pink marriage blue
上田次郎×山田奈緒子


仕事が忙しくてあまり構ってやれないせいか、それとも間近に迫った式の準備に追われているからか。
彼女の機嫌は悪かった。
そう、昨日、記念写真の前撮のため式場に行った時の話だ。

「新婦さま、もっと嬉しそうに笑ってくださーい」

もともと笑うのが苦手な彼女はものすごくがんばっていたには違いない。

「ちょっとこわばってますねー。緊張しますか。えーとですね、深呼吸してー。もっと自然に、自然に笑ってー」

それでもカメラマンにいろいろ指導されていた。

一方彼のほうはと言えば、

「新郎さまはそんなに歯を見せないでくださーい。あ、新婦さまより前に出ないで。ポーズ作らないでくださいねー。お顔の角度はもっと、自然に、自然にー」

別の理由でいろいろ注意されてたがこれは別にいい。

撮影のあいだ、綺麗に着飾った彼女の機嫌はどんどん悪くなっていった。
試行錯誤の結果辛うじてOKがでて二人は解放されたが、不機嫌はその後も続いていた。
腹が減ったのかと高級レストランに連れて行くと、山ほど食べはしたもののやはり機嫌がなおらない。
足りないのかとデザートを勧めると、三種類食べても無言だった。
熱でもあるんじゃないかとおでこに手をあてようとしたら低く唸られた。
挙げ句の果てに、彼女の部屋にいそいそあがりこもうとしたら明日はバイトがあるからと追い払われた。

彼だって忙しい時間を割いて少しでも一緒にいようと努力している。
人生でも大きな(だろう)イベントを控えて怒濤のように過ぎていく日常の中の貴重なデートの機会でもある。
大体、ここ最近がこれほど忙しいのは、新婚旅行用の休暇を確保するためなのだ。
なのに仏頂面だけ見せられて、彼も昨日は虚しかった。



今日も今日とて研究の合間、せっせとレポートの採点をしているところにゼミの学生が現れた。

「上田先生、披露宴での余興なんですけど、参加希望の人数が増えまして。会場の外でもっと待機できますか」
「ああ、構わないよ」

休憩がてらペンを置き、上田は椅子の背に躯を預けた。

「ほかの学部の奴らまで訊いてくるんですけど。参加させていいですか」
「勿論だ」

上田は気分良く頷いた。
日頃から理工学部以外の学部生にも有名教授である上田の講義は大人気で、毎回立ち見が出るほどである。
今回の彼の結婚には学内全体が興味津々であるらしい。

「会場で配布する先生の業績紹介のパンフレット、試し刷りができました。あとで持ってきますからチェックしてください。で、編集後記のとこのためにお借りしてたこれなんですが」

学生は小脇に抱えたファイルケースから写真を取り出した。
そこには講義の後学生たちの質問を受けている上田の満面の笑顔がある。

「ここに、よっと…、お返ししておきます。ありがとうございました」
「いやいや。いろいろ面倒をかけるね、ハッハッハ」

学生が去ったあと、上田はすぐにはペンに手を伸ばさず、レポートの山に半ば埋もれている電話を眺めた。
結婚披露宴の話などしていると必然的に昨日の奈緒子を思い出す。
彼女は部屋にいるだろうか。
さっさと上田のマンションに移ってくればいいものを、荷物整理とバイトのために未だに池田荘で暮らしている。
彼女の引っ越し予定は来週末だ。
機嫌が機嫌だったので昨日はあまり話もできなかった。

……物足りない。
心に潤いが足りない。少しは生活に糖分が欲しい。

受話器をとる。
もうすぐかけることもなくなる電話番号をプッシュする。
短い呼び出し音のあと、奈緒子の声が聞こえてきた。

「ああいたのか、俺だ。元気?」
「昨日会ったばかりだろ」
「バイト終わった?」
「終わったから電話に出てるのに決まってるじゃないか」

上田はレポートの山の上に肘をついた。

「今大学にいるんだが、you、晩飯食いに来ないか。これから出前でもとろうかと思ってるんだ」
「…まだ、仕事してるんですか」
「ああ」

奈緒子は承諾した。
電話をきった上田は猛然と採点を再開した。



一時間後。
上田研究室では、炒めものと餃子と天津飯と担々麺などから立ち上る香りが節操なく混じり合っていた。
それはそれで食欲をそそるカオスではある。

「この担々麺も私の?」
「それは俺のだ」
「じゃあこっちの杏仁豆腐は」
「それもだ。食うな勝手に」

今日の奈緒子は昨日とはうってかわって楽しそうだった。
ぱくぱくと食べ(これはいつもの事か)、話し、水を飲み、上田の料理を狙おうとしている。
上田は心も軽く彼女を眺めた。
やっぱり、昨日の奈緒子は疲れていただけなのかもしれない。
なんであんなに不機嫌だったのか、ふと訊ねてみようと思った。

「昨日だけどな、you」

上田はレンゲを持ったまま一人掛けのソファから立ち上がり、奈緒子の横に移動した。

「う?」

口に一杯天津飯を頬張ったばかりの奈緒子はもの問いた気に上田を見上げた。

「どうしてあんなにつんつんしてたんだ?変だったぞ」
「……ん、ぐ。別に」

奈緒子は口元を拭った。

「つんつんなんて、してませんけど」
「嘘つけ」

上田は丼を引き寄せた。

「あからさまに機嫌が悪かったじゃないか。あの日か?」
「違いますよっ。…だから、そういう事言うなって」

奈緒子は眉間に皺を寄せ、上田は麺を啜り込んだ。

「…じゃああそこまでつんつんしなくてもいいだろ。せっかく久しぶりにゆっくり会えたのに」
「ゆっくり?」

奈緒子が口を尖らせた。

「めちゃくちゃ大変だったじゃないですか。何回も着替えたり写真撮ったり」
「……まあな」

上田は麺を啜った。

「ま、俺の格好いい姿を見られて、良かったじゃないか」
「………」

途端に奈緒子の周辺の空気が冷たくなった。
上田は気付かず相づちを求めた。

「な。you、そう思っただろ」
「なんで私に聞くんです」

奈緒子はそっぽをむいた。

「だってさ、貸衣装の人も、カメラマンも助手の人も褒めてただろ、格好いいって」
「そうでしたっけ?」
「ほかのスタッフもみんな言ってたじゃないか。式服も羽織袴も凄くお似合いですねって」
「お世辞ですよ。決まってるだろ」
「背がお高いからとてもご立派に見えます、とか」
「ふっ。他に褒めるとこなかったんですよ、きっと。上田さん、無駄にでかいからどれもこれもサイズ合う服一種類ずつしかなかったじゃないですか」
「着替える時にもさ、眼鏡がないと随分雰囲気変わりますねとか」
「ダッサイもんな、その銀縁」
「ほら、式服の時に髪型少し変えてみたじゃないか。そちらも素敵ですって言われたな。フフ。フフフ」
「なんでそういうどうでもいい事覚えてるんだ」
「俺はね、賞賛の言葉は決して忘れたりしないんだよ」
「………」
「ほら、ほかのカップルの女性。スタジオの入り口に集まって、俺のパートナーである君を羨望の目で見てたじゃないか」
「上田さんがモデルみたいにポーズとってて確実に変だったからです。あれは憐れみの目だっ」
「そういえばお茶いれてくれた式場の人」
「聞いてんのか、お前」
「ほら、彼女なんか、ハンカチに俺のサインくれって」
「お前が自分からサインしてたんじゃないか。お世辞言われて褒められて、ニヤニヤ鼻の下長くして、浮かれきってデレデレして」

奈緒子の眉間にはくっきりと皺が刻まれ、彼を見る視線が険しい。
ふくれている頬はほんのり染まっている。
上田はまじまじと奈緒子を見た。

「なんだ。you」
「え」
「君が不機嫌だった理由がようやくわかったよ。そうか、そういうわけか」
「何ですか」
「ジェラシー。俺があまりにも格好良くてモテてたから、君…」

言葉を続けるより、奈緒子が立ち上がるほうが早かった。

「ごちそうさまでした!じゃっ。私帰ります」
「待てよ!」

上田は素早くその腕を掴んだ。このへんの呼吸はほとんど考えなくても身についている。

「まあ待ちなさい。落ち着きなさい。いい子だから」
「放せ上田!」

腕をひっぱり、上田は奈緒子をソファに戻した。

「フ。……フフフフフ、you」

奈緒子は顔をそむけ、ホワイトボードの、学生が残していった満面の笑顔の上田の写真を睨んだ。
真っ赤になっていた。

「君はそんなくだらない事を気にしていたのか」
「くだらない事?」
「恥ずかしがらなくてもいいんだ。君がジェラシーを覚えるのは当然だよ」

奈緒子はちらっと上田を見た。

「俺の場合、中身の優秀さが外見にまで影響を及ぼしているのは天然自然の理だからな。今更そんな瑣末事をことさら改めて君に認識させようなどとそんな押し付けがましい事は、全く思ってもいない。
全てにおいて価値ある俺と結婚できるyouは胸は貧しいがとんでもない幸運の持ち主だとか、そんな」
「押し付けてる。押し付けてるぞ上田」
「それよりさ…」

上田は奈緒子を抱き寄せ、顔と躯を近づけた。

「昨日はせっかく休日だったのに……な、you……」
「放してください」

奈緒子は上田の腕を払って立ち上がった。

「モテモテで人気者で忙しいんだろ。無理に胸の貧しい私を構ってくれなくてもいいですよ。勝手にしろ」

上田も立ち上がった。

「勝手にしろってどういう事だよ」

奈緒子は上田を憤然と睨みつけた。

「上田さんって、結局自分の事が世界で一番好きなんじゃないですか。結婚式だって、上田さんにとっては私は単なる添え物なんです。
別にいいですよ。好きなだけ変なポーズとって、ちやほやされて勘違いして笑ってろターコ!」

まくしたてる奈緒子の肩をむんずと掴んで上田は彼女を抱え込んだ。
このへんのタイミングももう条件反射的に掴んでいる。
長い付き合いだからだ。
だが、悪口雑言には慣れっこではあるものの、奈緒子の様子がちょっといつもとは違う事には気付いていた。
照れ隠しではなく、本当に苛々しているみたいだ。

……奈緒子でも、マリッジブルーという状態になることがあるのだろうか。

「you」

上田は口を開いた。

「何をひねくれてるんだ。君だって式場の素人モデルにならないかと誘われていたじゃないか」

奈緒子はむくれて俯いた。

「でかくてカッコいい上田さん込みでですけどね。良かったですね、モテモテで」
「みんな、俺だけじゃなくて、その、君の事も……褒めてただろ」
「ええ。だって、一応花嫁なんだから褒めなきゃまずいじゃないですか」
「写真撮影の時、助手の人が君の傍で何度もコードにつまずいてたじゃないか」
「あの人、うっかり八兵衛並の慌て者でしたね」
「君に見蕩れてたんだよ」
「コントですか」
「…覗いていたカップルの女性はともかく、男のほうは、結構その……君をちらちら見ていたぞ」
「ホントは上田さんを睨んでただけだって言うんでしょ、どうせ」
「大学で噂になってる。俺の結婚相手は貧、いや、美人らしいと」
「よく知らない女性とか若くして死んだ女性ってたいていそう言われるんですってね。で?」

「you」

上田は堪えきれない笑いで口のまわりのひげをひきつらせた。

「どこまでひねくれ者なんだ、君は」
「上田」

奈緒子はじろりと上田を見た。

「………」

上田は咳払いをして目をそらした。

「つまりだな……。そう、アレだ。キレイ、いや、キャッカンテキに見れば、君は黙って座っていれば、俺が傍にいなくても相当にアレなんだ」
「アレって」
「アレはアレだよ。つまりソレだ」
「上田」

奈緒子が呆然とした声を出した。

「キレイって言ったのか、今」

何を今更赤くなっているのだろう。

「幻聴だ」
「言った」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「言った!」
「言ってない!」
「言った!言いました!認めろコラッ」

不毛な言い争いをしながらも奈緒子の掌は上田の胸に、上田の掌は奈緒子の肩に留まっていた。

「you、いくらひねくれ者でも、ふつうは自分の容姿についての客観性くらいは持ってるもんじゃないのか」
「……自分じゃそれなりにそう思ってますよ、でも」

奈緒子は唇を尖らせた。

「そんな事、意地悪な誰かは全然言ってくれないし。いつも自分の事ばっかだし」
「誰かって誰だ」
「………それに」

奈緒子は続けた。

「上田さんがカッコいいとか……そんなの、とっくに知っていましたよ、私」

反射的に満面の笑みを浮かべた上田に奈緒子は言った。

「でも、そう思った相手は昨日みんなが褒めてた式服とか羽織袴の人じゃなくて」

彼女は俯いた。
唇がかすかにほころんだ。

「……あの島に迎えに来てくれた時の上田さんなんです」

上田は胸をつかれて黙り込んだ。

「よれよれのシャツ着て、風で髪が余計にぼさぼさで」
「………」
「役にたたないリトマス試験紙とか入ってるカバンもって変な靴はいてて」
「………」
「そういう間抜けな格好してた上田さんなんですよ」
「………」
「だから自慢すんなボケ」
「………」

奈緒子の笑顔は本当に綺麗だ。

上田は指に力を込めた。

「な。…明日も、バイト忙しいのか」
「………」

奈緒子は口ごもり、上田の胸に顔を伏せた。

「you」
「明日は休みです」

奈緒子のつむじを見下ろした上田は囁いた。

「……仕事、あとちょっとだから」

奈緒子は頷いた。
上田は小さく咳払いする。

「……上田?」

奈緒子の手に力が入るのを上田は感じ、背をかがめた。
仰向いた彼女の頬を両手で挟んで視線をあわせた。

「昨日、こうしたかったんだよ」
「………」

奈緒子の瞳がやさしく潤んだ。

「上田さん」

目を閉じ、つま先立ちをして、彼女のほうから唇を押しつけてきた。
華奢な彼女をすっぽり抱いて上田は応えた。
互いの唇をほどき、舌を互いに触れ合わせる。
吐息が乱れ、躯が熱くなる。

「……奈緒子…」

これ以上突っ走ってはいけない。
夢中になるのは、仕事を終えてマンションに戻ってからでもいいはずだ。
頭ではそう考えているのに、腕の中の温もりが彼を誘う。
掌が何度も何度も奈緒子の背を撫で始め、躯が勝手にくっついていく。
昨日逢えなかったから。
彼女が居ないと上田の躯はきっととても寂しいのだ。

「上田さん」

奈緒子が、だんだん激しくなっていくキスの合間に囁いた。

「あの……変な事、考えて…ませんか」
「変な事じゃない」
「………」
「たとえ変な事だとしても相手は君で、君はもうすぐ俺の妻になる女性だ。何の問題もないだろう」

奈緒子は赤くなりながら上田に囁いた。

「問題大ありです。ここ、研究室じゃないですか」
「そうだ。幸いにもソファがある」
「おいっ……んぅ」

上田は奈緒子を抱えて黙らせ、身じろぎしてソファに倒れ込んだ。

「上田」
「黙れよ」

上田は興奮した声で囁いた。

「あんな事で焼きもちをやくなんて、俺を信じてない証拠じゃないか。youにはお仕置きだ」
「したいだけだろ」
「君もじゃないのか。目が潤んでる」

ためらいがちに抵抗を続けながら、奈緒子の瞳はさらに潤んだ。

「上田さん…ちょっと、あの……」
「待てよ、上着脱ぐから」

上田はいそいそと奈緒子のこめかみにキスし、ジャケットを脱ごうと上体を起こした。


どさりと大きな音がした。

顔をあげた上田の目に、床に散乱したファイルケースやパンフレットの束が見えた。
視線をあげると、開いたドアの影にさっきの学生の驚愕の顔があった。

「君は」
「……上田?」

奈緒子が躯をひねり、ドアを見た。

「!!!!」

弾かれたように奈緒子は上田を押しのけ身を起こした。

「す」

学生がぱくぱく口を開閉させた。

「すみません。一度ノックしたんですがお返事がなくて」
「………今後は、力一杯三度はノックする習慣を身につけたまえ。無事に卒業したいだろう?ん?」
「はいっ」

脱兎の如く逃げていく学生の足音が夜の廊下に響く。

「ふん」

横暴な教授は怒りの鼻息をついた。

「you、邪魔者は消えたよ。さあ」
「って鍵してないお前が悪い。さっさと仕事しろ上田!!」

向き直った上田は、奈緒子に一発殴られた。



机に戻り、採点しながら上田はぶつぶつと呟いた。

「……大体、教授ともあろう俺が学問の殿堂で本気で事に及ぼうとしていると誤解するほうが間違っているよ。ちょっと息抜きでふざけてただけじゃないか。なあ、you」
「その気だったじゃん」
「いや…そんな事は」

奈緒子は溜め息をつき、眺めていたパンフレットを閉じた。

「こんなもの配るのか上田」
「俺の事を詳しく知りたい人がいるだろうからな」
「本まで出しといて、まだ足りないのか」
「人気者の義務という奴だ」
「………」

奈緒子は、ふいに赤くなってパンフレットをもみくちゃにした。

「…上田さんのせいで、私もう二度とここに来れないじゃないですか」
「大丈夫だよ。口止めするから。俺はあいつの指導教官だぞ。ククク」
「……」

奈緒子は呆れたように上田を見た。

「そういう問題じゃなくて」
「youだって厭がってなかったじゃないか。……昨日は俺の事嫌いだったんだろ。マリッジブルーって奴か」
「………そういうところが嫌いです」
「毎日言ってやるよ。結婚したら」

上田はにやっとした。

「俺の事嫌いだったんだろって」
「上田さんってホント性格良くないですよね」

奈緒子はまた口を尖らせた。
だが上田にはわかる。彼女は本気で怒ってはいない。
レポートの山もだいぶ減ってきた。

「上田さんって、俺を好きになってはいけないとか愛してはいけないとか、最初っからそんな事ばっか言ってましたよね」
「そうだったかな」
「最近気付いたんですけど」
「何に?」
「暗示かけてたんじゃん、あれ」
「暗示?」
「暗示ですよ。何とも思ってない相手でも、ああいうふうに言われるとなんだか気になってくるでしょ」
「気にしてたのか」
「………仕事しろ、仕事っ!」
「おう」

あと五人分。

「………」
「……そういえば、you」
「………」
「君は何かをしてはいけないと言われると、必ずそうしてしまう人間だったな」
「………」
「ひねくれ者……くくくっ…」
「………」
「俺の事嫌いだったんだろ」
「黙れ根性悪」

あと少し。
「………」
「………」
「上田さん」
「ん?」
「杏仁豆腐食べていいですか?」
「おう。一口も食うんじゃないぞ。もう終わるから」

最後のレポート用紙を引き寄せた。
即座に器にスプーンをつっこんでいる奈緒子を見ながら、上田の心の潤いは満タンだった。

「戻ったらさ、……you、俺と一緒に風呂入っちゃだめだぞ」
「はい?」
「狭いし邪魔だし、一緒に風呂入ってきちゃ駄目だって言ってんだよ、絶対に。いいか絶対に」
「いいですよ」
「フフフ。フッフフ。終わった。さあ、帰るか」
「その笑いかたやめろ上田」

杏仁豆腐をスプーンで掻き回しながら、奈緒子が微笑した。



午後十時五分、上田のマンション。
トレーニング器具の林立するリビングルームで上田と奈緒子は大揉めに揉めていた。

「あれだけ念を押したのに、なんで今更拒むんだ」
「絶対一緒に入るなって言ってたじゃないですか!」
「入るなって言えばひねくれてるyouは絶対一緒に入ると思ったんだよ!」
「…………」
「君だってまんざらでもなさそうだったじゃないか。ちゃんと仕事も早く済ませただろ。な、you。な、な」
「バカッ」

案の定の展開である。

「今までだって一緒に入った事なんかないですし……結婚してからで、いいじゃないですか。ね?」
「そんな事言ってこれからも絶対入らないつもりなんだろう。恥ずかしいとかなんとか言って」
「珍しく鋭いな上田」
「くそっ」

上田は髪をかきむしり、奈緒子を睨みつけた。

「なんでだよ」
「そっちこそなんで風呂ごときにそこまでこだわるんだ!」

奈緒子は睨み返した。上田は即座に答えた。

「『一緒にお風呂』はカップルの通過儀礼の一つだ」
「通過儀礼……」
「いろいろあるじゃないか、ほら。『最初のデート』『初めての夜』『夜明けの牛乳』…『裸エプロン』」
「上田。最後のは何だ」
「そういうのがしたいんだよ」
「お断りだ」
「何言ってんだよ!俺の妻になる君にはそういう事にもつき合ってもらわなければ困るじゃないか」
「勝手に困ってろ」
「いいのか」

上田は声を落とした。

「あんまり冷たくしてると………浮気するぞ」
「!」

奈緒子はぱっと頬を染めた。当然、怒りにである。

「……そ、そんな相手、いないくせに」
「ふふん」

上田はいやみったらしく笑った。

「昨日の件で君も思い知ったはずだ。俺はその気になればモテるんだよ!ハッハッハ!!」
「………」

奈緒子は肩で息を継ぎ、深呼吸した。

「……わかりました」
「わかってくれたか」
「上田さんが浮気するなら、私だってします」
「え」
「します、浮気」

奈緒子はきっと上田を見上げた。
紅潮した滑らかな頬、艶やかな髪、きらきら挑発的に輝く大きな瞳。
こんな場合だというのに彼女が綺麗な女性である事に上田は思い至って狼狽した。

「な、なに言ってんだよ。youのような貧乳が男にモテるわけが──」
「いざとなったら電気消しますから大丈夫です」

奈緒子はきっぱり言うと腕を組んだ。

そういえば奈緒子はひねくれ者で貧乳のくせにその美麗な容姿のせいか、案外モテるのである。
その身近な具体例を上田はようやく思い出した。
いつも自分の事しか考えていないので彼らの事はすっかり意識の外だったが、彼女には昔からの熱心なファンもいれば無条件に萌えている刑事もいる。
里見に以前ちらっと聞いたことがあるが、長野には奈緒子とひどく結婚したがっていた幼馴染みもいるらしい。
骨の髄まで上田に惚れ抜いている(※上田の主観)奈緒子が彼らに目をくれるとは思わないが、それでも万が一という事が。

いや有り得ない。絶対に有り得ない。
だが──もし他にベターな感じの男が現れて彼女を気に入ったとしたら──?
そして、彼女が押し切られて、電気を消すような事態になったとしたら。
ここでもまだ『押し切られて』と考えているあたりが上田の上田たる所以である。

「………」

上田はぎりぎりと歯を食いしばった。

「youが………ハハ、ハ、まさか。浮気なんか…」
「そうですね。本気になったらどうします」
「え」
「浮気じゃなくて、私が上田さん以外の男の人を本当に好きになったら。上田さんと一緒にいるよりずっと、その人と一緒にいたくなったら。そしたら一体どうするんですか」
「───」

上田の表情が凍り付いた。

「………上田さん」

奈緒子は溜め息をついて腕を解いた。

「そんなにショックなら変な事言い出さないでくださいよ。浮気するだなんて」
「え」
「ほら聞いてない。…上田さんが浮気するなら私も、ってちゃんと言ったじゃないですか」
「……………」
「……………」
「……………」
「泣いてるのか」
「怒ってるんだ!」

上田は顔を真っ赤にして奈緒子の腕を掴んだ。当然ながらこちらも怒りのためだ。

「くっだんねえ事想像させやがって。ふざけるな」
「上田が言い出したんじゃないか!」

こちらも怒っている奈緒子のきらきらした目を上田は睨みつけると、手を強く引っ張った。

「お、お風呂には一緒に入らないぞ!?」
「誰が入るか、youみたいな貧乳と」

ぐいぐいひっぱられながら奈緒子はますます赤くなった。

「上田っ」

リビングを出た向かい側は上田の仕事場兼寝室になっている。
扉を開けて彼女を中に放り込み、上田は入り口に立ち塞がった。

「結婚前から浮気するとか本気になるとか脅しやがって……ナマイキな」
「そっちが先に脅したんだってば!」

奈緒子はじりじり後ずさった。
上田が長身に殺気を漂わせて近づいてくる。

「へ…変な事考えてないか、上田」
「変な事じゃない。……たとえ変な事だとしても君は間もなく俺の妻だ。そしてここは寝室だ。何の問題もない」

上田は奈緒子を捕まえて、ベッドに押し倒した。

「you」
「………」
「浮気っていうのは、こんな事するのか。俺以外の男と、こんな──」

唇を落とされ、奈緒子は目を閉じた。
こんな状況でも、上田の温もりに躯は正直に反応する。

「ん」

奈緒子は吐息をつき、唇をほどいた。
舌が入ってきて、甘さがじわりと湧いてくる。
上田の肩に手を滑らせ、首のまわりに腕を巻く。奈緒子のブラウスの裾の中に上田の掌が這いこんでくる。

「──こんな事、させるのか?え?」

ブラを押し上げられて奈緒子は急いでその手をおさえた。

「触るな」

上田は視線をあげ、まぶたが半分落ちたような『こういう時の顔』で奈緒子を見下ろした。

「変な想像しながら触るな。私は、……上田さんとしか、こういう事しません」

上田は唇の端をほんのちょっと持ち上げて掌を動かした。
ふくらみの頂上のちいさな乳首に指を押しあて、くにくにと震わせる。

「当然だ。結婚するからには、youには貞操を守る義務がある。俺のために」
「んっ……上田さんにだって、あるんでしょ」
「ああ。君がちゃんとさせてくれるなら、俺はどんなにモテても浮気しない」
「なんで条件付きなんだ、そっちだけ。根性悪いなホント」

長いスカートをたくしあげて、上田は奈緒子と脚を絡めた。
薄い下着の中にもう片方の掌を送り込む。

「……性生活の過剰な拒否は離婚の原因になり得るって知ってるか?」
「なんだ、それ」

奈緒子は頬を赤らめて上田の愛撫を受け入れた。

「あるんだよ。だから後で風呂一緒に入ろう──」
「ってお前、自分の都合のいいように話………あっ…、あん…」

上田が首すじに沿って白い肌を舐めあげると奈緒子は啼いた。
口の中で柔らかな耳朶をくちゃくちゃ噛んで苛めた。

「んっ、あ、あ…いや、そこ…」
「……ひねくれ者」

上田は指先に蜜を絡めて潤いを確かめながら囁いた。
奈緒子は目を閉じ、短い吐息をつきながら頬を上田の胸に押し当てて震えている。
上田が欲張ってあちこちに与えている快感に身を委ね、躯をほんのり染めている。
そんな彼女はとても可愛いが、男は結構忙しい。

「気持ちいいならいいって言えよ」

奈緒子は頷いて上田の背を抱き締めた。
くにゅ、と上田の指に熱い蕩けた場所が絡まる。

「気持ちいいです。とっても……」

瑞々しい唇が紡ぎ、柔らかな膨らみが掌を押す。
そのたびに奈緒子は甘く喘ぐ。上田の耳元で、彼をそそのかすように。
そこに存在するだけで彼女は彼を支配する。

「…………you」

上田は降参の溜め息をつき、そわそわと腰をおしつけた。

「なあ。……挿れちゃっていいか」

一言一言の合間に唇を落としてなめらかな肌を確かめる。彼女に触れていると、上田だって気持ちいい。
奈緒子は喉をそらして上田の目を見た。潤んだ視線が最高にいやらしかった。

「……挿れて」

上田が入ると奈緒子はとろけるような呻きを漏らした。
すんなりした脚が彼の腰に巻かれる。腕が、彼女の躯が彼を受け入れてからみつく。

「上田さん」

初めて抱いた時の彼女の反応を思い出す。
恥ずかしがって我慢してて痛々しくて、こんな甘い声は出せなかった頃の奈緒子の姿を思い出す。

「奈緒子」
「あん、あ、…………上田さん…」

上田のものが標準よりも大きいから余計に苦労をかけたと思う。
でも奈緒子は、だからといって行為そのものを厭がった事はない。
愛されていると上田は思う。
声だけではなくて、奈緒子が感じているのがわかる。
興奮しきった上田のものを、興奮しきった彼女の蜜と肉がうねってしめつけて、限界目指して煽りたてていく。
その熱を制御する事など考えられないし、ためらう理由もなにもない。

幸せだ、と思う。

いつまでこうして二人で抱き合っていられるのだろう。
生涯一緒にいられるとして、奈緒子はいつまで抱かせてくれるだろうか。
いつかそれにも倦んで、顔を見る事もいやになる日は来るだろうか。
奈緒子が感じれば感じるほど、甘い声をあげればあげるほど、その日が来るのが怖くなる。



満足した後の気怠さのせいかもしれない。

「なあ」

腕の中でくたりと丸まっている彼女に囁いた。

「──俺のどこを好きになったんだ。youは」

奈緒子が身じろぎして白い顔をあげた。目尻に上気が残って色っぽい。

「…どうしたの」

声は不思議そうだった。上田は咳払いした。

「参考までに聞いておきたいと思ってな。…才能か?容姿か財力か人格か。それとも……その、コレか」
「何言ってんですか。バカ上田」

奈緒子はまたくたりと、頬を上田の胸につけた。

「重要な事なんだよ」

上田の声に何か感じたらしく、奈緒子はまた少し顔をあげた。
しなやかな髪が流れてくすぐったい。

「………どうしたんですか」

彼女は真面目な目で上田を見つめた。

「上田さんらしくないです」

吐息が上田の顎に触れた。

「マリッジブルーですか?」

かもしれない。昨日の奈緒子が苛々していたように。

「馬鹿な事言うなよ。俺に限ってそんな事あるわけないだろう」

上田はせせら笑った。

「どの面においてもパーフェクトに決まってる。言っただろ、あくまでも参考までにだ」
「重要って言ったじゃん。さっき」
「幻聴だ」
「言った」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「言った!認めろコラッ!」

奈緒子は手をのばして上田の顎を掴むと、そのまま顔を近づけた。

「…たまには、認めろって」

上田は度肝を抜かれたような間抜けな顔で至近距離の彼女を見た。

「………認める」
「じゃあ教えてあげます」

奈緒子の目はきらきらして綺麗だった。

「上田さんだからですよ」
「………」

上田ははぐらかされたような気がして眉間に皺を刻んだ。

「何だよ、それ」
「上田さんだから、なんですよ」
「わかんねえよ」
「いいんですよ。それで」

吐息が柔らかい。
そして甘い。

「違うぞそれは。そういう結末に至るまでの的確な説明を述べるべきだろ、具体的な実証例をあげて」
「学者って厭な人種ですね」

上田は促した。

「………早くキスしろよ。いつまでも喋ってないで」
「…そっちからすればいいじゃないですか」

奈緒子は笑った。

「マリッジブルー、治るかもしれませんよ」

上田は眉間の皺をゆるめ、目を閉じて、奈緒子の躯を引き寄せた。



数量化できない領域においても真理に似たものはあると仮定する。
幸せだから感じる不幸もあるという事。
そんな不幸は幸せの一種だという事。
それもたぶん人生なのだという事。

pink marriage blue.






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