鳴海洸至×鳴海遼子
![]() 鷹藤はエレベーターに乗り、目的の階のボタンを押した。 ドアが閉まり、上昇し始めた時、フリスクのケースを開ける。 振るとコロコロと音を立てて出た。 昼過ぎに買ったはずなのに、早くも食べきってしまった。 口の中から食道までは、ミントの風味で少し冷えたような感覚があるが、 刺激物に満たされた胃のあたりは、逆に熱く感じている。 いくらなんでも、食べすぎだ。 わかってはいるが、遼子から改まって 「今日の夜空いてるよね?鷹藤君と二人きりで会えないかな。相談したいことがあるから必ず来て」 と、あるホテルに来るように言われたのだ。 ひとの都合を聞いているようで、まるで無視している誘い方がいかにも遼子らしかった。 それを思い出し、鷹藤はひとりにやける。 遼子と鷹藤は仕事で張り込みをしたり、取材したりするとき、いつも二人きりだ。 それなのに、改まってホテルに来いという。 自宅だって良さそうなのに、それもビジネスホテルじゃない、シティホテルだ。 そこに決意を感じた鷹藤は、遼子が何に決心したかについてわからないながらも、 少なからぬ期待を抱いて、フリスクを食べ続けている。 もしかしたら、遼子の唇が触れるかもしれないと思うと、そのたびにフリスクを 口の中に放り込んでいた。 消費されたフリスクの数は鷹藤の期待の数だった。 相談しているうちに、相談相手と親密になる、というのは良くあることだ。 お互いにはっきりとそう言ったことはないけれど、同僚というには親密な方だと思う。 そんな二人がもっと親密になる、ということはつまりあれだ。 その時になって慌てないように、大事な品をポケットに忍ばせていた。 ポンという虚ろな電子音とともに、エレベーターのドアが開く。 そこに、大きな黒ぶち眼鏡をかけたベルボーイがエレベーターのドアの端の方に立っていた。 その横を通り過ぎた瞬間、衝撃を後頭部に受け、鷹藤は気を失った。 次に鷹藤が目を開けた時、光が眼球の中を射り、脳髄に刺すような痛みをもたらした。 顔をしかめながら目を開けると、白くぼんやりした視界が徐々に開け像をむすぶ。 両手をネクタイで縛られ、泣きそうな顔をした遼子がベッドの上に居た。 鷹藤が慌てて立ち上がろうとして、自分の足が椅子の足にガムテープで縛り付けられ、 後ろに回された手は椅子の背をはさむ様にして、手錠で固定されていることにようやく気づいた。 首の周りに何か違和感があるが、その正体はわからなかった。 「ようやく起きたか」 右側からの声。 痛む頭を、なんとか巡らせて声の方を見る。 「まさか…」 そこには鳴海洸至がいた。 ライティングデスクの上には、ベルボーイのジャケットと黒ぶち眼鏡が載せてあった。 その下から鞘に入れられたナイフがのぞいている。 「こんな簡単な変装すら見抜けないのか」 呆れたようにこちらを見ている。 「まあ、期待に胸ふくらませて来たようだから、細かいところまで見る余裕などなかったのかな」 洸至が微笑んだ。 鷹藤のポケットから取り出したコンドームを軽く振る。 「遼子、注意するんだな。気を抜くと何をされるかわからないぞ」 「鷹藤君、な、何考えてるの!いやらしい!」 「何って、たまたま入ってたんだよ」 「たまたま持ち歩くもの?」 「いや、その、あれだ、相談されてるうちに何かあったりしたら困るから」 「そんなことばっかり考えて。いやらしい…!」 「あんたがホテルに来いっていうから」 「それでこんなもの用意するの。私のことそんな風に見てたのね!」 「まあ、遼子、そう怒るなって。男なんてそんなもんだよ、なあ、鷹藤君。 改まって相談と言って、ホテルなんかにお前が呼ぶからだぞ。 …俺の姿を街で見かけた相談なら、お前の部屋でもよかったのに」 愛おしそうに遼子の鎖骨を撫でる。 「お前は無防備すぎる、だから俺が守ってやらないと」 「やめろ、やめろって!あんたら兄妹なんだぜ!何してんだよ」 狂ったように鷹藤が叫んだ次の瞬間、蜂の羽音のようなモーター音がした後、 息が詰まった。 鷹藤の首に硬質なピアノ線程の太さのワイヤーがかけられていて、それが締まったのだ。 遼子が、こんな状況にあって大声を出さない理由がようやくわかった。 鷹藤の命は、今、洸至の手の中にある。 「痛かったかな、鷹藤君」 ライター大のリモコンを鷹藤に向けた洸至が言った。 「俺たちが立ち去るところを黙って見ていてもらうには、こういった装置が最適だ。 銃は楽だが、うるさい。君にはいろいろ邪魔されただろ。ただ痛めつけるより、 俺たちが君の目前で消える方が君には効きそうだと思ってね。 こう見えて、手先は器用な方なんだ。作るのは楽しかったよ」 「何考えてるんだよ…」 「おとなしくしていれば、それ以上は締まらない。でも、暴れて椅子ごと倒れると 危ないぞ。ワイヤーってのは、人間の肉くらい簡単に断ち切れる」 洸至の視線の方向に目を向けると、壁には簡単なフックとむき出しになった握りこぶし 程の大きさのモーターが取り付けてあり、フックから伸びたワイヤーが鷹藤の首を1周し、 モーターに巻き取られていた。 あまりにも単純すぎる装置。 だが、その単純さは人間の首を絞めるという一点に集約され、見事にその目的を果たしていた。 「命が惜しかったら、おとなしくすることだ」 「あ、あんたはどうなんだよ」 洸至がリモコンを押そうが、知ったこっちゃない。 「一緒に行くのか」 洸至が壁にもたれかかり、腕を組んだ。 自分の優位が変わらないと確信しているのか、ふたりの会話を遮ることなく聞いている。 「お兄ちゃんと一緒に行くわ」 遼子が鷹藤の方を見ることなくつぶやく。 「今度は私があなたを守る番だから」 洸至が頭を上げ、目を細めて遼子に視線を注ぐ。 鷹藤の奥歯が軋む。 「勝手なこと言うな」 腹の中から絞り出すように鷹藤は言った。 「勝手に俺の犠牲になるな。あんたのおかげで生きながらえて、どうしろっていうんだよ!!」 信じられないものを見たような顔した後、遼子は哀しそうに鷹藤を見つめた。 洸至が遼子の元へ足を運ぶ。 「行こう、遼子」 遼子の背を押し、促す。 「鷹藤君の命は大事だろう?」 いま、ここで二人が出て行ったら、遼子を永遠に失ってしまう。 親も兄弟も、好きになった女も、全て同じ男に奪われるのか。 それだけは耐えられなかった。 遼子を助け出そうと必死にもがくが、手錠は冷たく鷹藤の両手を拘束する。 もう鷹藤の頭の中に後先のことはなかった。 鷹藤は狂ったように動きだすと、その拍子に椅子ごと倒れ込んだ。 「鷹藤く‥っ」 遼子が叫ぼうとした時、洸至が手でその口を抑えた。 もしかしたら、倒れ込む前に死ぬかもしれない、と思ったが、ワイヤーが首に食い込んだと思った 次の瞬間、側頭部を強打した痛みで、目の前に星が飛んだ。 衝撃の割に、まだ意識がある。 そして、まだ息をしている。 壁に固定していたはずのフックが外れていた。 眉をひそめて、洸至はそのフックがあったはずの穴を見ていた。 「フックの強度は問題なかったが、ホテルの壁がよくなかったようだな。 次からは、椅子の背もたれに直接装置を取り付けた方が良さそうだ」 首にワイヤーが食い込んだが、鷹藤の息を止める寸前に、フックごとワイヤーが壁から 外れたらしい。 だから、鷹藤はまともに椅子ごと横に倒れた形になったのだ。 ワイヤーで首の肉が少し切れたようだが、動脈に至るまでの深さではなかった。 しゃがみこんだ洸至が、鷹藤の顔を覗きこむ。 「馬鹿だな、君は。そんなとをしてもはずれないぞ。それとも、そこまでして死にたかったのか」 頭を強打しもうろうとしながらも、鷹藤は洸至を睨みつけた。 必死に手錠から、足を縛るガムテープから抜け出そうと身をくねらせながら。 「あんたらを止めようと…したんだよ」 「熱意は認めるよ。意外と男らしいところもあるんだな。で、これからどうする?」 「あんたを…ぶちのめして、警察に突き出すよ。あんたに、相棒は渡さない」 「勇ましいことだな。だが、忘れてないか、君はまだ縛られたままだ。 俺たちをそのまま外に出せば良かったのに。後悔するぞ」 洸至が憐れむ様な口調で言った。立ちあがると、遼子の元へと歩いていく。 「少し、静かにしていてくれ」 そう言うと、ガムテープを妹の口に貼った。 「さて、と」 洸至が鷹藤の方へ歩き出した。 そして、自然な動作で、皮靴の爪先を鷹藤の鳩尾に叩きこむ。 フリスクで満たされた胃から、熱いものがせりあがる。 鷹藤の神経が、胃に集中した刹那、また目がハレーションを起こした。 目の前が白く飛ぶ中、鼻に強い衝撃を感じる。 それから先は、痛覚がパニックを起こしているのか、それとも正しい信号を送っているのか、腹に、胸に、顔に、頭に、その全てに痛みを感じていた。 痛みに意識が遠のきかけると、また鳩尾に蹴りが飛んだ。 「…藤君。鷹藤君」 耳元で洸至が囁いた。 「で、どうするって?もう一度、教えてくれないか」 「ぁが、はっ。あ、あ…んたに、わ、た、さ…だ」 「根性があるな。さすがは梨野の弟だよ」 目を開けて洸至を睨みつけようとしたが、瞼が開かない。 いや、瞼は開いているのだが、腫れあがって充分な視界を提供できない状態になっていた。 鼻のあたりは血にまみれ、歯も何本かぐらついている感覚がおぼろげながらあった。 その口に洸至がガムテープを貼る。 「今、君の元から遼子を連れ去るよりいいことを思いついたよ。 遼子も君もお互い思いあってるようだ。 なあ、こういうのは障害があると盛り上がるって言うが本当かな。 どう思う?遼子。例えば、思いを寄せる男の前で、他の男に抱かれるってのは。 しかも、そいつがその男にとって、家族の仇だとしたら」 ドアの方へ走り出した足音がしたが、次の瞬間、その足が止まり、 くぐもった小さな悲鳴があがった。 そのあと、ベッドに深く沈みこむような音がした。 「そんな顔するなよ、遼子。お前が鷹藤を思うように、俺がお前を思っていたら おかしいか?…おかしいよな。お前の兄貴なのに」 押し殺した声の中に、洸至がいままで隠していた心情が透ける。 「どうしてお前なんだろうな」 遼子が怯えたように息を呑んだのが解った。 椅子に括りつけられ、床に倒れたままの鷹藤が目を開けても、わずかな明るさと、 ベッドから垂れるシーツの一部しかない視界。 その端で、ベッドのシーツが揺れる。 衣ずれ。 荒い息。 ボタンが飛び、何かが弾ける音がした。 遼子を助けなければ。 気は急くが、体は椅子に縛り付けられたままで、蛇のように身をくねらせることしかできない。 「息が荒いな。鷹藤。悪いが、君が使いたかったこれ、使わせてもらうよ」 洸至が何を出したかは見えなかったが、それを振った時の音で何かわかった。 「ぐぐぐぐぐぁぁぁ」 椅子に縛り付けられたまま、鷹藤は狂ったように暴れた。 その腹にまた洸至の足が叩きこまれ、痛みに硬直する。 「兄妹こそ、これを使わないとな」 ガムテープの向こうで、声にならない叫びを遼子があげた。 「やめてもいいんだぞ、遼子。だけど、やめたらお前の相棒の命をもらう」 冷気を帯びた低い平板な声だった。 遼子の声と動きが止まる。 「鷹藤を守るんだろ。遼子。身を呈して誰かを守るってのは、崇高な行為だよ。 だから、鷹藤の前でこれからすることは、恥ずかしいことじゃない。そうだろ」 子供を諭すように優しくも断固とした口調。 しかし鷹藤には、何故かその声が哀しげに聞こえていた。 叫ぼうにも、鷹藤の口にもガムテープが貼られて、うめくことしかできなかった。 自らの血で満たされた鼻はもう匂いを感じない。 それで、ぶつかり合う汗と海の香りにも似た女の匂いをかがなくても済んだ。 目は閉じれば良かった。 揺れるシーツなど見なければいい。 ただ、耳は塞げなかった。 ベッドが軋む音。 激しく動き、抵抗する女のくぐもった声。 ベッドに押しつけられる音。 吐息。 荒い息。 遼子の口を塞いだテープの向こうから、鷹藤の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。 軋む音。 小さな悲鳴。 吸いつくような音。 唇と舌が出す湿った音が響く。 まるで、誇る様に、あえて卑猥な音を敢えてたてているようだった。 その音に呼応するように、何かをこらえているような荒い吐息が、遼子から聞こえはじめた。 開かない目に、痛みのためではない涙がにじむ。 にじんだ涙が、ザラつく目の周りの傷に染みた。 歯と歯を合わせるたびに、激しい痛みが襲う。 それなのに、鷹藤はぐらつく歯と歯を折れる程に噛みしめた。 死ぬほど聞きたくない音を、聞かされ続け、どこかに逃げ去りたいとも思う。 誰かに耳をふさいでもらえば、悲鳴を上げる心を黙らせることができる。 だが、耳をふさぎ、心の奥に逃げる訳にはいかない。 それが遼子のためになるのかわからなかったが、そうしなければ、自分を支えられなかった。 恐怖を、痛みを塗る込める程の怒りで、なんとか意識を保っていた。 ライティングデスクの制服の下のナイフ。 それを手にできれば。可能性は低いにしろ、反撃のチャンスはある。 どうにかして抜けだし、なんとしてでも遼子を助ける。 そのために腕をくねらせ、椅子の背から腕を抜こうと必死に動き続けていた。 その時。 鷹藤の動きが止まった。 ベッドの上から聞こえる音が変わったのだ。 中から溢れ出るもののためか、水音が激しくなっている。 「んっ…」 遼子が思わず出した声に、甘い響きが含まれていた。 水音。 おぼれそうな程の水音。 どんどん溢れ、魚が跳ねるような音が、大きくなっていく。 遼子の喉の奥から、堪え切れぬようなせつなさと切実さを伴った声がこぼれる。 「遼子、どうした」 「んん」 「熱くなってる」 「んん、ふっ」 「こっちの指がとろけそうだ」 「んっ…!」 ベッドの上で遼子が、兄がもたらす執拗な快楽から逃れるようにうごめきまわるが、 やがて、その動きが少なくなり、せつなげに顔をシーツに擦る音と水音、そして 洸至が指の付け根を叩きつけるように激しく出し入れする音が響き渡る。 「んんんっ」 突然その音が止まった。 洸至が勢いよく指を引き抜いたのだ。 快楽を中断されて、一瞬の空白が遼子に生まれた。 「そんな顔して俺を見るなんて。兄貴とこんなことして嫌じゃないのか?」 遼子の喉の奥から悲鳴めいた抗議の声が上がったようだが、それは核心をつかれた慄きの 声にも聞こえた。 「…もういいみたいだな。遼子、じゃあ、いくぞ」 鷹藤は必死に暴れ、止めようとするが、拘束されたままでなすすべもない。 最悪の場面が繰り広げられようとしていた。 ベッドの上で姿勢を変える音、その動きに応じてベッドのマットが軋む音がした。 肉を叩きつけるような湿り気と重量感ある音から、それが為されたことを察知し、 鷹藤の眼の前が暗くなる。 洸至がうめく。 鷹藤のような苦痛ではなく、快楽からのうめき。 「すごいな、遼子。嫌がっているはずなのに、どうして、お前の中はこんなに…」 「んんんっ」 テープで塞がれて否定の声を出せない代わりに、遼子も大きなうめき声をあげた。 肉と肉のぶつかる音が、緩慢なリズムから少し速いものへ上がるにつれ、 そのうち、うめき声がすがるような切れ切れの声へと変わる。 跳ねるような水音を伴って、リズムを撃つ肉の音。 それは、はしたなく部屋中に響き渡った。 凌辱の音も耐え難かったが、その苦い行為のさなかに、 愛する女が快楽におぼれつつある声を聞くことはもっと耐え難かった。 ガムテープを剥がす音が聞こえた。 「声を堪えるのは苦しいだろう。出していいんだぞ」 息を切らせながら、甘い声で洸至が囁いた。 「あ、ああんっ。いや、あっ、鷹藤くん、見ないで!」 「鷹藤には見えてないさ。安心しろ」 だが、聞こえていないとは言わなかった。 「あ、あ、あ、あんっ、あっ、いや」 水音、水音、水音。 洸至が遼子の唇を己が唇でふさいだのか、声がくぐもる。 「んっ、んん」 隙間から漏れ出る吐息から、口内を犯すような口づけを思わず想像し、 鷹藤は胸がえぐられるような悲しみに襲われた。 それなのに、鷹藤の身体の芯で凶暴なまでの熱がたぎっている。 遼子の苦痛と恥辱を代償にして、鷹藤は激しく興奮している己を感じていた。 そんな自分を消しされれば。 でなければ、ここから消え去されたら。 だが、鷹藤にはそんな自由すら与えられていなかった。 ただ床に額を擦り付け、うめくことしかできなかった。 ベッドが軋むリズムが上がっていく。 「あんっ、あ、あ、あふっ」 肉と肉とを合わせる音が高くなり、溶けあう。 「いやっ、あっ、ああああああっ!」 快楽にまみれ、本能の奥底からの叫びを遼子が発したあと、二人の動きが止まった。 そして、洸至が深い息を吐いたのが聞こえた。 身支度を終えた遼子が、鷹藤の頭を膝に乗せ、その血を拭いている。 頬にある涙の跡。冷たい指先は細かく震えている。 遼子の肩越しに、ベッドに腰掛けて、シャツを着ている洸至が見える。 「お兄ちゃん、鷹藤君のガムテープ、はずして…いい?」 洸至は威圧するような視線を鷹藤に向けた。 「構わないさ。叫んだら、殺すが」 遼子の眼と、うっすらとしか開かない鷹藤の眼が合った。 チャンスがあるとしたら、今しかない。 鷹藤が眼にした切り札を、遼子へと託すしかなかった。 鷹藤が腫れ上がった眼の隙間から、必死に瞳を動かし、遼子の視線をライティングデスクの 上へと導いた。 それを見て、遼子の目が大きく開かれる。 「なんでこんなこと…」 洸至の注意をこちらにひきつける意味で言った言葉は鷹藤の心からの疑問だった。 鷹藤は我ながら間抜けだと思いながら、そう言わずにはいられなかった。 他人の命を、人生をもてあそび続けた男だったが、妹へ向けた愛情だけは曇りないものだったはずなのに。 それなのに何故。 「楽しかっただろ」 鏡の前に立ち、ネクタイを締めながら洸至が言った。 遼子の視線はライティングデスクの上に釘付けになったままだ。 その瞳は暗く沈んでいる。 「そんなわけないだろ!妹にこんなことして、憎まれるに決まってるだろうが。それが楽しい?」 「ああ、楽しいね。君と遼子が会うとき、歩くとき、話すとき、常に君たちの間に俺がいることになるんだ。 この部屋で起きたことは永遠に君ら二人の記憶から消えることはないだろう?こんなに楽しいことはないね」 「妹を傷つけてもか」 「俺は遼子を悦ばせたつもりだが。そうだろ、遼子。お前だって最後は嫌がってなかったじゃないか」 鷹藤の視界の端で、遼子が唇をかみしめ俯いた。 どうしてここまで妹をいたぶる。 答えを求めて、鷹藤は洸至を見た。 そこには、満足とはほど遠い表情を浮かべ、抑えきれぬ思いをたたえた昏い瞳で、妹を見つめる男がいた。 自分が手にすることができないものを、遼子と鷹藤の間に見たからなのか、この部屋を支配している はずの洸至は、この部屋で一番不幸な人間に見えた。 「無理矢理やって何言ってるんだよ!」 「そう興奮するなよ。君だって、楽しんだだろう。床に額をこすりつけるようにしてうめいていたのは、 あの時興奮した自分を恥じ入る気持ちが混じってたんじゃないかな」 洸至の言葉が鷹藤を刺す。 みぞおちに拳を叩き込まれたように、鷹藤は息を呑んだ。 いま、ここで沈黙することは、首肯するより深い同意を意味する。 何かを言わなければならないと思いながら、鷹藤の舌はもつれ言葉を失った。 そんな鷹藤を見つめる遼子の眼が哀しげに揺れた。 だが、ライティングデスクには向かわず、何かを決意したように顔を上げると、兄へと視線を向ける。 「ねえ、お兄ちゃん」 遼子が沈黙を破った。 「お兄ちゃんは私に何をさせたいの?」 その声に怒りも嫌悪もなかった。 洸至は意外そうな顔をして妹の顔を見ている。 「私にこんなことをして、鷹藤君を傷つけて…。楽しいなんて言ってるけど、嘘。 どうしてお兄ちゃんの顔はそんなに苦しそうなの。 …あのベルボーイの制服の下にナイフが置いてあるよね。お兄ちゃんがうっかりそんなところに 置いたままにする訳ないもの。私にそれを使って欲しいんでしょ?だからここまでひどい事を…。 …私に今までのこと裁かせる気なのね。」 遼子の透き通るような声が部屋に響く。 そこに含まれているのは憐れみだった。 「でも、私は何もしないよ。裁くのは私の役目じゃない。お兄ちゃんの望む形で終わりは来ないよ」 「こんなことをした俺を殺したくないのか」 洸至の声はかすれていた。 「それよりおにいちゃんが可哀想なだけ」 「…俺を生かしておけば、鷹藤を殺す。関係のない奴らの血も流れる。だから今俺を…」 「もし、お兄ちゃんがこれ以上他の誰かを巻き添えにしたら、…私、自殺するから」 遼子の視線の強さに、洸至が押し黙る。 「私の手で死にたいんでしょ。私が死んだら望みは果たせないよ」 「自分の命を盾に俺を脅すのか」 遼子が兄を見つめ哀しげに微笑んだ。 「ひどい妹だな」 「…お兄ちゃんには生きて償って欲しいの」 「生きろってのは、俺にとって一番の罰だ。だが、お前が望むなら」 洸至が遼子の元へ歩いていく。 遼子へと洸至が手を伸ばすと、何かが弾けるような音と共に、遼子がよろめいた。 倒れそうになる遼子を抱きとめると、洸至はその体をそっと横たえた。 洸至の手にはスタンガンがあった。 「大丈夫。気絶しただけだ。ここを出るとき、追いかけられても困るんでね」 鷹藤のところへ洸至が来た。 縛り付けられたままの鷹藤をのしかかる様に覗き込む。 「遼子のせいで、ゲームはまだ続くことになりそうだ。君にもまたしばらくつきあってもらうことになるな。 恐ろしかったら遼子のところから逃げればいい。そうしたら君は俺達から解放される」 腫れ上がった顔でそう見えるかわからなかったが、鷹藤は口元をつりあげ、笑みの形を作った。 「つきあうよ」 「何だと?」 「あんたら兄妹に巻き込まれっぱなしの人生だ。最後までつきあうさ」 形だけの笑みだったのが、そのうち、心からの笑いに変わる。 「何がおかしい」 「守ってるつもりだったあいつに、俺達二人、それぞれ守られてるんだ」 洸至から目を外し、鷹藤は床に横たわる遼子を見つめた。 「たいした奴だよ、あんたの妹は」 「同感だな」 洸至がスタンガンを持つ手を鷹藤へと伸ばした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |