが空なのか分からなくなる。


『雪だ…キレイだなぁ…』

ハッと我に返り、瀬文は走り出した。
今来た道を、全速力で引き返す。

―――ああ、バカだ俺は。
さっきまでの浮かれた自分を殺してやりたいくらいだった。が、後悔しても始まらなかった。ただ、今はひたすらに走った。
先程の分かれ道を確認し、当麻が向かった方を目指す。
細かい雪が付着し、顔を濡らしても構わなかった。

広い通りに出た。

「どっちだ…」

目の前に歩道橋があり、階段を一気に駆け上がる。
橋の中程に、黒い塊とキャリーが見えた。

「当麻っ!!」

急いでかけよると、当麻がうつ伏せに倒れていた。
うっすらとその上に雪が積もっていた。
一体いつから倒れていたのだろう。
白い雪の上に黒いコートとうねる黒髪、赤い手袋がやけに鮮やかに見える。
雪を払い抱き起こしてみると、いつものように当麻は目を閉じて眠っていた。
掴んだ肩口は冷たく、中からの温もりは感じられない。
額の絆創膏に少しだけ血が滲んでいた。

「……畜生」

そのまま抱き上げる。
さっき食べた親子丼はどこへ行ってしまったのか、当麻の体はいつも軽々と持ち上がってしまう。雪で濡れた髪から花のような香りがした。
肩に担ぐように当麻を抱え直すと、キャリーを掴み、ゆっくりと歩道橋を降りた。

どうする…このままだと、いくらなんでも怪しすぎる。
落ちてくる雪の粒は、先程から徐々に大きさを増していた。
瀬文は静かに当麻を下ろし、そばのガードレールにもたれさせた。
通りに向かって手を挙げ、タクシーを拾う。

「すいません、病院ま…」

当麻を乗せて言いかけ、先程の店での当麻を思い出す。

『もう、病院行かなくていいんで』

病院へはいけない…
瀬文は自分の家の方向を運転手に伝えた。


タクシーの運転手には「酒癖の悪い奴で」と適当に説明し、ひきずるように当麻を抱えて車を降りた。

薄暗い部屋、街灯が差し込む窓辺だけが明るかった。
いつもの、殺風景な我が家だ。
外気と殆ど変わらないくらい冷え切った室内に入ると、自分と当麻の吐息がやけに白く見える。
靴と雪を吸ったコートを脱がせ、ベッドに横にする。
男の一人住まいなので、何もないが休息に重要なベッドだけはゆったりと大きく、細身の当麻が一人寝た所で少しも狭さは感じなかった。
ただ、自分の部屋に当麻がいる違和感がぎこちなく、瀬文は立ち上がり台所へ行って冷蔵庫のミネラルウォーターを一気に飲んだ。
先程まで感じなかったが、スーツは汗のせいで内側からしっとりと濡れていた。
それが急に冷え、ブルッと身震いする。
コートとジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけるとエアコンのスイッチを入れた。

「雪…」

突然、当麻が声を上げたので驚いて駆け寄る。

「当麻」

うっすらと目を開けて、天井を見つめている。
額の絆創膏は雪に濡れたせいかいつの間にか剥がれてなくなっていた。
前髪の生え際に赤い小さな傷が露わになっている。
傍らの床に腰を下ろすと、当麻の髪の匂いが濃くる。

「大丈夫か」

問いかけても返答がなかった。ただ天井をじっとみつめている。

「雪、見てたんです」

ふいに当麻が話し出す。
声が、かすれていた。

「急に、雪が降ってきたから…歩道橋から……見てて。そしたら…陽太のこと……思い出して」

やはり…あの時、瀬文も同じようにニノマエを思い出した。
そして慌てて当麻の所へ戻ったのだ。
ニノマエの最後の微笑み、残酷だが無邪気な笑顔が雪と共に蘇る。
黒い服に身を包んだニノマエと白い雪のコントラストは、今でも鮮明に思い出せる。
そして、毒に犯されながら少しずつ弱っていく姿も…

「あの時、陽太……あたしに………ねえちゃん、て」

赤い手袋をした手が顔を覆い、震えた。


「殺したんだ……
……あたしが、陽太を…っ」



「……バカ野郎…っ」

堪らなくなり、瀬文は当麻の頭を引き寄せて抱いた。

ずっとこうしてひとりで耐えていたのだ。
誰にも言わず、ひとり苦悩していたのだろう。
自分の知っている当麻はいつも強く、真っ直ぐで諦めない女だった。
その彼女が震え、自分の弱みを見せまいと顔を隠して嗚咽をこらえている…腕の中で体を強ばらせて。
当麻が、初めて見せた弱さ…瀬文は頑なに顔を覆う当麻の手を取った。
拒否するように力を込める腕を強く引くと、くしゃくしゃになった髪の中に当麻の顔が見えた。
その顔は、今までみたどんな当麻よりも頼りなく、そして悲しそうだった。
真っ直ぐ見つめてくる瞳にいつもの強さはなく、みるみるその顔は泣き顔に変わり、溢れ出した涙が筋になって落ちていく。

「当麻…」

思わず呼んだ瀬文の声も震えていた。

掴んだ手を優しく握り、もう一度当麻を抱き寄せると、ゆっくりとキスをした。


当麻の冷たく、柔らかい唇の感触に、二人のたくさんの記憶が蘇ってくる。
地居に消された記憶を思いだそうと自ら体を痛めつけるように動かした時、一番鮮明に出てきたのは当麻の顔だった。
当麻はいつも真っ直ぐに瀬文に向き合ってくる。

変人の、餃子女…でも尊敬できる、大切な存在。
絶対に忘れてはいけないと思った。

いつから当麻を思うと歯痒く、何かもどかしい気持ちになるようになった?
今までたくさんの時間を過ごしてきたのに、当麻に触れた記憶は殆どなく、いつも殴りつけたりするくらいだった。
それが当麻の発作が出るようになり、触れる機会が増えるようになってから、いつも強い彼女の弱さに触れてから、欲望のように自分に湧き上がってきた思いなのか…でも当麻を心配する気持ちや彼女の笑顔を見ると安心する気持ちに後ろめたさはない。

いいんだ、本当は分かっている。
ただ認めたくないだけなんだ。
それが今、当麻の涙のように溢れて止まらなくなり、どうすることもできない。

合わせた唇の感触を確かめるように優しく吸うと、腕の中で当麻の力が抜けていくのが分かった。
当麻は拒否することなく瀬文を受け入れていた。
震えているのは瀬文の方だった。
握りしめた手が僅かに握り返してくる。
その手が左手だと気付き、唇を離した。


『ねえ、瀬文さん』

『瀬文さんは、あたしを許す?』

『人殺しでも?』


『ばぁか、お前はお前だろ』

暗がりの中、わずかなエアコンの音と二人の吐息が混ざり響いている。

「んっ…、は…ぁ…」

何度も何度も互いの唇を求め吸い合った。
シャツも下着も、赤い手袋も、いつの間にかベッドの下だ。

裸になり肌を合わせると、二人とも驚くほど自然に体を重ねていた。

左手の痛々しい傷跡に舌を這わせると、びくりとし口元を押さえる。
しっとりと温かい肌の感触を貪るように、瀬文は強く当麻を抱きしめた。
花の香りと当麻の汗の匂いが混じる髪に顔を埋めては、深く繋がり合った部分を感じながら、打ち付けるように腰を振った。

「あぁっ!あっ……あ…んっ!」

引きつった声を上げ、当麻も脚を絡め腰を押し当ててくる。
華奢な体は想像していたよりもちゃんと女性らしく、重なり合った胸は小さいながらも柔らかくて、瀬文はその感触を記憶するように何度も愛撫した。
その度に体をくねらせ、いつもの彼女からは想像できないような艶めかしい姿を晒した。
細い腕を背中に回してしがみついては、快感に仰け反り震えている。
当麻の中はとても熱く、その熱が溶け出したように太股まで濡らして瀬文を感じていた。
繋がり合った部分が離れないように、抜けてしまうぎりぎりまで引き抜いてはまた奥へ突き入れるを繰り返す。
甘く切ない快感がゾクゾクと込み上げて、互いに息を弾ませ喘いだ。

「あ、ぁあっ…せぶ…み…さん…っ」

腕の中で自分の名前を呼ぶ当麻が堪らなく愛おしかった。
それと同時にひどく悲しくなり、瀬文はなおいっそう強く当麻を抱いた。
汗と体液を混じらせ、息を荒げ、お互いに激しく求め合うのになぜこんなに悲しいのだろう。

不意に動きを止め、腕の中の当麻を見下ろす。閉じられた瞳から涙が伝っていた。
拭ってやると、うっすらと目を開けて瀬文を見つめた。
その目から、また涙が溢れる。

「…泣くな」

当麻の上気した頬を撫で、キスしてやる。
唇を合わせると軽く吸い、再びゆっくりと腰を動かし始めた。

「…ふっ」

当麻が苦しそうに熱い息を漏らし唇を離そうとするが、それを捕らえ徐々に加速した。

「んっ…んんっ」

瀬文をくわえ込んだ当麻のそこが熱くひくついて、摩擦される快感に潤んでくるのが分かる。
充分濡れているのにきつく締め付け、いやらしく音を立てていた。

唇を離すと、自分の下で当麻が快感に顔を歪め荒く息をしている。
きっと自分も同じような顔をしているだろうと思った。

同情とか慰めとか…
愛とか、恋とか…
当麻が自分をどう思っているかとか…
そういうことは今はどうでもいい。
ただこうしてお互いに求め合って体を重ね、悲しみを分け合っているんだ。

「と…うま……」

突き上げると泣き声を上げてしがみついては、また涙をこぼす。
深く繋がれば繋がるほど、当麻の奥の悲しみが瀬文の中に流れ込んでくるように、いつの間にか瀬文も泣いていた。

こんなに悲しいセックスは初めてだった。
でもそれは、罪悪感や後ろめたさではなく、当麻と共有している痛みなのだと、瀬文は感じていた。

こうして少しでも、当麻の悲しみが薄まれば良い。

心から願う。

寒さで目を開けた。
布団から出た肩が冷え切っている。
耳を澄ますと、タイマーになっていたのかエアコンは消えて、部屋の中は静まり返っていた。
こんな静かな時には、きっと外は雪が積もっている。以前にも経験したことがあった。
カーテンを開けて外を確かめようと体を起こそうとすると、腕の中の当麻がぐっと抱きついてきた。

「………寒い」

瀬文は起きるのを諦め、モソモソと布団に潜り込むと、顔をしかめた当麻を抱いてやる。

「瀬文さん……ひゃっこくなってる…」

当麻が温かい腕を回してきた。瀬文を確認するように、目を閉じたまま冷えた部分に触れた。
布団の中はそこだけ春が来たように温かく、思わずため息が漏れた。
当麻の触れている肩口がみるみる温まっていく。裸の肌がなんとも心地良い。
当麻の体は見た目の割に柔らかく、抱き心地は悪くないと思った。
本当に寒いのか瀬文を温めようとしているのか、しがみついてくるところが可愛らしい。
このまま、また眠ってしまいたい。

先程まで支配されていた悲しみは、跡形もなく消えてしまった。
涙の跡だけが少しひりひりする。
瀬文の胸に顔を埋めている当麻からも悲しみの色は消えていた。
今は情事の余韻で体が怠く、目を閉じればすぐにまた眠りに落ちてしまいそうだ。
幸せな気怠さだった。

「…積もってますかね」

当麻が呟く。

「多分な…」
「仕事行きたくないっすね」
「休むか?」
「んー…迷いますねぇ」

明日もこうしてこのまま二人で休んでしまうのも悪くないな、なんてぼんやり思いながら瀬文は目を閉じた。
静かに深呼吸すると、肺が抱いている当麻の匂いで満たされる…

―――当麻が好きだ。
初めて素直にそう思えた。

「………あたしも、好きです」

「え?」

驚いて体を離す。
無意識に口に出していたのか?

「何びびってんすか、ちゃあんと聞こえましたよ今」

当麻が瀬文の胸に手を当てる。

「ここから」
「お前……サトリか」
「え?まじですか!」

素っ頓狂な声をあげて、当麻が目を見開いた。

……こいつ、もしかしてカマかけたのか?

「図星ですか!瀬文さん、あたしにラブなんだ?ゾッコンなんだ〜!?」
「…うっせぇ!!!」

最高に恥ずかしくなり耳まで熱くなった瀬文は、当麻に肘鉄を食らわせた。
腕の中で当麻がギャーギャー騒ぐ。
さっきまでしおらしくしていたと思えばこれだ。
しかし、こいつはそういう奴だ。

「でも…本当に聞こえました。瀬文さんの声」

当麻は急に真面目な声でそう言うと、瀬文を見上げた。

「…嬉しかった」

真っ直ぐな、いつもの当麻の目だった。

頭の中がぐちゃぐちゃになりしばらく何も言えずにいたが、瀬文は観念したようにため息をつくと当麻を引き寄せ、強く強く抱きしめた。

「……瀬文…さん?」

今まで言えなかった思いを当麻が言ってくれたと思えばいい。また、あの歯痒い思いをするのはごめんだ。
この温もりを愛おしいと感じたのは紛れもない事実だし、離したくないと思っている自分がいる…もう、誤魔化せない。

「…お前の痛みとか、分かったから…もう……あんまり一人で我慢すんな」

消えそうな声で呟くのが精一杯だった。
それでも当麻にはちゃんと聞こえたようで、コクコクと小さく頷くとぎゅっと抱きしめ返してきた。

―――我慢すんな…それは俺も同じか。

言い聞かせながら、瀬文は目を閉じた。


多分、いつまでも当麻の心の傷は治らない。
忘れようとしても忘れられるものではないし、また発作を起こすかもしれない。
未詳にいるかぎりは、またどんな事件に巻き込まれるか、どんな傷を負うか分からない。
でも、悲しみや痛みを共有していくことならできる。
理解できなくても、それを分け合うことならできる。
そうやって少しでも支えていけたらいい。

時にはこうして抱き合うのもいい…でも当麻になら、体を合わせ愛を語らなくても、今みたいに思いは伝えわるのかもしれない。
それはきっとSPECなんかではなくて、二人の絆なんだと思う。
大切なかけがえのないものを、二人はいつの間にか築いてきた。
これからもそれを守っていきたい。

そして、雪が灰色の街を白く覆うように…

当麻の中のニノマエの記憶も、いつか笑顔の彼になればいい。
雪を見ても当麻が悲しまなくなるまで…時間をかけて癒していけたらいいと、瀬文は思った。


白と黒の記憶もいつか
落ち葉に満たされ
神のお気に召されるように―――






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