鳴海洸至×鳴海遼子
藤堂が柘植に連れられて行った店は大衆居酒屋だった。 普段の自分なら絶対に入らないであろう店だ。 硝子の引き戸を開けると、客の話し声でざわめく向こうから「いらっしゃい!」と威勢のいい掛け声が響いた。 カウンターの奥から、焼き物を見ながら剥げ頭にねじり鉢巻きを巻いた中年の男がこちらを見て、柘植に眼で 挨拶をする。 カウンターもテーブル席もほとんど客で埋まっていたが、でっぷりと太ったお多福顔の女将らしき女が 柘植と藤堂を奥の空いている座席へと促した。 藤堂と柘植が座敷に座ると、女将がおしぼりとお通しを置いた。 「寒い日が続いてるけど、柘植さん、風邪ひいてないかい?あんた細すぎるからね、たっぷり食べなよ。 さ、今日は何にする」 飲み屋の女将というより、独身寮の寮母のような雰囲気だ。 「俺はいつもの焼酎と煮込み大盛りで。あとは女将さん適当に見つくろってくれ。藤堂、お前も同じでいいか」 「ええ」 美味い酒は置いていそうにない。藤堂は柘植と合わせることにした。 熱いお絞りで手を拭く藤堂を見て、柘植が言った。 「その顔じゃ俺がケチったと思ったか?」 「先輩のおごりですからね。贅沢はいいませんよ」 何年かぶりで柘植と酒を飲む。藤堂はそれだけで良かった。 「ここの大将が酒が好きな男でさ、こう見えてこの店は全国のうまい焼酎を揃えてある。それとこの店の煮込み は絶品だ」 「先輩がそう言うのなら、信じましょうか」 藤堂が皮肉な笑みを浮かべると、柘植もつられるように薄く笑った。 「でも正直意外でした。先輩がこういう店に来るなんて」 「気取った店で飲んだくれていると思ったか?」 「もう少しゆっくり飲める店に行くと思ってましたよ」 「そういう店で飲み始めると全てを忘れるまで飲み続けちまう。だから、これくらいにぎやかな店の方がいい。ここで飲み過ぎると女将に叱られるしな」 藤堂には、柘植が痛飲する理由が判っていた。 5年前の事件―――あの事件のあと柘植はキャリアとしての道を外れた。 冷徹になりきれない男にキャリアは無理だ。そう思って藤堂は降格した柘植を見送った。 だが憧れつづけた男を追い越した藤堂の胸には割り切れないものが残っていた。 それが先日、5年前の事件の真相が明らかになり、柘植が捜査へ怨念に近い情熱を燃やす理由が判った時 内部闘争に明け暮れ、出世することを目標とする自分よりもキャリアの道を外れたはずの柘植の背中が大きく見えた。 「もう女将さんに叱られるまで飲み過ぎることはなくなるんじゃないですか」 5年前の事件のケリはついた。悪夢を忘れるように飲む必要はないはずだ。 「どうかな」 柘植の眼の奥が一瞬昏くなった。まだ、はるか昔に幼い妹を失った痛みが燠火のように燻っているのだろうか。 その時、二人の座敷の横に誰かが立った。 女将が焼酎を持ってきたかと思って、二人がそちらを向いた。 「お、お兄ちゃん…!」 髪をひとつに結い、肩から鞄をかけた女が立っていた。 驚きで大きな瞳が更に見開かれ、次に言うべき言葉を失っていた。 柘植と藤堂か顔を見合わせる。知らない女だった。 藤堂は憮然としながらグラスを煽った。 座敷にさっきの女が上がって柘植の隣で正座していた。 女から名刺を受取った柘植が、何故か女に同席するように声をかけたのだ。 「取材だったら遠慮していただきたい」 藤堂が冷たく投げかけると、女が肯いた。 女は週刊アンタッチャブルの記者と名乗った。今泉の事件についての取材で藤堂のところへ来たようだった。 「も、もう取材はいいです」 女は柘植の隣に座って、藤堂をちらちらと見ていた。その視線が藤堂には正直うざったい。 「もしかして、君の兄さんは鳴海洸至か」 女の名刺を見ながら柘植が言った。 「鳴海…?」 永倉コンツェルンの総裁、永倉を使いこの社会を変えようとした狂信者。スキャンダルで政敵を追い落とし、 邪魔者は躊躇わず殺した――自分の両親も含めて――生来の犯罪者にして、警視庁創設以来最悪の裏切り者 ―――それが鳴海洸至だ。 「確かに似てるな、鳴海に」 柘植が藤堂に視線を据えた。 「似てる…?俺が、その鳴海にですか」 「ああ。俺も何年か公安にいたからな。一緒の班にはならなかったが、顔は憶えてるよ。出来る奴だったらしい」 あの事件のあと、警視庁の威信は失墜した。その張本人の妹か。藤堂を見つめる女と眼が合った。 藤堂の凍てつくような視線を感じ、女が慌てて俯いた。 「兄は沢山の人に迷惑をかけました…。でも…どんなに酷い人間だと言われても私にはたった一人の兄なんです。 もう会えないと思っていたのに、そっくりな人に会えてうれしくて…その…つい」 女が上目づかいに藤堂を見た。 「でも別に私にはあなたと話すことなど無い。取材じゃないなら、お引き取り願いたい。今はプライベートな 時間なんですよ」 「ええ、判ってます…じゃあ、取材は忘れてプライベートで一緒に飲みます。女将さん、わたしに生中ひとつ!」 女が手を上げて従業員に合図した。 「なんだそりゃ」 柘植が苦笑しながらすかさず突っ込んだ。 「それにしても、警視庁にはお前に似た男がよくいるな」 柘植の言葉に、藤堂の胸に苦いものが広がる。 藤堂は警視庁籠城事件の後のことを思い出していた。 籠城事件の時、藤堂は他の署であった捜査会議に出席していた。警視庁籠城事件の一報を受け、会議終了後 警視庁に駈けつけた時には事件は収束していた。 事件の夜、すれ違う職員達がみな訝しげな顔をする理由がわからないまま歩いていると、他の係の伊丹とかいう 捜査員に「生きてやがったのか手前」と飛びかかられた。 藤堂には何が何だかわからなかった。 翌日の新聞に掲載された籠城犯の顔写真を見て、藤堂の係の刑事達が驚いた顔をしていた。 自分では判らないが、その八重樫という元組対の男と藤堂は瓜二つだという。 あの事件の後に藤堂が職員食堂で昼飯を食べていた時、やけにじっとこちらを見つめている女性職員と眼が 合った。 藤堂が昼飯を食べ終わった後にエレベーターに乗ると、偶然その女も乗ってきた。 女の方が先にエレベーターを降りたのだが、ドアが閉まる直前、女が振り返った。 「八重樫君…」 黒目がちで大きな瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。 藤堂にはさっぱり理由がわからず、エレベーターの中で女の涙に困惑し続けていた。 もしかしたら、あの女もそうだったのか…。藤堂の中に誰か――八重樫の面影を重ねていたのだろうか。 「あのお、乾杯しませんか」 ぼんやりとしていた藤堂に女が声をかけた。 「どうして」 柘植とのサシで飲む酒を邪魔され、藤堂は不機嫌だった。 「いいよ」 柘植がグラスを上げた。 「先輩!」 「藤堂、固いこと言うなよ。今晩、こうして飲むだけならいいだろ」 「じゃ、かんぱーい!」 藤堂の意見など無視して二人は乾杯していた。藤堂はグラスを合わせることなく、一気にグラスの中の ものを空けた。 グラスをテーブルに置くと、またも女と目が合った。 懐かしさと愛おしさを籠めた、藤堂が感じたことのない視線でこちらを見ていた。 「全く…台無しだ…」 藤堂は思わず眼を逸らし、苦虫を噛み潰したような顔をして焼酎のボトルに手を伸ばした。 「何で君が先に酔い潰れるんだ」 「えへへへへ、お兄ちゃん…」 「俺は君の兄じゃないんだぞ」 何故か藤堂の隣に、その女記者――鳴海遼子が座っていた。藤堂に腕を絡め、嬉しそうに肩に頭を預けている。 藤堂がいくら冷たくあしらっても、この女には効かないようだ。 自分の都合にいい方に解釈して幸せそうに藤堂を見ていた。 「すっかり懐かれたな」 柘植がグラスを口元に運びながら言った。 「懐かれたって、勘違いしてるだけですよ、先輩」 「かもな。たまにそういうのもいいだろ。お前は少し固すぎる」 「柘植さんっていい人!お兄ちゃんも見習わなきゃ!」 「だから俺は君の兄さんじゃない。あんな犯罪者と一緒にするな!」 いつまでも間違い続けられることに耐えきれなくなった藤堂が怒鳴った。 一瞬、店の中がしん…と静まり返る。 すぐに他人のテーブルのいざこざなどなかったように、店にざわめきが戻ってきた。 しかし、藤堂のいるテーブルは気づまりな沈黙に支配されたままだ。 藤堂の隣で遼子がうなだれていた。 柘植との酒を邪魔された怒りもあってだろうか、藤堂は遼子を叱責する自分を止められないでいた。 「君の兄さんが何人殺したと思っているんだ。関係のない人間の命までたくさん奪った。子供だって殺そうとした。 しかも警視庁の創設以来の恥晒しだ。よくそんな人間を懐かしめるな。こっちにすればいい迷惑だ!」 「迷惑…ですよね。ただ似てるだけで一緒に飲もうっていうなんて。勝手なことを言っているのはわかってるんです。 だけど、懐かしくて嬉しくて…だからいけないと思っていても自分の気持ちが止められなかったんです…。 ごめんなさい。本当にごめんなさい」 遼子が俯いたまま肩を落としていた。 「本当に勝手だ」 追い打ちをかけるように、藤堂が吐き捨てた。 「藤堂、そのくらいにしておけ」 柘植が制した。俯いたままの遼子は動かない。 「鳴海は確かに犯罪者だ。だがな、いくら他人から憎まれようとこの子にとって鳴海は家族だ。そこのところは ちょっと考えてやれって」 「ですが」 「お前にはわからないかもしれないな。大事な人間が眼の前から突然いなくなった時の気持ちとかさ。 もうこの世にいないとしても、夢でもいいからもう一度会いたいと思うんだよ。それがどんなに愚かな願い かわかっていても、そう思うことを止められないんだ、残された人間は」 遼子はまだ顔を上げない。軽く躰が揺れていた。泣いているのかもしれない。 「俺だって…そうだ」 柘植が聞こえるか聞えいないかの声で呟いた。 藤堂が顔を上げた。向いに座る柘植からはいつものように表情から何を想うのかは読み取れない。 俯いた遼子の躰がゆらりと崩れ、藤堂の膝の上にもたれかかってきた。 「お…おい!」 遼子は静かな寝息を立てていた。 「おにい…ちゃん」 「彼女、途中から聞いてなかったみたいだな。お前にあれだけ言われて寝られるなんて、すごい奴だ」 柘植が苦笑した。 「彼女は両親も兄貴に殺されたはずだ。あの事件の後、鳴海の記事を彼女自身が書いた。憶えてるか?」 普段なら週刊誌など読まない藤堂もあの号のアンタッチャブルは読んだ。警視庁の威信を失墜させ、政界をも 巻き込んだ大スキャンダルをたった一人で起こした男について冷静な筆致で、『名無しの権兵衛』の犯罪を詳らか にした記事で、3流週刊誌とは思えぬ読み応えのある内容だった。 後にその記事を書いたのが、『名無しの権兵衛』の妹によるものだと知って藤堂は驚いた。 「記事を書く時はあれだけ冷静に分析できるくせに、眼の前に兄貴に似た男がいただけでこんな風になっちまうんだな。 兄さんに似ているお前に甘え切ってるよ」 藤堂が遼子の躰をどかせようとした時だった。 「もうすこしそのままでいてやったらどうだ」 「どうしてですか?」 「彼女、すごく幸せそうな顔をして寝てるぞ」 藤堂の膝にもたれかかり眠る遼子の口元は微かに緩んで、安らかな表情を浮かべている。 「兄さんに膝枕でもしてもらっている夢でも見ているんだろ」 「全く…」 「どれだけ迷惑かけられても、兄貴は兄貴、か」 柘植はそうつぶやくと、眠る女に自分のコートをかけてやった。 今日の柘植はやけに優しい。 ―――お兄ちゃん。 あの女は俺達にそう声をかけた。 鳴海遼子が藤堂の中に兄を見たように、柘植も彼女に自分の妹を重ね合わせているのだろうか。 生きていれば、柘植の行方不明の妹はこの女ぐらいの年になるはずだ。 藤堂は、心地よさそうに寝息を立て眠る遼子を見た。 遺族や世間から冷たく見られたことは一度や二度ではないはずだ。 刑事として現場に出ることは少ないながらも、加害者家族がどれだけ世間から冷たくあしらわれるかぐらいは 藤堂も知っている。 ―――それでもまだ会いたいと想えるのか。 柘植や遼子が持つ、そこまで誰かを想う感情は藤堂には判らなかった。 藤堂の太ももの布地越しに遼子の体温が伝わる。 俺がキャリアとして上を目指し続けて切り捨てたものがこの重さと温もりなのかもしれない。 あれ程の事件を起してもまだ誰かに想われ続ける鳴海洸至や八重樫が藤堂には少し羨ましかった。 もし自分が――あり得ないことだか――そういった事件を起こしたとしてもなお、自分の為に泣いてくれる誰か が藤堂には思い浮ばないでいた。 できれば、柘植だけでも――。 そう思いかけて藤堂は止めた。自分らしくないと苦笑し、焼酎の入ったグラスを口元に運んだ。 SS一覧に戻る メインページに戻る |