呪文と石
上田次郎×山田奈緒子


安アパートの自室に入り、バッグを肩にかけたまま奈緒子は畳にへたり込んだ。
もうくたくただった。

今日は夕食をご馳走になった。
普段奈緒子が行くことのない、人気の懐石料理の店でだ。
連れていってくれた男の膳から奈緒子は簡単に次々とおかずをかっさらう事ができた。
その男つまり上田が時折箸を休め、柄にもなく何事かを考え込んでいる様子だったからだ。
摂取した料理の質と量は普段とは比べ物にならない。
当然奈緒子は上機嫌だった、そこまではいい。

ただその後の展開が少々意外なものだった。
お茶でもどうだと言うのでマンションに寄ったら速攻寝室に連れ込まれたのである。
月曜の夜に彼が誘うのは珍しい。
異性としてつき合い出して二ヶ月ちょっとの彼の情熱は、正直なところちょっとだけ、まあその、悪い気はしない。
だがそれも程よくであればいい話なのであって。

──やりすぎだ、あのバカ。

奈緒子は痛む腰をかばいつつ顔をあげ、目覚まし時計の針を確認した。
午前一時半過ぎ。一刻も早く寝るべき時間だ。
明日、いや今日は滞納している家賃絡みのただ働きをしなくてはならない。
大家のハルの知人が役員をしている子ども会のお祭り会場の一隅で『無料の』マジックショーという今ひとつやる気のでない仕事である。
だが奈緒子はマジシャンだ。やるからには無料だろうがただ働きだろうが全力を…ぐうとお腹が鳴った。
折角摂取した夕食のカロリーをすぐさま上田に奪われてしまったからか、ひどく空腹だった。
奈緒子はちらりと戸棚を見上げた。
バイト料が入る予定の木曜日までは、残っているパンの耳に手を付けるわけにはいかない。
熱すぎるくらい熱く愛された事とは別に、なんだかちょっと切なくなった。

奈緒子はバッグを放り投げ、積み重ねた布団に向かった。



火曜日の池田荘202号室。

「……ほんとに何もないっ」

奈緒子はぺこぺこのお腹を撫でながら、諦めきれないまま戸棚に縋り付いていた。

原因は昨日と同じだった。
どすこい上田だ。
ただ働きを終えて戻ってきた奈緒子が目にしたのは、大事なパンの耳に貴重品のケチャップとマヨネーズをたっぷりつけて貪り食っている大男という一番見たくない光景だった。
怒り狂った奈緒子の剣幕に怯えて何か言い訳していたが、それにしても許せない男だ。
奴にはおやつ程度の感覚でも、奈緒子にとってはパンの耳は主食であり主菜なのである。
しかもだ。
悪かった許してくれといいながら上田は彼女の肩や腕に触れ、次に長い髪を手に巻いたり頬を撫でたりしはじめ、更には腰を抱き寄せた勢いで唇を奪いあまつさえ壁に押し付けスカートを捲り上げ挙げ句には舌や吐息や指で。

───平日に二日続けてなんて。有り得ない。

昨夜の情事で疲れ気味なのか上田は巨根の分際で彼女に騎…いや、細かい経緯はどうでもいい。
空腹のまま日中必死で愛想笑いをしていた身にはかなりの負担の運動だった。もう本当に勘弁してほしい。

そもそも火曜日の夕方に彼がここに居ること自体が不思議である。
いくら上田が暇そうに見えるといっても彼は学者で仮にも大学教授なのだ。
崇高なる権利である己の研究はどうした。
明日を担う若き学生に対する教育指導の責務はどうなる。
日頃愚痴と見せかけては自慢たらたら奈緒子に語る教授ゆえの雑用だってそれなりにあるに違いない。
そのあたりをちくちくと思い出させてやったところ、上田は慌てて服を着て帰っていった。
明日の夕食、パン耳の償いに焼肉を奢ると言い残して。

奢りは当然だが、とりあえず今後はパン耳の保管には厳重に注意しなければ。
あともう一つ、疲れている時にはどんなにねだられようとこの体位は断固断らねばならない。
奈緒子はそう決意した。
さもなければただでさえスレンダーな躯がさらにスレンダーになってしまう。

せめて上田の忘れた茶菓子でも転がってないかと棚を隅々まで探ってみたが、何も見つける事はできなかった。
仕方なくお茶をいれて啜り、奈緒子は今日も空腹のまま眠りについた。



さらに翌日の池田荘同室、水曜日。

「だめ…もう死ぬ…お腹減った」

昨日一昨日と変わらぬ呻きを漏らしつつ、奈緒子は今日も自室に転がっていた。

今日は元凶の男が傍にいる。
乱れた服と呼吸を整えながら気怠そうに身を起こし、ちゃぶ台の前に座った上田は勝手に茶をいれはじめた。

「茶の葉が急に減ったんじゃないか、you」
「夕べ飲んだんです。上田がパンの耳勝手に食うから」

彼はふうふうと息を吹きかけたまだ熱い茶を一気に飲み干し、大きく吐息をつくとすぐに次をいれはじめた。
さきほどの運動で相当喉が渇いたのだろう。奈緒子も同様である。

「あああれか…お詫びに美味い焼肉を食わせてやっただろ。な」
「そんなの、今ので全部どこかに消えました!私にもお茶をよこせっ」

奈緒子はしどけない半裸の躯を気にしながらようやく肘をついて起き上がった。
喘ぎ過ぎたのか頭がガンガンする。腰が慢性化しそうに痛い。躯の芯にも鈍痛。体中の骨がきしんでいる。
奈緒子の大きな目は潤みきり、あたりには服や下着が散乱していた。
濃いキスの痣がついて上気した肩や背中に長い髪が振りかかり、おざなりに敷かれた布団は乱れ、コンドームの空袋や丸めたティッシュの山が畳に盛り上がり、つまりは落花狼藉の有様だ。

───平日に三日連続。本日も二回立て続けの猛攻。有り得ない。

「上田さん。一昨日から変ですよ」
「はい?」

広い背中がぎくりとしたように固まった。

「……何かあったんですか?」
「…………」
「明日も大学ありますよね、講義とか研究とか会議とか。なのにこんな時間まで──」

上田がぼそりと言った。

「厭か?」

奈緒子は詰まった。

「感じまくってたじゃないか」
「うっ…」

奈緒子は赤くなったが、これではいけないと視線をあげた。

「あのねっ!…こんな事続けてたら躯壊しますよ。そっちもだけど私も、今週はまだバイトが」

上田は茶を啜り、またぼそりと呟いた。

「………you。明日、いやもう今日か………夜は空いてるか?」
「話聞いてんのかお前」

奈緒子はさらに赤くなった。

「どうせ何かくだらない事企んでるんだろ。白状しろ」

彼はのっそりと立ち上がった。むやみに高い場所から低い声。

「じゃあまたな」
「上田!」

奈緒子は追いすがろうとしたが、濃厚な運動後の華奢な躯はふらふらして、持ち主の言う事をきかなかった。

結局その日も上田の残した出涸らしの茶を啜ったあと、奈緒子は気絶同然に眠り込んだ。



翌日の木曜日、路上にて。

奈緒子は疲れた躯に鞭打って喫茶店のバイトに行き、なんとか終了時間まで勤め上げた。
今日の御飯のためである。
待ち焦がれていた報酬を手にし、必要な食料品を買い込んで久々に幸せな帰宅の最中だった。
後ろから聞き慣れた不吉なクラクションが鳴り響いた。

顔をこわばらせて振り向くとそこには若草色の小さな車があった。
運転席から大男が手を振っている。
奈緒子は急いで前を向き、見なかったふりをしようとした。

「you。──you!」

速度をおとし、ぴたりと並走するパブリカから上田の声がする。

「乗れよ。昨日の、その、お詫びに……なにか奢ってやるから」
「別にいいです。今日はお金入ったし、バイト先でサンドイッチの残りを食べたから満腹だし。失礼します」
「更に一食浮くんだぞ、you」

いつもいつも食べ物で釣られると思ったら大間違いだ。
奈緒子はつんとして小さな胸を張った。

「結構です。今日は部屋に押し掛けて来ないでくださいね、手品の練習がありますから」

次郎号が動かなくなったので気になった奈緒子がまた振り向くと、アイドリング状態で停止した車内で上田が暗い目をしてハンドルにもたれかかっていた。

「……ど…どうした…んですか、上田…さん…?」

上田はゆっくりとドアを開け、ゆっくりと車を廻って近づいてきてゆっくりと顔をあげた。
かと思うといきなり腕を伸ばし、奈緒子を捕まえた。

「上田っ!?」
「この午後しかないんだよ。俺のほうも臨時の教授会が入ったからな」

言うが早いか上田は助手席に奈緒子を押し込み、サイドブレーキを完全に解除しない状態から次郎号を急発進させた。

今度こそ明白なる誘拐である。

……目を覚ますと、そこはすでにとっぷりと日の暮れた池田荘の自室だった。
彼の姿は既になかったが、全裸の躯に布団がかけてあった。
ここ数日と同じ場所がけだるく痛む。
全身が疼き、喉が乾き、頭痛がし、しかもまたキスの痣が増えている。
上田の声や熱や重み、そしてきれぎれではあるがねちっこくていやらしい記憶がフラッシュバックする。
恐ろしい事に抱かれている途中奈緒子は快感と疲労で気が遠くなってしまったらしい。
ゴミ箱に目を動かすと新たに山盛りになったティッシュで溢れ返っていた。
正直なところ今回は回数すら覚えてない。気絶は上田の専売特許だったはずなのに。

──平日とかなんとかいうレベルじゃなくて。
この状態は有り得ない。
いささか遅すぎるのかもしれないが、奈緒子の心に、ようやく深刻な不安が芽生えてきた。
なにせ普段からあの男は変人なので、多少変でも気付かなかったのだ。

とりあえずまたもやお腹が減っている。買い込んだ食料品の袋を探したがどこにもない。
次郎号にだか路上にだか忘れてきてしまったらしかった。

「上田。あの野郎…!」

震える指で即座に大学に電話したが上田は研究室にはいなかった。
そういえば臨時の会議とかなんとか言っていた事を思い出す。

奈緒子はその夜、空腹と憤激のあまり最後のお茶を飲み尽くしてしまった。



そのまた翌日、金曜日の午後遅くの事である。
まさか今日はいくらなんでも現れまいと思っていた長身が、花やしきの舞台裏に現れた。

「!う、上田!」
「よう」

上田の顔はやつれていた。
顔色は悪く肌にもつやが無い。
一層落窪んだぎょろりとした目の下にはうっすらと隈、頬も削げていることに奈緒子は気付く。
いつもきちんと整えている口やあご周りのひげすら無精にすすけて見える。
奈緒子でもキツいのに、一回り年上の上田が連日あれだけやっていれば無理もない。

「だ、大丈夫か──なんか死にそうな顔してるぞお前」
「ふっ…このところ学生の論文指導やエッセイの取材で忙しくて」

上田は明らかに嘘をつきつつ、ジャケットのポケットから小さな壜を取り出した。
ひと捻りで蓋をとばしてあおったその壜のラベルにはどこかで見たようなピラニアの絵が描かれている。
奈緒子は見とがめた。

「上田。何だそれ」
「気にするな」

上田は息をつき、高い目線から奈緒子をじっと見据えた。

「you、今朝はどこに行ってたんだ?」
「新しく始めたコンビニのバイトに…それが何か──」

奈緒子はそわそわと周囲を見回した。
長居しているのは手品のタネを仕込むのに熱中していた奈緒子だけで、他の芸人の気配はない。
油断した。
バッグの中に布や造花を放り込み、彼女はさりげなく立ち上がろうとした。

──ところを腕を掴まれ、お知らせだのちらしだのの重なる壁に押し付けられる。

「そうか、新しいバイトか…元気だな」

上田はチャイナドレスの裾の割れ目から掌をさしこんできた。

「それなら大丈夫だろう」
「!!!まさかっ」
「フ、フフ……その、まさかだ。…おぅ、効いてきた…高価いだけの事はあるな」

病的に目がギラギラしている状態の上田の笑いは凄みがあって怖かった。

「上田…!」

上田のひげが首筋をこすり、奈緒子は痛みに眉を歪めた。

「出せよ。持ってるだろ、あれ」
「……か、金なら無いぞ」

うすうすわかっていても素直に従う気はない。
奈緒子は頬をひきつらせてちらとバッグに視線をやった。

上田が舌打ちして腕を伸ばした。あっという間に中身が化粧台にぶちまけられる。
ハンカチに包まれた四角い箱を指で探り、上田はそれをつかみあげた。

「ほら、やっぱり、こういう時にも真面目に避妊だ。一枚出してくれないか、you」

男女の関係になった後、上田が奈緒子に贈った上田専用男性用避妊具の小箱である。
いつも持ってろというわりには上田はズボラでほとんど使ってなかったのに、ここ数日は使いっぱなしだ。
それを手に押し付けられ、奈緒子は怯んだ。

「や、やりすぎですよ上田さん。昨日だって犯罪のようっていうか、いや、立派な犯罪ですよあれ」

上田はちょっと目を逸らした。

「何が犯罪だ。君だって歓んでたし、……その、婚約者同士なら当然の行為じゃないか」
「……はいぃい?」

奈緒子は目を見張って上田の横顔をまじまじと見上げた。

婚約───?

何だその固い響きの単語は。
それは確かに、彼にはこれまでに何度かプロポーズらしき言動を示されてはいるのだが。
奈緒子自身もこのままずっと上田と一緒にいるのだろうなあ、とはぼんやり考えているのだが。
正式に『婚約』したことなどない。する予定も今のところは…

…だがそういえば先月長野に上田が『挨拶』に行った。
上田は結局最後まで具体的な言葉は何も切り出せなかった。意気地なしだからだ。
だが母は何故か前々から上田を気に入っており、初手から二人は結婚するものだと決めてかかっている節がある。
奈緒子をよろしくねとかどうか任せてくださいお母さんとかそんな言葉は確かに彼女の頭上で飛び交っていた。
もしや奈緒子が気がつかなかっただけで、二人の間では充分意思の疎通が計れていたのだろうか。

次に奈緒子は恐る恐る、つい先日、『ドライブの途中についでに』上田が寄りたいというので連れて行かれた拝島の彼の実家での雰囲気を思い出した。
出された美味しいもなかを夢中で頬張り珍しくも頬が綻んでいる奈緒子を前に、
亡くなったお父様はあの有名なとかお母様も著名な書道家でいらっしゃってとか
とても綺麗なのに清楚でとか次郎もいい年だしとか女性を連れて来た事が一度もなくてとか
仕事ばかりしててとか心配していたのだとかこれで安心とかよろしくお願いしますねとか、
息子と違ってごくまともそうな上田の両親の発言は実に嬉しげで前向きで──
そういえばこうと決まれば一日も早く孫の顔をみたいとか式は神前かとかそんな言葉もさりげなくあまりにもさりげなく。

「──ああっ!」

自分と上田がいつの間にやら実質的に『婚約』しているらしい事に初めて気付いて奈緒子は仰天した。

「そうだったんですか!?」
「そうだったんですかって、おい」
「だって、上田さんと婚約してるならなんで私はこんなに貧乏なんです。パンの耳食ってるし」
「マンションに移れと言ったら君は厭がったじゃないか。強欲なくせに生活費も受け取らないし」
「不気味じゃないですか。上田さんから理由もなく便宜をはかって貰うなんて」
「なにが不気味だ」
「だって上田さんですよ」
「どういう意味だ。理由もなくって…婚約してるだろう」
「してないじゃん」
「してるんだよ!俺はそのために、着々と外堀を埋めて」
「わかりにくいんですよ!」
「どこがだ!youがニブいだけだろうが」
「もっとわかりやすくハッキリ言ってくださいよ!ドライブのついでとか名物のもなかとかフランス語とかでごまかしやがって。あ、そうだ、それこそ結納とかもしてないし、婚約指輪も貰ってないじゃないですかっ、ほら、100カラットのダイヤがついてるような」
「……そうか、やっぱり欲しかったのか」

上田は奈緒子をじっと眺めた。

「……上田さん?」

奈緒子も思わず上田を見つめた。
でかいぎょろ目は随分優しく見えた。

「あのな、you……」

上田は口を噤んだ。
さっと赤くなり、彼は咳払いをした。

「…ま、その話はいいじゃないか。それより、…とりあえず、やろうぜ」
「───はいっ?」
「愛情の確認。…セックスだよ。決まってるだろ」

上田は避妊具の箱をせわしなく奈緒子に押し付けた。

「一枚出せ。今朝も君のアパートで可愛がってやるつもりだったんだがな、全く」
「ってここでか。上田、お前」
「ほら、早く」

奈緒子の腿の裏に大きな掌がまわる。上田はそれをもちあげようとした。

奈緒子は確信した。
上田は絶対にどこかおかしい。
このままでは本当にこの場で犯される。

反射的に、奈緒子は思いきり腿をひき上げた。チャイナドレスの裾が華麗に翻る。

クリティカルヒット。

「おぉっ……」

一声呻いてずるずると崩れ落ちた重い長身をなんとか床に横たえた。
手当たり次第にバッグに小物を詰め込んで、奈緒子は急いで逃げ出した。

目指す先は──公衆電話だ。
あまりにも上田の様子が怪しくて、どうすればいいのかわからない。
このままでは今夜のこのことアパートに戻るのも不安だ。
なにせ上田はいつでも不法侵入するのだから。
曲がりなりにもこの手の緊急性のある相談を持ちかけられそうな知り合いは、トモダチのいない奈緒子には東京広しとはいえどもあの刑事くらいしかいなかった。



一時間後。

「しっかしお前のそのバイト仲間は恐ろしい女やな、いきなり急所をか…怖っ」
「矢部、面白がるな。真剣に話を聞け!」
「聞いとるやないか、貴重な癒しタイム割いて。にしてもワシら男にとってはその場所はね君」

一人は真っ赤なチャイナドレス一人は自然ではない頭髪の、不自然極まりない二人組がとあるクアハウスの一隅でひそひそと言葉を交わしている。

「だって、その時真剣に身の危険を感じ…たらしい、んですよ」

矢部はマッサージ機のスイッチをいれながら相づちを打った。

「危険言うてもな。男ゆーのも所詮スケベな生き物やしね、ほら。…あ〜〜極楽極楽」
「そいつ人前では気取りまくってますけどね」
「あー。ムッツリかー、……上田センセタイプやな」
「なんで上田の名前が出てくるんですか」

奈緒子は振動している不自然な前髪から視線を逸らし、自分も隣のマッサージ機に座り込んだ。

「それより。自分からコンドーム贈ってつける特訓までさせたくせに「やはり生で中出しが最高だな」ってそのまんま押し倒してた身勝手でいい加減だったその男がですよ。
『避妊は重要だよyou。コンドーム、薄くて便利でもどかしくて素晴らしいじゃないか。どんどん使おう、なっ!』って月曜からずっと大張り切りなんです
。同じ男性としてどう思います矢部さん、今まで生ばっかりだったのにここにきていきなりコンドーム濫用するって、どういう」
「アーアー公序良俗に反するのでこういう場所で中出しとか生とか大声で発言するのはやめてくださーい。
……世間の耳いうもんをちっとは憚らんかいこの手品師が。恥ずかしいやないかっ!」

奈緒子は目を剥いて罵る矢部に視線を戻した。

「すみません。でも本当に、『youがセックス大好きなんだから仕方ないんだ。な、コンドーム使おう。な』ってしつっこく…なんなんでしょうかあいつ。自分だってセックス大好きな癖に」
「セックスだのコンドームだのやめい言うとるやろが!! …しかし聞けば聞くほどあのセンセを彷彿とさせる口ぶりのオトコやな」
「違いますよ。あのバカは関係ないです」

奈緒子は唇を噛みしめ、でこぼこのシートにもたれかかった。

「不思議な事がもう一つあるんです。そのムッツリですけど、最近やたらにしつこいんですよ」
「そのオトコはもしかして絶倫か」
「巨根ですけど違います。いい年だし。これまではねちねちと一回したらそれなりに満足してたみたいなんですけど、まるで何かに取り憑かれたように何回も──
今日なんか人相が変わってて、あっ、そういえば怪しい精力剤まで」
「巨根……。えらい詳しいやないか。お前その相手のオトコ知っとるのか」
「いえ。…ト、トモダチに聞いたんですよ」

矢部は急に身を乗り出した。

「そこや。……そのトモダチ、股間蹴りつけるような女やけどえらい美人やいうて言うたな。しかも金持ちで巨乳の」
「ええ。それに教養があるし華もあって色っぽいし上品だし手品は巧いし。まさに掃き溜めに鶴っていうか」
「要するにお前と正反対の女いうわけやな。なんでお前と同じとこでバイトしとんのかわけわからんが、あーあ、ワシがその場におったらその
ムッツリを即逮捕してやるのになぁ──ちょっと途中経過見た後で」

「おい」

矢部はさらに身を乗り出して目を輝かせた。

「なあ山田、その子紹介してくれへんか。個人的に僕が彼女の相談に直接乗ってあげてもいいよ。その、美人で巨乳でお金持ちの」
「駄目です。それより私の説明を聞けっ、それでですね──」

矢部は即座にマッサージ機に背中を戻し、右手をあげて奈緒子を遮った。

「紹介せんのやったらこれ以上はよう聞かん。黙っとったがな、ワシは今現在囮捜査中で忙しいんや」
「嘘つけ」
「それにしても意外やなー。打ち明け話してくるようなトモダチが乳のないお前におったとは。明日は雪決定やね」
「…乳は関係ないだろ、乳は!」

奈緒子はバッグを肩にかけて憤然と立ち上がった。
さっきから、要するに矢部は面白がっているばかりで全く真剣に聞こうとはしない。
奈緒子が物欲しそうな目で掌を差し出して隣に座っているのに、マッサージ機代のたったの二百円すら貸してくれない。
こういう怠惰で不親切な警官の対応がきっと世の痴漢やストーカー犯罪や万引きや詐欺などを助長するのである。

「もういいです。時間の無駄でした。ヅラっと帰ります」
「おお、帰れ帰れ…っちゅうてワレ!今さらりと何言うた、撃ち殺すぞ」

マッサージ機から飛び上がった矢部の視線が奈緒子を通り過ぎて頭上に流れた。

「あれ。上田センセ」
「…!!」

慌てて振り向いた奈緒子の背後に、倒したはずの大男が頷いている。

「上田、どうしてここが」
「君の数少ない知り合いとその立回先なんかな、全部お見通しなんだよ。……どうも、矢部さん」

矢部は奈緒子と上田を見比べた。

「センセもここにいらっしゃったという事は、もしかして調査かなにかですか。ほらいつもの、超常現象」

上田は奈緒子の背中に、まっすぐ立てた中指の爪の先をぐりぐり捻り込みながら笑顔を見せた。

「まあ、そんなところです」
「痛いじゃないか、上田っ」
「一人で勝手に行動するなと言っただろ。さ、行くぞ、you」
「矢部さん!」

入り口にぐいぐい押しやられながら奈緒子は叫んだ。

「い、今の話のムッツリ男、ほんとは上田なんです!こいつが連日私を襲って──」

上田が穏やかにたしなめた。

「どうしたんだよ、you。何バカな事言ってるんだ」
「本当の事じゃないか!」
「山田。お前も人間離れしたのー。ついに目ぇ開けて寝言言うようになったやないか」

矢部がしみじみと言った。

「言うに事欠いて恩義ある上田センセ相手にどういう嘘八百を抜かすんや」
「矢部さん」

上田が悲しげに目を伏せた。

「これでも私は有名大学教授でノーベル賞候補にも名を連ねる権威ある物理学者です。その私が」
「センセを信じます」

0.01秒で即答した矢部は上田に擦り寄り、気の毒げにひそひそと言った。

「上田センセ──私、前から思うてたんですけど、この小娘おかしいですよ」
「どんな風にです?」
「ほら、自分は超天才マジシャンやとか、上田センセは自分がおらんとうすらでかいだけの役立たずやとか、牛の第四胃袋がどうのとか。

心優しいセンセに言うのも酷ですけど、ここらで一度ビシーッと締めたほうがええんちゃいますか。
現実を見させんとどこまでもつけあがるんですわ、こういう小生意気な女は」

「私もそう思っていたところなんですよ。…そろそろ自分の置かれている立場というか現実をね、きちんと認識させてやろうかなと」
「さすがセンセはお心が広い。恩知らずの貧乳にもその態度、ご立派ですなあ」
「コラ矢部!お前の目は頭と同じで偽物かっ」
「何じゃワレ!国家権力に喧嘩売っとんのか!装甲車で轢いてまうぞ!」
「まあまあ矢部さん」

上田は矢部を宥め、奈緒子を中指でぐいぐい押しながら白い歯を見せた。

「キツく叱っておきますから」
「頼みますよセンセ!甘やかさんと、ここはビシーッと」
「ハハハ、私もやる時にはやりますから」

上田は振り向き、じろりと奈緒子を見下ろした。

「行くぞ、you」




「まさか矢部さんに相談しているとは思わなかったよ」

上田と奈緒子は池田荘の202号室でちゃぶ台を挟んで睨み合った。

「幸い君の寝言は取り合って貰えなかったようだが」
「寝言じゃありません」

奈緒子はむくれてバッグを放り投げ、座った。

「あれに相談した私が間違ってましたけど、普通、犯罪被害の相談は警察に決まってます」
「犯罪?どんな」
「月曜日から毎日上田さんがしてる事です。不法侵入に盗み食いにストーキングに路上誘拐に強姦に…」
「なんだ」

上田も座り込み、眼鏡を外してハンカチで拭いた。

「今までと同じじゃないか」
「自覚してたのか」
「強姦じゃなくて和姦だけどな。…you」

上田は茶筒を振り、中身がないのを確認して眉をしかめた。

「君もわからない女だ。短絡的に警察に走る前にすべき事があるだろう」
「何」
「なぜそんな事をするのか、本人の俺に理由を訊ねるとか」
「訊ねたけど答えなかったじゃないか」

上田は少し赤くなり、目を逸らした。

「……言いにくい事だったんだ。その、ちょっと口には出しづらいというか…」

奈緒子は溜め息をつき、上田がいじくっている茶筒を取り上げた。

「話さないともう二度と和姦なんかさせてあげませんよ。いいんですか」
「すぐに話すよ」
「…………」

上田は奈緒子に手を差し出した。

「コンドームの箱を出してくれ」

奈緒子は真っ赤になり、眉を吊り上げた。

「上田っ」
「違う。落ち着け、いいから…その、出してみせてくれ」

奈緒子は上田を数秒凝視し、それからしぶしぶバッグを引き寄せた。
中を探って、ハンカチに包んだ箱を取り出す。

「…はい」

手渡すと、上田はそれをほどいて蓋をあけた。奈緒子の前に滑らせる。

「中を見てみろ。何がある?」

奈緒子はいやいやそれをとりあげ、中身の箱を押し出した。

「コンドームが入ってるに決まってます」
「何枚残ってる」

奈緒子は仕方なく覗き込んで確認した。

「…二枚」
「くそっ。そこまでこぎつけていたのか…」

上田が呻いて額をちゃぶ台に落とした。ごんと大きな音がした。

「『こぎつけて』?」
「その下、見てみろ。開いていいから」

伏せた上田の声はくぐもって聞こえた。
コンドームの下には、薄い紙の平べったい包みが隠れていた。
奈緒子が指先で掬い上げてちゃぶ台で開くと、中から銀色に光る指輪が出てきた。
クラシカルな立爪に美しい透明な石が輝いている。

「…百カラットもないけどな」

「何だこれ」

「──どう見ても典型的な婚約指輪じゃないか!言っておくがな、銀座の老舗宝飾店の保証書付きだ」

上田は勢いよく顔をあげた。全体が深紅に染まっている。

「君に、君にあの時、コンドームに隠してこっそりと贈ったんだよ」
「…………はい?」
「仲良く使っているうちに中身が減るだろ。そこに隠しておけば、最後の一枚を使ったところで君が気付いて嬉しさに涙する。

俺は優しくその肩を抱いて……フフ、フッフフ」

「……」
「しかもだ。その頃には君の躯も俺とのセックスに十分に馴れている。双方の実家への挨拶も済んでいるはずだ。
いつ子どもができても不都合は無い。な、コンドームも不要になるよな」
「……」
「そこで晴れてその指輪で見事結納、即座に結婚という完璧な手筈だった。どうだ…お洒落でさりげなくてロマンティックな演出じゃないか」
「どこがだ」
「それが何故こうも情緒のない発見に繋がるんだ。……youは泣いてないし」
「安心してください。今涙が出てきました。情けなくて」
「どういう意味だよ」
「上田。どこのくだらないマニュアル本で見つけたんだこのつまんない計画。な、怒らないから正直に言ってみろ」
「失敬な。無論、天才的なこの頭脳で考え抜いた上田次郎オリジナルのアイディアに決まってるだろ」
「それが原因だっ!!」

奈緒子はすっくと立ち上がり、落胆のあまりか眼鏡の下をハンカチで拭っている上田を睨みつけた。

「上田さんが頭使うとろくな事ないっていつもいつも言ってるじゃないですか!」
「だから、それはどういう意味なんだ」
「そのまんまですよ」

上田も嵩高く立ち上がった。

「そんな事言うがな、you。君にもこの失敗の責任があるんだぞ!」
「自分の頭の悪さを人のせいにする気かお前」
「上田さん大好きとか気持ちいいとか愛してるとか、youが俺にコンドームを使わせないから」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

上田のへ理屈の炸裂ぶりに、奈緒子は赤面を通り越して脳天から湯気が噴き出しそうな気がして来た。

「それのどこが使わせない事になるんですか!?」
「やってる最中好きな女に耳元で喘ぎながら早く来てなんて囁かれてみろ。鉄の意思を持つ俺のような人格者でもだな」
「威張るなっ」
「それにやっぱり気持ちいいしな。生。……最高だよな、youに生で中出し。きゅって。フ、フフ。フッフフフフ」

奈緒子はつま先で伸び上がり、大急ぎで上田を殴った。

「戻って来い上田!……要するにあれじゃないか、そ、そっちが使いたくなかったってだけ」
「そうだよ」
「認めるのか」
「それで、あんまり楽しいからコンドームもろとも指輪のことを忘れかけていたんだ。だが、やっぱりこういう、その、申込は最後まできちんとしなければいけないだろ。
正式な婚約が必要だ。いつ君が俺の子を身籠るかわからないし……生でやってるんだから。生…フ、フフ」
「上田!」

もう一発殴りつけておいて奈緒子は眉をひそめた。

「まさか、それに気付いたのが──」
「そう。月曜日の夜、君がぱくぱく嬉しそうに懐石料理を食べてた時の事だ。それで──善は急げっていうしな」
「………」
「その後コンドーム消費のために俺が払った獅子奮迅の涙ぐましい努力は、君も知っての通りだ」
「獅子奮迅ってお前…」
「ああ。結構キツかったよ。運転中意識が遠くなって次郎号を電柱にぶつけそうになったり、講義中もスライド映写しててうっかり熟睡しそうになったりな」
「………」
「でも、君と俺の明るい未来のためだ。ここが踏ん張りどころだと思ってがんばったんだよ。ああ、そんなに嬉しいか?やっぱりな…泣かなくていいんだyou。ハハハ、ハッハッハ!」

奈緒子はがっくりとちゃぶ台の前に座り込んだ。
常識を超える回りくどさを目の当たりにしたせいか、涙が止まらない。

なんでそこまで手間のかかる事をしなければならないのかさっぱりわからない。
奈緒子に内緒で数枚コンドームの包みを抜き取っておけばいいだけの話ではないか。
馬鹿正直に体当たりで全部消費する必要がどこにある。

……この男がバカだからだ。それともスケベなだけなのか。
奈緒子に褒めてもらいたがって落窪んだ目をきらきらさせている上田はあまりにも不憫であまりにも間抜けだった。
どうして褒めてもらえると思っているのか──それは上田次郎だからとしか言いようがない。

上田が座り、気遣わし気に奈緒子の顔を覗き込んでくる。

「どうしたんだ、you。なんだか──元気がないじゃないか」
「……」
「飲むか、ピラニア」
「要りませんっ!………ねえ、上田さん。こんな高価なもの」
「ああ、一滴三万円」
「違う、指輪!……黙って私に預けてて平気だったんですか?コンドームごとうっかり落としたり無くしたり──」
「有り得ないね」

上田はきっぱりと言った。

「極貧の君が人から無料で、しかも親切で貰ったコンドームを無くすなんて」
「親切?」
「いや。躯目当てなんだが」
「上田っ!」

奈緒子のパンチを上田はあっさりと避けた。かなり復調したらしい。
拳を掌で握りこみ、奈緒子に顔を近づけた。

「で、感想はどうなんだよ。俺が君のために用意したこの指輪を見てどう思った?」
「質に入れたら高そうですね。保証書あるんだろ。それも寄越せ」
「おいっ!」

上田の胸をおしやって、奈緒子は赤いままの顔を振った。

「……あのね、上田さん」
「ん?」
「指輪をやるって、思い出したならちゃんと言葉で教えてください。体当たりじゃなくて。強姦でもなくて」
「和姦だって言ってんだろ!…youがいつも言うじゃないか。考えずに躯使えって」
「その前に考えてちゃ駄目じゃん」
「しかも熟考だ。ハッハッハ!」
「意味ないじゃんっ!」

奈緒子はむくれてさらに上田の胸を押しやった。
押しやらないと、どんどん近づいてくるのだ。

「でさ。なあ……感想」
「………」

奈緒子は上田の目を見上げた。

「恥ずかしがらずに最初からあっさり直接手渡して欲しかったです」
「それだけか」
「それだけです」
「もっと他にもあるだろ、こう。嬉しいとか。綺麗だとか愛してるとか。大事にするとか幸せにしてあげるとか…」

言いながら、上田は奈緒子の背に腕をまわした。
引き寄せられて奈緒子は眉をしかめた。

「……上田」
「ん?」
「強姦する気だろお前」
「違うよ…お礼を言いたいんじゃないかと思ってな」
「お礼?」
「キスしたいんだろ。目にそう書いてある」
「嘘付け。こら、近づくな」
「君が素直に気持ちをうまく言えないみたいだからさ」

キスはとても優しかった。

「照れ屋だからな、youは」

奈緒子はむくれて視線を泳がせた。

「お前に言われたくない」

上田の躯がかたむいて、奈緒子は畳に横たえられた。

「…なあ」

上田は照れくさそうに頬を歪めた。

「キスされてると、和姦したくならないか?」

再び唇を塞がれた奈緒子は心底ほっとした。
キスしてんのはお前だとつっこまずに済んだから。



「──じゃあな」

上田は奈緒子の躯を放すと、のっそりと起き上がった。

「体調が完全に回復したらまた改めて来るから」
「来なくていいです。上田さんが来るとお腹が減るだけだし」

疲れきった奈緒子は服をかき集めつつ、上気した顔で呟いた。

結局なんのかのと言いながらピラニア効果で上田はまともにやる事を一通りやったからだ。
しかもまたもやコンドームをつけなかった。

「もう指輪は見つけたしな」とかほざきつつ。

「来るよ」

上田はシャツの襟を整え、ニヤっとひげ面を綻ばせた。

「婚約してるんだから」
「……」

奈緒子にはやはりなんだか実感がない。

「……この指輪、どうすればいいですか?」

奈緒子はちゃぶ台の上には不似合いな輝きを指差した。

「結納まで大事にしまっとくんだ。質には入れるんじゃないぞ」

上田は靴を履きながら言った。

「え?つけてなくてもいいんですか?」
「なんでつけてなくちゃいけないんだ?君の好きにすればいい、不便だろ」

彼は振り向いた。

「…上田さん。あの…」

奈緒子の眉間に皺が寄った。

「今すごく…ひっかかった事があるんですけど」
「言ってみろ」
「うちの母や上田さんのお父さんやお母さん、全員、私たちが結婚するって思ってるんですよね」
「おう。みんな喜んでるようだな」
「それ……急いで私がこれに気付く意味、あまりないんじゃ」
「ないかもな」
「じゃあこの一週間って」

上田は目を細めた。

「前々から、一度自分の限界に挑戦してみたかったんだよ」

唇が満足げにつり上がった。

「やればできるもんだな」
「──やっぱり躯目当ての犯行だったのか!」
「最初からそう言ってるじゃないか」
「とっとと帰れ!二度と来るなっ」

奈緒子が力一杯投げつけた湯のみは、上田が素早く閉じたドアに跳ね返って割れた。

「またなyou!ハハハ、ハッハッハ!!」

上田の明るい笑い声が池田荘の廊下を遠ざかっていく。
奈緒子は窓に駆け寄り、がらっと開いて顔を出した。

「この、この…変態!巨根!腰を壊して寝込んでしまえバカーー!!!」
「そうなったら看病に来てくれ」

上田は階段の上で立ち止まり、また照れくさ気な表情を浮かべると、妙に巧みなウィンクをよこした。

「な。………ジュヴゼーム」

最後の言葉はとても小さく、上田は大きな背中を丸めるようにして素早く階段を降りて行った。



色ボケ教授の姿が見えなくなると、奈緒子は割れた湯のみを片付けた。

ジュヴゼーム。

照れくさそうな顔。
羞恥を感じることはできるようだが、その方角がズレているというのだ。
ちゃぶ台の上の指輪を見る。おそるおそるはめてみるとぴったりだった。
薬指のサイズなど上田に訊かれた事は無い。
という事は奈緒子が眠っているときにこっそりと測ったとでもいうのか。
どこまで不審者なのだあいつは。

急いで指輪を外し、ハンカチの上に置いた。
見つめているとあまりの美しい輝きに質に入れたくなってくる。目の毒だ。

ジュヴゼーム。

改善の余地の無いバカの上田が柔軟性のない石頭を振り絞って贈ってきた世界で一番硬い石。
出来過ぎていて笑えてしまう。
躯目当てだとかお礼の手伝いとか質に入れるなとか演出だとか。やはりあいつは小心者だ。

「…だから、フランス語で言うなって」

あのバカから逃げるなら今なのに。
今しかないはずなのに。

「バカ上田」

奈緒子は美しい石に唇を尖らせて呟いた。
その五文字の抑揚は、さっき上田が囁いた愛の言葉とどこか似ていた。






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