鳴海洸至×鳴海遼子
![]() 洸至はサバの味噌煮定食を食べていた。 テーブル席2つ、カウンター5席の小さな定食屋だった。客はテーブル席を占める洸至以外いない。 白い三角巾をつけた定食屋の女房が退屈そうにテレビを見ていた。 奥では亭主が仕舞支度をしているのか、せっせと調理器具を洗う音のほかは、テレビから流れる空々しい笑い 声だけが店に響いていた。テレビではお笑い芸人がサンタの衣裳を着たアイドルをからかっている。 この店の中でクリスマスらしい雰囲気を醸し出すものがあるとすれば、この画面だけだった。 だから、洸至はこの店を選んだ。 今日も終日張り込み予定だったのだが、その人物がいきなり監視対象から外された。 片山と洸至は明日から別の人物の張り込みをすることになるが、今晩の予定がいきなり空くこととなった。 予定外だった。 その予定外の出来事に片山は喜ぶと適当な女のところへ電話をして、今晩しけ込む先を決めたようだった。 洸至にすれば仕事でクリスマスのことなど忘れて一日が終われば良かったのだが。 洸至はクリスマスがあまり好きではなかった。 親のいた頃のクリスマスにいい思い出などなかった。 そもそも親からプレゼントなどもらったこともない。遼子が御馳走を頬張る横で、ぼそぼそと飯だけ食っていた。 家族のクリスマスパーティーに顔を出すことはあっても、そこの料理に手をつけることは許されなかった。 チキンも、ケーキも眺めるだけのものだった。 遼子が成長し、洸至に対する親の仕打ちに気付きそうになるまでは、洸至がクリスマスイブに食べるものは 白米だけだった。 だからこの時期、家族連れの多いファミレスに行くのは苦痛だった。 幸せそうに笑う家族を見ていると、子供たちに御馳走を腹いっぱい食べさせている親を見ると、胸に苦いもの が広がるからだ。あの頃抱え続けた身を焦がすような憎悪を思い出すからだ。 遼子と二人暮らしが始まって、洸至は初めてこの行事も悪くないと思った。 洸至は生まれて初めてプレゼントをもらった。妹が編んでくれた手袋だった。 右手と左手の大きさが違う手袋。不器用だが、愛情がこもっていることは確かなプレゼントだった。 遼子と行う季節行事は全て楽しかった。親がいた時には遠巻きに眺めるだけのものだった。 正月、節分、桃の節句、端午の節句、七夕、月見、クリスマス…。 貧しかったし、大したことが出来た訳ではない。 だが、ささやかに兄妹二人で行うことの、共に祝うものがいる喜びをその頃の洸至は噛みしめていた。 それはお互いに一人暮らしを始めたあとも続いていた。 クリスマスも予定が合えばふたりで少し豪華な夕食を食べに行くか、部屋で遼子の手料理を食べ、お互いに プレゼントを贈り合った。 だが今年はそうはいかなかった。 スケジュールが合わなかったわけではない。遼子が男と過ごすらしいのだ。 洸至は箸で漬物をつかむと、口に放り込みボリボリと音を立てながら食べた。 「お兄ちゃん今年はね、彼と過ごすことになりそうなの…」 電話口で遼子がはにかむように言った。相手は遠山とかいう、国民ジャーナルの記者らしい。 その電話を洸至が受けた時、洸至の表情を傍で見ていた片山の顔が恐怖で引き攣っていた。 まったく腹立たしい。 クリスマスが嫌いになった。 遼子が他の男と過ごしているかと思うと、他のカップルすら目にするのが厭になった。 カップル全てが遼子と遠山に見えた。 だから、カップルも家族連れも絶対に来そうにないこの店で遅めの夕食を取ることにした。 洸至にとって、クリスマスのクの字もないこの空間は居心地が良かった。 飯を食い終わり、年季の入ったレジの前で会計を済ませた時、定食屋の女房が洸至に飴をひとつかみ渡した。 「クリスマスだからね」 洸至は一瞬目をしばたかせたがそれを受け取り、礼を言うとポケットに入れた。 道行くカップルを目に入れないようにして歩く。 路上でも、地下道でも、駅のホームでも、電車でも、改札でも、コンビニでも、カフェでも立ち飲み屋でさえも その全てにカップルがいた。 その全てが幸せそうに見えた。寒風が吹きすさぶ中でも、皆暖かそうに見えた。 きっと遼子もそんな夜を過ごしているのだろう。 ひどく寂しかった。そして妬ましかった。 まるで振られた男の心境だな、と、コートの襟元を合わせ自嘲気味に笑う。 まさしく自分はそうだからだ。 家でコーヒーをいれるのも億劫で、家の手前の自販機で缶コーヒーを買った。 洸至はかじかむ指に温もりを与えるように、コートのポケットの中で缶を弄びながらアパートの階段を昇った。 洸至の部屋の前に、しゃがみこむ妹の姿があった。 寒風で冷えたはずの洸至の躰が一気に熱をもった。 妹の片手にシャンパンの瓶。そこから中身が零れて、遼子の服と廊下を濡らしていた。 「遼子?お前どうしたんだよ」 洸至が駆け寄ると、妹が顔を上げた。 廊下の白色灯に照らされた遼子の顔は赤らみ、蕩けたように見える眼もとからは涙が零れ落ちていた。 「お兄ちゃん…しろうちゃんがね、わらしと過ごす気なんかないって、ふぇっ…ふぇぇぇえええええぇんっ」 遼子の言葉が途中から大泣きに変わる。 洸至は妹の肩を抱き、背中をさすってやる。 「わかった。落ち着けって。とりあえず入れ。な?」 クリスマスも悪くない、洸至はそう思った。 洸至は部屋に遼子を上げて、今晩の出来事を聞いた。 遼子がシャンパンを持って遠山の部屋に行った時、既に女の先客がいて遼子は追い出されたらしい。 話を聞くうちに、この恋もいつもの遼子の一方通行な恋だと合点がいき、洸至は親身に話を聞くふりをしなが ら安堵に胸を撫で下ろしていた。 ひとしきり話を聞いて、遼子が落ち付いた頃を見計らって洸至は風呂を勧めた。 遼子の洋服がシャンパンで濡れてべたついていたし、ずっと屋外で洸至を待っていたせいで躰は冷え切っていた。 それに洸至は、風呂上がりの妹の濡れた髪を見るのが好きだった。 男のもののジャージを着た遼子が自分の手を枕にうつぶせになり、洸至のベッドに横たわっていた。 遼子のまだほのかに濡れた髪は、いつにもまして艶を持ちベッドの上に広がっている。 「俺達ペアルックだな、まるで」 濡れた髪を拭きながら洸至が笑って言った。 遼子に抱く男としての気持ちをそらすべく、妹をからかう兄の仮面をつける。 しどけなく横たわっていた遼子が赤みのある眼もとで、似たようなジャージ姿の洸至を見ると、笑った。 「干しとけば明日には乾くさ。始発で帰れば出勤前に着替えられるだろ?今日は泊っていけよ」 部屋にはシャンパンで濡れた遼子のスカートとシャツが干してある。 「お兄ちゃん、ありがとう。いきなり来たのに部屋に入れてくれて、ジャージまで借りちゃった」 「いいさ、それ、おととしお前がくれたやつだよ」 「まだ持っててくれたんだ…」 「お前からもらったやつは捨てられないさ」 「お兄ちゃんも彼女といるかも、って思ったんだけど、史郎ちゃんとこんなことになった後にひとりの部屋に 帰りたくなくって」 「俺もそうだよ」 思わず本心を言ってしまった。洸至が遼子を横目で見る。兄の秘密の一端を垣間見た妹がにやけていた。 「えっ?あ、お兄ちゃんも誰かに振られたんだ…」 洸至の目元が険しくなり、押し黙ると、その様子を見た遼子が慌てて言葉を続けた。 「そ、それでね、真っ先に思い浮かんだのがお兄ちゃんの顔だったから、つい、来ちゃった」 「忙しすぎて、彼女を作る暇なんかないさ。それに俺の部屋はお前にとって実家みたいなもんなんだから、 いつ帰ってきてもいいんだぞ。遠慮なんかするなよ」 「お兄ちゃん、本当にありがとう」 遼子が頬を染めたのは、酔いなのか照れなのかはっきりしなかったが、首を傾げ微笑む様は華のように美しかった。 「お前が来るってわかってたら、ケーキでも買っておいたんだけどな。あ、飴ならあるぞ。食べるか?」 「いいよ…、こんな遅くに食べたら…太っちゃう…」 洸至が来るまでにシャンパンを飲み強かに酔っていた遼子は、風呂に入って躰が温まったせいか一気に眠く なったらしい。返事が緩慢になっていた。 「だけどプレゼントだけは買っておいたんだぞ」 洸至は遼子の枕元に、紙袋を置いた。 「メリークリスマス、遼子。それ開けてみろって」 返事がない。 遼子は目を閉じて、静かな寝息を立てていた。 「マフラー買ったんだけどな」 洸至はしばらく寝顔を見つめた後、妹に布団をかけてやる。遼子が軽く身動きしたが、眠りは深そうだった。 洸至が遼子の濡れた髪を撫でる。妹の髪を一筋取る。 そして、髪の香りを心行くまで吸い込んでから、その髪に口づけた。 これが自分に許す兄を越えた行為。 唇に口づけたら、きっと止まれないのがわかっていた。 兄でいる為に、踏みとどまる為に洸至は妹の髪にしか口づけられなかった。 だったら口づけなどしなければいいのだ。それはわかっている。 だが口づけせずにはいられなかった。 それ程の想い。そして、きっと永遠に届かぬ想い。 「お前は何もくれなくていいから」 妹の顔にかかる髪の毛を指で梳く。 「妹でいいから。ずっと俺の傍に居てくれ」 妹の眠るベッドにもたれかかりながら、洸至はその寝顔をいつまでも見つめていた。 鷹藤は待ち合わせ場所に急いでいた。 昼飯を食べていた時に、クリスマスイブにひとりで過ごす野郎同士で飲むぞという電話があった。 仕事終わりの時間が読めないので、適当な返事をしていたが、意外に早く終わったので鷹藤もそれに参加する ことにしたのだ。 鷹藤がアンタッチャブルで働くようになってから、彼女とは別れていた。 その彼女とは友人の紹介で知り合い付き合っていたのだが、平日はもちろん、休日に事件が起これば呼び出し がかかる仕事のせいですれ違いが続き、いつしかメールも電話も回数が減っていった。 そして好きな人が出来たという彼女からの電話を最後に、連絡は途絶えた。 今の彼氏が、彼女を鷹藤に紹介した友人だったというのを人づてに聞いた。 街中が浮き立っている夜に、マンションの部屋で一人過ごすよりは、束の間でも気の合う仲間同士で 飲んでいた方が楽しいに決まっている。 たとえ、その飲み会のあとで数倍の侘しさが押し寄せて来ようとも。 大声が聞こえた。女の声だろうか。道行く人々が大声の方向を見た。 「らによおぉ!見れもんじゃないわよ!」 前方でよろめきながら、こちらへ向って歩く女がいた。千鳥足でシャンパンボトルを片手に歩いている。 少し離れているので顔ははっきりとは見えないが、地味目の服装がなんとなく残念な印象を与える女だった。 「なんだあれ」 鷹藤が足を止め、茫然と見ていると、女がこちらを見た。 鷹藤は慌てて目をそらすと、また歩き始めた。 「女がひとりで歩いてるからって、声かけようっていうの!そんなに安い女じゃないんだから」 鷹藤の背に女の声が飛ぶ。 「違うってば。俺、そういうつもりねえし」 小さな声で言い訳めいたひとりごとをいいながら鷹藤は足を早めた。 こんなのに絡まれて約束の時間に遅れるのも厭だった。 「ちょっと、話は終わってないろよ」 その幸薄そうな女の大声があたりに響く。鷹藤は待ち合わせ場所に急ぐため走り出した。 前方に友人がいた。 「あの女の人、お前の知り合い?」 友人がにやつきながら鷹藤の肩ごしに女を見ていた。 「いや、知らない女。絡まれそうになってさ」 後ろをむけば女に絡まれそうな気がして、鷹藤は振り返らずに言った。 「結構美人なのにな。あんなひどい酔い方するんじゃ、彼氏大変だな」 友人が女の方をまじまじと見ながら言った。 「彼氏居そうに見えねえけどさ。俺だったらあんな奴の面倒見るのはごめんだな」 「それもそうだな」 「しろうちゃ〜ん!ふぇっふえええっん」 辺りに響く女の声が、いつしか泣き声に変わっていた。 クリスマスイブに振られるなんて、ついてない女…。肩ごしに振り返ると、女も背を向けて、よろめきながら 歩いていた。 何故か気がかりで、その女がタクシーに乗るところまで鷹藤は眼で追っていた。 それから鷹藤は友人と肩を並べて歩きはじめると、華やぐ街の中へ消えていった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |