電波星からバベルのノイズ
瀬文焚流×当麻紗綾


すぐそばでとても大きな声で
何度も呼びかけられているのに、
何と言っているのかはまるで聞き取れないのだ。

『…………!……――!!』

夢の中で、瀬文は繰り返しある言葉を訴えられている。

毎日聞いているうちに、どうやら同じ単語を延々と
発しているらしいというのは分かったのだが、
言っている言葉そのものが分からないので
真剣に耳を傾けてみてもまるで意味がない。

意味が分からん、と伝わらない意図を伝えようとしても、
言葉が通じないせいでそもそもそれが伝わらない。

あの日から毎日見続けるおかしな夢は内容と
共にそのおかしさの様相を少しずつ変えて、
夢の中の当麻はとうとう日本語を喋らなくなった。

たとえこの転寝から目を覚ましたところで
扉はがらりと開いたりはしないし、
眠ったフリをして回避しようとしなかろうと、
当麻は決して来ないとしても、だ。

「……二時、か」

強く腕を引かれるような感覚の代わりに
隣の爺さんのいびきで目を覚ますと、
見慣れた趣味の悪いうちわと目が合って現実に連れ戻される。

外は曇りがちだった空から良く晴れた暖かい午後に変わり、
ベッドを囲む桃色のカーテンも日に照らされて和らいでいる。
そんな、いかにも平和でのどかな光景に鎮座する
理知的そうな髭の外人のモノクロ写真。

の下に、赤いビニールテープで『フーコー』と貼られている
悪趣味と呼ばれることだけを目指して作られたようなうちわ。


置かれた日から一回も使っていない、実に気味の悪いそれを
鬱陶しげに伏せると瀬文は起き上がって携帯電話を手に取った。


うちわの持ち主、そして今着信やメールを送ってくるべき人物、
つまり冬だというのにこんな不必要かつ悪趣味なものを持ち込んだ者、
しかも去り際に『あたしだと思って大事にしてください』
などと言い放った意味の分からない女――もとい同僚の当麻紗綾――は、
一週間前、ともに入院していたこの警察病院から退院した。

その長きに渡る入院期間のうち瀬文と当麻は些細なことがきっかけで
ずいぶん親しくなり、というか、

恋人と呼んでおかしくない関係になったはずなのだが、
退院して三日経っても、当麻からの連絡や来訪はなかった。


そのうちに部屋を移ったのでそれを伝えなくてはと瀬文は携帯を取ったが、
何となく電話をかけることはできないまま一週間が経ち、
それでもやはり当麻の姿は見えないまま。
瀬文は、入院して以来毎日一日も欠かさず当麻が夢に出てくるという悪夢に
健気に耐えているというのに、当麻といえば、
瀬文が入院していること自体忘れてしまったかのように、
一切のアクションを見せてこないのだ。

「……あの、餃子女」

一度くらい連絡してきたって、いいじゃないか。

苦々しくつぶやいてみても、その声は、ぐああ、ごおおという
隣の轟音にかき消される。

この爺さんは、いつも食っちゃ寝をしては
瀬文の聴覚と嗅覚を苦しめているのだ。

今日はいつも食っている食べ物の匂いがしないだけましだと
考えた方がいいのかもしれないが、そういう問題ではない。


警察病院というと、その名称から警察関係者しか使えないかのような
印象があるが、そのようなことは決してない。

故に貧乏クジを引くと、隣で何処が悪いのかまるで分からない爺さんが
身体をぼりぼり掻きながらひどいいびきをかいて寝ている光景との
共存を余儀なくされるわけだ。

その運の悪さと目の前のすさまじい雑音に、瀬文は
何だこのいびきは、わざとやってんのか。と
思わず毒づきたくなるが、自分もあまり人のことは
言えないらしいので大人しく携帯を持って冷蔵庫を開ける。

何か飲みながら、談話室で時間を潰して来よう。
あるいは、その時。

筋肉こそ落ちてしまったものの、もう殆ど以前と変わらぬ
動きの出来るようになった瀬文は、背筋を伸ばして立ち上がる。
冷蔵庫に残ったままになっていた蜂蜜のことは、見えなかったフリをした。

***

病院のベッドで、はずみで結ばれたこと。
そんなことが、二回あったこと。
それでも遊びではなかったと、本気で言えたこと。

談話室の窓際に座って外を眺めながら、瀬文は記憶を整理した。
事件以来習慣になっている、いつもの復習だ。

一度人の記憶を改竄する下種の極みのようなスペックホルダーに
記憶を奪われかけて以来、眠る前や手持ち無沙汰になった際に
瀬文は時々そうするようにしているのだ。

同じことはもう起こらないだろうが、
スペックホルダー達と関わるようになってから
身体能力以外にこれといった対抗手段を持たない瀬文にとって、
それは精神的に必要な儀式になりつつあった。
毎日のように出来事を精査しては、事実をまとめておくこと。
それは同じく事件以来激変してしまった当麻との関係においても、
とても重要なことだった。

『当麻が自分に頼ってくるのは、今だけ』
『傷が癒えれば、当麻はまた何事もなかったような態度をとるに違いない』
『そのとき、自分たちの関係は、おそらくなかったのと同じことになる』

当麻が退院する前、瀬文は今後の自分と当麻の関係について、こう考えていた。
事実現実にはそれと同じことが起き故にすべて想定の範囲内であるとすれば
それまでだったが、
二度もあんなことがあったのに顔を見せないというのはいかがなものか。

『さむいです、瀬文さん』

一緒に過ごした真冬の夜、当麻は部屋を訪れる時、
何故か決まって嬉しそうにそう言った。

一刻も早く暖をとりたいという風情の当麻に押し切られる、
という体裁で瀬文は、心置きなく
自分に甘えてくる棒のように細い女を布団に招き入れることができたし、
最後の三日間なんて、向き合って眠ったのだ。

感覚の鈍いせいですっかり冷え切っている左手をさすってやる時、
瀬文はその冷たさに悲しくなる一方でこの手を守るのは
自分なのだと実感していた。

過酷な当麻の半生の全容を知っているのは、自分だけ。
だから当麻を守るものが居るのだとしたら、それは自分なのだと思っていた。

けれど、現実は違った。
一度は自分に惚れているとしか思えないことまで言っていた癖に、
退院すれば、当麻は結局想像通り自分と距離を置き始め、
今日もおそらく現れないのだろう。

そう思うと胸の辺りが押さえつけられ沈んでいくような気がして、
瀬文はそれを腹立たしく思うとともに、
今日は土曜日だから顔を見せるかもしれない、と
少しでも期待した自分がとてもばかばかしく思えた。

そうだ。こうなることは分かっていたはずだ。
元々人の助けを借りようとしない、
一人で抱えるのが当たり前、という女だ。
弱みを見せるのが嫌なのか単に頼るのが
下手なのかは知らないが、
とにかく、人にするなと言ったことを自分は平気でするようなやつなのだ。

少し一緒にいた程度で、当麻の背負った傷は癒えるはずもない。
それでもひとりで、あたかも何てことはないという顔をして
耐えることを当麻は選ぶ。

瀬文はそれが見ていられなかったし、本来人に頼ったり甘えたりしても
何らおかしくない年頃のはずの一回り年下の当麻が
そう生きようとすることに対して尊敬の念を感じてもいた。

本当は、もっと頼ってくれて構わない。
けれどそれをしないのが当麻だと言われたら、ひどく納得する自分がいる。
今起きていることは全て予想できていたことであったのに、
実際にそれが訪れると、とても傷ついている自分がいたのだ。

瀬文は、誰にも懐かない生意気な猫のような当麻が
自分のそばを気に入っているらしいというのが嬉しかった。

隠し切れなくなるほど傷ついて、何処かに逃げ込みたくなった時に
自分を選んでくれたのが嬉しかった。


舞い上がっていたことを認めたくはない、しかし
好かれているらしいという情報は当麻との関係において
瀬文にほとんど初めてと言っていい優位性を与え、
素直さを誘発させたし、目の前に頭があったら撫で、
寒いといえば引き寄せてやることを得意にすら感じさせていた。

なのに、当麻の気持ちが分からなくなった途端自分はこれだ。
自分から連絡も取れないくせに、ただ待っていることがとてもむなしい。

何一つ確かめてもいないくせに悪いことばかり考えて
倦怠感に包まれては、気持ちが通じている気がしたのは
ただの思い込みだったのかと悲しくなるばかりなのだ。

特に何の根拠もないが、自分たちは特別なのだと思っていた。
もしも肉体関係を持ったという事実が無に帰すとしても
そうして余りある何かが残っていると信じていた。

本当は、当麻のほうこそ連絡を待っているのかもしれない。
にわかには信じがたいが、というか想像もつかないが、
瀬文から連絡してくれることを期待しているのかもしれない。

だけどもし、それが瀬文の都合のいい妄想だとしたら?
宇宙人のように感じていた女と、紆余曲折の末結ばれて、
こうすれば会話できるんじゃないかって自分なりに必死で考えて、

慣れないなりに思いを汲み取って、今度こそ上手くいくと思っていたのに、
スピーカーから聞こえてきたのはわけのわからない雑音だった。


今の瀬文は、そんな気分だった。
ようやく手に入れた情報が、少しも役に立たない。
それ以前に、もう声が届くことはないのかもしれないと悲観している。

結局自分が求めていたのは優越感だったのだろうか?
少し連絡がない、少し声が届かなくなったくらいで
諦めてしまうような、自分達はそういう関係だったのだろうか?
電話をかけてみようか。と思って、負けたような気分になって、
躊躇してやめる。

そうしている間にも、当麻との記憶は薄れていく。
あの時間のことを、全部夢や気のせいだったと言われたら
もう瀬文は大人しく頷いてしまいそうだ。

別に最初から好かれていなかった、ただ利用されただけ。
そんな気までしてきてひどく後ろ向きになり、
投げ出したくなってしまっている。
このままでは、きっと――。

「……だ」
「は?」

携帯のボタンを見つめていた顔を上げると、
瀬文のことを、ひとりのナースが見ていた。
ドアの影から目をカッと見開いて、驚いたように瀬文を見つめている。
それから、

「……恋だ」
「してねえ!」

途方もなくくだらないことを言ってきた。

まったく、どいつもこいつも。好き勝手なことばかりしやがって。
瀬文は立ち上がってスポーツドリンクの入っていた
空のペットボトルをゴミ箱へ放り投げる。

この調子では、何処に行っても落ち着けやしない。
どうなってるんだこの病院は、もう部屋に戻る、と歩き出すと、
一旦止まっていた思考は元に戻って、再び当麻のことを紡ぎだした。

病院の床は今日も同じ音を立てて瀬文のスリッパを受け止める。
そのうちに来た道は後残り少しとなり、自分の病室が近づいてくる。
たとえばこうして歩いていて、次の角から当麻が現れたら
自分はどうするのだろうか。
いつも通り返事をするのか、何故来なかったと一言言ってやるのか。
それとも、もっと別の言葉を投げかけるのか。

結局、答えは見つからない。
どこかでそんなことはありはしないと否定する自分が居て、
それが思考を妨げるのだ。

それを諦めというのかもしれない。
そして、見つからないまま、本当に角を曲がったところに、
当麻が、いた。

「っ――――」
「―――……」

その瞬間、きっと瀬文は硬直していたと思う。
目が合った途端、当麻と瀬文は、お互い喋ることが
できなくなったかのようだった。

お互いにぽかんと口を開け、
ついさっきまで言いたいことがたくさんあったことも、
聞きたかったことがたくさんあったことも忘れ
相手がそこにいる事実に驚いていた。

「……っ!」

そうして、五秒ほど沈黙を重ねた途端、先に動き出したのは当麻だった。
当麻は慌てる故におかしくなったのか手にしていたキャリーを
ゴトンと放り投げると、
何よりも好きで大事なはずの食べ物――どうやらたこ焼きらしい――を
すぐそばで歩いていた女性に押し付けて反対方向へ走り出したのだ。

「おい……!」

何故、逃げるのか。
さっきまで当麻が向かっていた先には、もう突き当たりの自分の部屋しかない。
そこで引き返すなら、一体何しにここまで来たのというのか。

「ちょっと預かってくれ」

瀬文はそれを確かめなくてはいけなかった。

瀬文は弾かれたように振り向くと、突然食べ物を手渡されて、
何が何やら、という顔をしている女性にキャリーと携帯を渡し、
急いでその背を追いかけた。

***

逃げてもあまり早くない当麻は、一度べしゃりと転んだ後、
突き当たりのトイレの前でたやすく立ち止まった。

「……おい。待て、」

しかし、呼び止めようとすると当麻はせわしなく
キョロキョロと首を動かした後一体何を思ったのか
とんでもないところに入っていくので瀬文はついて行かざるを得なくなる。

「当麻」

当麻のことだ、恐らく何も考えずにやっているんだろうが、
このままでは色々と厄介なことになる。
あんなところに行って、誰かに見つかったらどうするつもりなのか。

当麻の信じられない行動に瀬文は呆気にとられたが、
放っておく訳には行かないので追いかけて一緒に中へ入っていった。

洗面台を通り抜け、わき目も振らずに個室に入って
篭城しようとする当麻の腕をつかみ、閉じかけたドアの隙間を滑りぬける。

息を吸い込んだのとほぼ同時にドアは走って、バタンと
大きな音を立てて閉まった。

清掃したての白い床に、四本の足が狭苦しく並んでいる。
要するに、ふたりでトイレの個室に入っているという
実におかしな光景になったのだが、
それを気にしている時間はなかった。

「……何ついてきてんすか。
ここ女子トイレっすよ」
「はあ?」

『おい、何やってんだ、出るぞ』

と瀬文が言うよりも先に当麻が発した言葉は、
いよいよ意味が分からない。
色々とおかしいのはもう死ぬまで直らないらしいが、
勉強ができる割に妙なところで思い込みが激しいのも
もはや修正不能なのだろうか。

「ここは、男子トイレだ」

正しい情報を伝えてやると、思ったとおりだ。
当麻はくわっと目を見開くと、そのままぴたりと停止し、
水をかぶった猫のように呆然としている。
自分のやっていることの普通じゃなさに、今この瞬間気づいたようだった。

――というか。

「普通に女子トイレに入ってったんなら、俺がついて来る訳
ないだろうが。それぐらい推測しろ、本当に京大か?」

『というか。何故、逃げる?』

「うっさーみゃー、いちいち細けえんだよハゲ。
あたしは。たまたまここを通りがかっただけだっつの」
「そういう問題じゃねえ。つうか、お前はたまたま
男子トイレの中を通りがかんのか」
「そうっす」
「捕まるぞ」
「犯罪っすか。何罪っすか。うっかりトイレ間違えちゃった罪っすか」
「迷惑だろ」

一番訊きたいことは、案の定言葉にならなかった。

しかし、躊躇する瀬文をよそに、当麻自身の方は今まさに
まったくだ、と納得している最中のようで、
再度ハッとしたように固まっていたが、そんな話をしている場合でもない。

「とにかく出るぞ。何考えてんだ」

それでもまあ、理解したのならよしとする。
瀬文はつかんだままの当麻の腕を握ると、
すぐさま外へ出るべく、強く引っ張った。
幸い他は無音で、自分たち以外には誰もいないようだったが
そういう問題ではない。

この中へ入ってしまったこと、それ自体がもうまずいのだ。

「あれ、じいちゃん?」

しかし。

「おーい?」

今度は当麻だけではなく、瀬文までもが引き攣った。
廊下から幼い子どもの声が近づいてきて、
やがて、入り口を開ける音がしたのだ。

幼稚園程度と思われる少年の声に、瀬文は聞き覚えがあった。
おそらくこれは、例の隣のベッドの爺さんの孫のものに違いない。
頻繁に来ているので、いつしか声を覚えてしまったのだ。

しかし、今は正体を知ってどうこうという場合でもない。
ふたりは思わず顔を見合わせ、瀬文は手を離すと、
慌てて個室に鍵をかけた。

だが、それは逆効果だったらしい。
子どもは音のした場所に目的の人物がいると思ったらしく、
次にやってきたのは、トタトタという床を鳴らす音。

足音が、さらに近づいてくる。

「あれ?」

なのに、この危機的状況の中、当麻といえば、爺さんって、
瀬文さん呼ばれてますよ。
と言わんばかりに、くいくいと指をさして来る。

この態度、さすがはトンマだ。
このまま放っておくと何をするか分からないので
瀬文は余計なことを喋らないように口を塞いでやったが、
当麻は一体何と戦っているのか、
負けじとその指をがぶりと噛んで来る。

思わず痛みに声を上げそうになったが、
そうすれば当麻の思う壺なので耐える。
ここにいるのはまずいが、入ってしまった以上
もはや見つからないようにするしかない。
事が片付くまで、出るわけには行かなかった。


「あれえ……?」

見つかるのでは、と冷や冷やする気持ちと、
無意味に噛まれていることに対する痛み。
個室を狭く感じるほど無意識のうちに呼吸は荒くなり、
心拍数は上昇する上、歯の食い込んだ指は熱く燃えるようだった。

当麻のすることは、いつも本当に訳が分からない。
して欲しいと思うことは一切してこないくせに、
何故それをする、という余計なことばかり積極的に投げかけてくる。

うろうろといつまでもやまない足音を聞きながら、
瀬文はただ黙って、当麻のしたいようにされていた。
がぶがぶといつまでも噛んでいる当麻の方もさすがに息を潜めており、
というか口を塞がれているおかげでかえって安心、と言わんばかりに
悠々としている。

ああ、殴るべきか、と思ったがこの状況ではそれもできない。
当麻といると、瀬文はいつも自分ばかり不利な状況に
立たされている気分になる。

当麻にとっては別に造作もないことに対し自分ばかりが一生懸命
色々なことを考えていて、無意味に翻弄されている気がしてくる。

「……何処行ったんだろ」

そうやって、爺さんの孫はしばらく訝しげに呼吸していたが、
やがてここにはいないものと判断したらしく静かになり、
ややあってドアの閉まる音がした。
どうやら、ようやく出て行ったようだ。

「……行ったか」
「みたい、っすね」

瀬文は即座に噛んでいた口を追い払うと、ふう、と重たくため息をつき、
ジンジンと痛む左手を振った。
それにしても、彼は、さっきまで見つめていたドアの隙間から、
不自然な数の足が覗いていたことには気づかなかったらしい。
こればっかりは、相手が子どもで助かったと思うしかない。
……さて。

「……何で顔、見せなかった」

おかしなタイミングではあったが、
不意をついたおかげで、今度は自然に聞くことができた。

「へ?」

当麻はのそりと顔を上げ瀬文を見つめると、
とても意外そうな顔を見せる。
無理もないだろう。瀬文の聞き方は、まるで、
少し連絡がないだけでひどく拗ねている
小さな子どものようだったからだ。

言ってからひどく後悔したが、言ってしまったものは
もう取り消しようがなかった。
自分のここ一週間の疑問は、いざ口に出すと、
とても情けないものであったらしい。

「……それは、瀬文さんがいけないんすよ」
「はぁ?」

だが、当麻にはこれだけ分かりやすく伝えてもまだ通じないようだ。

「差し入れもったいないから食べちゃいましたし、
知らないおじいさんにまであげちゃいましたし、
起こすのも悪いんで挨拶もできませんでした」

こちらは正直に言ったのに、
当麻の言っていることはまたしてもまったく意味が分からない。

というか、起こすのも悪いなんて発想が、こいつにもあったのか。
意外な言葉に、瀬文が随分殊勝になったものだなと感心していると、
当麻はどうやら自分がバカにされていると汲み取ったらしい。
むっとしたように顎を突き出し、目をひんむいている。

普段はろくに言葉も通じないくせに、そういうことはすかさず読むのだ。

「だって瀬文さんが。毎日毎日、タイミングよく寝たり
いないのが悪いんですよ。それに、」
「それに何だ」

いまだに話が見えてこないが、急に当麻が口ごもるので促してやる。
顔を見せなかった理由というのを、当麻は全て瀬文のせい、
ということにしようとしているらしい。

呆れる程何処までも往生際の悪いやつだが、
瀬文といえばもう当麻が姿を見せた時点ですでにだいぶ安堵してしまって、
意味不明の理屈を押し付けられるのにも慣れたし、
来なかったことに関してはもう別にいい、という気持ちになっていた。

「……行っても美鈴ちゃんが来てるときも、あったし、」

ただし、それと同時に今度は違う期待も沸いてきて、
瀬文はそれを望んでしまいそうな自分にうんざりしていた。
当麻に振り回されるのはもう勘弁だ。
どうせ違うだろうに、こんなことを考えてしまうなんて、
疲れ損になるだけではないか。

「……じゃあ、お前、しょっちゅう来てたのか?」

内心、とてもそうは思えないまま言えば、
へっ、と、『まるで分かってない』という顔をされた。
当麻はすでに戦闘体制で、顔を傾けて下からこちらを睨んでいる。
どこまでも憎たらしい顔をして、こちらにガンを飛ばしてくる。

「しょっちゅうじゃないっすよ毎日っす。
毎日来てやってたのに、瀬文さんあたしのこと避けてたでしょ。
ひどいっすよね。あたし、ヤリ捨てされてたんすね。
わざわざ席外したり、寝たフリするくらい、
あたしに会いたくなかったんですもんね」

は?

「ちょっと待て。何故そうなる。ただの偶然だろ。
俺は毎日、大体起きて部屋にいたぞ」
「信じられないっすね。ただの偶然で一週間無視され続けた
あたしの身になってくださいよ。
ああもう、これは捨てられたんだって普通思うでしょ」
「それは、こっちのセリフだ。こっちはお前が一切
来てないもんだと思ってたんだぞ」
「何言ってんすか。瀬文さんマジわけわかんないっす。
あっ、ボケました?瀬文さん、マジでおじいさんっすか?
ハゲな上にボケたおじいさんっすか?」
「訳分からん上にボケてるのはお前だ」
「あたっ」

ゴツン、とその頭を一週間ぶりに叩いてやりながら、
瀬文は、湧き上がってくるどうしようもない気持ちに包まれていた。
先客がいるからと遠慮する発想は瀬文にはよく理解できなかったが、
当麻の言うことを信じるのならば、ここ一週間の諸々は、すべて
ただの誤解だったというのだ。

考えただけで、指先が熱くなる気がした。
それではどうにも都合が良すぎる気がして
疑いたくなってきたが、別に嘘でも構わなかった。
あのまま終わりになった訳ではなかった。
当麻は毎日、ちゃんと自分のことを気にしていた。

「せぶみさん?」

黙り込んでしまった瀬文を、当麻が不思議そうに見上げてくる。

それを見て、瀬文は、しまった、と思う。
今の自分は、どうせほっとした顔をしているのだろう。
瀬文は今すぐにでも自分の顔を隠したかったが、
その前に覗き込まれてしまったのでもはや手遅れだった。

「せ――……」

半開きにした当麻の唇が、濡れて光っている。
狭すぎるせいで、髪が瀬文の肩にかかっている。

顔が近づいたせいで当麻の顔に瀬文の陰が落ち、ただでさえ
薄暗い個室がさらに狭く感じられた。
見下ろした途端当麻の踵が白い壁にぶつかる音がして、
そのまま顔を傾けてみたのは、多分一瞬だったと思う。

「……あ、」

誰もいない小さな空間で、当麻の虚を突かれたような声は、
存外大きく響いた。

その中で瀬文は、頬に触れ、唇を重ねるとともに、左手を握り締めた。

それはいつもの通り冷たかったが、今はそれが心地よく感じられるほど、
何もかもを暑く感じていた。
さっき自分に噛み付いてきた口内は熱く、部屋は暖房が効きすぎている。
冬なのに汗が滲み出てきて、正直なところ、ここがここじゃなくとも、
早く出たいと思うような場所だった。
それでも。

「ん、……ぁ」

そんな場所で、気づくと、二人は無我夢中でキスをしていた。

時々薄目を開けてはお互いがどんな顔をしているのか見ようとし、
それを同時にやるものだから常に失敗に終わるせいで、
いつまでもやめることができなかった。

周りが白いせいで、舌がいつもより赤く見える。
濡れた付け根がぶつかるたび、とても遠いところへ
連れて行かれるような気がする。
そのうちに背中がガタン、と壁に当たる音がし、
振動でドアまでもが揺れたが、もう気にしなかった。

どうせ見つかるまい、誰か来てもまたやり過ごせばいい、と思うほど、
今度は動きたくなくなっていた。

「ふ、」

ぴちゃ、ぴちゃ、という音とともに、お互いの舌が相手のせいで
ぬるりと湿っているのが見える。

「ん……ぁ、」

左手を離して壁に手をつくと、もう一度ゴトン、とぶつかる音。
どうやら頭を打ったらしく、上半身がふらついたので
もどかしくなって腰を支えてからきつく抱きしめた。

そのまま舌を吸うと、もう当麻はやり返してこなかった。
応戦する気力もないほど全身の力は抜け、
おとなしく、瀬文のなすがままになっている。

それが好ましくて、両手で壁に手をついて瀬文は当麻を追い詰めた。
どうせ、優位に立てるのは今だけだ。
ブスの癖にいやに形のいい顎を力任せにつかんで、
その中をむさぼっても何も言われず、
あたかも自分が勝ったような気で居られるのは今だけだ。

自分はどうせ、いつも当麻に負けている。
今も何も掴めないし、理解できてない。
話す言葉は異国語と同じで、このまま永遠に理解できないのかもしれない。
それでも、多分、きっと。

「ぁ……」

そうして、どれくらいの長い間ここが何処なのかも、
ここをさっきまで慌てて出ようとしていたことも忘れて
動かずにいただろうか。

「……あ、れ、」

すっかり今が何時かも、それどころか誰が近くを通ったかも
分からなくなってきた頃、とうとう唇を離すと、
不意に思い出したように当麻が奇怪な声を上げ、
不満げに瀬文を見上げてきた。

「……くちびる、カサカサじゃない」
「あ?」

さっき、当麻がようやく意味の通じる言葉を
発したような気がしたのに、もう言語状態が元に戻ってしまっている。

「……これ、おかしいっすね。……は、瀬文さ、ん、ありえ、ないっすね」
「だから、何なんだ」

しかし、意味が分からないなりに、何となく予期できてしまうから恐ろしい。

「何、なんだ、じゃ、ないっすよ。一体、どこの女と、ちゅーしたんすか」
「何の話だ」

当麻がどのような方向で絡んでくるか、瀬文は何となく
理解できたような気がして、そんな自分に落胆させられた。

そもそも唇がそうなったのは単に乾燥から開放されたからだけなのだが、
つき合わされているうちに、理解不能だったはずの当麻の言葉が、
何故かバベル以前に戻されたらしい。

「あ、それとも、男、っすか」
「だから何の話だと聞いてる」
「わかるっ、しょ」
「分かるか」

当麻は長いことキスしていたせいで息も絶え絶えのくせに、
減らず口をなくす努力もしない。
その上話の運び方があまりに不自然なせいで、
こういうときに限って当麻が自分に何を言わせたいのかわかってしまう。

瀬文は当麻の言動行動のおおよそが理解できない。
今までそれに散々振り回され苛々させられて来たが、
時たま理解できると、何故かひどく安心する。
今の瀬文には、分からないことが一番恐ろしい。
適当な想像をして、意味もなく悪い方向に行ってしまう。

「誰とも、してねえ。お前だけだ」
「ほお」
「これでいいだろ」
「それでいいです」

まったく、何様になったつもりなのか。

望みの言葉を言ってやると、それを聞いた途端当麻は
にんまりと微笑み、満足げに抱きついて来る。
てっきりコケにして笑い出すだろうと思ったのだが、
そうではなかったらしい。

ベタベタの汚い髪が視界の下で嬉しそうに動いていて、
考えるまでもなくそれは気持ち悪かったが、
結局自分が待っていたのはこの気味の悪い女なのだと思うと
そんな自らの心持ちを呪うとともに、
非常に不本意ではあるが、自らの運命をそろそろ受け入れるべきでは、
という気分にもなってくる。

「じゃあ、もう一回」

にやにやとほくそ笑みながら、当麻が、すっと右手を伸ばしてくる。
お前、ここが何処だか分かってるか、と言いそうになるが、
言ったらどうなるか分かって、瀬文はあえて口をつぐんだ。

認めたくないが、その通りだ。瀬文は今ここが何処で何時なのか
思い出さないように、思い出させないようにしている。
理由は言わなくても分かるだろう。
言葉を発してもまるで分からない、通じないことがあるのに、
何もしなくても伝わってしまうような、
そんなこともこの世の中にはあって、どうやら自分たちは、
今それに浮かんでいたいのだ。

それから、多分――。

「わ、」

そんなことを考えているうちに当麻はまたすぐに足をぶつけ、
あっという間にふらつき始める。
腕を出して掴まれるようにすると、すぐに握ってきて、
どうにか自分を支えている。

それにしても、まったくまともじゃない。
こんなところで、こんなことをするなんて。
当麻が少しもまともじゃないせいだとはいえ、
次はもう少しましなところに連れてってやろう。

言えばどうせこいつは図に乗って面倒になるだけだろうから言わないが、
少なくとも、ここよりはいいところ。
そういう場所を、考えておいてやらないこともない。

「せぶみさん、――……」

そんなことを考えていると、当麻が小さな声でつぶやく。

そうか、そういうことだったのか、なるほど。
瀬文は目を閉じ、ようやく届いたその言葉に身をゆだねた。

ドアの向こうには、まだ誰も、来ない。






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