鷹藤俊一×鳴海遼子
背の高いマンションが立ち並ぶ中にある、猫の額ほどの小さな児童公園。 真夜中も過ぎれば、そこにある遊具で遊ぶ者などいない。 木枯らしが寂しくブランコを揺らしていた。 公園の植栽前に止められた一台の車の中から、鷹藤がその様子を物憂げに見ていた。 「そっちはどう。動きあった」 「ないわよ」 「寒いな。今晩このまま朝までコースかね」 暖かくしすぎれば眠くなる、という理由から車のエアコンの暖房は弱めにしてある。 「しょうがないじゃない。居眠りして、撮り逃すよりマシよ」 助手席の遼子は、マンションの出入り口から眼を離していない。 「早いところ来てくれりゃあ、撮って帰れるのにさ」 「こっちの都合で相手が動いてくれることなんかないわよ」 スクープ写真が撮れるまで帰ってくるなと言われ、二人はいま張り込みをしていた。 編集長の樫村が掴んだネタは、若手政治家のスキャンダルだった。 国会での雄雄しい質問ぶり、歯切れのいい演説、恵まれた外見は彼を所属する党内でも1,2を 争う人気議員にしていた。 その男が不倫しているらしい。しかも先輩議員の妻と。 鷹藤にしても、遼子にしても、そいつが誰と恋愛しようがどうでも良かったが、雑誌記者とは 所詮はサラリーマンであり、給料の為には意に沿わぬ仕事も行わなければならない。 今夜の張り込みも、そんな仕事のひとつだった。 「やだ」 「どうした」 「警察よ」 二人の車の前方から、パトロールの警官が二人歩いてきた。 「政治家のマンションがあるから、パトロール多いのかもな」 ここで職務質問を受けて、移動したら、その分時間も機会もロスしてしまう。 「しょうがねえな。いつもの手、使うか」 「うん」 鷹藤が遼子へ覆いかぶさると、軽く抱きしめるふりをした。 車内でいちゃつくカップルを演じれば、警官も見逃してくれることが多かったので、張り込みで 警察に通報されたときは二人でそんな演技をして誤魔化すことにしていた。 もちろんキスなどしないし、あくまでそのふりをするだけだ。 それでも、息がかかるほどの近くに遼子を感じるとき、いつも鷹藤の心臓は高鳴っていた。 遼子に囁く。 「見てるか」 「見てるわね」 覆いかぶさっている鷹藤に車外の様子は見えない。 遼子から様子を聞きながら、あまり密着しないようにして抱きしめるふりをしたままでいた。 無理な姿勢に鷹藤の筋肉が強張る。 「離れないわね」 「のぞきじゃないよな」 「制服着てるもの。政治家のマンションが近いから、疑ってるかも」 「まいったな…」 一瞬の間の後、遼子が言った。 「しょうがないわね。唇、借りるわよ」 遼子が鷹藤の頬に手を添えた。 頬に添えられた遼子の手は冷たかった。 だが、唇は温かかった。 すごく温かかった。 遼子のそれは、キスと言うよりただ唇を強く押し付けた不恰好なものなのに、鷹藤の鼓動ときたら ドラムが乱打するように激しく高鳴っている。 ヘッドレストのあたりに置いていた鷹藤の手が、徐々に下がり、遼子の背中に廻された。 遼子の背が強張るのを彼女のジャケット越しに感じていた。 本人は否定するだろうが、多分コイツは奥手なはずだ。 妄想上では経験豊富らしいが、鷹藤が何かの拍子に遼子に触れたときには、いやらしいとか 下心が見え見えなのよとかなんとか大騒ぎしたくせに、それなのに、今していることは何だ。 遼子は取材となればまるで別人になる。 常識から解き放たれ、驚くほど執拗に、そして大胆になれる。 戸惑い続ける鷹藤をよそに、遼子が唇をはずして鷹藤の首を抱くと、その耳元に唇を寄せた。 まるで愛撫するように吐息が鷹藤の耳朶をくすぐる。 「まだ見てる」 鷹藤も囁き声で返す。 「どうすんだよ」 「…もうちょっと続けるわよ」 その言葉を聞き終える前に今度は鷹藤の体が動いていた。 今度は鷹藤から唇を重ねる。 そんな鷹藤に遼子は少し驚いたようだが、まるで本当の恋人を迎えるかのような自然さで、 その唇をそのまま受け入れた。 鷹藤は身を乗り出し、遼子の背にまわした腕に力をこめ相方の細い体を抱き寄せる。 上手に嘘を吐くなら、嘘を吐いていると思わないことだ。 飲み会の席でこんなことを言っていたのはたしか樫村だったか。 いま鷹藤がしているのは、警官をだますための嘘だ。 そのためのキス。 だが、真に迫った嘘が、鷹藤の本当の心をあぶりだす。 嘘ではなく、心からのキスを求めていた。 いま鷹藤は狂おしいくらいにせつなく感じている。 せつなさに引きずられるように、鷹藤は遼子の口内に舌を潜り込ませた。 やりすぎなのはわかっていた。 遼子は怒るだろうか。それとも押しのけるだろうか。 しかし、その舌に遼子の舌が絡みついてきた。 鷹藤の口内に侵入し、歯を舌を探りはじめる。 合わせた唇から溶け合うように二人はお互いを貪りあっていた。 「どんな様子だ」 「こんなところで盛り上がってるよ」 車外から話し声が聞こえる。 「ホテルにでも行けよなぁ」 その言葉を潮に、話し声が遠のいていった。 見せる相手がいなくなったはずなのに、二人はまだ合わせた唇を離せないでいた。 絡み合う舌に、首にまわされた腕の力の強さに、鷹藤の中にもしかしたらという想いが過ぎる。 その刹那、遼子が鷹藤を突き飛ばした。 「な…」 「鷹藤君、来たわよ!撮って!」 遼子の視線の先。 高級車から降りた男が、女の背に手をまわし、マンションのエントランスへと向かって歩いていた。 瞬時にカメラマンの自分へと意識を引き戻し、足下に隠していたカメラを掴むと被写体へと向けた。 「撮れた?」 「当たり前だろ」 正直なところ、タイミングとしてはギリギリだったが、辛うじて使えそうなものは撮れた。 「あとは出待ちか」 「そ、そうね」 助手席の相方は、さっきまでの落ち着きと大胆さがすっかり消え失せ、うろたえきっていた。 「またあいつらが来たら、さっきの手は使えねえな。そうしたら撤収すんぞ」 「う、うん」 今更になって恥ずかしさを感じ始めたのか、暗がりでもわかるほど顔が赤くなっている。 「どうした」 「鷹藤くんって意外とやるじゃない」 「はぁ?」 「け、警官を煙に巻くお芝居、鷹藤くんのおかげでうまくやれたわ。経験豊富な私についてこれる なんて、鷹藤君も隅におけないんだから」 淀みなく言っていれば、少しは本当らしく聞こえるが、しどろもどろな上に所々つっかえながら言って いるので、動揺してるのがバレバレだった。 「鷹藤くんはかなりドキドキしてたみたいだけど、私はこんなことくらい平気なんだから。 スクープの為なら、この程度のことなら出来るのよ」 「平気なんだ」 「平気よ」 「じゃあ、あいつらがまた来たら見せつけてやるか」 「ま、待ってよ」 「平気なんだろ。何とも思ってないんだろ。スクープの為ならこんなこと屁でもねえんだろうが。 だったらいいだろ」 「何ムキになってるのよ」 おかしなものだ。 あの偽りのキスのせいで、鷹藤は自分に嘘が吐けなくなっていた。 「あんたがあんなことするからだろ」 「わ、私だけじゃないわよ。鷹藤くんだってあんな風にするから」 隣の相方も、鷹藤と同じように嘘が吐けなくなったらしい。 いつものまわりくどい言い回しも、今は鳴りを潜めている。 「当たり前だろ。演技できないだろうが、本当にそう思ってる相手とだったら」 鷹藤はフロントガラス越しにマンションの灯りを見ながら言った。 顔に遼子の視線を感じているが、見返す勇気がなかった。 そんな鷹藤の肩に、遼子が頭を載せた。 「私も」 消え入るような小さな声。 サイドレバーの辺りにあった遼子の右手に鷹藤は自分の手を重ねる。 指を絡ませると、お互いに強く握りあう。 「さっきあんた、俺に唇借りるって言ったよな。じゃあ、いつか返してくれるんだ」 「あ・・・」 自分が言った子供みたいな言いがかりに呆れながら、鷹藤は遼子へ体を近づけ囁いた。 「俺は今でもいいんだけど」 相方が潤んだ瞳をこちらに向けた。 いままで遼子の中に見たことがなかった、色気のようなものが漂っていて、鷹藤の鼓動が早くなる。 またキスをした。 今度はすぐに深い口づけへと変わる。 鷹藤は鼓動が重なるほど強く遼子を抱きしめた。 せつなげな吐息。絡まる舌と舌が出す湿った音が心地よく鷹藤の耳を打つ。 求め合い、絡まりあう今度のキスに偽りは無い。 マンションからターゲットが出てくる写真が撮れるだろうか。 カメラマンとしての意識が頭をもたげる。 だが、もし奴が出てきてもこの唇の感触を、腕の中のぬくもりを手放せそうにない。 そんなことも唇の感触に酔いしれているうちに、鷹藤はいつしか忘れていた。 ■おまけ 翌日、仕事から帰り、遼子が普段着に着替えようとしたとき、 ジャージ姿の洸至が部屋に入ってきた。 「遼子、昨日遅かったみたいだな」 「う、うん。張り込みしてたから」 「外でか」 遼子の部屋に落ちていた雑誌を手にとり、パラパラと中を見ながら言った。 「ううん、車の中で」 「その車、蚊でもいたのか」 「蚊?」 「首筋に赤いのがついてるぞ」 洸至の視線に少し険しさがあるのは、気のせいだろうか。 「ええっと、これは」 まさか本当のことなど言えない。 遼子は適当な言い訳を考えようとするが、その度に鷹藤が昨日どうやって自分に触れたかを つい思い出してしまい、言葉が浮かんでこなくない。 「おかしいな、蚊にしちゃ腫れてない。もしかして、ぶつけたのか」 いつの間にか、洸至が遼子の傍に立ち、首筋を見つめていた。 「そ、そうよ!ぶつけて赤くなっちゃったの」 洸至が束ねた遼子の髪をそっと手で流し、首筋を露わにした。 兄が首に顔を近づけているのか、その息が首筋に触れ、遼子の肌をくすぐる。 「首筋に2つもできてるぞ。…他にもぶつけてないか、見てやるよ」 「お、お兄ちゃん!」 遼子のブラウスのボタンに兄の手がかかる。 「恥ずかしくないだろ、兄妹なんだから」 まるで邪気の無い兄の笑顔に、何故か遼子の背筋が冷たくなった。 「ま、待って!」 「他の男に見せれて、俺に見せられないってことはないよなあ、遼子」 洸至の言葉に遼子が顔色を失う。 「お兄ちゃん、一体何言っているの…」 目の前にいるのは兄のはずなのに、遼子は一瞬見知らぬ男と話しているような気がした。 それは、幼い頃、人ごみで迷子になりかけて慌てて父の手を掴んだはずなのに、それが違う人間 のものだった時に感じた不安に似ていた。 「なに勘違いしてるんだよ。医者に見せられるなら、って意味だよ」 遼子の様子に驚いたように洸至が言った。 今、兄からは先ほど感じた冷気のようなものは微塵も感じない。 「あ、そ、そうよね」 昨日の夜、鷹藤とあんなことになったから、ちょっと敏感になりすぎているのかもしれない、と 遼子は思った。 「昨日遅かったから疲れてるんじゃないか」 洸至が心配そうに遼子を見ている。 「ま、とにかく、見せてみろよそれ。俺はお前の体なら見慣れてるからな」 「えっ」 「おい、変な意味じゃないぞ、子供の頃から湿布はったり、薬塗ったりしてやっただろ」 「で、でもこれ病気とかじゃないから、大丈夫よ」 「でもなあ、さっきから青くなったり赤くなったり、変だぞ遼子。昨日何かあったのか?」 「…何もないって…あっ」 洸至が遼子の首筋にある、鷹藤がつけた印に無造作に触れた。 無造作に動いた洸至の指先は、触れるか触れないかの繊細さで遼子の肌を撫でる。 鷹藤の唇が触れたときの感覚が遼子の中に蘇り、胸の奥が甘く疼く。 「大丈夫か、変な声出して」 「だ、大丈夫よ」 遼子の頬を手で包むと、洸至は妹の顔を訝しげに見ている。 「眼が潤んでるぞ」 頬を包んだ洸至の指先が、そっと遼子の顎のラインをなぞり、そのまま首筋へと降りる。 「んっ」 堪えようとしても漏れ出る甘い声。 鷹藤にしか聞かせたくない声を、兄の前で出してしまった。 ――あんた、首弱いんだな。 鷹藤はそう言って昨夜遼子の首筋を撫で、そして舌で散々弄ったあとで、唇で所有を示す 赤い痕をつけた。 「首に腫れてる場所はなさそうだ」 何も知らないはずの洸至の指は、遼子が蕩けるポイントを過たずに辿る。 鷹藤に弄ばされすぎた首筋は、少し触れられただけでまた昨夜の快楽を呼び起こす。 目の前が歪むような感覚に襲われ、遼子の膝から力が抜けた。 「おい」 洸至が崩れそうになる遼子を抱いて支えた。 「少し横になったほうがいい」 洸至が支えながら遼子をベッドまで連れて行くと、そこに横たえた。 「胸元をゆるめるぞ。そうしたら楽になるから」 洸至が遼子のシャツのボタンを外しはじめた。 「ま、待って」 2つ目のボタンを外したとき、洸至の手が止まった。 「…遼子、たくさんあるぞ」 胸元を中心に薔薇色の印が5つ。 その印は白い肌に淫靡に浮かんでいた。 吸い寄せられるように、洸至の手が、その口付けの痕をすべる。 そしてそのまま、首を下から上へと撫で上げた。 「ひゃんっ」 「痛いのか」 痛くない。 痛くないけど、痛いほどもっと触って欲しくなっていた。 心配そうな顔をした兄が、星座を描くように、指でその痕を辿り続けている。 その動きは、まるで昨日の余韻を正確に呼び覚ます場所を知っているかのようだった。 もちろん昨日だって最後までいっていないのに、キスをしながらただ、あの車内で 触れられる場所を触れ、お互いの体を知ろうとしただけなのに。 それだけなのに。 たった一晩で自分の体がこんなに変わってしまうなんて。 こんなに体がそれを求めるなんて。 快楽から逃れるためか、求めるためか、遼子が身をくねらすので、シャツの裾やスカートがたくし あがり服が扇情的に乱れていた。 それがわかっても、昨日の熱を思い出した体を止めることができないでいた。 「熱でもあるのか。顔が赤いぞ」 そういって、洸至が遼子の額に、額を合わせた。 「熱は…ないな」 思わずキスをせがむ様に遼子が顔を上に向けた。 もっと敏感な場所に触ってほしくなっていた。 鷹藤が触れたブラジャーの下に。そこにある固く尖ったところに。 もっと唇で触れて欲しくなっていた。 首筋に。 鎖骨に。 そして唇に。 潤んだ瞳に映る兄が、遼子との距離を詰めてきているように見えた。 「何か言いたいのか」 キスして欲しい。 舌で私を求めて。 その言葉が出かかるけれど、遼子は、そうして欲しい相手の名を呼んだ。 「鷹藤くん…」 兄の動きが止まる。 部屋にあったむせ返るような熱が霧散した。 「鷹藤…?」 洸至がまるで異国の言葉を聞いたかのような訝しげな顔をした。 遼子は飛び起きると、慌てて胸元を押さえて、衣服の乱れを直した。 「い、今の相棒なの。彼に仕事の指示することが多いから、家に帰ってまで 名前よんじゃった。私なら大丈夫。疲れてたのよきっと」 「そうだな。その痣みたいなのも、たいしたことがなさそうだ。疲れてるみたいだから、 今日は早く寝たほうがいい」 洸至はそう言って立ち上がった。 「じゃ、着替えてからご飯にするね」 「ああ、そうしてくれ」 遼子の部屋を出るところで、洸至が足を止めた。 「鷹藤…くんだったか。お前の相棒」 「うん、そうよ」 「お前が世話になっているみたいだから、今度お礼でもしておかないとな」 洸至が微笑みながら言った。 SS一覧に戻る メインページに戻る |