鷹藤俊一×鳴海遼子
アンタッチャブル編集部の気だるい午後。 単調な作業と、部屋の暖気が眠気を誘う。 鷹藤は降りて来る瞼と闘いながら、定位置のソファーに座り書類整理をしていた。 「鷹藤、お前それ終わったら、こっちもコピーな。あと、そこにある段ボール倉庫に持って行けよ」 編集長室から声が飛んできた。 埠頭の事件から2週間経った。 あの日車から突き落とされた鷹藤は、左肩脱臼と打撲だけで済んでいたが、左腕は固定されていて、カメラマン としてまだ仕事復帰できていなかった。いまは編集部で日々雑用をしている。 鷹藤はデスクで原稿を書く遼子を見た。 事件記者として、鳴海洸至の妹として数々の修羅場をくぐってきたせいか遼子は以前と変わらぬ様子で仕事を している。 遼子の口元にあった打撲の跡は大分薄くなっていた。 今も一心不乱に原稿を書いている遼子の外見からわかる事件の名残はそれぐらいだが、内面のダメージは目に見 えないだけに心配だった。 鷹藤がぼんやりと相棒を見ていると、後ろから声をかけられた。 「里香も一緒にいってあげます。鷹藤さんひとりじゃ大変そうだから」 まだ片腕を固定されまままの鷹藤では、手押し車に書類の詰まった段ボールを乗せるのが大変そうだと思った のか里香がやってきて台車に乗せるのを手伝ってくれた。 福梅書房の廊下には各編集部から溢れ出たロッカーや段ボールが無造作に置いてある。 それを避けながら、編集室から出てすぐのところにある倉庫へ向う。 「まったく人使い荒いですよね、新しい編集長も」 「クビにされなかっただけマシだと思ってるよ。あと1週間はカメラが持てそうにないからさ」 「でも、鷹藤さんもやりますよね。仕事帰りに鳴海さん連れてホテル行くなんて」 「いや、だからそれは、不審な人物を見てアイツが…」 一応遼子の記事ではそういうことにしていた。全国の読者にはプレイベートで様々なプレイをするつもり で期待に胸を膨らませ、鷹藤が遼子の手を引きラブホテルの門をくぐったことは伏せている。 記事の中で、そこと、もう一箇所だけは真実ではないことが書かれている。 「鳴海さんは鷹藤さんがノリノリで連れて行ったって言ってましたよ」 「あいつ、そんなこと言ってたのか」 鷹藤が驚いて里香を見ながら、倉庫のドアを開ける。 薄汚れた窓ガラスから入る沈みかけた陽を受け、埃が舞う中に人影がいた。 「あれ?美鈴さん?」 鷹藤が驚いていると、里香が倉庫の扉を閉め、後ろ手に鍵を閉めた。 「なにすんだよ、里香ちゃん」 「鷹藤さんにちょっと聞きたいことがありまして」 里香が首を傾げ、微笑んでいった。 「何だよ…」 鷹藤の元へ、ハイヒールの踵を響かせながら美鈴がやってきた。 「鷹藤くん」 「はい」 鷹藤は美鈴の雰囲気に押され、思わず返事をしていた。 「フォローしてるんでしょうね。鳴海さんがお兄さんとまた別れたあと」 「なんのことだよ」 埠頭での事件の後、5分と経たずに救急車とパトカーが列をなしてやってきた。 鷹藤と遼子が通報したわけではない。たぶん、それも遼子の兄、鳴海洸至がしたことなのだろう。 遼子と鷹藤は、今度の件で自分たちを救った男の事を警察には話さなかった。 知らない男だ。たまたま助けてくれた、この男たちと対立する組織の殺し屋だろう。そう口裏を合わせた。 鷹藤と遼子も、洸至に罪を償わせるべきだという点では一致している。 だが、警察に情報を与え、洸至についての捜査がはじまったら洸至はきっと深く地下にもぐり、再び会えなく なるような気がしていた。もう一度会って、自首を促す為にその為に洸至のことを二人は警察に伏せることにした。 警察も最初はその男についての証言を信用していないようだったが、遼子と鷹藤を攫った組織の事務所が別の 組織に連続して襲撃されようになり、その結果遼子と鷹藤の一件も組織同士の抗争に巻き込まれたものと見な され、二人の嘘は暴かれないまま今日に至っている。 「あなたたちを攫った組織、他の組織に襲撃されて今抗争になってるわ。その上、その組織に不利な情報が どんどん警察に流れてる。あの組織、遅かれ早かれ壊滅よ。ねえ鷹藤くん、自分自身は動かないで、他の 組織を動かしてターゲットを追い詰めるこのやり方、見たことない?」 「さあ、おれ記者じゃないから」 「目が泳いでるわよ。わかってるでしょ。まるっきり、名無しの権兵衛――鳴海さんのお兄さんのやり口よ」 美鈴が鷹藤の耳元で囁いた。ほのかな香水の香りが鷹藤の鼻をくすぐる。 驚いた鷹藤が間近にある美鈴の顔を見る。 二人の眼が合った。 「わかるわよ。それぐらい。私だって鳴海さんのお兄さんのことを知らない訳じゃないもの」 「何の話だよ」 「つまりあの現場にはお兄さんがいたのよ。だからあなたがたに危害を加えた男たちだけが撃たれて死に、 あなたたちは撃たれなかった。鷹藤くんが言うような組織の殺し屋なら、目撃者であるあなたたちが 真っ先に撃たれておかしくないわ」 「…」 「わたしだって、鳴海さんのお兄さんのせいで妹が殺されたから、言いたいことも山ほどあるし、警察に 捕まるべきだって思ってる。だけど鳴海さんのことは別。女として一番厭な目にあった上に、久しぶり に再会できたお兄さんとすぐ別れることになった鳴海さんのことを思うとね…」 「一体何の話だよ」 美鈴が更に鷹藤に顔を近づけ、睨むようにその眼を覗きこむ。 「鷹藤くん、あなたもしかして二人きりの時にも「あんた」って呼んでるんじゃないでしょうね」 「はあ?」 内容の飛躍に鷹藤の脳がついていかなかった。 「傷ついてるのに、無理して仕事しまくってる鳴海さんのフォローちゃんとできてるのかって聞いてるの」 鷹藤の鼻先に美鈴の整いすぎて冷たい印象すらあたえる美貌がある。 だが、その眼の奥は熱く燃えていた。 「あなたたち、つきあって何カ月?」 「いや。さあ…よくわからないな…」 首を傾げとぼけながら鷹藤が後ずさる。 「里香の調査によると付き合い始めたのは今年の3月あたりですね」 里香が表紙にお菓子のイラストがたくさん描かれたかわいらしい手帖を見ながら言った。 「里、里香ちゃんなんでそれ知ってんだよ」 里香が手帖のページをめくる。 「二人の距離が近づいたのが昨年のクリスマスイブで、初詣も二人で行ってます。バレンタインデーに 鳴海さんが手作りの力作チョコレートを鷹藤さんにあげて、それで鷹藤さんがお腹を壊して寝込んだ時に 鳴海さんが泊って看病したときはさすがに何もなかったようですけど、全快後にようやくお泊りまでいったようです」 「なんで知ってるんだよ!」 「里香も記者のはしくれですから」 手帖を閉じると、里香が鷹藤を見てにっこりと笑った。鷹藤にはそれが悪魔の頬笑みに見えた。 「それなのに、まだ「あんた」呼ばわりなの」 腕を組んで、仁王立ちの美鈴が冷たく突き放すように言った。 「だってそれは、言いにくいだろ」 「まだ照れてるの?」 鷹藤が言葉に詰まると、その様子を見て、美鈴がため息を吐いた。 「どうして男ってのは、変なところばっかり気にするのかしら。いい、鷹藤くんが考えるべきは鳴海さんの ことだけよ。俺がお前を守ってやるって勢いで「遼子」って呼んであげなさいよ。女はそういうのを言葉に 出さなくても待ってるんだから。あなたたち見てると、こっちがじれったくなるわ」 「は…はい」 鷹藤はその勢いに気圧されて、思わず返事をしてしまった。 「じゃあ、練習ね。私に続けて。りょうこ」 美鈴の言葉に、鷹藤は眼を点にしていた。 「は?」 「照れないで名前呼ぶ為の練習よ。はい、りょうこ」 「いいってば、出してくれよ」 ドアの前には手帖を抱くようにして持ちながら、里香が立っていた。 「言えたら出してあげます」 後ろの美鈴も、ドアの前の里香もそうしない限り、出す気はなさそうだった。 諦めたように肩を落とした後、鷹藤が小さな声で言った。 「りょ、りょうこ」 「もっと大きな声で」 「そうですよ、それじゃ鳴海さんに聞えませんよ」 「りょうこ」 「まだまだね」 美鈴の低い声が飛ぶ。 「りょうこ!…いいだろ、出してくれよ」 「もっと大きな声で!」 「りょうこ!!!」 「いいじゃない。もう一度」 「遼子〜!!!」 ほとんどやけだった。 「言えるじゃない、鷹藤くん」 美鈴が首を傾げて、勝ち誇った笑みを浮かべている。 「やったんだから、いい加減出してくれないか」 鷹藤はぐったりした様子で、ため息交じりに言った。 その少し前、アンタッチャブル編集室。 コーヒーカップ片手に中原が部屋を見回していた。 「鷹藤くんどこいったのかな?」 「あれ?」 一心不乱に記事を書いていた遼子が、顔を上げる。 ソファーを見ると鷹藤の姿がない。 「里香ちゃんと台車を押して倉庫に行ったようですけど、遅いですね」 城之内も不思議顔だ。 その時だった。 「りょうこ」 部屋に残っていた3人が顔を見合わせる。 「何だ今の」 「何でしょう」 3人が首を傾げていると、 「りょうこ!」 もう一度聞えて来た。その声で遼子が立ちあがった。 「鷹藤くんの声じゃないですか」 中原と城之内の視線が遼子に集中する。 「りょうこ!!!」 「ラブラブだねえ、鳴海さん」 にやけた中原にからかわれ、顔を真っ赤にして遼子が俯いた。 「ぜったいに名前で呼ばせてあげないんだから…」 遼子の握りしめた拳がぷるぷる震えている。 「遼子〜!!!!!」 「あんな大声で、何考えてるのよ!」 遼子が編集室を飛び出した。倉庫へ向ったようだ。 「まだ下の名前で呼んでなかったんですね」 城之内が開いたままのドアを見ながら言った。 「あの二人だからね。俺はそんな気してたけど」 「僕もです」 倉庫の方から遼子と鷹藤の口論する声が聞こえてきた。 「下の名前で呼ぶようになるには、まだまだかかりそうですね」 その声を聞きながら、城之内が席についた。 「そうみたいだねえ」 二人の中年編集部員はパソコンに向かうと、何事もなかったかのように仕事を再開した。 SS一覧に戻る メインページに戻る |