次郎号走る
-2-
上田次郎×山田奈緒子




「…you」
「………」
「しりとり、しないか」
「………」
「しりとり」
「………」

単調なエンジン音をぽつぽつ破るのは時折俺のかける声だけだ。
山田は黙りこくっている。重苦しい雰囲気に、俺は溜め息をついてまた運転に専念した。
自業自得という言葉をまた苦々しく噛み締める。
こうなるんじゃないかと思ったんだ。
だからややこしい関係になることを、きっと俺は無意識のうちに避けていたのかもしれない。

──以前のような気楽な間柄に戻れれば一番いいのだが、それも甘い期待かもしれない。

だが、スッキリしない事がある。これくらいは確認してもいいだろう。

「you」
「……」
「さっきから考えてたんだ」
「……」
「君がみた夢なんだがな…」
「…?」
「黒門島がらみなんじゃないか?」
「!」

激しい動揺の気配が伝わってきた。俺は少し満足し、シートに座り直した。

「そうだと思ったよ。君が変になるのは大体あの島のせいだ」
「……どうでもいいじゃないですか」

声は細かった。

「上田さんには関係ないですよ」
「関係あるだろ」
「ないんですよ。全然」
「おい…」

俺は横目で山田を睨む。全然関係ないってのはないんじゃないか──俺はこいつを、わざわざあの島から。
山田の横顔は半分髪の毛で隠れていて、よく見えなかった。

「…上田さんは関わっちゃだめです」
「そういう夢だったのか?」
「………」
「とっくに関わってるじゃないか、いろいろ」
「………」
「教えろよ。どんな夢だったんだ?」
「……私……」

山田の声は小さくて、聞こえにくかった。

「待て」

俺はハンドルをまわして、次郎号を路肩に止めた。
エンジンを切ると、対向車も滅多に通らない深夜の車内はしんと静まり返った。

「…どんな夢だったんだ」

俺はハンドルに手をかけ、前方に視線をむけたまま山田に呼びかけた。

「どうしてそんなに知りたいんだ、上田……物好きだな」

山田の声は相変わらず小さい。
俺は頷いた。

「当然だろ。常に探究心を忘れないのが優秀な学者の条件だ」

違う。君の事が知りたいだけだ。

「今更遠慮すんな、なにかの役にたつかもしれないぞ。言ってみろ、ん?」

山田は苦笑した。

「役に立ちませんよ」
「今まではちゃんと君の役に立ったじゃないか」
「……役に立っちゃ、いけないんですよ」

俺は首を巡らせ、山田を見た。
トランクを抱えた腕、ぎゅっと取っ手を掴んだ指。

「言わないと車出さねえぞ。どんな夢だ」
「………」
「you。ここで夜明かしする気か?」
「………」

山田はふぅっと、糸が切れた人形のような動きで座席に背を預けた。

「…聞いたら、上田さん、怒りますよ」
「怒るかどうか聞かなきゃわかんねえだろ」
「怒りますって」
「どうせ死ぬんだろ、俺が」
「……」

山田はのろのろと顔をこっちに向けた。

「…湖に」

俺はその視線を受け止めた。

「私と上田さんがいるんです」
「………」
「私はかがみ込んでて……」
「………」
「上田さんを、抱きしめてます」
「………」
「上田さん、死にそうなんです」
「………」
「私、泣いてて…死なないでって、叫んでて……」
「………」
「でも上田さん、だんだん静かになっていって……」
「………」
「ふっと顔をあげたら、……小さい女の子がいるんです」
「………」
「髪が、長くて。……私。小さな頃の、私が」
「………」
「私が、いて……」
「………」
「…お父さん……みたいに……っ…厭…!!」

山田の膝からトランクが半端に滑り落ちた。頭を抱え、山田は細く叫んだ。

「いやっ!!」

「山田!」

トランクを引っ張り出して後部座席に放り、俺は身を揉む山田を抑えつけた。

「山田」
「やだ、やだ!やだっ!」

山田は首を振り、俺が傍にいることに気付くとますます怯えた目になった。

「上田さん」

涙でいっぱいのこいつの目を、今夜俺は何度みることになるんだろうか。

「上田さん、私に近づいちゃだめですよ。絶対、だめです」

──だからか。

「馬鹿だな、君は……夢は夢だろ」
「……」

山田は目を見開いて俺を凝視した。涙がぽろぽろとこぼれ落ちて行く。

「で、でも、私は、上田さんと一緒にいちゃいけないんです。厭なんです。上田さんが──」
「物理学の権威で大学教授の俺が、youは馬鹿だって言ってんだよ!」

俺は山田を怒鳴りつけた。
久々に、本気で腹が立っていた。

「youが言ってるのは『確定済みの未来』なのか?そんなもの、この世にあるはずがない」
「………」

山田の目にどんどん新しい涙が盛り上がっていく。
底なしの馬鹿だな、こいつ。

「未来なんて、いくらでも変わっていくもんだろう。いや、変えていくものだ。俺はyouの思い通りにはならないぞ」
「………」
「大間違いなんだよ。youは過去だけに囚われて、俺を見ようとしていない」
「……上田」
「怯えて一生過ごす気か。馬鹿すぎて呆れたよ、youは馬鹿だ。馬鹿め。この馬鹿めっ!」
「ば」

山田の頬に一瞬朱が走った。

「…ば、馬鹿ばか言うなっ」
「反論できないだろう、どうだ馬鹿」
「上田っ」

殴り掛かってきた山田の腕を、俺は掴んだ。

「好きだ」

息をのみ、瞬時に山田は固まった。

「……youもだろ」
「!」

動揺しまくっている山田の目がおかしくて、俺は思わず笑い出しそうになったが我慢した。
また悪質な冗談だと思われたらたまらないじゃないか。

「それでも、俺たちは一緒にいちゃいけないのか。you」
「………」

山田は口をぱくぱくし、俺の目から視線を外して鼻や顎のあたりに彷徨わせた。

「いいな、you、俺は君の傍でしつこく生きてやるぞ」
「駄目なんです!私、私と一緒にいたら──」
「俺は幸せになれる」
「………」
「百五十まで長生きして、俺より二十年ぐらい早く死ぬyouの臨終の枕元で嘲笑ってやる。バァーッカ、ってな!」

山田の綺麗な目。

「だから、逃げるな」
「………上田」

山田の唇の端が歪んだ。笑おうとして、泣いてやがる。

「どこまでも、自分の都合だけじゃないか……」
「そうだよ。悪いか」
「私の都合はどうなるんだ」
「youの都合なんか聞いてねえよ」
「ひど…」
「なあ、知ってるか。……youの泣いてる顔、可愛いぞ」

狭いベンチシートで山田の躯を助手席のガラスに押しつけた。
すぐに俺は──いや、俺たちは、キスに夢中になった。

本当に好きな女とキスした事あるか?
俺は、今までキスっていうのは単なる段階なんだろうと思っていた。
キスという単独の行為が厳然としてあって、そこを通過して次の段階に行くためのステップだと。
仕方ないじゃないか、童貞なんだから。
でも、実際に山田と交わしたその時のキスはステップなんかじゃなかった。
それは渾然と入り交じった欲望と相手を想う感情の証明手段で、ほとんど性行為そのものだった。
キスする場所は唇だけじゃなくて、髪も頬も瞼も鼻もこめかみも耳も、首も顎も、うなじのきわも、手も指も爪も──とにかく、触れられるところに全部だ、そうでもしないと気が済まなかった。
山田の躯をまさぐって、ほかに出ている場所がないか俺は必死で探した。

邪魔だ、服が邪魔だ。
それにこのシートは狭すぎる。
はあはあと息を荒げながら、俺は顔をあげた。目の前のガラスが曇っていた。
俺の顎のひげに、山田がキスしている。
可愛いんだ。もう離したくない、俺のものにしたい。こいつとセックスしたい。

「──山田!」

俺は山田の腕を解き、運転席に戻った。

「行くぞ。youも探せ」
「何を?」

山田はシートの端っこに張り付いたまま、乱れた髪をかきあげ、小さな声で訊ねた。
その恥ずかしそうな響きに俺は笑った。

「ラブホテル」

宿屋に戻るという選択肢は頭になかった。それには遠くまで来すぎている。
俺はシートベルトもつけずに、次郎号を急発進させた。
この愛車をこれほど早く走らせた事は数えるほどしかないだろう。

田舎道はいつのまにかよくある田舎の郊外に変わっていて、一番先に目についたネオンの下に垂れているビニールカーテンの中に、俺はパブリカを滑り込ませた。

「急げ、山田!」
「鍵、上田。鍵!」

助手席から山田を引きずりだし、次郎号を施錠しておいて俺はあたりを見回した。
ラブホテルは初めてだから──よくわからない。とりあえず目をひくパネルに大股に近づいてみる。
様々な装飾の部屋の写真が輝いている。どうやら、この中から選べるようだ。

「どれにする。好きなの選べよ」
「そ、そんなの……どれでも同じですよ」

俺は山田を見た。……くそっ、可愛過ぎないか、こいつ。

「俺もそう思う」

パネルを確認もしないで俺はついているボタンを押した。
音声指示の通りに金を入れると静かに銀色のカードキーが滑りでてきた。──便利だな。

「205だ。山田、来い」
「はい」

俺と山田はきびきびと──というか、せかせかと近くのエレベーターに駆け寄った。
足踏みしたいような気分だった。

205号の部屋は、なんていうのか、やたらに赤い部屋だった。
扉は赤、カーペットも赤。カーテンも赤、サイドテーブルも電話も灰皿も赤、ベッドカバーも赤。
磨りガラスの向こうの浴槽も赤、トイレの便器もペーパーホルダーも赤。……徹底してるな。
俺の隣で山田が呟いた。

「……テレビの二時間ドラマとかで、いかにも最初の殺人事件が起こりそうな部屋ですね」
「同感だ。山田」
「はい」
「風呂に入りたいか?」
「……い、いいです」

山田は俯いてまっかになった。

「寝る前に、入ったし」
「よし!」

俺は山田にかがみ込んだ。背と膝に腕をまわし、ぶんと音がしそうな勢いで抱き上げ、部屋の奥に突進した。

「上田…」

一緒にベッドにもつれ込んだ。
邪魔な服を剥ぎ取ろうとして──俺はふと指をとめた。
何かが気になる。
俺は頭をあげ、赤いサイドボードをもう一度ちらりと見て、何が視界にひっかかったかを確認した。

「…………おおぅ」

馬鹿だ、俺は。

「………」

一瞬黙っていようかと考えたが、そんなわけに…いくわけないか。
俺は渋々、山田の耳に囁いた。

「you」
「ん…」

山田から、くらくらするようないい匂いがする。
ボタンを外した襟の奥からだ。これは、こいつの躯の匂いだったのか。

「思い出した。その……。あれだ。コンドーム……用意してきてない」
「………今言うか、それ」
「そこにも置いてあるけど。…その、俺は、普通のじゃ駄目なんだ」

山田が紅潮した可愛い顔を俺にあげ、ぼそっと呟いた。

「巨根って、ホント大変だな」
「………」

反論…できないな。
俺は長い溜め息をついた。肺の底まで吐き出したかった。
これだけ盛り上がっておいて、このオチか。つくづく俺は童貞とおさらばしにくい人間らしい。

「すまん」

腕をつき、起き上がろうとして、俺は首にまわされた山田の腕に気がついた。

「バカっていう奴がバカだって、上田いつも言うけど、ほんとなんだ…」
「you?」

俺の鼓動が急に一拍とんだ。
体中がかあっと熱くなる。

待て。まてまて。
何期待してるんだ、次郎。

山田は赤くなった顔を俺の胸にすりつけて、ものすごく聞こえにくい声で──。

「とっくに覚悟してるぞ。でなきゃそこの灰皿で、上田さんを殴って逃げてます」
「ゆ、you?」
「いいって言ってんです!…上田さんがいやなら、いいけど」
「に、妊娠してもいいのか?」
「…いいですよ」
「俺の子だぞ」
「そうでなかったら、怖いだろ」
「妊娠したら産まなくちゃいけないんだぞ」
「普通はそうですね」
「お、俺と絶対に結婚しなくちゃいけなくなるぞ?」
「それはこっちの台詞だ」
「俺はいい」
「私もですよ」
「後悔しないか」
「そっちこそ」
「逃げたくなっても、知らないぞ」
「百五十まで一緒にいてくれる……んでしょ」
「違う。youの寿命は百三十歳だ」
「………」
「………」
「…百三十歳で、いいですよ」

山田はそっと顔をあげ、とても優しい目で笑った。
ああ。
俺もこいつも、本物のバカだ。

俺は、綺麗で温かなこいつを見つめた。
どうすればいい。どうすればいい。
どうすれば、この気持ちを伝えられるんだ。
山田の頬を撫でる俺の指は小さく震えていた。

俺は山田の服を脱がそうと奮闘した。
彼女の腕や手が邪魔でなかなかはかどらない。
別に山田が抵抗してるわけじゃない。俺のベストやシャツを引っ張っているのだ。

「上田…ひっぱるなってば」
「ひっぱってるのはyouだ。……おい、このボタン、おかしいぞ」
「そこからは飾りボタンになってるんです……それより、袖、抜いて」
「そんな暇あるか」

スカートのホックまでは外したが、ブラウスの内側の滑らかな肌を撫で回すのに俺は夢中になってしまった。

「上田。くすぐったい…」

触って、抱きしめて、触れて、探って、キスをして。

「you…」

──本当に、全然進まない。

キスの最中に舌を絡めようとすると、山田が途切れ途切れに指摘した。

「…か、顔すごく赤い、上田。……んっ──熟れ過ぎの……トマトかイチゴみたいっ……」
「ふん、人の事言えるのか。……youは……ほら、鯉のぼりの二匹目いるだろ、……丁度あれの色に」
「…訂正……ふぁっ…っ、は、あ……上田の顔、クマと相撲をとってる金太郎みたいな」
「youこそ、ほら、いたろ、ジャングル大帝に出てくるマントヒヒの──ん……って、やめないか。そろそろ」
「………」

山田は照れたように睫を伏せた。

「楽しいよ。すごく楽しいけど、you、覚悟したんじゃないのか、おい。ちゃんと真面目にセックスしよう。真面目に」
「うにゃあっ」

山田は小さく奇声を漏らして俺の腕の中で躯を縮めた。顔が、もう本当に真っ赤だった。

「上田っ!…私を、そんな目で見るなっ」
「こんな目か」
「上田のその目って、すごく恥ずかしい」
「……だからどんな目なんだ!!」

──つきあいの長いのも考えものだ。

まさかここまできて乗りツッコミが始まるとは思わなかった。
というよりも、山田はどうも俺に大事にされる事に慣れてないんじゃないかという気がする。
普段苛め過ぎてるって事なのか。すまない山田。

「…よし、わかった、各自服を脱ぐ。いいな、you」
「なにがどうわかったんですか?」
「急げ」

──こうなったら裸になってしまえばいいんだ。

極めてシンプルな思考に立ち至った俺はがばっと起き上がり、山田に背を向けると服を脱ぎはじめた。

「上田──」

後ろで不安げに山田が呼びかけている。

「あの。全部…?」
「当然だろ。全部だっ」
「………」

黙々と服を脱ぎながら耳をそばだてていると、しばらくしてからかすかに衣擦れの音がたちはじめた。

「………」

途端に胸が高鳴って、俺はようやく、たまらなく恥ずかしくなった。
シャツも下着も脱ぎ捨てベルトを抜いてズボンを降ろし、最後の一枚をのろのろと脱いで、俺はそれを見下ろした。

…………山田、怯えないだろうか。
やっぱりやめるとか、怖いからあっちに行けとか言わないよな。
いや、いいよな。
大丈夫だよな。
こいつはきっと、受け入れてくれるよな──。

──そう自問自答しつつ、なぜか動けない俺の背後に、いい匂いが近づいたのがわかった。

「上田」

心臓が跳ね上がった。

「………」

腰掛けているベッドがゆらりと揺れる。すぐ後ろに、山田がいる。
俺は俯き、呑み込みにくい唾を無理矢理呑み込んだ。

「………」

山田は何も言わずに、俺が振り向くのを待っているようだった。

「………」

振り向くだけだ。俺も山田も何も着てない、ただ振り向いて抱き締めるだけでいい。
だが。

……人並みでないモノをこれほど真剣に恨めしく思った事はなかった。

「上田……?」

山田の声が、小さくもう一度囁いた。

「………」

腹をくくれ、次郎。
これで駄目なら──仕方ないってだけの事だ。
ベストだ。ベストを尽くすんだ。

「you──」

俺はぎこちなく振り向いた。そしてそのまま口を開けて馬鹿みたいに固まった。
本当にすっぱだかの山田がいた。
赤いベッドカバーの上にいるから降りたての雪みたいに真っ白に見えた。
長い髪が肩から流れ落ちていて、唇と胸の先だけ柔らかいピンク色で、綺麗で眩しくて色っぽくて──これ、山田か?

「や、ま、だ…?」

喉の奥から声を絞り出し、俺は思わずベッドに乗り上がった。
山田の顔が俯いて、視線が俺の股間に流れた。

「……」

頬がぽっと赤くなり、山田ははにかんだように肩を竦めた。

それだけだった。

「…you」

なにかの反応を待ってしばらく黙っていた俺は思い切って声をかけた。

「………気持ち悪くないか?」

山田はまた赤くなった。

「コレ」

山田はもっと赤くなり、かすかに首を振った。

「………」
「……上田」

唇が動いた。

「ん?」
「胸……変?」
「え」

すっかり忘れていた。俺は艶やかな髪で半分隠れた山田の胸に目をこらした。
グラビアでみかける豊かな巨乳とは別次元のささやかさだが、でも俺は綺麗で可愛いと思う。
ちゃんと掴めるんだしな──充分だろう。
なにより、それは好きな女の胸だった。

「そんな事ない。俺は…好きだよ」
「……上田のも、変じゃないと…思います」

山田はほっとしたように微笑した。きっと、俺に胸を見せるのがものすごく不安だっただろう。
恥ずかしそうで、困ったようで、でもとても可愛かった。

…コレの平均的な大きさも知らないくせに、何言ってんだろう、こいつは。
だけど、俺も、本当に嬉しかった。
もしかしたら俺は、その瞬間安堵のあまり気絶でもしたんだろうか。
次の記憶が途切れている。
気がついたら俺は彼女を押し倒していた。

赤い波みたいなベッドカバーの中の白い雪。
そのくせ全然冷たくなんかない、温かくて熱い肌。
触る。
遮るもののないどこまでも滑らかな華奢な躯。
触った。抱きしめて、躯中に触れて、握って、躯をこすりつけて、キスをして、舐めた。
誰も邪魔しない。抵抗もしない。遠慮なんかしなくていい。俺の山田。
俺の背中を抱く腕、髪の中に差し込まれる指、脇腹に触れる腿。

「ん……ん…」

染まった頬にキスをして、かすれた吐息を混じり合わせる。

「上田さん…」

小さな山田の声。もっと呼んでくれ。もっと。
鼓動。いい匂い。キスしたい。全部味わいたい。俺の、俺の──。
そうだ。本当に、夢のように甘い甘い時間だった。

ただ、大きな問題があった──俺は童貞。
自分ではあらゆるシミュレーションを重ねてきていたつもりだが、実戦では経験皆無。
そして、更に大きな問題もあった。山田のほうは処女。
シミュレーションはどうだかしらないが、勿論男を受け入れたことなんて全くない。

……わかるだろう?
つまり、そんな夢みたいな甘くて穏やかな時間はそうそう長くは続かないという事だ。



「you……youっ」

もっと抱きしめて、もっと愛撫したいのに、堪えきれなくて俺はついに山田に囁きかけた。

「い、挿れていいか。だめだ。もう我慢できない、早く入りたい」
「……上田さん」

山田はぼんやりと潤んだ目で俺を見た。
白い首すじにも喉にも鎖骨のあたりにも、思いっきり強く赤い痕がついている。
俺が無闇にキスしたからだ。

「you、いいよな」

許可を得ているんじゃなくて、それは確認だった。
俺はせっぱつまっていた。
大きすぎるモノはぱんぱんに膨れ上がってドクンドクン脈打ってて、今にも背筋に…そのだな。
そういう、情けない事だけにはなりたくなかった。初めてで、挿れる前に果てるなんて事は。
今考えたらバカみたいなプライドなんだが。

山田は少し緊張した顔になって、それから微笑みたいなものを唇に浮かべた。
廻した腕に力をいれ、俺の頬にキスしてくれた。

「はい」

はい。
はい。
はい。

エコーみたいにその言葉が頭に渦巻いて、俺は激しく呼吸した。
理性なんて介在しない。するわけがない。
俺は、初めて好きな女の中に入るただの幸福なオスだった。
俺は彼女の脚を掴んだ。

「あ…」

ちょっと怯えた声がしたが、労ってる余裕があまりなくて、俺はぎこちなく声をかけただけだった。

「you、力抜いて」
「…はい」

ひどく熱いモノを支えて、俺は彼女を組み敷いた。脚を広げて、恥ずかしそうな山田が俺を見た。

柔らかい茂みを指でかき分けた。
そこがとっくにかなり濡れている事を、俺は知っていた。
押し当てて──力をこめる。
ここでいいはずだよな。
さっき、俺の指の先はちゃんと入ったよな。

「んん」

耳元で山田が呻いた。まだそんなに痛そうじゃ無い。
大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。
心臓がばっくんばっくんうるさかった。
耳が血流かなにかでざわめいていた。
俺の先もすっかり濡れていて、最初は、それは心配するよりもはるかに簡単に思えた。

でも──。

腕の中で、山田の躯がびくんと跳ねた。

「…んっ…あ!!」
「…おう!」

少し固い感じの狭い入り口からぬるっと彼女の中の粘膜に包まれて俺は喘いだ。
気持ちいい。気持ちよすぎる。…このままか。こいつの中は、このまま、こんな感じなのか。
女って、なんて気持ちいいんだろう。
俺はすっかり嬉しくなり、少し落ち着きを取り戻して顔をあげた。
雪みたいな山田の胸は激しく波打っていて、彼女は綺麗な目をぎゅっと閉じてしまっている。

「you」

潤んだ瞳を見たくて、俺は小さく声をかけた。

「あ…」

山田ははっとしたように目を開けた。俺と視線があうとその目はかすかに優しくなった。

「上田さん」
「…………好きだよ」

山田の目はもっと優しくなった。髪の中の山田の指が愛撫するように動いた。
俺は腰をぐいと入れた。
すごくキツいけど、このまま、もっともっと奥まで──いきなり髪を思い切りひっぱられた。

「いてぇ!……おい…you?」
「あ、あああっ…うう…ん……っ……」

腕の中の山田の躯がのたうつようにくねっていた。目と唇が大きく開いている。

「あっ……ん…ん、あっ」

……俺が動く速度と連動しているのに気付いた。

「you」
「あん…う、動かないで……待って……まって」
「痛いのか」

山田のこめかみのあたりにうっすらと脂汗が浮いているのに、俺はその時初めて気付いた。

「………むっちゃくちゃ…い、痛い…です」
「は、早く言えよ!」

何でぎりぎりまで我慢してんだ。
俺にはわかんないんだよ。

「……死にそう…」
「死ぬな!」

俺はうろたえながら、山田の細い躯を抱きしめた。
抜かなくちゃいけない。早く。山田が、死んでしまう。
なのに──。

「おおぅ…っ」

なんだよ。
なんでこんなに気持ちいいんだよ。背すじを何かが行き来している。
それに合わせて腰に力が入る。
ああ、駄目だ──俺にはもう目標が見えてしまった、すぐそこにすげえゴールが見えている。
きっとその瞬間は今までで最大級に気持ちいいに違いない。
それがわかる。くっきりわかる。……なんて浅ましいんだ、俺。
俺は山田の中で強く前後に動いてしまっている。

「や、山田。しっかりしろ…ああ、うあ……おう……」
「だからっ、動くなぁああああっ」
「すまん。すまん、you!……すまん!!」
「いや、ああ、ああっ、ああっ──待てってばっ、上田っ…」

白い、山田の綺麗な躯。上気し尽くした彼女の顔。
ほとんど泣き声の彼女の喘ぎ。
混乱して興奮して獣みたいな、俺の呼吸音。
もしかして、修羅場って、ああいうのを言うんじゃないのか。

「イく。出る。you。youっ……!」

俺は叩き付けるような勢いで射精した。
気持ちよかった。もう最高に。
躯の中身が全部彼女の中に流れ込んでいく濃厚な射精は、想像したことのないくらいの快感だった。

ただ出るんじゃなくて……なんていうんだ。
山田の中に全部預ける感じ。そう、俺の体温をそのまま彼女に押し付ける感じだ。

で、最後まで押し付けられた山田は。

「ふ……あああああああああ……死ぬ……死んじゃう……だめ………」

変な声を漏らして、俺の腕の中でがっくりのけぞってしまった。

「や、山田っ!?死ぬなっ!しっかり、しっかりしろ!」

その躯を前後左右に揺さぶる俺。──彼女から、平均よりもはるかにでかいまだ固さを残したモノを抜かないままで。

気付かなかったんだよ、本当だ。
仕方ないとは思わないか。
だが、未だにあの時の俺の仕打ちを、山田はなんだか密かに恨んでいるらしい。

女ってのは──まあ、無理もないか…。




そんなふうに後々ちくちく俺に初体験のときの不満を漏らす事になる山田は、宿屋に戻る次郎号の中では、だけど怒っていなかった。

「………」
「………」

互いに特別な話は何もしなかったが、彼女は時々ちらちらとこっちを見ていた。
俺も時々横目で彼女を眺めた。
ちょっと目の周りのむくんだ、かすかに赤い、可愛い顔を。

……コンビニのあるうちに、二人分の栄養ドリンクでも買って行くか。

月はもう山の影に薄れている。
もうすぐ夜明けが来るんだろう。



長い話になった。

誰にも見せない、両手でのタイピング練習のための覚え書きだが、その後の話も付け加えておいたほうがいいかもしれない。まとまりってものがあるからな、何事にもベストは尽くすのが俺という人間だ。

上田奈緒子は相変わらず乱暴者で大食いで、性格にも根性にも対人関係にも常に問題を抱える、人を人とも思わない強欲でくそ生意気な貧乳へっぽこ奇術師だ。
顔立ちは、まあ栄養状態が良くなったためかわりと見られるようになったかな。
奴が口を閉じている時に見れば、美人といって言えなくもない。
俺は今でも世界一頭が良くしかも千人中千人が振り返るほどのいい男で、鷹揚かつ心の広い人格者だ。
俺の子どもが昨年産まれた。もうちゃんとつかまり歩きができるんだ。
このあいだ、初めて「ぱぱちゅき」と口走った。
俺に似て頭がいいんだろう。あいつに似たのは、幸いにも顔だちくらいか。

俺は元山田の上田奈緒子を身近に置いて前にも増してとことん利用──じゃなかった、相変わらず食事を奢ってやったり、食事を作らせたり、家賃の払いをしてやったり、子どもの面倒を見させたり。
…えーと、それから風呂を洗ったり、温泉に連れ出してやったり、亀とネズミしか友達のいないこいつに物理学の定理を説明してやったりしている。
ボランティアだ。
それ以外に何がある。

ただあまりに身近すぎて、俺は元山田を今でも客観的に見ることができない。
可愛いぞ。初めて会ったときからずっとな。






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