鳴海洸至×鳴海遼子
ふた席ほど離れた椅子に座ったのは、髪の長い女だった。 黒の上品なワンピースに身を包み、バーには似合わない柔らかで温かな感じのする香水をつけていた。 常連らしく、マスターに「いつもの」とオーダーしただけで朱色のカクテルが女に差し出された。 肩から流れる漆黒の髪を女が払い、カクテルを口に運ぶ。 女の黒髪は、妹の黒髪を連想させた。そのせいで、洸至はその女に長く眼を留めていた。 視線に気づいた女が洸至を見た。 その時、洸至の息は止まりそうになった。 そこに妹がいた。 その日、洸至は大阪に来ていた。 緋山の講演会に出席するためだ。もちろん、スタッフとしてではなく、一聴衆としてだった。 緋山はこの時もいつも通り、朗々と演説した。 蝋細工のように整った顔を紅潮させ、要所要所で適切なアクションを取り聴衆を飽きさせないようにしていた。 やがて講演会場は、宗教の集会にも似た熱気を持ち始めた。 緋山の語る理想を、聴衆は幻視しているかのように、うっとりとした眼をしながら聞いていた。 言葉だけで選挙民を惹きつけるのは酔わせるのは政治家として欠いてはならぬ資質だ。 それは詐欺師にもエセ宗教家にも共通する資質でもあるが。 洸至は皮肉な笑みを浮かべると、演説を終えた緋山に向けて拍手した。 万雷の拍手の中、満足げに聴衆を見回す緋山と洸至の眼が合った。 聴衆の中に洸至を認めた緋山の表情が一瞬強張る。 その表情を確認した洸至は席を立ち、拍手が鳴り響く中会場を後にした。 集団の毒気にあてられた洸至は、会場を出るとネクタイを緩めた。 首都高を見下ろす公園で洸至が緋山に会ってから、もう数カ月経つ。 それからは直接会うことを避け、電話で連絡を取り合うのみだった。 だが、声だけでは首輪は締められない。 最近、緋山は洸至の指示に対して反発するようになってきた。 だから不意打ちのようにこうして姿を現すことで、洸至は飼い犬の首輪を締め直すことにした。 恐怖と言う名の首輪を。 効果は緋山のあの眼でわかった。これでまたしばらく従順な男に戻るだろう。 一仕事終えた洸至は、夜の街へ向っていった。 美味い酒でも飲んで講演会場で感じた毒気を抜きたかった。 いつもはホテルのバーで飲んでいるが、今日は外の空気が吸いたくて、見知らぬ街をぶらぶらと歩いた。 しばらく歩いた後、洸至はとあるビルの袖看板に眼を留めた。 『Bar NEST』 店名が気に入り、洸至はその店のドアを開けた。 長いカウンターの奥に、バーテンダーがひとり。 バーテンダーの背にある酒棚のバックライトがほんのりと辺りを照らす、落ち着いた雰囲気のバーだった。 気取った音楽がかかることもない、静かに飲めそうな店だ。 一見の客に眉をひそめることもなく椅子に座った洸至の前にバーテンダーがコースターを置いた。 「ボウモアを」 バーテンダーから供された酒を、洸至がゆっくりと味わっていた時、新しい客が来た。 それがこの女だった。 「どうかしました?」 女の声で洸至は我に帰った。 鈴の音のような透き通る声。それも妹に似ていた。 だが別人だ。遼子に眼の前の女が持つような翳りなどない。男の視線を微笑みで受け流すような器用さもない。 バーで男からこんな視線を送られたら、照れまくって手元にあるグラスを一気飲みするのが落ちだ。 女を眼にしたことで、洸至の胸の奥で蓋をしていたはずの妹への想いが熱を持ち、息を吹き返す。 もう手にできない、遼子のとの生活の記憶が痛みと共に彩り豊かに洸至の中で蘇り始めた。 「不躾な視線でしたね。失礼しました」 無礼にならない程度に視線をはずし、洸至は詫びた。 「いいですよ。もしかして、誰か大切なひとのことを思い出していたんですか?」 「…」 公安時代から、動揺を相手に気取られぬように、心中を表に現さないようにしていたはずだった。 だが、息を吹き返した妹への想いがそれを無効にしたようだ。 「図星って顔してる。だってそんな顔していたんですもの」 クスクスと笑って女が洸至の方を向いた。 「初対面でこんなこと言って変な女だと思ったでしょ。わたしも、昔、大切な人と離れ離れになったから…。 だから良く似た人に会えた時嬉しくって、でも信じられなくて。その時の私も、きっと今のあなた みたいな顔をしたのかな、って思って」 洸至は曖昧に微笑んだ。 首を傾げ、洸至を見る様はまるで遼子の生き映しだ。 そこに最愛の妹の面影を見て、洸至の胸にせつない痛みが広がっていく。 「確かに知り合いに似ていたので、驚きました」 「他人のそら似ね。もう、その人には会えないの?」 「遠い所に居ますから」 「わたしと一緒ね。きっとあなたにとって大事な人だったのね。その人」 「そうかもしれませんね」 「悔しく…ない?」 女の声が翳りを持った。 「悔しい?」 「その人に会えなくなって」 「…」 「わたしはただ待つなんて嫌。あなたがもしそれで寂しくて、傷ついたなら、ちゃんと知らせないと。 どんな方法を使っても知らせないと」 洸至は女を見た。 グラスのふちに指を滑らせながら語る女の口元は微笑んでいるように見える。 しかし、どこか遠くを見据える眼には昏い光が宿っていた。 「悪いのは…俺だから。だからもうどうしようもない」 自分の口から出た言葉に、洸至は驚いていた。普段なら他人にこんなことを話したことはない。 見ず知らずの行きずりの女だからか警戒を解いているのか。 それとも、この女と遼子を重ね合わせているのか。 「あなただけ…?どちらが一方だけが悪いなんてことはないんじゃない。好きなのね。その人のことが。 だから庇ってる」 洸至はそれに答えず、スコッチを口に含んだ。北海に面した潮風の強い島で作られた酒は、ほのかに磯の香りがした。 磯の香りは、遼子との別離の夜の記憶を呼び覚ます。 「本当に…好きなんですね」 女がぽつりと言った。 「遠く離れていても、そんなに想ってもらえたら幸せかもしれないですね。その人」 「だといいんですが」 遼子の親を、上司を奪ったのは俺だ。遼子を守るため事件を捏造し、真実から遠ざけ続けた結果、 俺があいつに与えたのは犯罪者の妹としての汚名だけだ。 恨まれていて当然なのに、そんな俺の為に遼子は涙を流してくれた。 憐みだったのか、俺の魂を救えなかったことへの後悔なのか。 自分に破滅をもたらしたが、そんな女を憎めるはずがない。 そして忘れられるはずもない。 「でも、わたしだったら懲らしめちゃうかな。わたしがもしあなただったら、傷ついた分、相手にも傷を 負わせたいと思うもの」 軽い調子で女が言ったが、その言葉の中には鈍く光る悪意があった。 洸至は隣の女を見た。 遼子は、自分の中にある正義を信じていた。 こんな世の中で、ジャーナリストとして取材をしていれば、人間に幻滅するような事件にぶち当たるのは 一度や二度ではないはずだ。 それでも、遼子は正義を信じた。理想を失わなかった。 緋山が語る理想は、聴衆を幻惑し己の利になる様に人々を操る為の詐術だ。 だが遼子は自分の青臭い理想を純粋に信じていた。 悪意だけは形として存在しているような世の中で、まるで幻のようにおぼろげな正義を求めて遼子は記者 として戦い続けていた。 巨悪を追求し、真実を暴くことでそれを形にできると信じているように。 そんな妹の姿が洸至には眩しかった。 決して手にできない光をその中に見ていた。 そんな遼子とは違い、この女は何も信じていない。 人間など信じていない。遼子の生き映しだが、まるでコインの裏表だ。 遼子が陽の光なら、この女はその影だ。 遼子が善を信じるなら、この女はその逆。 微笑む女の口元は、闇夜をくり抜くように浮かぶ月のようだった。 「嘘ですって」 洸至の微妙な変化を読み取ったのか、女が悪戯っぽく笑った。 「変なこと言っちゃって、ごめんなさい。今日待ち合わせの人が遅れているものだから…」 「振られそうですか」 硬くなりかけた空気を和らげるように洸至が言った。 「そうかもしれませんね。もしそうだったら、今日はあなたに付き合ってもらおうかしら」 グラスを口元に運んだ洸至が手を止めた。 「相手に振られた、似た者同士って気がするし…」 女がそこで言葉を切った。店のドアが開く音がした。 息せき切って入ってきた客が、女の隣に座った。 「すいません。仕事で少し遅れました。待ちましたか」 半白の髪を撫でつけた、整った顔立ちの中年の男だった。 贅肉のないタイトなスーツ姿は中年の臭みなど感じさせず、今でも若い女を惹きつけそうだ。 「いえ…。あの方がお話相手になってくれて」 男が女越しに洸至を見て会釈した。 それから女に男は囁く。 「よければ、食事にでも行きませんか」 囁き声の中に潜む雄の本能に気付いて、洸至は心の中で笑った。 中年にもなって、この男は女の躰を待てないらしい。完全にこの女の虜と言ったところか。 「そうですね。行きましょうか」 女の中にある余裕。誰がこの関係をコントロールしているかは明らかだった。 二人が席を立った時、女が洸至を見た。 「お話できて楽しかったです。また、お会いできたらいいですね」 「ええ」 あいさつ代わりに洸至はグラスを掲げた。 女が店を出ていった後も、女がつけていた香水の残り香が漂う。 この香水はあの女には似合わない。きっと、さっきの男の好みに合わせたのだろう。 柔らかさと甘さの中に少し幼さが漂う匂い。少し野暮ったい様な、日向の香り。 ―――まるで、遼子のような匂い。 「同じものを」 バーテンダーがうなずくと、洸至のグラスに琥珀色の液体を注いだ。 洸至は、残り香に包まれながら女が呼び起こした妹の記憶と、もう少しだけ酒を飲むことにした。 SS一覧に戻る メインページに戻る |