上田次郎×山田奈緒子
![]() 温泉郷から戻って来てひと月が過ぎた。 相も変わらず花やしきや地元商店街にて客を消したり笑い者にされたりしながら、腸天才美人マジシャン山田奈緒子は、心穏やかでない日々を過ごしていた。 身辺に黒門島の気配が!──とかいういつもの最終回的展開ではない。 ではないが、奈緒子の心身を脅かすに充分な日々がこのひと月というもの続いているのである。 原因は上田だ。 生まれついてのひどい巨根を嘆く姿がつい哀れになり、何かの間違いでうっかり相手をしてやったのが悪かった。 不惑に近い年齢で初めて開かれた人並みの性行為の世界にすっかり嵌ったらしい上田次郎は、あれからというもの奈緒子に、照喜名か秋葉が乗り移ったかのような行動をたびたび見せるようになったのである。 いや、照喜名や秋葉レベルならいい。彼らは奈緒子に手出しはしないからだ。 アパートに戻れば奈緒子の部屋で勝手に人の茶を啜っているのは……いつもと同じか。 道を歩いている時なども、最近なぜだか偶然次郎号が通りかかる確率が増えたような気がする。 「パンの耳が袋に三つか、大漁だな。you、重いだろう?送ってやる。ほら乗れ!ほら!」 断ろうにも腕を引っ張られ、強引に車内に拉致される。すでに誘拐の域である。 あるいは、弱々しい声で「…もしかしたら俺は数十年後に死ぬかもしれない」と訴える電話が深夜にかかってくる。 早く死ねと言って電話を切ると「なぜ心配して来ないんだ!」と訪ねてきたでかい図体に押し倒される。 こんな日々が、ひと月。 奈緒子ならずとも心穏やかに過ごすにはキビしい毎日である。 * そして今奈緒子は、日本科学技術大学上田教授の研究室にて、ごたついた大きな机に某有名老舗和菓子店の紙袋を叩き付けていた。 どうせなにかの罠だから来たくはなかったのだが、上田が今朝電話でどうしてもとある場所に手みやげに持って行く都合があるから必要なんだと泣きついてきたのである。 お駄賃は十万円だと口走るので奈緒子はついその金額に目がくらんだのだ。 誰が貧しい彼女を責められよう。 「羊羹だ。売れっ子マジシャンがこの忙しいのにわざわざ仕事を抜けて買ってきてやったんだぞ、ありがたく思え」 上田は読んでいた学術誌を置き、目の前に差し出された奈緒子の掌を見た。 「なんだ?」 「お駄賃ははずむって言ったじゃないか、上田」 「言ったっけ」 「言った!」 上田はごそごそとあちこちのポケットを探り、一枚の五百円硬貨を取り出した。 奈緒子は憤慨し、掌を激しく上下に打ち振った。 「十万円!じゅ、じゅーまんえん!!」 「残りの九万九千五百円は後日改めてという事で…どうだ…」 「…当然、利息はつけるんですよね?」 「…いいだろう」 「じゃあ、トイチで」 「おいっ」 上田は五百円玉を摘んだまま椅子をひき、立ち上がった。 思わずびくりと胸をそらした奈緒子にむけ、制止するようにもう片方の手をあげる。 「まて…よかろう。それより、まず確実にここにある現金を手渡してやる。欲しいだろう……動くなよ、you…」 「………」 じりじりと奈緒子は後ずさろうとした。 はげしくいやな予感がする。 本当は即座に逃げたいが銀色の硬貨の魅惑的な輝きからなかなか目が離せない。 貧乏とはつくづく悲しいものだ。 奈緒子はちらりと横目で、入り口ドアまでの距離を測った。 幸いなことに、無闇に大きな机が二人の間にはある。 この大男が周囲を回り込んでくるまでの時間を利用すれば、きっと…。 いきなり上田が椅子を背後に蹴倒し、長い脚で机に飛びあがった。 雑誌、紀要、学生のレポート、学内のお知らせの類がマ○リックスの静止画像のように空中に散乱した。 まさかそう来るとは思わなかった奈緒子は口を開け、目を見開いた。 それが命取りになり、次の瞬間には床に飛び降りた上田に肩をがっちり確保されてしまっている。 ひげ面がにやりと笑った。 「youを捕まえるのは本当に簡単だな」 「こ、この…!やっぱり罠かっ」 「罠だなどと人聞きの悪い事を……」 上田は五百円玉をズボンのポケットにしまいこむと、奈緒子をひょいと脇に抱えた。 「しかも自分のポケットか!」 上田はじたばたしている奈緒子に斜め高みから眼鏡越しの変なウィンクを寄越した。 「後でyouにやる」 「後…」 何の後だ、と尋ねる気も奈緒子はなくした。 ──どうせ上田の目的はアレにきまっている。 部屋の中央に鎮座する立派な来客用のソファに座らされた奈緒子は、隣に並んで腰掛けた上田の腕を掴んで揺さぶった。 「……今日の講義は。仕事はどうした、上田!」 「大人気の『一般教養・物理』は上田教授の御都合により残念ながら休講だ。既に掲示もされている。安心しろ…」 給料ドロボーとは上田のような人間を指す言葉だろう。 「youをおびき…いや、呼んだのはな、朗報があるからだ」 「ヨーホー…?」 「わざとか。朗報だ、朗報!」 上田はベストの下の胸ポケットから大事そうに小さな箱を取り出した。 目の前に突き出されたそれを奈緒子は観察した。 マッチ箱にしては大きい。 目立つロゴなども無い。上品というか、地味な色合いの、特徴のない箱である。 そして箱には、異様にうまい亀甲縛りで赤いリボンがかけてある。 「…………」 上田にはマジシャンである奈緒子に間抜けなトリックで挑んでくる無謀な癖があるのだが、これもそうか。 この怪しい箱にもなにか仕掛けがあるのだろうか。 「なんですか、これ」 奈緒子はうさんくさそうにリボンをつまみ上げた。 上田はニヤリとひげ面を綻ばせた。 「俺はな。あの温泉から戻ってからすぐ歯医者に行ったんだ。完璧な歯を維持するための、恒例の虫歯チェックにな…」 「はあ?」 いきなり話がとんだので奈緒子は眉をよせた。 「診断結果はもちろんパーフェクトだったよ。当然だ!幼稚園の虫歯デーで習得した技術に独自の論理的改良をくわえた次郎スペシャルブラッシングをずっと施しているからな!そうだ、そういえば、あまりの白さに歯医者が感動して…」 「上田!」 上田は奈緒子に視線を戻した。 「……開けてごらん」 奈緒子の眉間に皺がよった。 「歯医者の話は?」 上田はふっと笑い、ソファに深く腰掛けて膝に肘をついた。 「昨夜、マンションにやっと届いたんだ。youへの……プレゼントだ」 「え…」 奈緒子は、目を少し見開いた。 驚きとも羞らいともつかぬ繊細な表情が生まれ、揺れた。 「上田さんから……?」 「でも……」 奈緒子はリボンを弄った。 頬がほんのりと染まっている。 「そ、その…だな、以前から、お母様にも君の事は頼まれているしな」 上田は早口で言った。 「上田さん…」 「遠慮はなしだ。……俺の気持ちだ」 「…………」 黒髪を揺らし、奈緒子は不安げに上田の横顔を見つめた。 上田は、こちらも照れくさ気にひとつ咳払いをし、虚空をみつめた。 「……黙って受け取ってくれればいい」 「………」 奈緒子はソファにきちんと座り直し、複雑な結び目に苦戦しながらようやくリボンをほどいた。 震える指で箱をそっと開ける。 中には個別包装された男性用避妊具がぎっしりと鎮座していた。 「…やっぱりこれだ!!!」 奈緒子は叫んで膝から箱をたたき落とした。 「何をする!わざわざ特別注文した貴重な品なんだぞ!」 「上田っ!お前、こ、こんなもの私にプレゼントするってどういう気だ」 「歯医者で見てたんだよ、雑誌を。『週間純情女性』だ。俺は普段は女性誌には興味はないんだが、表紙の小特集見出しが『満足してる?彼とのセックス』というやつで…」 「か、彼!?上田、お前、私の、か、か、彼のつもりでい」 「俺はもちろんその特集を熟読した。トータル8回、今でも空で暗唱できるほどにな。それで……最後の匿名座談会に書いてあったんだ…… A恵『なんのかのいって一番最低なのは、避妊しない男よね』 B子『ほんと。バカなエロビデオの見過ぎだっつの。膣外射精してるから大丈夫とか言ってさ、そんなんで100%避妊できるわけねーだろ!死ね!自分のペニス引き延ばして噛んで死ね!』って……」 裏声で座談会を復唱し終えた上田は肩を落とした。 可憐な誌名とは裏腹にかなりアグレッシブな小特集だったらしい。 「………そういうわけだ」 「いや、だから……」 奈緒子は赤くなりながら床に転がっている箱を指差した。 「わ、私にくれなくても……上田が使えば、い、いいじゃないか…」 「you」 上田は哀れっぽい犬のような目つきになった。 「……どうせなら俺はyouにもこれの付け方をマスターしてもらって、優しく、youの手で……そ、装着プレイをしたいんだよ!」 「おいっ!」 「そういうわけなんだ……」 上田は顔を伏せた。 眼鏡をはずし、テーブルに置く。 あがった顔は爽やかで、なにかが綺麗に吹っ切れたようだった。 「わかったか?じゃあこれから一緒に特訓するぞ!」 「おいっ!!!!」 奈緒子は急いでよけようとしたが大男の動きの方が早かった。 ソファに押し倒されつつ奈緒子は必死で彼の注意を喚起しようとした。 「こ、ここ大学ですよ!だれかが入ってくるに決まって……」 「関係者には明後日まで出張だと通知している。あー、留守中は業者が来て改装する予定だから立ち入り禁止だともな…はっはっは、何の心配もいらないんだよ、ハニー」 石頭のくせに上田はこういうみみっちくこまやかな悪知恵だけは働く男なのだ。 奈緒子は赤くなった。 「なにがハニーだ、バカっ!」 上田は奈緒子の耳に唇を近づけ、低い声で囁いた。 「……照れるなって!」 「照れてるんじゃない、なんだかこのあたりにブツブツが出てきました」 奈緒子は粟立った腕を上田の前にかざして見せた。 「それは俺の声に君の躯が感じているんだ……我ながら罪なセクシーボイスだ……」 「……上田さん、あの」 「なんだい、ハニー」 上田は優しい顔で笑ってみせた──つもりだろうがかなり気色の悪い笑みである。下心が透けているからだ。 奈緒子は真剣に忠告した。 「上田さん、変ですよ。いえ……元々すごく変でしたけど、最近、もっと変ですよ。病院に行ったほうがいいと思います」 「そうか。変か」 いつもなら「失敬な!」と怒るはずの上田の笑顔は微動だにしなかった。 「そうかもしれないな。…全て君のせいだ」 もしジュースを飲んでいたら噴出させていたに違いない。 餅ならばむせた拍子に喉につまらせ、奈緒子の勇気ある○乳生涯は終焉を迎えていたかもしれない。 奈緒子は目を白黒させた。 「う、うえだ……?」 「君も最近おかしいぞ。いつもは素直じゃないくせに、例えば三日前のyouはどうだ……」 上田はうっとりと続けた。 「あの夜、youはいきなり俺のマンションを訪ねてきた……」 「上田さんが三十回以上連続で電話してきたからですよ。近所迷惑だから二度とするな」 「よっぽど俺に逢いたかったんだろう。目を輝かせ、頬を紅潮させ、息をきらせて…」 「だって、最後の電話で松坂牛の特大ステーキを焼いてるって言うから」 「ドアを開けるやいなや俺にとびついてきて…」 「そこ!『に』じゃない!『が』だっただろう!!」 「その場で……まいったよ、はっはっは、俺とした事が…youがあんまり可愛い声をあげるから……」 奈緒子は真っ赤になり、脳内世界にどっぷり浸かって喋り続ける上田の頬をつまみあげた。 「しっかりしろ上田っ!も、戻ってこい!!」 「おおぅ……」 上田はずれた眼鏡をなおしつつ、目の焦点をあわせ、奈緒子を見た。 咳払いをする。 「……ともかく、そういう事なんだ」 「なにが!?」 「君、最近…」 上田は小さな声で言った。 「とてつもなく感じてるだろう。え?」 奈緒子は固まった。 「youが俺を避けるのも、俺との行為に感じている自分を認めたくないからだ………」 「……………」 上田はニヤニヤしながら固まった奈緒子の手をとった。 「二言めには巨根巨根と、あんなに厭がってたのに……なあ!!」 「くっ………!!!」 奈緒子はあまりの屈辱にぶるぶる震え始めた。 「い、厭だって…言ってるのに…お前が何回も何回も、す、するから……!」 「素直になれよ。この照れ屋め!」 上田は奈緒子を抱きすくめてきた。 ギシッとソファが不吉な音をたてる。 「それでいいんだ!感じて、感じて感じて感じ抜いて、『上田様が私の全てです!』と俺の足に縋り付いて泣け!!」 「そっ、そんな恥ずかしい台詞は死んでも言わないぞ!放せ、上田!」 「はっはっは!安心しろ、you……すぐに言いたくなるから」 彼は奈緒子の服の釦を探し始めた。 「やめろってば。……この、や、やりたいだけの、バカ上田め!」 上田がふと手をとめた。 「奈緒子……」 びくっとして奈緒子は上田を見た。 どうも、たまに上田がそちらの名前を呼びたがるのにはいつまでたっても慣れなかった。 「『やりたいだけ』ならyouなんかじゃなくて、もっと胸も性格もどーんと豊かな女性を選ぶとは思わないのか?」 「上田っ!」 「これだから論理的な思考のできない人間は困るんだ。──俺はyouを抱きたいんだよ。たくさん、たくさんな」 あまりにも直球の言葉に、奈緒子は呼吸を忘れて再度固まった。 上田が微笑した。 その笑顔は、なぜか今回奈緒子にはあまり気色悪くは思えなかった。 おかしくなっているのは上田だけではなくて、奈緒子のほうなのかもしれない。 「つまり、『ジュブゼーム』……という事だ」 奈緒子を抱き寄せ、彼は小さく呟いた。 「それ、言うなってば!」 ぞくぞくっとした奈緒子は上田にしがみついた。 「もう何回も言ったと思うが」 「でも、こんなとき、言わないで。ずるいです。それ…プロポーズの」 「ふん。だから言ってるんだ、愚かな女だ…ジュブゼーム。ジュブゼーム……」 「やめて。やめて、上田さん……!!」 腕ではなく背筋を粟だたせているものは奈緒子が快感以上に認めたくないものだった。 歓喜に近い高揚。 身勝手な弱虫の上田ごときに囁かれるその特別な言葉でこのような感情を味わうなどもってのほかである。 これ以上溺れたくない。 上田に溺れたくない。 こんな変人で傲慢な勘違い男に引っ掻き回されず、亀やハムスターとともにもとどおり、穏やかに美しく大人気天才美人マジシャン(自称)として……奈緒子は愕然とした。 元通りの生活。 無神経な大男に煩わされることのない生活。 永遠に上田次郎のいない日々。 それがもはや想像できなくなっている自分に気付いたのである。 まあ、その、性生活は別としても。 目に勝手に涙が盛り上がってきた。 しゃくりあげるように息を押し殺した奈緒子に、上田は不審の目を向けた。 「you…?」 「上田のバカ!」 一声叫び、奈緒子は上田を睨んだ。 「なんなんですか、自分ばっかり。一人で言いたい放題ぺらぺら喋りやがって。この、この」 「天才教授」 「天…変人教授!言いにくい事全部先に言うなんて、ずるいぞ!この」 「高額所得者」 「高が…きゅ、給料ドロボー!…私、わたし、どうすればいいんですか?上田さんばっかり……!この」 「いい男。……いいか。you、もう言わなくていい。何も言わなくていいんだ」 「いいおと……え?」 奈緒子の滑らかな頬を上田の指が愛しむようにゆっくりと撫でた。 「口先でなんと罵ろうと、君が俺の事を以前にも増して慕っているのはわかっている。当然だ。今や俺はyouの献身的な奉仕により唯一の弱点が解消され、いささかの瑕瑾も見当たらない輝かしいまでに完全な存在──言わば『スーパー次郎』になったんだからな…」 「……やっぱり『巨根で童貞』がものすごいコンプレックスだったんだな、上田……エヘヘヘ!」 「うるさいな!」 上田は怒鳴り、顔を近づけて奈緒子の唇を塞いだ。 「………………」 「………………」 顔をはなし、彼は奈緒子に囁いた。 「練習が済んだら、長野に行くぞ」 「……え?長野?」 奈緒子の服が釦のないカットソーであることにようやく気付いたらしい上田は頷いた。 「だから君に羊羹を買ってきてもらったんだ。お母様、お好きだったろう。あの羊羹」 「どうして長野?」 「……挨拶だよ」 「なんの挨……」 「……一緒に来ればわかる」 上田は目を泳がせ、カットソーの裾に手を突っ込んだ。 「それに、youにはほかにもプレゼントがあるんだからな」 「……どんな?…ん…っ」 「……………」 「…………お、い?」 「……九万九千五百円をチャラにするなら教えてやってもいいが」 「上田っ!」 * 上田教授の講義はそれからもごく時たま意味もなく休講になる事があったのだが、それはまた後の話である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |