エピソード5 黒門島
山田剛三×里見


「ここまで来れば、もう追っ手も来ないだろう」

小舟の上。普段よりも落ち着いた波に進路を任せ、男は櫂から手を離した。
男の前に腰掛けている女の息は、先の逃走劇のせいでまだ落ち着きを取り戻していない。

「この流れに乗って行けばいずれ無人島に着く。そこに替えの船を用意してある」

男は激しく上下する女の肩に手を置いた。

「もう大丈夫だ、里見」

鮮やかな花嫁衣装を身に纏った美しい女は、やっと自分の状況を理解し始めた。

ここに来るまで夢中だった。
ただ手を取られるままに駆けてきた。
隣に立つ好きでもない男や、両親の笑顔に吐き気を覚え、
騒ぎ立てる島の人達の声に、叫び出しそうになる衝動を必死に抑えた。
自他への嫌悪感に支配され、絶望していた。
心の中に大切な思い出を閉じこめ、これからはそれに縋って生きると覚悟していた。
けれど、その思い出は、思い出になることを良しとしなかった。
突然群衆の中から飛び出し、その大きな手で女の細い体を抱きしめた。

「里見、もう安心していい」

温かい手が女の頬を撫でる。

「…泣くな」

少し困ったような笑顔を浮かべる愛しい人に女は抱きついた。

「…泣いてません。」
「そうか?」

もう二度と耳にすることも無いと思っていた懐かしい声。
女は男の体に回した腕に力を込めた。

「来るなら、もっと早く来てくれればいいのに」

嬉しさと照れを隠そうと、女は男の顔を見ずに悪態をつく。

「悪かった。ギリギリの方が盛り上がると思ってな」
「何言ってるんですか。もう少しで、穴開きの儀式が始まる所だったんですから」
「それは困る」

苦笑しながら男は女の体を離す。
赤く染まった女の顔を見つめながら、お互いの息が掛かる距離まで、男は顔を近づけた。

「里見」
「……はい」
「ジュヴゼーム」
「………わ、私も…ジュ、ジュヴ…」

男の袖をきつく握りしめ、答えようとする女はただ顔を赤く染めていく。
男はそんな女を愛しそうに見つめ、その唇に口づけた。

「んっ…んんっ」

驚きで目を見開いた女は、ゆっくりと瞼を落とし、男の口づけに答えた。

「んっ…はぁ」

唇が離れると、苦しそうな息の下で女は言葉を紡ぎだした。

「はぁ、はぁ…剛三さん、慣れてる…」

女の言葉に微かな嫉妬を感じ取り、男は微笑み、そのまま女の細身を抱きしめ、腰に手を回した。

「ちょっ、剛三さ…何して…」

緩められた腰紐に気付き、女は微かに体を揺らした。
そんな女を見下ろし、男はからかうように言った。

「いや、折角だから私が儀式の代役を務めようかと思ってるんだが…」

一瞬不思議そうに顔を歪め、意味を理解した途端女の表情が強張る。

「…だめか?」

女は困ったように眉を寄せ、暫く固まっていたが、やがて小さく頷いた。
静かに揺れる船体に背中を預け、女は男に体を任せた。
露わになっていく火照った肌を夜の潮風が冷ましていく。

「あっ…!」

男の前に晒された、あまり大きくない胸の膨らみを女は恥ずかしそうに手で隠す。
男は女の耳元でその官能的な美しさを褒め、赤面した女は堅く目を瞑ったまま胸から手を離した。

「はぁっ…んんっ!」

男の髪を指に絡め、見慣れた膨らみが男の舌で濡らされていく様を見て、女の鼓動は高まっていく。
いつの間にか体を覆っていたものは全てはぎ取られていた。
自分でも触ったことのない場所を男が指で撫で、動かし、掻き混ぜる。

「あぁっ!んっ…あっ、あっ」

聞いたことさえない卑猥な音が、自分の下半身から響くことに女は首を振ることしかできない。
信じられない淫靡な声が、自分の口から飛び出すのを押さえようとしても徒労に終わった。

「はうっ…やっ!恥ずかし…んあぁっ!」

男の指が女の秘部にある突起を弾き、女は高い声をあげる。
海の上で、女の体は水から上がった魚のように何度も跳ねた。

女は羞恥心と混乱で思考が働かず、ただ熱くなる体の感覚に支配されていた。
そのうちふと、女の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。
もしかして、これは夢じゃないだろうか。
本当は今、自分はまだ島にいて、好きでもない男に抱かれていて、その現実を否定しようと夢を現実と錯覚しているのかもしれない。
そう考えると、女は堪らなく怖くなり、男の体にしがみついた。

「っ!剛三さん!!」

女の気持ちを知ってか知らずか、男は優しく女を抱きしめ返す。

「里見、目を開けて」

女は力無く瞼を動かした。
視界は朦朧としていて、よく前が見えない。
自分の上に、誰かいる。この人は……

ゆっくりと、下から何か大きいものが自分の体に侵入してくる。
腰を大きく仰け反らせながら、女の頬を涙が伝う。

「剛…三、さんっ…あっ、んんっっ!!」

きつく唇を噛みしめ、女は現実を理解した。
今自分は、間違いなくこの人の腕の中にいる。
微かに揺れる小舟の上で自分の体も揺れている。
自分以上に熱く感じられる男の体を、女はきつく抱きしめた。
愛しい人とその上に輝く星の輝きを、その眼に焼き付けながら。



「まるで昨日の事みたい」

里見は自分が忌み嫌った島の崖から、あの時と同じ海を見下ろしていた。
黒い海から響く波の音は、今でも自分の耳に残っている。
遠い遠い、大切な思い出。
あの時は確かに現実だった。
けれど長い年月があの日を思い出に変えてしまった。

穏やかな表情で里見は海から空へと視線を移した。

「奈緒子達のせいで思いだしちゃったわね」

彼と自分の宝である娘の姿が、あまりにあの時の自分にそっくりだったから。
姿だけではない。
娘も、自分と同様に愛しい人……かどうかは、まだ微妙だけれど、迎えに来てくれる人がいた。

里見は自分の夫と姿を重ねた男に言われた言葉を思い出した。
自分が、夫の復讐のために娘までも利用したのではないか。
そう尋ねた男の目は真剣だった。真剣に、娘の事を考えている目だった。

「そうね、たぶんあの人が、奈緒子の…」

里見は安心したように微笑んだ。

「剛三さん、私達の娘は、きっと幸せになるわ」

あの時と同じ星を見上げ、里見は呟いた。

「私達と同じように、……いいえ、私達以上に」

里見は、自分の手を見た。
変わらない星空、変わらない海、自分だけが変わってしまった。
あの時愛しい人に包まれた手には、彼と共に過ごせなかった日々の印が刻まれている。
本当は、ずっと、あの暖かい手に握られていたかった。
一緒に年月の印を刻みたかった。
けれど、彼はもういない。
分かりきっていることなのに、ここに来て、里見はまざまざと思い知らされた気がした。

熱くなった頭を小さく横に振り、里見はもう一度空を見る。

「ねぇ、剛三さん……あの時、言えなかったから、今言うわね?」

軽く息を吸って、里見は小さく呟いた。

「私をさらってくれてありがとう。……ジュヴゼーム」

ただ、さざ波の音だけが、里見の耳に響いていた。






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