踏み込まないでください
上田次郎×山田奈緒子


するりと、手の中から抜け落ちる指先の感触。

「……!!」

寝室のベッドで飛び起きた上田次郎の、その全身はびっしりと汗をかいていた。
時計を見るまでも無い。窓の外はまだ暗く、朝など遠い先のことだと判る。
悪夢だったのかと、僅かに頭痛のする頭を振り払う。
汗の不快感を流そうとシャワーを浴びるべく立ち上がろうとして、初めて違和感を覚えた。
――そういえば、何故、俺は服を着ていない?――
その上、右手の先がしびれている。恐る恐る、麻痺して感覚のないあたりを覗き込んでみた。

そこには、華奢な足が乗っていた。

思わず、全力で腕を引き抜く。乗っていた足が勢いで高く跳ね上げられて、ベッドに落ち軽くバウンドする。

慌てて布団を捲った先には、見慣れた女が眠っていた。
山田奈緒子。
いつもの服装、ロングスカートが膝まで捲れていて、でもそれだけで。
上田はホッとしながら、心のどこかで残念だと感じているのを黙殺した。
深呼吸して状況把握に努めれば、自分の服が無い理由もだんだん思い出せてくる。

(……そうだ、こいつをいつものように事件に連れ出して、その間に池田荘が取り壊された。
いくら財布も心も胸も貧しくて、まったく売れてないくせに自意識過剰で可愛らしさの欠片もない女とはいえ、
行くあてもないまま放っておく訳にもいくまいと思って、ここまで連れ帰った。
ああそうだ、この害獣を放っておく事は世の為にならない。
ふ、なんという美しいい自己犠牲精神の持ち主なんだ次郎!
……いい気なもんだ、人のベッドで、高イビキなんざかきやがって。
人の腕に足を、もう片方の足はベッドの縁から落ちていて、まったく、女らしさの欠片もない。)

「思い出したぞ。どうしてもここで寝たいのなら抱かれてみるか?って言って服を脱いだら、
ものすごい勢いで腹に正拳突きを食らったんだ。そのまま気絶していたのか……。
先に俺が起きたらどうなると思ってるんだ。警戒心の欠片もないのか、お前は」

事実、自分が先に起きたというのに。
それとも俺だから、安全だとでも思っているのだろうか?
そんなことを考えながら、上田はさっき跳ね上げた細い足を高く持ち上げ、落とした。
足はさっきより高くバウンドしたが、持ち主は未だ目覚めそうに無かった。

そうだ。池田荘が、取り壊されて、こいつはこれからどうするんだろう。
徐々に血の巡りが戻ってきた、一番むずがゆいタイミングの腕を擦りながら上田は奈緒子の顔を眺めた。
トクウエー、とか呟いて、何の夢を見ているのか幸せそうな、無邪気な寝顔だと思う。
子供のようだと思う。前しか見ていないようで、向こう見ずで。
何があっても進んでいくようにも見えて、そのくせ、本当は酷くもろい。
誰かが支えていないと壊れそうで。なのに、差し伸べた腕を振り払う。
差し伸べた手を、受け取って欲しいと思う。
差し伸べている振りをして、縋っているのは俺だ。
上田次郎は伸びてきたヒゲが囲む口の端に、皮肉な、しかしどこか寂しげなものを浮かべた。

ああ、思い出した。
抜け落ちる指は、夢じゃない。
いつだったか、奈緒子を驚かそうと手を離したこと。
そして、彼女だ。
白い手袋と帽子を残して消えた、彼女だ。

ずきりと上田の肩が痛む。
落ちようとする人間一人の体重を咄嗟に支えたのだから、痛めて当たり前だ。
彼にとって、いや寧ろ二人にとって。
目の前で消えようとする命を助けられなかったことは、これが初めてではない。
だが、初めてではないことと、慣れてしまうこととは、イコールではない。
富毛村では、目の前で肉親を失うことになってしまった少女がいた。
何も言わなかったが、幼い頃父を亡くし、その傷を抱えたままの奈緒子には、
その状況にはやはりショックが大きかったのではないだろうか。
あの村からの帰り、助手席で眠る彼女は小さく肩を抱いて、啜り泣きを洩らしていた。
それを見なかったことにしたのが正しかったのかどうか、彼にはわからないでいる。

独りで泣かないで欲しいと思う。
泣き顔が見たくないわけじゃない。
彼女の支えになりたい。上田はそう強く思った。
だがそれは。
指を離してしまった自分には、許されないのかもしれない、とも。

奈緒子は、未だ目を覚まさない。
触れたいという衝動に襲われた上田は、その衝動のままに、そっと髪を撫でた。
長い黒髪は安物のシャンプーを使われているのだろうに、それでも指に絡まない。

――もっと触れたい。

柔らかそうな頬に触れると、上田の手ではその顔を半分近く覆ってしまえる。
その顔の小ささに改めて体躯の差というものを認識してしまうと、苦しくなって。
奈緒子がむずかる子供のように動かした唇を、親指でなぞる。

――さっきから呼吸が苦しくて仕方がない。

触れたら治まる。何故かそう確信して、上田は奈緒子の唇を貪るように吸い付いた。

奈緒子は孤独な夢を見ていた。
いつしか見なくなっていた、あの夢を。
湖畔の父と母の夢を。
ただ、いつもと違ったのは。
立ち尽くしていたのは、自分ではなくて。
震える腕で、縋りつくように消えていこうとするのは。
消えようとする男を抱え上げ、泣いているのは。

――あれは、私と、    だ――

奈緒子の瞳から大粒の涙が零れ、上田の鼻先を濡らして男の澱んだ熱を僅かに冷やす。
はっと正気にかえり唇を開放すると、ほぼ同時に奈緒子が薄く目を開いたのがわかった。
上田は何も無かったような顔をして身を離す。奈緒子は少しの間ボーっとしていたが、やがて、眉をひそめて口を開いた。

「上田。寝込みを襲うなんて、卑怯だぞ」

「卑怯なものか。寝る前に言ったはずだ、どうしてもここで寝たいならってな」

奈緒子は冷静だった。上田は、内心の動揺を隠そうとして、失敗して声が裏返っている。
一度大きく咳払いをして、言葉を紡いだ。

「だいたい、初めてでもないじゃないか、お互い」

「カミソリのことですか?あんなの、触れてないようなものじゃないですか」

「当たったよ」

「当たってない」

「いや、当たった」

「当たったわけないじゃないですか!」

「そんなにイヤなのか?俺と、キスするのは」

上田の目に、剣呑な光が灯る。

「イヤに決まってます。上田さんとなんて」

奈緒子の言葉を聞くや否や、上田は奈緒子に圧し掛かり、また唇を重ねた。

あの時薄く開いてカミソリの刃を受け取った唇が、今は一文字に固く引き結ばれて、上田を拒む。
せめて顔を左右に振って引き剥がそうとしても、上田にはすぐに追いつけてしまえた。
強く握れば折れてしまうのではないかと思える細腕は、大柄な肩を押しのけようと突っ張られている。
足はじたばたと抵抗を示すが、衣服着用時で85キロの大男を振り払えるはずも無かった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
奈緒子の抵抗が弱々しくなった頃、違和感を覚え、上田は顔を上げた。
彼女の顔は、諦観にも似た憎しみで彩られていた。

「……すまなかった。」

「勝手にキスして、勝手に、謝って。最低ですね」

「そうだな」

「上田とキスするなんて、イヤに決まってる」

圧し掛かっていたままの体を退ける、上田。何故だか、重力が急に倍になったような気がした。
顔を背けたままの奈緒子は、涙を流していた。

「イヤか」

「イヤです」

即答する奈緒子の涙を、上田は腕を伸ばし、掌で拭った。
拭っても拭っても、奈緒子の涙はこぼれ続ける。

「上田さん。これ以上、踏み込まないでください。私も、忘れます」

奈緒子はようやく、その顔を上田の方へと向けた。涙が長い髪を濡らして、色を失った頬に張り付く。上田は涙を拭うのをやめて、そっとその髪を払った。
彼女は、男の目を静かに見据えて悲しげに笑い、小さく呟いた。

「私の心に、踏み込まないでください。
好きになりたくないんです。失うのはもう、怖いんです。」

強く抱き締めたいと、上田は思った。
――今、この張り詰め、傷ついた心を癒してやれるのは俺しかいない。
それなのに、この俺すら、彼女は拒もうとする――

「それならもう、手遅れだ。俺が、君を愛してしまった」

優しすぎる彼女の、この指だけは、何があっても、もう二度と離したくないと。
縋るように、祈るように。上田次郎は山田奈緒子の手を握った。

奈緒子はそれ以上、拒もうとしなかった。
上田が服を脱がせた時も、協力的でこそなかったが、嫌がる素振りは見せなかった。
だが、薄い胸を覆う下着に手をかけようとした時、ようやく口を開いた。

「イヤな夢を、見たんです」

「夢?」

聞かれなくてもいいと思って口にした奈緒子の言葉は、それでも上田の耳に届いていた。
奈緒子は小さく頷き、そのまま、続ける。

「上田さんが、死ぬ夢。いつかは、みんな、死んでしまうのに。
 どうして上田さんが死ぬって考えるだけで、こんなに、心が冷たくなるんでしょう?
 いろんな人の死に立ち会って、私、人が死ぬのには慣れてしまったと思っていたのに」

どうやったらそんな夢で「トクウエ」という言葉が出てくるんだと突っ込むべきか、一瞬悩んだ上田を他所に、奈緒子は尚も言葉を続ける。

「私もいつかは死ぬんですよね。その時、上田さんは悲しんでくれますか?」

そう言って泣きそうな顔で笑った女の、肩を流れる黒い髪はひんやりとした夜気を孕んでいて、触れた、男の節くれた指を冷やす。
その冷気が心臓に直接突き刺さったような気がして、上田は僅かに身震いした。

「今の今まで、考えたこともなかったよ」

上田はそう口にしながら、それは嘘だと、自分でわかっていた。
ゆっくりと頭を振って、もう一度言葉を紡ぐ。

「いつか、消えた君を探し回った時に、少し考えた。それだけで頭が真っ白になった。
そうだ、YOU、今度会ったら矢部さんに感謝しとけよ」

冗談めかして言った上田は、さらにもう一度、今度はゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。
まだ手袋の感触が残る指を、じっと見つめながら。

「誰が死んだとしても、悲しいのは事実だ。何度看取っても、慣れるものではないよ。
 だが……君が死んだら、俺は、壊れちまうかもしれない」

君じゃない誰かでも、こんなに悲しいのだから。
その言葉だけ、上田は気づかれないように飲み込んだ。

全てを取り払った奈緒子の肌は、白く、肌理細やかなものだった。
そっと触れると指に吸い付くようで、自分のものとはまったく違う柔らかな感触に、上田はすぐさま夢中になった。
上田は幾度も幾度も掌でその肌を味わう。首筋、鎖骨、肩、二の腕、掌、指。
散々からかってきた奈緒子の平坦に近い胸も、肉付きが皆無というわけではなく。むしろふわふわとした感触は余りに心地よく、指に馴染む。
その先の色づいた場所に恐る恐る触れると、奈緒子は小さく息を飲んだ。
少しの刺激ですぐに尖ったのを見て彼女も感じているのかも知れないと思うと、上田は急に照れくさくなった。

「な、なあ。いいのか?その、俺で」

「いいわけありません」

まだ機嫌を直していないのかと顔色を伺う上田に、奈緒子は困惑したような顔を向けた。

「私、上田さんを好きだなんて、一度も言ったことありませんけど」

「あ。」

「あ。じゃありませんよ、あ。じゃ」

「あ。じゃ。って、お前はコングか、熊本さんか!
いやでも、いくらなんでもあの展開で、YOUが、この若手天才ぶっつり学教授の上田次郎を好きではないとか、え?嘘、マジで?」

かなり混乱しはじめた上田を呆れた目で見ながら、奈緒子は大きく溜息をついた。

「だいっキライです。上田さんのことなんて。自分勝手で我侭で、でかくて、重くて、すぐ気絶して、
馬鹿で、根性なしで、でかくて、『俺を愛してはいけない』とか言ってたくせに突然『YOUを愛してしまった』とか言い出して、
人の寝込みに突然キスしたりする、巨根が寂しいでかい上田さんは、嫌いです。」

「でかいだけ3回も言うことないだろ!?」

「数えてたんですか?そういう細かいところもキライです」

「うるせぇ、俺は好きだって言ってるんだ」

「このナルシスト」

「そうじゃなくて、YOUが好きだって言ってるんだ!ちゃんと聞けよ!」

「じゃあどんなところが好きなんですか」

「聞きたきゃいくらでも言ってやる、言って欲しいのか?」

「いりますん」

「どっちだよ!?」

「まあでも上田さんがどうしても言いたいって言うんなら、聞いてあげなくも無いですよ」

「よーしわかった、じゃあ言うぞ、今すぐ言うぞ、今言うぞ!?」

「あ、やっぱいりません」

「なんなんだ!」

「だって、そんなのどうでもいいじゃないですか。私は今、上田さんから逃げるつもりはありません。上田さんは、怖いんですか?」

その頃には、さすがの上田も奈緒子の言葉の真意に、ようやく気が付き始めていた。

「はっ。怖いわけねーじゃねーかよっ」

「足震えてますよ」

「武者震いだ」

そう言うと上田は大きく深呼吸をして、笑う奈緒子を見据えた。上田はその顔を真下に見下ろすと、今更ながらに、組み敷いたままであることを強く意識して、顔が熱くなるのを感じた。

「す……好きだ。」

奈緒子は首を傾げて笑う。だが、その目は笑っていない。じっと上田を見上げて、目を逸らさない。
綺麗な瞳だと、上田は思う。

「それだけですか?」

意地悪な女だ。がめつくて、さもしくて、何もかもが貧相で、友達いなくて、寂しい女だ。
貧乳で、美人で、スタイル良くて、あの美人女優にそっくりだといわれたりする女だ。

「ずっと一緒にいてくれ」

物覚えが悪くて、貧乳で、態度が悪くて、愛想も悪くて、不気味な笑い方をする女だ。
うまく笑うことが出来ないと悩んでいるくせに、自分にだけは素直な笑顔を見せる女だ。

「それが人に何かを頼む態度ですか?」

何か悩んでいることがあったとしても、それを誰にも打ち明けずに自分で抱え込む女だ。
それを打ち明けて欲しいと願ってしまうほどに、惚れてしまった女なのだ。

「本音で言うなら、YOUに僕を好きになって欲しい。
だが、もし、万が一YOUが僕のことを好きでないなら……惚れた弱みだ、僕が、可能な限りずっと、君の傍に居続ける。
 俺は、あれだ、その……寿命とか、年上だから、多分、君より早く死ぬ。
 だから子供も欲しい。そうすれば君を独りにすることはないから。
 ずっと、ずっと君の傍に居たいんだ」

奈緒子は上田の顔を両手で挟んで、口の両端を摘んで横に広げた。変な顔。そう口の形だけで言って笑う。
困りきった男の顔を見上げながら、細く器用な指が弾くように離れると、口の両はしに赤く痕が残った。

「まあ、いいか」

奈緒子はそう言いながら、上田の髪に指を絡め、自分からキスをした。






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