上田次郎×山田奈緒子


中途半端な広さの公園だった。
古くさい水銀灯が瞬き、水の出ていない噴水周りのベンチにはひとっこ一人いない。
寝静まった古い住宅街が背後に控えている。コンビニの灯りが遠い。
深夜一時近くともなると薄手のカーディガン一枚では結構冷える。

「上田。…上田さんっ」
「しっ。うるさいぞyou」

邪険に手を振る上田のジャケットの裾を奈緒子は掴んでひっぱった。

「いつまでこうしてればいいんですか。だんだん寒くなってきました。これ寄越せ」

上田は振り返り、早口に言った。

「風邪をひくから嫌だ」
「私がひいてもいいんですか」
「youは大丈夫だ。昔から言うだろう、なんとかは風邪をひかないと」
「なんとか……言いたい事があるなら、はっきり言えばいいじゃないですか」
「バカは風邪をひかない。なんだ、わかってるんじゃないか。ハッハッハ」
「あっ、こら、しっ!笑うなバカ上田っ」

奈緒子は片手を伸ばして上田の口を塞いだ。

現在張り込みの真っ最中だ。
上田のところに相談にきた例によってうさんくさい事件の相談者がいる。
例によって泣きついた上田に奈緒子が巻き込まれた。
例によって凸凹と事件を調べて行くうちにその相談者の言動こそが怪しいという事がわかった。
ゆえに例によって躯をはった見張りをしているという現在の状況である。
一人で見張ればいいじゃんとぶつぶつ言う奈緒子をひっぱって上田は相談者の家が見える公園の、この奥まった茂みに隠れた。
そして三時間。

「動かないな」

上田が呟いた。

「きっと今夜はもう何も起こらないんですよ。じゃ、あとは任せましたから」

立ち上がろうとする奈緒子の腕を上田は素早く掴んだ。

「どこに行くんだ」
「帰るんですよ」
「大学院まで出た俺に一人で見張りをさせる気かっ」
「大学院関係ないじゃん」
「こんな暗くて寂しい場所に、お、俺を、たった一人で」

上田はそわそわと陰気でうら寂しい当たりの景色を見回した。
心なしか唇が震えている。

「はい?……あのね、これもともと上田さんが引き受けた事件じゃないですか。私じゃありません」
「そうか。youは焼肉食べ放題十二枚綴り券が欲しくはなくなったのかそうか」

奈緒子はちょこんと元の場所にしゃがみこんだ。

「私がいるから大丈夫ですよ、上田さん」
「…………」

その奈緒子の横顔をちらとライトが照らした。

「伏せろっ」
「なっ」

上田に頭をおさえられ、落ち葉の上につっこみそうになった奈緒子は辛うじて腕をつき、回避した。

「なにするんだ!」
「しっ。見ろ、警官だ」

公園横の舗装路を自転車が遠ざかって行く。

「今の俺たちはどう見ても不審人物だからな。職務質問なんかされたくはないだろう」
「別に」
「確かに君は平気かもしれない。だが俺にはな、高い社会的地位と立場ってものがあるんだよ」
「……」

「だが……」

上田は相談者の家の窓を見上げた。灯りはしばらく前に消えた。静かなものだ。

「これだけ待っていても動きがないという事は──もう少しで一時か──寝てしまったのかもしれない」
「でしょ?もう帰ろ帰ろ上田」

奈緒子が唆すと上田は鼻を啜った。急に寒さが身にしみてきたらしい。

「よし、じゃあ今夜のところは帰るか」
「賛成です」

二人にしては稀に見る早さで意見が一致し、立ち上がった時だった。
さっきの警官が自転車で戻ってくるところが見えた。
とっさに奈緒子を抱き寄せた上田は躯を廻して顔を隠した。

「なにすっ」

抗議の声はベストの胸に押し当てて塞ぎ、上田は器用に斜め後ろを盗み見た。
警官がうさんくさげにちらちらとふりむきながら去って行く。

「……気付かれたか?」

呟く上田の足の甲を、靴の上から奈緒子が渾身の力で踏んだ。

「おうっ!」
「な、なな、なんて事するんですか!いきなり」

奈緒子はそわそわと上田から離れ、憤然と睨みつけた。

「カップルのふりをしただけじゃないか。そんなに怒ることないだろう?」
「怒りますよ普通!しかもこんなひとけのない場所で──」
「ふっ、安心しろよ。youと抱擁したって俺が興奮するなんて事はありえない」
「上田!」

奈緒子の眉が角度を増したその瞬間、上田の背後でもの錆びたブレーキ音が響いた。

「…そこの人。何してるんだ」

パトロール中の警官である。気になってもう一度戻って来たのだろう。

「あのですね、この男が私を──」
「you!」

上田はジャケットの襟を立て、背中を丸めて奈緒子の影に隠れようとした。
哀れを催すほど慌てふためいた動きである。

「大丈夫ですか?二人とも、こちらにきなさい」

懐中電灯を取り出しながら警官が奈緒子に言った。
声に冷静な緊張感が滲んでいる事に奈緒子は気付いた。
見るからに怪しい様子の上田に不審を抱いたに違いない。無理もない。

「あ、あの」

何か考えるひまもなく、奈緒子は口走った。

「大丈夫です。痴漢や物盗りじゃありません。この大男は──その…」

ちょっとためらい、奈緒子は呟いた。

「こ、恋人なんです。あの、私の」
「は」
「ぐ」

警官はけげんな顔をし、上田が襟の影で喉を詰まらせたような声を出した。

「そうですか。しかしなんでこんなところで──あそこにとめてあった車は君たちのか」

警官はまだ納得しない様子だった。
自転車をおりて近づいてこようとするので奈緒子は急いで上田をつつき、低い声で囁いた。

「顔をあげろ。こそこそするから余計怪しまれるんだ!」
「だ、だが。俺は有名人だから痴漢なんて勘違いだけでも──マスコミが──ああ、破滅だ」
「誰が有名人だ!──あの、実は…」

奈緒子は声を張り上げて警官の動きをとどめるように手を振った。

「…私たち、交際を両親や親戚に反対されているんです。身分違いなんです──この大男は私のうちの奉公人で──」
「おいっ」
「黙れ上田。…それで、あの、あ、逢い引き」
「時代劇か」
「えーと……そ、そう。デートしてたんです。こっそり」

奈緒子は急いで上田の腕にすがりつき、揺さぶった。

「ね。次郎」

警官は奈緒子のその積極的な仕草でやや表情をゆるめた。

「困ったり、脅されているわけではありませんね?」
「いいえ。次郎、ねっ、一緒にいられて楽しいわよね」
「は、はい。えー、な、奈緒…」
「お嬢様でしょっ」
「………お嬢様」
「次郎」
「お、お嬢様」

揺さぶられっぱなしの上田の頼りない姿に、警官は頷いた。

「そうでしたか」

上田の口が開いた。

「なぜ納得するんだ、おいっ」
「黙れ上田!」

もごもごとつっこみあう二人が警官にはそれなりに仲良さげに見えたのだろうか。
彼は懐中電灯の輪をさげた。

「ま、そういう事でしたら──しかし時間が遅いのでね、犯罪に巻き込まれないとも限りませんし、おうちの方も心配なさってるでしょうから。もうお戻りなさい」
「はい」

奈緒子は精一杯の笑顔を作った。愛想笑いは苦手だがこの場合そんな事は言っていられない。

「そっちのあんたも。なんだか事情があるにしても、お嬢さんを責任もってお連れしなさいよ。いいね」
「…はい」

上田の声は小さかった。



「……あのおまわりさん、上田さんの顔、わからなかったみたいですね」

公園の入り口まで並んで歩きながら、奈緒子はそっと上田に言った。

「『どん超』も『なぜベス』も読んでいないという事か、勉強不足も甚だしいな。いつから日本人はこんなに知的好奇心のない民族になってしまったんだ。嘆かわしいよ全く」
「読んでる人のほうが怪しいんですよ。それより、ほら」
「なんだ」
「まだ見送ってますよ、あのおまわりさん」
「俺の本を読まないだけあってyouのように性格がひねくれているようだな」
「こだわるな上田。器が小さいのがバレるぞ」
「………」
「まだ見てる」

上田は、ぐいと腕を突き出した。

「なんですか」
「………ふり」

上田は怒ったような声で言った。

「ふり…フリオ・イグレシアス?」
「しりとりじゃない。ふりだ、ふり。……恋人の」
「…………」
「嘘は得意だろう、you」
「……デザートつけてくれますか?焼肉のあと」
「よし。一番安い奴」
「ケチ上田」

奈緒子はジャケットの腕にそっと手を絡めた。
上田の足取りが少し早くなったのには、別に意味などないだろう。

行く手に、ひっそりと待っている次郎号が見えて来た。



運転席に落ち着いた上田は深い溜め息をついた。

「──それにしても危うかった。ワイドショーの格好の餌食になるところだ」
「『有名大学教授深夜の公園で呆れた痴漢行為。被害者は超実力派美人マジシャン』って感じですかね」
「おいっ!you、黙って聞いていればさっきから」

上田の声が大きくなった。

「言うに事欠いて事実を歪曲しまくりやがって。誰が美人マジシャンだ。誰がお嬢様だ、誰が奉公人だ。え?」
「事実じゃないですか」
「どこの国の事実だよ!」
「言っちゃった者勝ちじゃないですか?特に上田さん見てるとそう思いますけど」
「どういう意味だよ」

上田は口をひん曲げた。

「俺が有名大学教授でベストセラー作家で世界的天才物理学者なのは紛れも無い事実だ」
「…………」

奈緒子はうんざりして欠伸をかみ殺した。
事実かどうだか知らないが、深夜に上田のうっとおしい自慢話を聞きたくはない。

「どうでもいいじゃないですか。さ、帰りましょうよ」
「大事な事じゃないか。……一度、youにはよくよく言ってきかせてやらなければとは思ってたんだ」

上田は奈緒子に向き直った。
とはいうものの狭い車内なのでわずかに躯の向きを変えただけだ。

「いいか、常日頃のyouの言動には俺に対する尊敬の念というものが窺えない」
「いやそもそも尊敬してないし」
「そこが問題だ!なぜ常に俺という人格者の傍らにありながら、あえてその立派さに気付かないという真似ができる?」
「……あー。ハイハイハイわかりましたよ」

奈緒子はつくづくうんざりした。
上田は執念深いと評したのは確か矢部刑事だったが、それは当たっていると奈緒子は思う。

「ハイは一度でいいんだ」
「ハイハイ」
「君は俺を馬鹿にしているのか」
「そうですよ」

はっと口を閉じた時には遅かった。
横で上田の鼻と唇の端がぴくぴくとひきつっている。
こういう至近距離で手の開いている状態の大男を怒らせるのはいくら相手が上田でもあまりいい気分のものではない。
奈緒子はぎこちなく笑ってシートベルトを引っ張った。

「う、嘘です。尊敬してるに決まってるじゃないですか。上田さんって頭いいし」
「……そうか」

上田の表情はすぐに和らいだ。やっぱり単純な男だ。
奈緒子はさっき一瞬感じた殺気が気になったが、ここぞとばかりにだめ押しした。

「上田さんの事立派だなあって、いつも思ってますよ。傍に居る事ができて幸せです」

「……………you」
「はい?」

上田は奈緒子の膝の横のシートに掌を置いた。

「……」

またなにかしくじったような気がする奈緒子だが、眼鏡越しの上田の目を見てその理由がわかった。

「あの。距離」
「………」
「距離近くないか上田」
「もともと近い。小さい車だからな」
「それはそうだけど……おいっ、あの……」

落ち着かない。

「嘘だろ」
「え?」

上田が笑わない目で奈緒子を見た。

「立派だなんて思ってないだろ、youは」
「……ええ、まあぶっちゃけそうなんですけどね。エヘヘヘ!」

笑ってごまかそうとして、奈緒子はまた目を泳がせた。
なぜ上田はさっきから、圧力をかけるような視線を送り続けてくるのだろう。
嫌がらせにしても長過ぎないか。

「上田さん」
「………」
「上田ってば。どうしたんだ。あの…帰りましょうよ」
「………」
「…さっきのおまわりさん、また来ますよ」
「………」

──いつもなら、とっくの昔に上田はひっこんで、ぐずぐず文句を言いながら次郎号を運転している頃なのに。

無言のまま睨みつけてくる上田に、奈緒子はなぜか強く出る事ができなかった。
怒っている──わけでもなさそうだった。
それなら上田はすぐに口に出すし、こんなに近くに来たりしない。
怖がらせようとしているわけでもないだろう。大声も出さないしおでこを叩くわけでもない。
ただ、でかい図体で鼻息がかかるくらいの至近距離でじっと睨みつけているだけだ。

「ね、上田。わかったから、早く車──」
「なにがわかったんだ」
「う」

奈緒子はシートベルトを手放した。不安だ。
なぜ上田ごときに睨まれただけでここまで不安になるのかよくわからないが、ひどく不安だ。

「な、何考えてるんだ、上田」
「ほらな。youは嘘つきだ。何もわかってないじゃないか」

上田は鼻で笑った。なのに目にはやはり笑いのさざ波すらたってない。

居心地が悪い理由がわかって、奈緒子はまじまじとそのでかい目を眺めた。
上田は真剣なのだ。
なんだかわからないがひどく真剣に奈緒子に何かを察してもらいたがっていて、なのに何も言おうとはしない。

「上田さん」
「………」
「い、言いたい事あるんなら、さっさと言ってくださいよ。睨んでないで」
「………」
「……い……いい加減にしろっ…」

奈緒子は肩で息をつくように顔を背けた。

「そんなだからいい年していつまでたっても女の人の手も握れないんですよ、この弱虫の童貞男め」
「山田」
「……はいぃ?」

奈緒子の声は変に間延びして、引き寄せられた広い胸で止まった。

「!?」

奈緒子の頭は爆発しそうな勢いで現状を分析しようとした。
できなかった。
奈緒子にも苦手な分野はある。上田絡みだと尚更だ。

「卑怯だぞ上田!」

とりあえず叫んだ。
もがもがと口に入りそうなベストの布地を唇で押し、両手でもがいて当たった場所にしがみつく。

「に、逃げ場のないとこでこういう事しちゃいけないんですよ!そんなだからますます女の人に──」

握ったものが上田の固い二の腕だと気がついた。
激しい鼓動が奈緒子を押している。自分のかと思ったが、上田の胸から響いてくる。

「こらっ欲情すんな上田!い、いくら私が美人で胸が大きくて──」
「何もしない」

おしつけられた胸を通して上田の声が奈緒子の耳に響いてきた。

「何もしないよ…安心しろ」
「………安心って……」

奈緒子は眉をしかめた。安心って、何をどう安心しろという意味なのだろう。

「これは、お礼だ」

上田の声が響いてくる。

「……さっき、君の嘘で助けてもらっただろ」
「お、お礼?」

かっと奈緒子の全身が熱くなった。きっと頬は完熟林檎みたいに真っ赤になったに違いない。
上田に見えなくてよかったと思う。

「上田、お礼ってのはもっとわかりやすくて役に立つものじゃないのか。現金とか、食事とか、金券とか、菓子折とか。こ、こんなのお礼でもなんでも──」
「嬉しくないか?」
「……………」

奈緒子は段々混乱してきた。
上田の言うこともやってることもわけがわからない。
どこまで本気でどこまで真剣でどこまでが冗談なんだろう、そしてどれが嘘なのか。

「金も食事も、家賃だって何度も払ってやったじゃないか。それでも君には伝わってないんだろう」
「………」
「犬や猫だって、抱き締めてやれば安心する。温もりは哺乳類共通のコミュニケーションだからな」
「はい?」
「伝わるやり方で伝えてるんだよ。──そうすればyouも俺という人間を尊敬するに違いない」

バカかこいつは。
いやむしろバカだこいつは。

奈緒子の頭の霧は即座に晴れた。
単純バカの上田次郎、これだからいつまでたっても童貞で女性の手も握──いや、現に奈緒子を抱き締めてはいるがそれは犬猫への感謝の仕方と同様に認識しているのだろうから数には入らないに違いない。
同時に無性に腹がたつ。
ならばこんなに鼓動を高鳴らせるな。
そしてうわずった声を出すな。髪の匂いを嗅ぐな。フンフンと鼻息をするな。抱き締めるな!

「ううう」

奈緒子は肩をひねり、腕を曲げて上田の胸に掌を押し付けた。

「どうした」
「ううっ、うううーーーーっ」
「暴れるな、狭いんだから」
「ううーーーーーっ、がるるるうーーーーーーー」
「しつけの悪い犬だ…」
「犬じゃないっ!放せバカ上田!!」
「嫌だ」

上田のうわずった声はびくともしなかった。

「君が俺を尊敬するようになるまではな」
「誰が尊敬するかっ!えーいこのバカチンが!!」
「じゃいつまでもこのままだ…」
「………ねえ上田さん?」
「何だ」
「尊敬してますよ。すっごく。もう特上骨付き壷漬カルビ並に」
「嘘だな」
「………ううううーーーーーーーっ」
「ほらみろ」



深夜、狭い車内で放す気のない大男に抱きしめられるという人生最大のピンチに陥った奈緒子だったが、頭の回転という点では有名大学教授をはるかにしのぐ彼女は、唸りながらもすぐに頭の中で解決の糸口を探り始めていた。

あのパトロール中の警官はもういない。よりによって奈緒子が追い払ってしまった。
それに助けを呼ぶために大声を出しても、恋人の痴話げんかと思われるのが関の山かもしれない。
道に人通りはないので警官以外の助けは同様に得られまい。
いつも奈緒子に見えつ隠れつあとをつけているストーカー…もとい、熱心なファンの確かコチンダさんも彼なりの生活もあるのか今夜は生憎見かけない。いつぞやの黒門島の時は別だが、肝心の時に役に立たない男だ。
どこかから上田の持っている携帯に電話がかかってくれさえすれば、必ず出ずにはいられない上田の習性を利用して逃げ出すことも可能だが──この時刻ではまず希望はない。
つまり、外部の要因の助けは望めないということになる。
奈緒子一人の知恵と力でのりきるしかない。

上田の望んでいる事はなんなのか。
一応こうして抱き締めているだけで満足しているようだが、処女の奈緒子とて彼がなぜぐずぐずしているのか、その理由はなんとなくわかるような気がする。
なにかが起こらないかとほのかかつ本能的な期待をしているに違いない。
格好つけで気弱で奥手の彼が自分からそういう強引な状況に持ち込めるとは思えないからこの期に及んでもなぜか奈緒子はさほど恐ろしさを感じないのだが、それにしても意地汚いと思わずにはいられない。
なにかしたいならしたいと言え。
したいなら、キスのひとつもかませ。
「し、したいわけじゃ──ないけど……」
思わず呟いた一言を上田が敏感にキャッチした。

「you?」
「な、なにっ」

思わずとびあがりそうになって奈緒子は上田の目を見た。
見てしまってから気がついた。いつのまにか上田は奈緒子の顔を覗き込んでいたのだ。

「………」
「上田」
「………」

上田の唇がむにむと開いたり閉じたりしている。
唇の上の髭がつられて動くから、公園内の離れた水銀灯頼りの薄暗がりでもよく見える。

「むにむにするなっ!」

奈緒子は赤くなって囁いた。

「む……むにむにって?」

自覚がないらしい。

「アピールするなって事ですよ」
「アピール……」
「き、キスとか…したいって、まさか思って…ますんよね」
「ますん?」
「聞き返すなっ」

上田の唇の動きがやんだ。広い肩の線が低くかがみ込み、奈緒子の背を抱いていた腕が距離を縮めてきた。
まさか。

「上田」
「……」

上田の小鼻が一瞬ふくらんだのが見えた。

「上──」

奈緒子は目を見開いた。
くっついてしまった。
唇が、くっついてしまった。
上田の唇と。

(ええっ!?)

奈緒子は叫ぼうとしたが叫べなかった。これが唇を塞がれているという状態か。
すぐに上田は顔をおしつける力を緩めた。
信じられないという目をしているのがわかった。
上田の唇の間からちらりと舌の先がでて、確認するように奈緒子の唇の輪郭を撫でた。
奈緒子は唇を開いて自分も慌てて確認した。──特に変な味はしない。
舌先が、上田の舌と触れた。
かすかに漢方くさい匂いがした。さっき張り込み中に上田が舐めていたのど飴の風味かもしれない。
上田の目が薄く細まった。狭いシート側でなく、フロントガラス側の腕を抜き、上田が眼鏡を外した。
何をする気かすぐにわかった。
抱き寄せられて、奈緒子は目を閉じた。
キスの続きを防げないとわかっていた。

奈緒子の背中にまわされた上田の左手の腕時計はいつの間にか午前一時半を示している。



嘘ばっかりだ。

奈緒子を抱いたって興奮なんかしないとか豪語していたくせに上田の激しい鼓動はやむ気配がない。
何もしないとかいいながらキスだって今現に交わしている。
──尊敬?
なんでこんな奴、尊敬なんかしてやらなければならないのだ。

そう思いながら奈緒子はまだ迷っている。
探るようなキスを続けている上田の髪をおもいっきりむしってやるとか、髭を指先でつまみあげるとか、しようと思えば奈緒子は簡単にそうできるはずなのだ。
抱き締められてはいても腕をとられているわけではないし、狭いとはいえ上田の腿ぐらいは蹴り付けられそうな気がする。
なのに奈緒子はそれをせず、上田に抱き締められキスされるままでいる。
躯が動かないのだ。
上田なんかとキスするのは厭なのに。
厭なはずなのに、上田の温もりがあたたかすぎて動けない。

さっきの張り込みですっかり躯が冷えたからかもしれない。
少しでも上田の熱を利用しようとして、それで今だけ動けないのかも。

奈緒子はそう思った。
いつもの彼女ならそんなバカなと一蹴しそうな詭弁である事に当の彼女は気付いていない。
ジャケットの背中にあたった指先が温かい。
きっとこの下の上田の躯はもっともっと温かいはず。

奈緒子の考えを見抜いたわけではなかろうが、上田が少し躯を離した。

「you」

久しぶりに聞くような声が奈緒子の躯を震わせた。

「──いやなら厭と言ってほしい。無理強いは嫌だ。過ちも」

奈緒子の声は小さかった。

「……さ、最後までするつもり……なんですか」

上田は一瞬黙り込み、それから奈緒子に囁いた。

「できるところまで」

半端な事を言う男だと奈緒子は思う。
それがこの期に及んでの上田の逃げなのか、それとも嘘なのかが彼女にはわからない。

「妊娠するのは厭です」
「………あ」

上田が虚をつかれたような声を出した。

「……そうだな」
「忘れてたんだろ」
「…………」

奈緒子はふっと肩の力を抜いた。上田の、なんだか情けないような素直な目が不思議だった。
嘘つきのくせに、上田の目と躯はどうしてこんなに正直なのだろう。

「上田さん」
「………」
「上田さんの事、尊敬はできないけど──」
「…you」
「せめて少しは本当の事言ってくれたら、私は嬉しいと思います」
「………」

上田が喉の奥で声を詰まらせた。
密着している躯を奈緒子の掌が撫でている。
躯の線を確かめるようにその小さな温もりは躯の前に移動して、上田のジャケットの襟を掴んだ。

「上田さん」
「………」
「どうしたいんですか」
「………」

上田の喉仏が奈緒子の目の前で上下に動いた。
奈緒子は目を伏せて、そろそろと掌をさげた。
ジャケットの内側。ベストを撫で、さらに下に。

「私、知ってるんですよ。さっきから、腿に当たってるんです」
「……you。はしたない事言うな」
「はしたないのは上田さんの躯じゃないですか」
「………」

上田も動かなかった。さっきの奈緒子と同じだ。
ここで抱き合っているのは嘘つきばかりだ。

「私だって厭なことは厭だし、無理強いも厭ですよ。過ち…?……も」
「………」
「でも、じゃあ、してもいいって思った事は…その、してもいいんですよね。はしたなくても」
「you…」

上田の声は喘ぐようだった。腹の前で奈緒子の指が躊躇している。

「……目、光ってる。上田」
「し、仕方ないじゃないか」
「ぎらぎらさせるな」
「させようと思ってさせてるわけじゃない。you。その手…どうするつもりなんだ」

今度は正直すぎると奈緒子は思い、溜め息をついた。

奈緒子は呟いた。

「ちょっと離れて」

上田は無言でわずかに身を退いた。
密着していた躯の影になっていた場所に水銀灯のぼんやりした灯りが届く。
そっとその上に掌を置く。

「おう…」

呻いて上田が吐息をついた。

「大きいですね」
「そ、そうかな。そうでもないだろう」
「きっとすごく痛いんですよね。…怖いです」
「そんな事は」
「嘘つき」
「………」

奈緒子は目を泳がせた上田の顔の前に顔を寄せた。

「こんなの、私に入れるつもりだったくせに」
「you……はぁう」

ぐに、と掌全体で掴まれた上田は変な声を出し、慌てて制止するように奈緒子を抱きすくめた。

「待て。待てまてyou!そ、そんな大胆な…!」
「──私が大胆にならなきゃ上田さん、死ぬまで童貞のままじゃないですか!」

奈緒子の声はわずかに高まった。薄暗がりで見えないが、頬は真っ赤だった。

「それでいつまでもいつまでもぐじぐじぐじぐじ私に付きまとうんですよ。焼肉券持って。きっとそうです」
「ゆ、you。それは暴言──」
「黙れバカ上田!」

奈緒子は顔をうつむけ、いきり立っている問題の部分を睨みつけた。

「今日全部は無理ですけどね。できるとこまでがんばりますから、上田さんも協力してください」
「協力?」
「ズボン脱いで」

上田は目を白黒させた。

「you」
「何ですか」

ベルトのバックルをいじりながら奈緒子はしかめた眉をあげて上田を見た。

「これ、どうなってるんです。してほしくないならやめますけど」

上田は慌ててベルトを抜き、すぐに奈緒子がボタンを外そうと奮闘する様子を見て口を開けた。

「ど、どうしたんだよ、you──」
「上田さんって」

奈緒子はボタンを外すのに成功し、次にはジッパーにとりかかった。
はりつめすぎていてちっとも動かない。

「ここまでしても、どうせもうすぐ怖くなってやめろって言うに決まってますから。だから急がないと」
「……………」

バカにされているのかと上田の方は考えた。ちょっと冷静な口調で彼は言った。

「そんな事はないよ。だが君にばかり面倒をかけるわけには」
「じゃあ自分でするんですか?」

奈緒子は好戦的な目で上田を見た。

「助かりますけど。私やり方わかりませんから」

上田は再び声をつまらせた。

「ば、バカな事言うなよyou。なんで君の前で地位も名誉もある俺が──」
「地位と名誉は関係ない。……黙っててください。さっきみたいに」
「………」

上田は指示に従った。



結局どうしても奈緒子にはおろせなかったジッパーは彼がなんとか処置をした。
弾けるように飛び出してきたブリーフの伸び切った前面を見て上田は顔を赤らめた。
奈緒子は一瞬口を開けたままになったが深呼吸をした後は、もうあまり文句を言わなかった。

「上田さん」

それどころか声は優しかった。

「もう少しそっちに寄ってください」

狭いシートをできるだけさがり、奈緒子のフェミニンな細い躯が自分の腿にすり寄るのを上田は鼻息を荒げながら見守った。
ちら、と奈緒子が上目遣いに彼を見た。

「…フンフン言わない」
「………」

ブリーフ越しに奈緒子の指が触れた。
それだけで電流が走ったようで、上田は呻いた。

「動いた」

奈緒子の驚いたような声がする。

「う、動くよ。当然じゃないか」
「当然……?…私、女ですからわかるわけないじゃないですか」

温かな手が腹に触れ、彼女がブリーフの中に掌をいれようとしている事に上田は気付いた。

「おい」
「腰浮かせてください」
「…………」

ハンドルが邪魔だったが、到底抗う事などできそうになかった。

はっと気付いて上田は腕を伸ばし、後部座席に転がっているティッシュボックスをつかみ取った。
奈緒子の前に差し出すと、彼女はけげんそうに眉を顰めた。

「何?」
「要るんだ」
「どうして?」
「……いいから」

奈緒子は自分の膝の上に箱を置き、またふーっと息をついた。

「いきますよ、上田さん」
手にはブリーフの腰の部分。奈緒子としてもそれを目の当たりにするにはいろいろ勇気がいるらしい。
ぎゅっと目をつむっているので、上田は緊張が紛れるのを感じた。

「噛み付かないよ」
「こんな時に冗談はやめろ」

ずるずる、とはいかなかったが奈緒子はなんとかブリーフをずらせた。
肝心の部分がどうしてもくぐらなかったが、上田が手を添え、ねじ曲げるようにして取り出した。

「………………」

奈緒子が顔をあげ、目を開けるのを上田は見ていた。
口も丸く開いて、奈緒子の顔はとても困った表情を浮かべている。

「あ………」

奈緒子はきょろきょろとあたりを見回し、今さらのように車の外に誰もいないのを確認した。

「あの」
「………何だよ」
「……いえ。何でもありません」

奈緒子はきゅっと唇を閉じた。
自分が奈緒子の柔らかそうな唇ばかり見ていることに上田は気付いたが、慌てて頭を振ってその妄想を打ち消した。
AV女優じゃないんだから、いきなりそんな事は──

甘かった。奈緒子の覚悟を甘くみていた。
奈緒子は親の仇をとるような勢いで、素手で上田の巨根を握りしめた。
顔をうつむけ、長い髪がそのほとんどを覆い隠しはしたものの、先端にぱくっと。

自分が何を叫んだか上田にはわからなかった。
ぬるぬると舐める舌のたどたどしい動き、柔らかくていやらしい口腔の刺激。
絡み付く細い指と唾液の熱、奈緒子の小さな呻きや吐息。
くわえられてからわずかに八秒。
あっという間に、それこそあっという間に上田は達した。
自分でコントロールする時には相当に長時間でも平気なのに、信じられないくらいの悲惨な記録だった。
それでもティッシュをとろうとしたのに、それはかがみ込んだ奈緒子の膝にのっていて、とても間に合わなかった。

どくん、どぴゅっ。

奈緒子が驚いたように身を縮めたのがわかった。
しなやかな髪が揺れ動き、その間で彼女の指に握られ、苦しそうに暴れているモノが見えた。

どぴゅ、びゅっ、びゅっ、びゅっ。

奈緒子の白い顔がそのたびにねっとりと汚れていくのが見える。悪夢のようだ。
頬に、顎に、鼻に、唇に。そればかりか額や眉のあたりまで。
耐えかねたのか奈緒子は顔を仰向けるようにして喘いだ。
上田の目の前に奈緒子の濡れた唇と上気した肌と絡み付いた精液が晒された。

びゅっ、びゅくびゅく、びゅっ、びゅ。

射精はなかなか終わらなかった。
奈緒子の白いカーディガンの胸のあたりにもうっすらと染みがついていくのがわかる。
彼女の胸すらまだ一度も揉んでないのに。
上田はなぜかそう思った。

どく、どくん。……

「……………」

やっと終わった。
上田はもう鼻ではおっつかず、口を開けて呼吸していた。
微妙な虚脱感もさる事ながら、恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。
プライドもなにもあったものじゃない。奈緒子は一体、彼のこのザマをどう考えているのだろう。
目を瞑ったまま震えている彼女の次の反応が恐ろしい。

奈緒子の睫が揺れ、細い指が欲望を吐き尽くしたモノから離れた。
ティッシュを抜く乾いた音が上田の耳に突き刺さる。
彼女は目元のあたりをそれで拭うと、ようやく綺麗な目を開けた。

「上田さん」

彼女の艶やかな髪にまで飛沫が絡んでいるのを発見した上田は情けない溜め息をついた。

「………気持ちよかったですか」
「………」

上田は驚いて目を開けた。つまりいつの間にかつむっていたという事だ。
叱られるのかと思ったのだが。
奈緒子はじっと上田を見て、それからようやく恥ずかしそうに微笑した。

「……これで、もう童貞じゃなくなりましたよ」
「へ」
「良かったですね、上田さん」

上田は目をぱちくりさせた。

「ゆ……you?あの…」
「え、あの。いえ、それはもちろん本当にそうでなくなったわけじゃないですけど」

奈緒子は頬を染めた。

「い、一応。これも、セ、セックスじゃないですか」
「……………」

確かにそうだった。
だが上田としては違和感を覚えざるを得ない。

「だけど、君は──これで満足なのか」
「これでって?」

奈緒子はティッシュをさらに抜き取り、上田のモノにはらりと落とした。

「……あの、すみません、よくわからないのであとは自分でなんとかしてください」
「お、おう」

上田は慌てて躯を起こし、奈緒子の目から隠すようにして始末しながらちらちらと彼女を見た。
奈緒子はきれいに顔を拭い、乱れた髪を整えて身じまいをしている。
頬は赤いがなんだか嬉しそうだった。

「君は…もういいのか」
「え」

上田が納得いかなくて訊ねると、奈緒子は目を泳がせた。

「君は、もっと触れてほしくは──」
「い、いいんですよっ!」

奈緒子は囁いた。

「だが、その。俺だけじゃないか。youだって」

上田が食い下がると奈緒子はさらに低い声で言った。

「あの、あの、…い、今…都合が悪いんです」
「え?」
「私──その、女性には都合……ってものがあるんですっ!察しろこのボケ!」
「ああ。もしかして、youは今──」
「黙れ!!」

奈緒子の声には迫力がありすぎて上田は急いで口を噤んだ。
小さな躯は首筋まで真っ赤になっていて、奈緒子の味わっているだろう間の悪さがひしひしと窺われた。

「you」

身支度を整え、上田はティッシュのくずの山をまとめて後部座席のゴミ箱に押し込んだ。
間違ってもガソリンスタンドでうっかり渡さないようにしなければ──細かい事を考えつつ窓ガラスを細く下げ、彼は奈緒子にちらりと視線をやった。

「な、何ですか?」
「そこの眼鏡とってくれないか」
「あ。はい」

会話がもとのペースに戻っている事を嬉しく思いつつ、上田は奈緒子の顔をまた見た。

「なあ」

エンジンをかけるとそれまでの静けさが改めて思い出された。

「you。生理が終わるの、いつなんだ?この事件を解決したら──」
「上田っ」

上田を睨みつける奈緒子の、普段では珍しいほどの狼狽しまくった顔を見て上田はにやっとした。
次郎号を発進させる。

「無神経にも程があるぞ。こ、今度それを言ったら上田とは絶交だから」
「絶交なんかするんじゃないぞ」

上田は涼しい声を出した。

「……なぜなら、俺が決して早漏ではない事を、君には証明しなくてはいけないんだ」
「なんだ、気にしてたんですか。あ、そういえば確かに早かったですよね」
「……………」

上田が急に肩を落とし、スピードを落としたので奈緒子は慌てて励ました。

「じょ、冗談ですよ」
「言っていい冗談とそうでない冗談があるんだぞyou」

奈緒子は窓の外を見た。
上田の横顔が映っていて、今は実物よりそちらを見ていたいような照れくさい気分だった。

「………ふん、まあいい」

上田は再び気を取り直したように呟いた。

「次には本当に証明してやるからな。君にいつまでも童貞童貞とバカにされるのにも飽きたんだ」
「喜んでいるのかと思ってました」
「誰がだ!…覚悟しとけよ、君にはかなり辛いだろう。ふっ、ハッハッハ!」

奈緒子は赤くなった。

上田の癖に、何を大胆な事を言っているのだろう。

そう言うと、上田は小さくうそぶいた。

「俺が大胆にならなきゃyouは死ぬまで処女じゃないか」
「……し、失礼な奴だな!い、いますよ絶対。私の事欲しいって思う男性が世の中には」
「何言ってんだよ。youの処女なんかが欲しい男がどこにいるというんだ」
「私の横に一人座ってるじゃないか」
「俺は違う。これも腐れ縁で仕方なくだな…」
「あーっ嘘!嘘つき!私の事好きなくせに!」
「誰がだ!そっちこそ嘘つくなよな!」
「バカ上田!巨根!早漏!」
「それを言うなっ、俺に惚れ抜いている貧乳が!」
「貧乳って言うな、私に頼り切りのデレデレ上田め!」



嘘つきな二人の罵り合いを乗せ、次郎号は深夜の道を軽快に走っていった。






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