繋がる-1-
上田次郎×山田奈緒子


洗面器から鍵を取り出したところで電話が鳴り始めた。
池田荘202号室においては長らくベルを放置していると、大家とそのダーリンが怒鳴り込んでくる事になっている。
しかも最近現れるまでの時間が短くなった。家賃を滞納しているからだ。
奈緒子は部屋に入り、サンダルを脱ぎ散らして電話口まで急いだ。

『なんだ。いたのか』

受話器から不機嫌な声が湧いてきた。
鍵と洗面器をちゃぶ台に置き、奈緒子は畳に座り込んだ。

「上田さんじゃないですか!」
『……』
「久しぶりですね。あ、そっちどうだ。元気にしてたか?」

『心配か』

上田の声は低かった。

『心配ならさっさと電話よこせよ。かけ方教えただろ』
「……上田」

奈緒子は肩と顎に受話器を挟み、亀の餌の容器を手に取った。

「もしかして、一度も電話しなかったから怒ってんのか」
『何言ってんだ』

たちまち上田の声は高まった。わかりやすい男である。

『暇人の君にはわからないだろうが、この二週間というもの学会に交流会に学術専門誌のインタビューに観光ツアーに各種研究機関の見学会にと、優秀で人気者の俺はひっぱりだこで寝る暇もなかったんだ。
君の事を思い出したのは今電話をかける五秒前だ。そろそろバイトを馘になって餓死寸前の頃合いじゃないかと思ってな』
「心配ならもっと早く電話をかけてくればいいじゃないですか」
『なんで俺から電話しなくちゃいけないんだよ』
「だって私、海外への電話代なんて払えません」

上田の声は急に沈んだ。

『プリペイドだからその心配はない。……俺の話聞いてなかったのか、you』
「そんな話しましたっけ」
『したよ。出張の前日』

奈緒子は餌をやる手を休め、目を泳がせた。

「遠い記憶があるような…ないような…」
『………』

上田は気を取り直すように、話題を変えてきた。

『夕飯時だろ。今何してた』
「ああ。丁度、銭湯から戻ってきたとこなんです」
『銭湯か、いいな。やはり風呂は日本が一番だよ。浴槽が浅いとどうも入った気がしない』
「無駄にでかいですしね、上田さんって。アメリカ人と並ぶとどっちが大きいんですか」
『相手によるに決まってるじゃないか。相変わらず無知だな君は』

奈緒子はハムスターにも餌をやり、座布団をひっぱってきて座り直した。
久しぶりに聞く声は耳に心地よかったし、国際電話にも関わらず上田のほうにもすぐに切る気はないようだ。

『ん、待てよ』

上田が呟くように言った。

『風呂上がりということはだ。君は今色気もへったくれもないジャージを着用しているという事になる』

奈緒子は己の躯を見下ろした。
確かに、薄手のトレーナーに紺色のジャージといういつもの格好である。

「そうですよ」
『you。you、たまには部屋でももうちょっとだな、レースとか。フリルとか切れ込みとか、そういう』
「何言ってるんですか。宅配便とか、お客さんが来た時に困るじゃないか、変な服着てたら」
『客が来る事なんてあったか?』
「…来ますよ」
『誰だよ』
「……大家さんとか。ジャーミーとか……」

奈緒子はもごもごと言葉を濁した。

『そうそう、服といえばな』

幸い上田はその話題には頓着せず、明るい声を張り上げた。

『学会後の観光でダウンタウンに行った際、心の広い俺は君への土産としてとある衣料品を購入したんだよ』
「えっ」

奈緒子は耳を疑った。
上田の親切──問題のある過去の多くの事例を思い出し、不吉な予感が胸をかすめる。

「土産って変なモノじゃないでしょうね。ほら、上田さんの部屋の隅に飾ってある猿轡とか、鞭とかみたいな」
『あれはまだyouに使った事はないじゃないか。まだ一度も』
「上田。まだまだってどういう意味だ。いつか使う気でいるのか」
『…おほん、うおっほん!』

上田は慌てた様子で咳払いした。

『とにかく、違う。衣料品だと言ったろう、服だよ』
「じゃあ…、全身皮やビニールやゴムでできてて、ヒールのブーツとかついてて…なんていうんでしたっけ、えーと……」
『君は俺という人間をいつもどういう目で見ているんだ』
「見たまんまの目で見てますよ」
『………』

上田は不愉快そうに説明を始めた。

『あのな、君は人前では一応体裁を繕って可愛い服を着てるだろ。ロングスカートとか花の刺繍のついた服とか』
「だって人気マジシャンですから常にファンの目は意識してないと。………可愛いですか?エヘヘへッ!」

無視して上田は話を続ける。

『だのに人目のない場所では途端に貧相なジャージ姿だ。なぜなら不人気マジシャンの君には自室での格好まで整えている余裕がないからだ、この見栄っ張りめ。
心優しい俺は不憫に思って、今回ちゃんとした室内着を大枚はたいて求めてやったんだよ。敬え。涙を流して感謝しろ!』
「上田さん…」

失礼で恩着せがましい言い方はともかく、大枚叩いてという一点に奈緒子は少しだけ感動した。
だがやはり拭いきれない不安が残る。

「どんな服なんです?ほら、色やデザインは」
『ふふふ』

上田の声に、満足げな響きが混じった。

『色白の君に似合うきれいなピンク色だ。──あのな、you。ベビードールって知ってるか?』
「べびーどーる。…人形。………お菊人形?髪の伸びる」
『……立てよ。受話器持って』

上田の声がえらく不機嫌そうになったので、奈緒子は急いで立ち上がった。

「立ちましたよ」
『長さはな、その立った腿の半ばあたりまでだ』
「相当伸びてますね」
『不気味な人形の髪じゃない。ベビードールの話をしてるんだ!裾だ、裾丈』
「え。腿の……って、夏用?」
『目の前の洗濯物の紐見ろ。その端っこに、他の服にこそこそと隠すようにしてスリップ干してないか。ほら、前にも持ってただろ、シンプルな、白の』
「ありますけど──って、だから上田!そういう発言するな!」
『そのスリップを短く、そして百倍豪華でセクシーに可愛くした感じだと思えばいい。ふ。ふふっ』
「……………なんだ」

奈緒子はがっかりしてまた座布団に座り込んだ。

「どこがちゃんとした服なんですか。下着じゃん」
『違う!室内着だ。youが持ってる安さ一番の下着と同じレベルで語るんじゃない。罰が当たるぞ!』

上田が吼えたので奈緒子は急いで受話器を耳から離した。

「はいはい、わかりましたよ。……で、用件はそれだけですか」

『………you』

上田の声のトーンが落ちた。少々寂し気だった。

『嬉しくないのか?』
「ケチな上田さんが高いもの買ってくれたのは嬉しいですよ。でもどうせならその分現金のほうが」
『おいっ。…悲惨なまでに色気のないyouの生活を少しでも潤わせてやろうという俺の慈悲の心がわからないのか!本当に強欲な奴だ』
「ちょ、ちょっと、何だそれ。無礼な奴だな」
『どっちがだ。わざわざ電話してやったのに、何だよさっきから』

上田の声はさらにトーンを落とした。

『ちっとも喜ばないじゃないか……』

やらしい下着を買っただの色気がないだの強欲だのと言われて喜ぶと思っているのか。
相変わらず無神経な上田に奈緒子は眉を顰めたが、彼のしょげかたには多少心を動かされた。
なにが『五秒前に思い出した』だ。
フザケタ土産までうきうきと買っているくせに。

「わかりましたよ。喜べばいいんですね?……わあ上田さんの電話だ嬉しい!私とっても嬉しい!」
『やめろ!わざとらし過ぎる』
「………」
『………』

奈緒子はふっと息をつき、受話器を握り直した。

「……ねえ、上田さん」
『………』
「よく聞いててくださいね」
『……?』

誰もいないのはわかっていつつも部屋の中を見回し、受話器を顔の前に傾けた。
目を閉じ、唇を尖らせて、送話口の端にちゅっとキスした。

「………聞こえました?」
『何が?』

上田の不審げな声がした。
眉間の皺が目の前に見えるようだった。

『何した?わからなかったぞ。おい、教えろよ』

奈緒子は少し赤くなった。

「…じゃあもう一回だけ」

また周囲を見回して、奈緒子は急いでもう一度受話器にキスをした。
出来心での一度だけならまだしも、二度目になると恥ずかしすぎる。

『……おぅ……』

電話の向こうで上田が間の抜けた声を漏らした。

『わかったぞ。そうか。キスしたのか』
「言うなっ」
『………』
「………」
『お返しだ。よく聞いとけよ』
「え……」

お返しといえばキスしかない。奈緒子は思わず耳を澄ました。
吐息が間近で漏れるような響きの後、ちゅっ、と軽い音がした。
奈緒子の頬は真っ赤になった。

大きな躯を丸めるように、上田が携帯電話にキスしている映像がありありと脳裏に浮かんだ。
奈緒子にする時のような優しい仕草で。

『聞こえたか?』
「…………」

奈緒子はもじもじして、受話器側の耳に指で触れた。
くすぐったくて、もどかしくて、でもとても──。

『おい、聞こえたのか?』
「し、知らない」
『………』

上田は少し黙り込み、それから小さな声で囁いてきた。

『you』
「………」
『もうちょっといいか』
「………」
『忙しくは…ないに決まってるな。ふっ、壁にシロアリ小人暇有り…ふふふ』
「苦しすぎるぞ上田。じゃ」
『待てよ!!…電話…しようとは何度も、いや、一度か二度は思ってたんだ。さっきも言った通り忙しくてかけなかったんだけどな。ハハハ』
奈緒子にしてみれば見え見えの格好つけだったが、無闇にプライドの高い上田にしてはよく白状したほうだろう。

『だけど、この出張ももう終わりだ───you』
「何ですか。さっさと言え」
『さっきはおでこにだったから、今度は…そのだな……唇』
「……………」

奈緒子は受話器を眺め、少し赤くなった。

「お、おでこ……唇?…そんな事言ったって、電話なんだし」
『そう言うなって。いいか、いくぞ』
「いくぞって言われても」
『目を閉じろ。仰向いて、口も閉じて、──いや、ちょっとだけ唇は開けて』
「…なんでっ」
『舌入れるんだよ』
「……………」

しばらく奈緒子の耳には、上田の吐息ばかりが聞こえていた。
正確には吐息というより鼻息だろう。

やがて鼻息がやみ、上田の得意そうな声が聞こえてきた。

『どうだ。うっとりしたか?』
「何してるんだか、さっぱりわけがわかりませんでした」
『くそっ、駄目だな──電話は!』
「駄目なのはお前の頭だ上田!」
『いや、だが、you』

上田の声はさっきよりうわずっていた。

『なんだか、その。変な気分にならないか。youの息、かすかに聞こえるけどなかなか色っぽいぞ』
「………」

奈緒子は赤くなり、そわそわと室内を見渡した。
上田の声は耳のすぐ近くだし、そんな唆すような声で囁かれても困ってしまう。

『そういえばなyou。世の中にはセレフォンセックス──』

「……わー!わー、わーわーっ!!」

奈緒子はいきなり立ち上がり、上田の声を遮るように大声をあげた。

「言うな!それを言うなっ」
『なんだ、youも連想してたのか。じゃ、話は早い』

上田の声がころっと機嫌よくなった。

『やってみようぜ』
「なんて事言い出すんですか」

奈緒子は仁王立ちになって受話器を両手で握りしめ、威嚇した。

「そんな恥ずかしい事ができるもんか!──日本に戻るまで、い、いい子にしてお待ち上田!」
『勿論我慢するよ。でもせめて、今、ちょっとぐらいつきあってくれてもいいだろう?you……』
「うっ……」
『指一本触れるわけじゃない。二週間電話一本も寄越さなかった上にこれまで拒むのか?』
「……ううう……」

そう言われるとなんだか気の毒でもある。
どんな理由にしても結局こうして上田のほうから電話をしてきたわけなので、奈緒子としては意味もなく『勝った』ような気がしているところなのだ。

そもそも、勝負事でもなんでもないのだが。

奈緒子は不安そうに訊ねた。

「……あの。でも具体的には何をどうするんだ、それ」
『ふん、ろくに知りもしないで反対してたわけだな。具体的…か。………』

上田は沈黙した。
どうせ、上田も初めてなのにプライドが邪魔してそれを言えないに違いない。つくづく面倒な男である。

『……そうだな。とりあえず、そう……その色気のないジャージを脱ぐんだ』
「ええっ」

奈緒子は驚いた。

「なんで、脱がなくちゃいけないんですか?どうせ見えないんでしょ?」
『わかってないな。実際にyouが俺の言う通りにしているんだという想像でまた興奮が高まるんじゃないか。ふふ』
「じゃ、最初から想像だけしててくださいよ」
『youの知らないところでどんな想像するかわからないぞ。いいのか?』
「………………」
『いいから脱げって』

奈緒子はもう何度目か知らないがまた室内を落ち着きなく見回した。
上田が居るわけはないのに、声や鼻息だけはすぐ傍にいるように耳元に響いてくる。

「………」

どうせ、誰にも見えないんだし。

思い切って受話器を肩に挟み、奈緒子はするりとジャージを脱いだ。

「脱ぎましたけど」
『おうっ』

上田の声が激しい興奮を滲ませた。

『ほ、……本当に脱いだんだな、you!』
「脱げって言ったの上田じゃないか!じゃ、じゃあやっぱり穿き──」

鼻息荒く上田が止めた。

『いや。いいよ、そのままだ。という事は下半身はパンツ一枚か!…落ち着け落ち着くんだyou…ふっふふふ』
「そっちが落ち着け、上田」
『あ、ああ…あ、そうだ。そうだな。……お、ちょっと待てよ……』
「………」

何をしているのか不明だが、彼はしばらく無言でいた。
奈緒子は目を半眼にして俯いた。
もしかしたら上田も服を脱いでいるのかもしれず、何か用意しているのかもしれない。
正直なところ、あんまりリアルに想像したくない。

しばらくして、また上田の、興奮を正直に伝える声がした。

『……you、上は?』
「トレーナーですけど」
『また色気のないもん着やがって……よし、勿論それも脱ぐんだ』
「……寒いじゃないか」
『布団持って来て、潜ればいいだろ。早く』

奈緒子は隣の部屋に身をのりだし、できるだけ腕を伸ばして、積み上げている布団から毛布をとった。
受話器を置いてトレーナーの裾に指をかけたところで上田が何か言っているのに気付く。
急いで取り上げ、耳にあてると低い声はこんな事を呟いていた。

『風呂上がりだったよな、you』
「…そうですよ」
『ふ、ふふふ……風呂上がりか…湯上がり…上気した肌…せっけんの匂い…リンス…濡れ髪……』
「何想像してるんだ上田」
『それよりトレーナー脱いだのか?ん?』
「まだです」
『遅いぞ。……まあ、でも、それよりな。今俺が左手で触ってるとこ、わかるか?』
「え?」
『触ってるとこだよ……ふ、ふふふっ…』
「……ええと……巨根?」
『おいっ!!直接すぎるだろう!!……そうじゃない。そうじゃなくて、youの躯で今俺が触ってるとこだよ』
「…………」

難しい。
奈緒子は思わず溜め息をついた。

『おおぅ……耳元で喘ぐなよ、……腰に来るじゃないか』
「喘いでないっ」
『ヒントをやる。youの躯で、今出てるとこは』
「……足?」
『太腿だ。youの、白くって、すんなり柔らかくって温かくて、すべすべしてるあの太腿だよ。ふふっ…内側はもっと柔らかくてしっとりしててまるで指先に吸い付くようで…強く吸うとそこだけ赤くなり、そして…ふ、ふ、ふふふふっ……』

奈緒子は思わず正座し、しっかりと腿を閉じた。

「お。お前……よく本人に向かって……」
『パンツが邪魔だ…』
「!今どこに何してるんですかっ」
『……決まってるだろ。アソコだよ。パンツの上から、優しくだな…』

奈緒子はまたもや真っ赤になり、閉じた腿をもじもじと動かした。

『脚を閉じるんじゃない!』

上田が一喝した。奈緒子は目を見張った。

「見えてるんですか!?」
『バーカ。 君のやりそうな事は全部お見通しなんだよ、ハハハ!』

上機嫌で笑ったあと、上田はまた声を低めた。

『……ところで、トレーナーは?』
「あ」

奈緒子は急いで袖を抜き、ちょっと躊躇してからさっと脱いだ。
顔の前に流れる髪を整えて受話器をとる。

「………脱ぎましたよ。これでいいんだな」
『ああ』

上田の声は優しい。

『そういえば、肝心な事を聞いてなかったな。下着、どんなのつけてるんだ』
「………」
『小さなレース付きのか?それともベージュのセットか。もしかしたら地味な小花模様のか?ほら、淡い色の。白の』
「上田…」

どうしてそこまで細かく申告しなければいけないのかがわからない。

「あの。さっきから、まるで春先に時々かかってくる変態電話みたいに聞こえるんですけど」

思った事を正直に言うと、上田は心外げな声を出した。

『一緒にすんな!ただ、こういうものはだな、細かくわかってないと想像上のリアリティに欠ける。そうは思わないか?』
「……そ、そういうもの?」
『いいから言えよ』
「…………………………レース付きの…ですよ」
『ああ…駅前の衣料品店の夏バーゲンワゴンセールで一時間近く散々悩んで買っていた、手触りのいいあれか。…ふっ、あれは清楚だしちょっと可愛いよな。ふふ、うふふ…』
「だからなんでそういう事まで知ってるんだ貴様!このストーカーめ!」
『まあそれはいいじゃないか』
「よくない」
『だとすると……ホックは背中だな』
「………」

もはやつっこむのも面倒で、奈緒子は肯定した。

「そうですけど」
『外せよ』

短い物言いで、上田が興奮しているのがよくわかる。
受話器を肩に挟んで、奈緒子はもぞもぞと背中のホックを外した。

「……ええと。外しました」
『よしよし……』

また鼻息の音がして、キスしているらしいちゅっ、ちゅっという音が聞こえてきた。

「上田さん。…キスしてるんですか?どこに?」
『youの肩。後ろから、今右側だ…』
「……」
『……左。腕、細いよな、お前』

奈緒子は受話器を肩に挟んだまま、居心地悪く左右を見た。
たぶん今自分はとても間抜けな姿であるに違いない。

だが、なぜか胸がドキドキと高鳴っている。

問題は上田のこういう時の声が渋すぎる点にある。
怯えたり空意地を張ったり泣いていたりする時には実に情けない声のくせに、奈緒子をからかったり抱いたり意地悪をしたり他いろいろの時には、上田は回路の切り替わったような声を出す。
自分でもその声を気に入っているらしい──ナルシストだからだ。
そして、彼の自信たっぷりの声に、悔しい事に奈緒子は弱い。
多分上田は彼女の反応でそれを知っているのだろう。
低くて深くて甘い『お気に入りの声』が、受話器から直接、頭や躯の芯に響いてくる。
丁度、抱かれている時のように。

『髪が邪魔だ』

ふっ、と上田が息を吹き付けた。

「あっ」

思わずびくっとして奈緒子は背すじを伸ばした。

『……ん?……反応したな』
「み、耳元で急に息、吹くから」

落ち着きなく耳元の髪を耳にかきあげながら、奈緒子はぎこちなく囁いた。

『ふっふっふ。…今からブラの下に手入れるぞ』
「え……」
『俺の代わりにyou、手空いてるか?空いてたら、そっと入れてみてくれ』
「ええっ。わ、私が?」
『他に誰がいる』
「でも…」
『いいから』
「でも」
『ほら』

しつこいので、奈緒子はためらいつつも受話器を右手に持ち、左手を胸に伸ばした。
ブラの下は温かく、ささやかな膨らみは湯上がりの湿度を保ってしっとりと落ち着いている。

『……やわらかく、揉むんだ』
「………」

奈緒子は眉をひそめ、真っ赤になりながら、掌を開閉した。
自分で自分の胸を揉んでもなにが面白いのかさっぱりわからない。

「──上田さん。別に、楽しくないです」
『馬鹿だな』

上田の鼻息がする。

『それを俺の手や指だと想像するんだよ。俺に後ろから抱かれてそんな事されてるんだとな。いいか人間はな、豊かな想像力を駆使すれば何事も不可能な事なんてないはずだぞ』
「上田の」

想像した途端、奈緒子はまたぴくんとした。

「や、やだ」
『ふふ。……そのまま、続けてろ、いいな……』

指の間に挟まった乳首がだんだん固まっていくのがわかった。
奈緒子は染まった顔を傾けて、そーっと俯いた。
ブラの下で細い指に揉みしだかれている乳房は、刺激でうっすらとしたピンク色に変わりつつある。
掌にほとんど隠れてしまう膨らみは、量感には欠けるものの柔らかさと手触りは案外良い。
上田の視線を重ねると俄然その膨らみは淫らなものに見え、奈緒子は小さく喘いだ。
きめ細かな肌が、窓からの、夕暮れの名残の褪めた光を弾いた。
たちあがった小さな乳首はもっと濃い淡紅色で、膨らみに細い指先が沈むたびに細かく上下左右に揺れている。

「あっ…」

魅入られたように凝視し、そんな自分に気付いた奈緒子が思わず声をあげると、黙っていた上田が囁いた。

『ブラは外してしまおう。もっとよく見えるように、な』
「………」

細い腕に肩紐を滑らせた奈緒子は不安げに、みるみるほの暗く陰影を帯びてきた室内を見回した。
どこかから夕餉の支度をしている匂いがかすかに漂ってくる。
自分が上田に唆されてこんな事をしていると、見ている人など誰もいない。
いないのに、恥ずかしくて仕方ない。

『外したか?』
「………」
『仰向けに横になって。髪を撫でててやるから』

奈緒子は一層赤くなったが、操られるように毛布の上におずおず横たわった。

『キスするぞ。目を閉じて、舌を……』

目を閉じると上田の小さな吐息が聞こえた。

『俺の背中に、手を廻して。…受話器、置けよ。肩の横に』

上田の躯の厚みを思い出して、奈緒子は想像上の彼の肩甲骨の上のあたりに掌をあげた。
腕を曲げて目を開け、天井を眺める。
バレリーナみたいだ。

「……あの、このポーズって一人でやってるとすごく間抜けなんじゃ……」
『you!現実に戻るんじゃないっ』

畳に流れる髪の上に置かれた受話器から、上田の叱る声が響く。

『キスするぞ。…それから、腰浮かせて。腕廻すからな』

ちゅ、ちゅっとまたあの柔らかな音。
一体どこにキスしてるつもりなのかは相変わらず不明なものの、この体勢だと、ええと…。
奈緒子がそう考えているところに低い、含み笑いの声。

『なんだ、you…ふふふ、…乳首、すっかりたってるじゃないか』
「!」

奈緒子はばっと腕で胸を抱いた。
間髪入れずに怒声が起こった。

『こら!隠すなって!』
「ど、どうしてわかる!」
『お見通しなんだよ!……そろそろパンツいくぞ』
「……まさか」

奈緒子はもじもじと脚を絡ませた。

『そうだよ。全部脱ぐんだ。…さあ、you…手伝ってやるから』
「ど、どどど、どこ触ってるつもりなんですか?」
『今、下着とyouのお尻の間に手を滑らせて、ゆっくり剥いてると思え。おぅ、柔らかいな……ほら。腰もっとあげて』
「………!」

落ち着かない。

『ちゃんとやってるか?』

奈緒子はのろのろと腰を浮き上がらせ、顔を受話器からそむけた。

ところが、上田の気はすぐに変わったようだった。

『いや待て。つけたままちょっと苛めるか』
「え」
『パンツは穿いたままでいいから、指。指をゆっくり、アソコの溝に沿って……滑らせる』
「……えええっ!?」
『なんだその厭そうな声は!youしかいないんだから仕方ないじゃないか。いいか、一旦始めたからにはベストを尽くすんだ…』

熱の入った上田の声の抑揚は、とてつもなく嬉しそうだった。

『ふふふ……ほぉら、youの細い綺麗な指でだな、ゆっくり……ゆっくりな…ん?なんだか透けて……』
「……!」

奈緒子はぱっと片手で、レース付きのパンツに覆われた大事な場所を抑えた。
上田が、ことさらに奈緒子の羞恥を煽る物言いをしている事は理解したが、いくらなんでも恥ずかしすぎる。

『なんだよ。濡れてるんじゃないだろうな』
「……うう…」

動揺するのは、実際に躯が火照り、心臓が乱打しているからだ。
秘所を抑えた掌も、指にあまり力を入れないようにしなければ。
変な具合に疼きはじめているそこを過剰に意識したら負けてしまいそうだ。

「……ん…ん……」

負けるって…何に?
動揺はとめどがなく、思わず護りを固めようと掌に力が入った。
ささやかなレースに指先が軽くめりこみ、そこから走った電流のような快感に奈緒子は思わず悲鳴をあげた。

「きゃうっ!」
『…ふっ、気持ちいいか!』

上田が声を高めた。

『……中……ヒクヒクしてんだろ、you。辛いか? パンツの横から、その指…入れてやろうか……』
「う、ううう……!」

じんじんと不穏な股間から手をひき、奈緒子は呪縛を振りほどこうと起き上がった。








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